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処刑されるはずの偽聖女ですが、冷徹女騎士さまだけが私を信じてくれます  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第9話 怒れる女騎士

 屋敷へ戻ったあとも、フィリアの耳には、あの通りのざわめきがしばらく残っていた。


 石が石畳へ当たる乾いた音。

 女の尖った声。

 「なんでそんなのが普通に歩いてんのよ」という、吐き捨てるような言葉。


 門をくぐり、近衛騎士団管轄区の内側へ戻ったというのに、身体はまだあの街中に置き去りにされたままだった。呼吸は浅く、肩も強張ったまま。買い物袋を受け取る指先にまで、じわじわと力がこもっている。


 マリエッタがそんなフィリアの様子を見て、まずは客間へ荷物を運ぶよう使用人へ指示した。彼女はいつものように手際がよく、余計な言葉はかけない。ただ一つひとつを静かに整えていく。


「フィリア様、お茶をお持ちしますね」


「……はい」


 かすれた返事しか出なかった。

 自分でも情けないと思う。

 戻ってこれたのに。最後まで歩けたのに。石は当たらなかったのに。どうしてこんなにも胸がざわついているのだろう。


 その答えはたぶん単純で、怖かったからだ。


 わかりきったことを、今さら認めるのが悔しい。

 けれど、あの通りで石が足元へ落ちた瞬間、フィリアの中では処刑台の記憶と今日の街が一つに重なってしまった。王都の人々は、自分を見れば石を投げてもいいと思う。そういう街なのだと、身体が覚えてしまった。


 客間へ戻ると、運び込まれたばかりの衣服や日用品が机の上へきちんと並べられていた。薄青灰色のワンピース、下着類、髪紐、櫛、小さな石鹸包み、布巾、替えの靴下。どれも控えめだが、生活に必要なものばかりだ。


 普通の暮らしをするための品々。


 それを見た瞬間、なぜか涙が出そうになって、フィリアは慌てて顔を背けた。


 候補生時代に与えられていたものは、“聖女候補に見える”ためのものだった。

 けれどこれは違う。

 ただ生きるためのものだ。

 ここで、明日も暮らすつもりで揃えられたものだ。


 その事実が、今のフィリアにはやさしすぎた。


 だが、そのやさしさに浸る暇もなく、扉が二度、短く叩かれた。


「フィリア」


 セレスティアの声だった。


「……はい」


「少し出ます」


 扉の向こうから告げられたその言葉に、フィリアは一瞬だけ首を傾げる。

 出る。

 また街へ、ではないだろう。口調がそれとは違った。


「何か……あったのですか」


 そう問うたとき、扉の向こうでごく短い沈黙があった。

 それから、低く静かな声が返る。


「先ほどの件について、確認を」


 先ほどの件。

 街で石を投げられたことだ。


 フィリアの胸がひやりと冷えた。


「で、でも……もう、戻ってきましたし……」


「だからこそです」


 その言い方は硬かった。

 硬いが、荒れてはいない。

 むしろ、怒りをきちんと鞘へ収めたときの硬さだ。


「しばらく部屋で休んでいなさい。マリエッタがいます」


 それだけ言うと、足音が遠ざかる。


 フィリアは扉の前で立ち尽くした。

 確認。

 あの女を捕まえに行くのだろうか。商店街の者へ聞き取りをするのだろうか。それとも、巡回騎士へ苦情を入れるのか。


 そこまで考えて、フィリアは急に落ち着かなくなった。


 自分のために。

 自分が石を投げられた、そのために。

 セレスティアが動いている。


 うれしいと思う反面、怖さもあった。

 大ごとになってしまうのではないか。余計に噂が広がるのではないか。

 それに――。


「……怒って、いた」


 ぽつりと漏れた独り言は、思いのほかはっきり自分の耳へ返ってきた。


 通りで女を睨みつけたときのセレスティアの横顔が脳裏によみがえる。

 あの人はいつも冷静だ。声音も、立ち居振る舞いも、必要以上には乱れない。

 だからこそわかる。

 あれは確かに怒っていた。

 自分へ向けられた石に対して。


 胸の奥がまたじんと熱を持つ。

 ありがたいのに、同時に少しだけ苦しい。そこまでしてもらう資格が自分にあるのだろうかと、どうしても思ってしまうからだ。


     *


 セレスティアが戻ってきたのは、日が傾き始めるころだった。


 その間、フィリアは本を開こうとしては閉じ、茶を飲んでは冷まし、何度も窓際へ立っては落ち着かなく部屋を往復した。マリエッタが二度ほど様子を見に来て、「戻られたらわかりますから、今はお座りになって」と苦笑混じりに言ったが、自分でもどうしようもなかった。


