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処刑されるはずの偽聖女ですが、冷徹女騎士さまだけが私を信じてくれます  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 石を投げる街

 応接間での聴取が終わってから、屋敷の空気は少しだけ変わった。


 目に見えるほど大きな変化ではない。騎士たちは相変わらず忙しく行き来し、使用人たちは手を止めず、廊下に漂う緊張も消えたわけではない。だが、それでもどこか、フィリアへ向けられる視線の質が微妙に違っていた。


 昨日までは、ただ“処刑寸前の偽聖女”を見る目だった。

 今はそこへ、別の色が混じっている。


 戸惑い。

 警戒。

 測るような興味。


 それを安心と呼ぶことはできない。むしろ、新たな緊張の始まりだった。けれど少なくとも、完全に断じられたままではないのだと、フィリアにはわかった。


 午後、書斎で茶を飲みながら少し休んだあと、マリエッタが台帳を片手に言った。


「副団長、そろそろ必要なものを揃えたいのですが」


「必要なもの?」


 フィリアが思わず聞き返すと、マリエッタは当然でしょうと言いたげに頷いた。


「着替えですとか、日用品ですとか。今のフィリア様、ほとんど何もお持ちではないでしょう?」


 言われてみればその通りだった。

 処刑台からそのまま連れ出されたのだ。持っているのは身に着けていた白衣と、故郷から持ってきた祈祷札くらいのもの。昨夜から着替えている衣服も、屋敷で用意された借り物だった。


「候補生棟に残してきた荷物を取りに行くのは危険すぎますし、あちらも簡単には返さないでしょうから」とマリエッタは続ける。「最低限、新しく必要なものを揃えないと」


 フィリアはすぐに「そんな、そこまでしていただかなくても」と言いかけた。

 だが、横からセレスティアが先に口を開く。


「必要経費です」


 ぴしゃりとした口調だった。


「この屋敷で生活させる以上、最低限の環境は整える」


 それは以前から何度も聞いてきた“必要なこと”の延長線上にある言葉だった。

 だが、今回ばかりはフィリアの胸に別の不安が広がる。


 屋敷の外へ出るのだろうか。


 王都の街へ。


 処刑台の騒ぎは、王都中が知っている。石を投げられたあの広場の群衆だけではない。噂はすでに街の隅々まで広がっているはずだ。そんな中で外へ出れば、どんな目を向けられるかは想像するまでもない。


 それが顔に出たのだろう。セレスティアがこちらを見る。


「無理にとは言いません」


「え……」


「ただし、いずれは出る必要がある」


 静かな言い方だった。

 けれど逃げ道を甘く用意する響きではない。


「いつまでも屋敷の中だけで済む話ではありません。今日のうちに短時間だけ外へ慣れておくほうがいい」


 フィリアは唇を引き結んだ。


 たしかに、その通りだ。

 この先ずっと屋敷の中だけにいられるわけではない。王宮にも大聖堂にも呼ばれるかもしれないし、いずれ真相を探るために外へ出ることだってある。だったら早いうちに、少しでも慣れておいたほうがいい。


 頭ではわかる。

 だが、身体はまだ、あの広場のざわめきを覚えていた。


「……短時間、なら」


 ようやくそう答えると、マリエッタがほっとしたように微笑んだ。


「では、人の多すぎない通りを選びましょう。市場の中心部ではなく、北側の商店街なら必要なものも一通り揃います」


「私も同行します」


 セレスティアの言葉は当然のように落ちた。


「副団長まで?」とマリエッタが目を瞬かせる。


「フィリアを屋敷の外へ出す以上、そうします」


「それは心強いですね。むしろ街の方々が震え上がりそうですが」


 マリエッタの冗談めいた言い方に、セレスティアは答えない。だが否定もしなかった。


 結局、三人で外へ出ることになった。


     *


 屋敷の門をくぐる直前、フィリアの足ははっきりと止まった。


 ほんの少し先にあるだけの、王都の通り。石畳。人の往来。荷車の軋む音。店先から漂う焼き菓子や香辛料の匂い。空は晴れていて、行き交う人々は普段通りの生活をしている。


 それなのにフィリアには、そのすべてが自分を拒む壁のように見えた。


 ここへ出れば、見られる。

 気づかれる。

 噂される。

 もしかしたら、また石が飛んでくるかもしれない。


 門の前で固まったフィリアを見て、マリエッタがさりげなく歩調を緩める。けれど何も言わない。安易に「大丈夫」とは言わないあたり、彼女もフィリアの怖さを軽く扱うつもりはないのだろう。


