17
馬車の扉が開くと同時に、五歳になったばかりのカイルが文字通り転がり出るようにして馬車から降りた。
「ふえええ、もうだめだぁ……!」
教会の厳粛な空気と、神官たちの重々しい視線に何時間も晒され続けた末っ子は、サロンのふかふかのソファーに飛び込み、そのまま完全に脱力する。
「カイル。そんなみっともない格好をしないの」
部屋の反対側にある姿見の前で髪飾りを外していたイザベラの口から、凛とした声が放たれる。5歳になったカイルは今日教会で「恩恵」の儀式をすませてきたところだ。
「ひゃい!」
カイルはバネが跳ねるように起き上がり、ソファーの上で直立不動の姿勢をとる。その隣で、叔父のセルジオがクスクスとだらしなく笑う。
「まあまあ義姉上、カイルも緊張の儀式を終えたばかりなんだからさあ。それよりカイルはどんな恩恵を授かったの~?」
上座の椅子にどっかりと腰を下ろした現当主、フリードリヒが、手にした羊皮紙に視線を落とす。カイルが不安げに父親を見つめる中、フリードリヒの指先がわずかに動いた。
「カイルが授かったのは【清浄な指先】だ。指先で汚れを擦ると、消し去る事ができる。」
フリードリヒの柔らかい声が室内に響く。カイルは、教会の神官たちが『ほほう、これは珍しいお洗濯、あるいは書き直しの恩恵ですな……』と、明らかにフォローに困った顔をしていたのを思い出し、あからさまに肩を落とした。
「……地味だなぁ。お父様みたいな格好いい明かりじゃないし、お母様みたいに声を遠くまで届けることもできない。叔父様みたいに何か作れるわけでもないんだ。ぼく、これじゃローゼンブルクの役に立てないよ」
しょんぼりと俯く末っ子を見て、ローゼンブルク家の大人たちが一斉に、しかし大真面目な顔で身を乗り出した。
「カイル、何を言う。その地味さこそが至高なのだ」
まず口を開いたのは、無表情のままドヤ顔を決める父親だった。
「私の【手元の常夜灯】を見ろ。戦闘力は皆無、攻撃魔法の足元にも及ばない。だが、これのおかげで私は夜通しの執務でも一度も書類の読み落としをせず、他家が仕込んできた罠を完璧に見抜いてきた。当主の経営実務において、これほど実用的な力はない」
「【清浄な指先】って、庶民には超人気の恩恵じゃない!」
セルジオがわざとらしく、キラキラと目を輝かせている。
「カイル、あなたのその力もいつか必ず誰かの救いになるわ」
イザベラはカイルの頭を撫でながら、機嫌が良さそうに言う。大人たちは全員、自分の戦闘力ゼロの素朴な恩恵を誇っているとカイルに言い聞かせた。
しかし、カイルはまだ納得がいかない様子で、隣に座る姉を見上げる。
「でも……これでお姉ちゃんのお手伝い、できるのかなぁ?」
数日後には、王都の学園という未知の大舞台へ旅立ってしまう大好きな姉、カミラ。5歳ながらに、彼女の行く末を心配していたのだ。
カミラは静かにカイルの前に跪き、その小さな両手を自分の両手でそっと包み込んだ。
学園への入学を控え、ここ数日は勉学に勤しんでいたカミラ。疲れた心が癒されるような気持ちになる。
「カイル、ありがとう。お姉ちゃんね、学園での難しいお勉強がとっても不安だったの。でも、カイルが隣でノートの書き損じをキュキュッと消してくれたら、お姉ちゃん、いくらでも頑張れるわ。世界一の助手になってくれる?」
「うん……! ぼく、お姉ちゃんのノートを、世界一綺麗にする!」
カイルの顔が一気にひまわりのように輝く。イザベラが淹れてくれた熱いココアを囲みながら、サロンにはいつもの温かい笑い声が戻っていった。
「そういえば、お姉ちゃんの「恩恵」って何なの?」
「ふふ、私の恩恵? そんなの大したことないわよ」
胸の奥がほんの少しだけチクリと痛みながらも、カミラは答える。
「……【脳内への響き】。触れた人の声が、頭の中に直接響いて聞こえるのよ」
カミラはカイルの手を握ったまま、ふわりと微笑む。
まだ五歳になったばかりの、純粋で大好きな弟に重荷を背負わせるわけにはいかない。
(ごめんなさい、カイル。嘘をついて。あなたを信じていないわけじゃないの…)
強い罪悪感が湧き上がり、カミラは思わず視線をわずかに下げてしまう。カイルを騙していることへの後ろめたさが、喉の奥をきゅっと締め付ける。
けれど、カイルはそんな姉の葛藤など露知らず、純粋に目を輝かせた。
「わあ……! じゃあぼくが声をだしたら、お姉ちゃんの頭に響くの?!どんな感じなのか想像つかないや」
「ふふふ、カイルの可愛い声は心地よいわよ」
嘘を重ねるたびに、胸の痛みは増していく。しかし、カミラが握るカイルの手からは、一切の悪意も企みもない、「お姉ちゃん、すごい!」「ぼくもお手伝い頑張る!」という純粋で綺麗な心の残響だけが、優しく静かに響き渡っていた。そのどこまでも真っ直ぐな響きが、カミラの疲れた心をそっと包み込み、癒していく。
カミラの小さな嘘を完璧に補強するように、上座からフリードリヒが厳かに深く頷く。
「どうだカイル。カミラの恩恵もまた、我が家に相応しい地味な能力だろう。遠くの敵を倒すことはできんが、触れ合っている大切な者の声を確実に聞き取る。これほど実直で、ローゼンブルクに相応しい実用的な力はない」
「そうそう! カミラちゃんが隣にいる時は、内緒話も喉を鳴らすだけで済んじゃうからねえ。おじさん、この能力の隠密性にはいつも助けられてるんだよ~」
セルジオがソファの背もたれに体重を預け、大袈裟に拍手を送りながら、カミラの真の恩恵を隠すための絶妙なフォローを入れる。この大人たちの流れるような連携も、すべてはカミラを守るためのもの。
「カミラ、学園へ行ってもその優しい力で、心を通わせられる素敵なお友達を見つけなさいね」
イザベラが優しく微笑み、カミラの肩をそっと抱く。母の言葉に、カミラは胸の内の罪悪感をそっと愛おしさに変え、小さく微笑み返した。
大人たちの完璧な全肯定と温かい視線に、カイルは自分の小さな指先を見つめ、それからカミラの温かい手をもう一度ぎゅっと握りしめる。
「お姉ちゃんが声を聴いて、ぼくが汚れを消す……。やっぱり、ぼくたち最強のコンビだね!」
「ええ、本当に最強ね」
カミラはカイルの額に優しくおでこをコツンと合わせた。
カイルの心を傷つけないための嘘。この子の純粋な笑顔と、我が家の温かい平和を守るためなら、これから始まる学園という戦場でどれだけ泥を被ろうとも、どんな嘘でもつき通してみせる。
数日後に迫った王都の学園への入学。悪意の残響が渦巻く世界へ行く不安は消えない。それでも、世界一の助手であるカイルの笑顔がある限り、カミラの胸の灯火が消えることはなかった。