 やがて、廊下の向こうで複数の足音が止まり、短い報告の声がしたあと、聞き慣れた足取りだけが近づいてくる。


 扉が叩かれた。


「フィリア」


「は、はい」


「入ります」


 返事を待つより少し早く、扉が開く。

 姿を見た瞬間、フィリアは小さく息を呑んだ。


 セレスティアはいつも通り整っていた。

 髪も乱れていない。黒の騎士服にも埃一つない。表情も静かだ。

 だが、それでもわかる。


 いつもより空気が冷えている。


 鋭いというより、研ぎ澄まされすぎている。

 怒りが完全には消えていないのだ。


「……おかえりなさいませ」


 おずおずと口にすると、セレスティアは短く頷いた。


「ただいま戻りました」


 その返答に少しだけ安堵する。

 大丈夫だ。少なくとも目の前で荒れてはいない。


 けれど次の言葉は、やはり静かな怒りを含んでいた。


「北側通りの巡回騎士に確認を取りました。石を投げた女は顔を割られています。近隣で二度、似たような騒ぎを起こしていた者だそうです」


 フィリアは目を見開いた。


「……そう、なんですか」


「ええ。偽聖女騒ぎに便乗して、鬱憤をぶつけていただけでしょう」


 その言い方に、フィリアはまた胸の奥がちくりと痛む。

 便乗。

 鬱憤。

 王都のどこかに溜まった不満や憂さが、自分のような存在へ向けられる。

 それはわかりやすい話で、だからこそ残酷だ。


「その……処罰、されるんですか」


 恐る恐る尋ねると、セレスティアの灰青の瞳がまっすぐこちらを向いた。


「本来なら、往来妨害と近衛への敵対的行為で拘束も可能です」


 フィリアの肩がこわばる。


「た、ただ」


 セレスティアはそこでわずかに声を落とした。


「今回は店主たちの証言も取り、厳重な警告と監視下に置くに留めました。次に同様のことがあれば拘束です」


 フィリアは息をついた。

 安心したのか、不安が増したのか、自分でもよくわからない。


「……そう、ですか」


「不服でしたか」


 思いがけない問いに、フィリアは慌てて首を振る。


「い、いえ……そうではなくて。ただ、もっと大きなことになってしまったのかと……」


 その本音に、セレスティアの表情がごくわずかに和らぐ。


「必要以上にはしません」


 短い返答。

 けれど今のフィリアには、それが何よりありがたかった。


 この人は怒っている。

 自分へ向けられた悪意に対して、確かに。

 でも、その怒りを無制限に振り回さない。ちゃんと置き場所を決める。


 ふと、今日の聴取のあとに交わした言葉を思い出す。

 優しさの置き場所。

 それと同じように、たぶんこの人は怒りの置き場所も知っているのだ。


「それから」


 セレスティアはさらに続けた。


「北側通りの商店主たちへも話を通しました。あなたが買い物に出る際、無用な騒ぎを見た場合はすぐ近衛へ知らせるようにと」


「……え」


「あなた自身が何か言い返す必要はありません」


 その言葉に、フィリアは呆然とする。


「そこまで、してくださったんですか……」


「必要な防波堤です」


 またその言い方だった。

 必要なこと。

 当然のこと。


 けれど、その“当然”の中に自分が何度も守られているのを、もうフィリアは知っている。


 しばらくしてマリエッタも部屋へやってきた。彼女は二人の顔を見比べ、すぐに事情を察したらしい。


「副団長、少しは落ち着かれましたか」


「落ち着いています」


「その声色で仰ると説得力が半分くらいです」


 マリエッタがあっさり言ってのけると、セレスティアは明らかに不服そうに目を細めた。

 けれど否定はしない。


 フィリアは思わず二人を交互に見た。

 マリエッタはため息をつくように肩をすくめる。


「フィリア様。副団長、街から戻ってからずっと機嫌が悪いんです」


「マリエッタ」


「事実でしょう?」


 そこでセレスティアはようやく小さく息を吐いた。


「……機嫌が悪いのではありません」


「では何でしょう」


「呆れているだけです」


「何に、ですか?」


 マリエッタの問いは明らかにわかっていて聞いている。

 セレスティアは一瞬、答えるのをためらうように黙った。

 それから、低い声で言った。


「石を投げる程度の愚かさにです」


 その言葉は静かだった。

 だが底にある怒りは、やはり消えていない。


 フィリアは喉の奥がきゅっとなるのを感じた。

 自分のために、そんなふうに怒ってくれている。

 それがうれしい。

 でも同時に、ひどく眩しい。


「……セレスティアさま」


 呼びかけると、灰青の瞳が向く。


「なんです」


「怒って、くださって……ありがとうございます」


 言いながら、自分でも少しおかしいと思った。

 怒ってくれてありがとう、なんて。

 普通なら変な言葉だ。