 代わりに、隣へ来たのはセレスティアだった。


「フィリア」


 低い声。

 振り返ると、灰青の瞳がまっすぐこちらを見ている。


「戻りますか」


 意外な言葉だった。

 無理に行かせるのではなく、戻る選択肢を示す。


 それを聞いた瞬間、フィリアは逆に首を横へ振った。


「……行きます」


 震えた声だった。

 それでも自分の意志で言えた。


「そうですか」


 セレスティアは短く答え、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、門を出るときに、フィリアの歩幅へ合わせてほんの少しだけ速度を落とした。


 王都の通りは、午後の光に満ちていた。


 屋敷の周辺は比較的静かな区域らしく、通りも整然としている。近衛騎士団管轄区に近いだけあって、行き交う人々も妙な騒ぎ方はしない。けれど、フィリアが白いフード付きの外套を深く被っていても、その足取りや隣を歩く二人との組み合わせで、ただの買い物客ではないとわかるのだろう。すれ違う人が時折、ちらりと視線を向ける。


 そのたびに肩がこわばる。


 セレスティアはフィリアの右隣、マリエッタは左後ろ気味についた。三人の配置は自然に見えるが、明らかに護られている形だ。フィリア自身にもそれはわかった。


「北側通りまで行けば、少し人が増えます」とマリエッタが小声で言う。「でも市場ほどではありません」


 フィリアは頷くだけで精一杯だった。


 最初のうちは、ただ歩くだけだった。

 靴音。荷車の音。店主たちの呼び声。遠くで笑う子どもの声。日常の音が混ざり合っている。王都は今日も何事もないように回っているのだと、その当たり前さがかえって不思議だった。


 自分は処刑されかけたのに。

 世界は止まりもしなかった。


 やがて、通りの人通りが少しずつ増え始めた。


 布地屋、文具屋、香草店、日用品店、小さな焼き菓子の屋台。商店街らしい賑わいが見えてくる。それ自体は穏やかな光景のはずなのに、フィリアの呼吸は少しずつ浅くなっていった。


 視線が増えるからだ。


「あれ……」

「近衛副団長?」

「まさか、あの……」


 囁き声が耳に届く。

 はっきり聞こえなくても、何を言われているかはわかる。


 フィリアは俯きそうになるのを必死にこらえた。

 ここで立ち止まったら、セレスティアにまで迷惑がかかる。


 だが、一度囁きが始まると、人の目は驚くほど早く集まった。近衛副団長セレスティア・ヴァルクレインが街中を歩くこと自体、珍しいのだろう。その隣に見慣れない若い娘がいて、しかも白いフードを深く被っているとなれば、憶測が飛ぶのは当然だった。


