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馬車がローゼンブルク邸の正門を潜り、美しい庭園を抜けて玄関前に停まった。
ドアが開くよりも早く、小さな人影が弾かれたように駆け寄ってくる。
「おねえさまーーーっ!!」
まだ四歳に満たない弟のカイルが、侍従たちの制止の声を完全に無視し馬車のステップに足をかけていた。危うく転びそうになったカイルの体を、馬車から降りたカミラがしっかりと受け止める。
「カイル、危ないわよ。……でも、ただいま」
「おねえさま! おねえさま! どこにいってたの? カイル、ずっと探してたんだよ!!」
小さなカイルがカミラの首にしがみつき、おいおいと泣き出す。その背中をトントンと叩く。
カイルの心から(お姉様がいなくて寂しかった! もうどこにも行かないで!)という、純粋で、ひたすらカミラを求める鮮やかな桃色の本音が濁流のように流れ込んできた。
カミラはその強すぎる愛の残響を、一滴も溢すことなく心の「綿」で優しく包み込み、あやしていく。
「ごめんね、カイル。もう黙ってどこにも行かないわ。ずっと一緒よ」
「……う、うん!」
カイルが涙を拭って笑顔になる。その瞬間、彼の本音の色がピカピカとした純金のような輝きに変わるのを、カミラは愛おしそうに見つめた。
そして、カミラがゆっくりと顔を上げると、少し離れた場所に、微動だにせず佇む父フリードリヒの姿があった。いつも冷静な当主であるはずの父だが、今の彼の全身からは、妻イザベラに負けないほどの強烈な「残響」が立ち上っていた。
(……あぁ、カミラ。本当によく生きて、帰ってきてくれた。どれほどお前を抱きしめたかったか。どれほど自分の決断を呪ったか……。痩せてしまったな、だが、その瞳のなんと気高く、澄んでいることか)
言葉には一切出さないが、フリードリヒの心は、後悔と、娘への狂おしいほどの愛おしさで今にも張り裂けそうになっていた。
カミラは一歩、一歩、父の方へと歩み寄る。カミラはフリードリヒの前に立つと、小さな手をそっと父の大きな掌に重ねた。
「お父様。私、帰ってまいりました。私を信じて、風の塔へ行かせてくださって……本当にありがとうございました」
その瞬間、フリードリヒは小さく息を呑んだ。娘の手から伝わってくるのは、以前のような「愛されたい」という傲慢な執着でも、悪意を恐れる怯えでもない。ただ、父のすべてを「許し、受け入れる」という、海のように深い無条件の愛だった。
(……あぁ、そうか。お前はもう、私の庇護を必要としないほど、強く美しく羽ばたいたのだな)
フリードリヒの心の群青色の光が、じわりと温かい金色に溶けていく。彼はゆっくりと膝をつき、カミラの目線に合わせると、大きな手で娘を優しく、だが力強く抱きしめた。
「よく頑張ったな、カミラ。……ローゼンブルク家は、お前を誇りに思う」
「はい、お父様」
イザベラがその光景を後ろから見守りながら、少し目を潤ませつつも、満足そうに微笑んでいた。こうして、ローゼンブルク家に春が訪れた。
◇◇◇◇
入学まで残り数か月しかないカミラは、忙しい日々を過ごしていた。修行に出ていた事により遅れていた貴族としての礼儀作法や、魔法の勉強も手付かずとなっている。
しかし、その表情に焦りの色は一切なかった。むしろ、かつて「お姫様の習い事」として退屈そうにこなしていた座学や実技のすべてを、今の彼女は驚くべき瑞々しさで吸収していった。
「カミラ様、次はマナーの講義です。まずは基本の歩行から――」
家庭教師の老婦人が、厳格な声音で指導を始める。
かつてのカミラなら、教師の心にある侮り混じりの本音を敏感に察知し、意地になって完璧に歩いて見せるか、あるいは反発していただろう。
だが、今のカミラは違う。教師の心に渦巻く懸念という名の「濁り」を、そっと自分の綿で包み込み、凪に変えてしまう。
「よろしくお願いいたします、先生」
(失敗したっていいし、叱られたっていいや。素直にこの人から教わろう)
カミラが凛とした笑みを浮かべ、一歩を踏み出したその瞬間、家庭教師の老婦人は思わず息を呑んだ。
背筋をピンと伸ばし、無駄のない動きで進むカミラの姿は、単に型通りの作法をなぞっているのではない。風の塔の吹き荒れる嵐の中で、過ごしたあの半年間が、カミラの体幹に嬉しい副産物を与えていた。
(……な、なんて美しい歩行かしら。型を教えるまでもない、この瑞々しい気品はいったい……!?)