 だがセレスティアは、予想外のことを言われたように、ほんの少しだけ目を見開いた。


「礼を言うことではありません」


「でも……」


 フィリアは胸元で指を組み、言葉を探す。


「わたし、ああいうとき、いつも、自分が悪いのかもしれないって先に思ってしまうので」


 部屋の空気が静まる。

 マリエッタも、茶器を置く手を止めてこちらを見た。


「王都へ来てから、ずっとそうでした。誰かの期待に応えられないと、空気が悪くなって。困らせているのは自分だと思って」


 自分で口にして、改めて気づく。

 どれほどその考え方が染みついていたか。


「だから、投げた人が悪いって、はっきり言ってもらえたの……初めてで」


 声が少し掠れる。

 けれど、今はちゃんと言いたかった。


「だから、うれしかったです」


 セレスティアはしばらく何も言わなかった。

 その沈黙が冷たいわけではないと、もうフィリアにはわかる。


 やがて彼女はごく低く言う。


「覚えておきなさい」


 フィリアは顔を上げる。


「あなたに石を投げる権利を持つ者は、どこにもいない」


 きっぱりと、断言だった。


「聖女であろうとなかろうと。力があろうとなかろうと。誰にも」


 その言葉が胸へ落ちる。

 重く、あたたかく、まっすぐに。


 フィリアは泣きそうになるのを必死でこらえた。

 石を投げる権利を持つ者は、どこにもいない。

 そんな当たり前のことを、今まで誰も教えてくれなかった。


 マリエッタが静かに微笑み、空気を変えるように言った。


「では、その“どこにもいない”を、ちゃんと体に染み込ませるために、少し温かいものでも飲みましょうか」


 そうして用意された茶は、香草の香りが少し強めだった。

 落ち着きが必要だと判断したのだろう。

 フィリアは両手でカップを包み込み、その熱をじっと受け取る。


 セレスティアもまた席へ着いたが、いつもより言葉が少なかった。

 怒りがまだ完全には抜けていないのだ。

 だがその沈黙は、フィリアにはもう怖くなかった。


 むしろ、その静かな怒りの中に、自分がちゃんと守られているのを感じる。


「副団長」とマリエッタが茶を一口飲んでから言う。「次からは、街へ出る時間帯ももう少し選びましょう。人が多い時間はどうしても目立ちます」


「そうですね」


「それと、買い物は二回に分けてもいいかもしれません。今日は必要最低限だけで切り上げて正解でした」


「了解しました」


 二人の会話は実務的だ。

 でもそれがありがたい。

 今日の出来事をただ嫌な記憶として終わらせず、次にどうするかへ変えていく。

 そのやり方は、フィリアにとって新鮮だった。


 大聖堂では、失敗は恥だった。

 王都では、つまずきはそのまま切り捨ての理由になった。

 けれどこの屋敷では、起きたことに対して対処がなされる。


 その違いが、少しずつフィリアの中へ染みていく。


 やがて茶を飲み終えるころには、セレスティアの空気からも、朝の聴取後や街から戻った直後ほどの冷たさは抜けていた。まだ静かではあるが、刃のような張り詰め方はしていない。


 フィリアはその変化を感じ取り、思い切って言った。


「……セレスティアさま」


「何です」


「その、怒ってくださるのは……うれしいですけど」


 そこまで言って、少しだけ言葉に迷う。


「でも、あまり無理をしないでください」


 自分でも、ひどく小さな声だったと思う。

 相手は近衛副団長だ。王都最強とまで言われる人に、無理をしないでくださいなんて、滑稽かもしれない。


 けれどセレスティアは笑わなかった。

 笑わずに、ただじっとフィリアを見る。


「……無理には見えましたか」


「少しだけ」


「そうですか」


 また短い返事。

 でも今度は、そのあとに続きがあった。


「では、気をつけます」


 フィリアは目を見開いた。


 それは、思ってもみないくらい素直な返答だった。

 マリエッタも同じだったらしく、わずかに眉を上げる。


「副団長、本日は珍しく聞き分けがよろしいですね」


「うるさい」


 そのやりとりに、フィリアは思わず笑ってしまう。

 今度の笑いは、先ほどよりずっと自然だった。


 石を投げる街は、まだそこにある。

 きっとまた傷つく日もある。

 けれど、怒ってくれる人がいる。

 それを当然ではなく、間違っていることだと断じてくれる人がいる。


 その事実だけで、今日の石の重さは少しだけ軽くなった気がした。


 窓の外では、夕陽が近衛の屋根を赤く染めている。

 王都の空は何も知らない顔で美しい。


 その光を眺めながら、フィリアは胸の奥でそっと思う。


 この人の怒りは、怖くない。

 むしろ、自分のために世界の理不尽へ向けられるその怒りは、はじめて触れるあたたかさに近かった。

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