教師の本音が、侮りから驚嘆の鮮やかな紫色へと一瞬で塗り替えられていく。カミラはそれを心地よい音色のように聴きながら、優雅にターンを決めた。
作法だけではない。最大の問題だと思われていた「魔法」の授業でも、カミラの進化は周囲を驚かせた。
ローゼンブルク家の魔導師が、カミラの前にいくつかの魔石を並べる。
「カミラ様、まずはご自身の魔力を言葉に乗せ、この石に響かせるイメージを持って下さい。呪文は魔力を安定させる器です。まずは初歩の光魔法『ルクス』を――」
魔導師が差し出した古い本には、難解な詠唱文がびっしりと並んでいた。
かつてのカミラなら、魔導師の心にある(今まで魔法の教育を受けずにいたのだから、まずは詠唱の暗記からじっくり時間をかけねばなるまい)という、どこか諦めを含んだ本音に傷つき、頑なになっていただろう。
だが、今のカミラは違う。自分を低く見積もる彼の「濁り」を、そっと自分の綿で包み込み、無害な温かさへと変えて風に流していく。魔導師の真剣な指導を最後まで静かに、そして真面目に聴いていた。
「教えてくださり、ありがとうございます。……言葉に乗せるのですね。やってみます」
カミラは差し出された魔石の前に立ち、そっと目を閉じた。
手のひらが、世界の微細な空気の揺らぎをダイレクトに感知する。魔導師の教えてくれた呪文を頭の中でなぞりながら、カミラはその「言葉」の奥にある、もっと根源的な魔力の波長に意識を向けた。
(言葉を捨てなさい。名前を捨てれば、それはただの『エネルギーの揺らぎ』だ)
ウルスのあの教えが、カミラの脳裏に優しく響く。けれどカミラは、ウルスから学んだその圧倒的な力を誇示するために、魔導師の教えを無視することはしなかった。彼が自分のために一生懸命教えてくれた「ルクス」という言葉。その言葉が持つ、光を希求する優しい響きそのものを、カミラは愛おしく受け入れた。
魔導師の知識を、彼の誠意を、カミラは心から「許し」、そして敬意を持って受け取る。
カミラが自分を空っぽにし、魔石の持つ固有の響きに、自身の透明な魔力をそっと寄り添わせた。そして、魔導師から教わった言葉を、祈るように優しく口にする。
「――『ルクス』」
キィン、と心地よい高音が書斎に響いた。
次の瞬間、魔石から溢れ出したのは、初歩の光魔法とは到底思えないほどの、圧倒的で、それでいて不思議と目に優しい純白の輝きだった。書斎の隅々までが、まるで春の陽だまりのような温かい光で満たされていく。
「な……ッ、なんと洗練された魔力の流れ……!」
魔導師は驚愕のあまり、持っていた杖を落としそうになった。カミラが放った魔法は、教えた通りの呪文でありながら、魔力の純度が既存の枠組みを遥かに超越していた。
魔導師の心から驚きと、そして一人の才能に出会えたことへの純粋な興奮が混ざり合った、濃い緑色の本音が噴き出してくる。
カミラはふっと手を引き、光を収めると、魔導師に向かって丁寧に一礼した。
「先生の教え方がとても分かりやすかったおかげです。言葉に乗せると、光がとても温かくなるのですね」
人を侮らず、真面目に聞き、真面目に学ぶ。
その謙虚で気高い姿勢の根底にあるのは、他者への絶対的な「許し」だった。自分をどう評価しようとも、それすら丸ごと受け入れるカミラの心の前に、大人たちはただただ圧倒されるしかなかった。
(この子は遅れているどころか……我々が知るどんな天才をも超えるのではないか…?神童だ!)
家庭教師も、魔導師も、カミラに触れた者は誰もがその深い愛の残響に魅了され、彼女のために持てるすべての知識を注ぎ込もうと躍起になった。フリードリヒとイザベラは、日々驚くべき速度で美しく開花していく娘の姿を、確信に満ちた目で見守っていた。
こうして、すべてのカリキュラムを最速で修めたカミラの元に、ついに王都行きの馬車が手配される。
七歳になったカミラ・フォン・ローゼンブルク。
その胸に宿る「透明な心」と「許しの愛」を携え、周囲のすべての声を真摯に聴き入れる少女は、いよいよ欲望の渦巻く王立学園の門へと一歩を踏み出すのだった。