「偽聖女じゃない?」

「処刑台の」

「なんで生きて――」

「近衛が庇ってるのか?」


 フィリアの指先が震える。


 石畳。

 群衆。

 罵声。


 記憶が一気に押し寄せる。

 それでも足を止めないようにしていた、そのときだった。


 かつん、と乾いた音がした。


 小さな石ころが、三人の少し前の石畳へ転がったのだ。


 フィリアの身体がびくりと強張る。


 反射的に顔を上げると、通りの向こう側に立っていた中年の女が、露骨な嫌悪の目でこちらを見ていた。


「なんでそんなのが普通に歩いてんのよ」


 小さくはない声。

 通りのあちこちが静まり返る。


「王都を騒がせた偽物でしょう? まだ足りないの? 近衛までたぶらかして」


 言葉が刺さる。

 昨日の広場ほどの大勢ではない。

 だからこそ、ひとつひとつがはっきり届く。


 フィリアは息を詰めた。

 喉が閉まる。

 何も言えない。


 次の瞬間、もうひとつ石が飛んできた。


 今度はフィリアの足元すぐ近くへ落ちる。


「っ……!」


 思わず一歩下がりかけた、その前に。


 セレスティアが半歩前へ出た。


 それだけで、通りの空気が変わる。


 彼女は剣に手をかけていない。

 それでも、その立ち姿だけで充分だった。王都最強と名高い近衛副団長が、本気で不快を示したときの圧は、武器より先に場を制圧する。


「下がれ」


 低い声だった。


 大きくもない。

 怒鳴ったわけでもない。

 だが、石を投げた女の顔色が見る間に変わる。


「な、なによ……! こっちは王都の民として当然の――」


「もう一度だけ言う。下がれ」


 今度は少しだけ温度が下がった。

 氷刃、と呼ばれる理由がわかる声だった。


 周囲の人々が息を呑む。

 女は唇をわななかせたが、結局それ以上何も言えず、そそくさと人波の向こうへ引っ込んでいった。


 完全な勝利ではない。

 石を投げる意志そのものがなくなったわけでもない。

 けれど少なくとも、この場でそれ以上の害意は止まった。


 セレスティアは女が見えなくなるまで視線を外さず、やがてゆっくりとフィリアを振り返る。


「……怪我は」


「だ、大丈夫です……」


 言いながら、自分の声が震えているのがわかる。

 本当は大丈夫ではない。胸の奥がまだ痛い。けれど少なくとも、石は当たっていない。


 マリエッタが一歩近づき、小声で言った。


「少し店へ入りましょう。通りの真ん中は目立ちすぎます」


 その判断はありがたかった。

 これ以上、立ったまま人目に晒されるのはきつい。


 三人が駆け込んだのは、布地と衣服を扱う小さな店だった。表から見えるより奥行きがあり、色とりどりの布巻きや既製服が整然と並んでいる。店主らしい年配の女性が一瞬だけ驚いた顔をしたが、セレスティアを見た途端、すぐに背筋を伸ばした。


「副団長様……!」


「少し場所を借ります」


「も、もちろんでございます」


 店の奥へ通されると、外の視線が一気に遠のく。

 フィリアはようやく大きく息を吸えた。


 だが、安堵より先に情けなさが押し寄せる。


「……すみません」


 また言ってしまう。

 街へ出る前から、こんなことになるかもしれないとわかっていたのに。結局、自分はすぐ萎縮して、守られてばかりだ。


 セレスティアの眉がわずかに寄る。


「謝罪の必要はありません」


「でも、わたしがいたから……」


「あなたがいたからではない」


 きっぱりと言い切られる。


「投げた側が悪い」


 あまりにも当然のようなその言葉に、フィリアは一瞬、何も言えなくなった。


 王都へ来てから、ずっと逆だった。何かが起きれば、自分のせいだと思わされてきた。失敗したのも、空気が悪くなるのも、期待に応えられないのも、全部こちらの価値が足りないからだと。


 けれど今、セレスティアははっきり言った。

 投げた側が悪い、と。


「……そんなふうに、言ってくれる人、いませんでした」


 気づけばこぼれていた。


 セレスティアは何も言わない。

 代わりに、その視線だけが少しだけやわらぐ。


 マリエッタが、店主へ軽く礼を言いながら、布棚の前へ歩いていく。


「副団長。せっかくですから、ここで必要なものを見繕ってしまいましょう。長居しなければ、むしろ目立たず済みます」


 現実的な提案だった。

 セレスティアも頷く。


「そうしましょう」


 店主は最初こそ緊張していたが、マリエッタが手際よく話を進めるうちに落ち着きを取り戻したらしい。フィリアのことも、露骨には詮索しない。ありがたかった。


「このくらいの丈がよろしいでしょうか」

「色は淡いものの方がお似合いかと」

「下着類も別に包ませますね」


 マリエッタが実務的に選んでいく。

 フィリアは言われるまま布へ触れた。どの生地も、候補生服の硬い白布よりずっとやわらかかった。肌にやさしい日常着。目立たず、でも粗末ではない服。


「こちらなどいかがです?」


 店主が差し出したのは、薄い青灰色のワンピースだった。地味だが、胸元と袖口にさりげない刺繍が施されている。華やかすぎず、それでいて冷たくもない色。


 フィリアが戸惑っていると、マリエッタが微笑む。


「副団長、どう思われます?」


「似合うでしょう」


 即答だった。


 フィリアは思わず顔を上げる。

 セレスティアはごく普通の顔で布を見ている。特別に褒めるでもなく、気を遣ったふうでもなく、ただ事実のように言っただけだ。


 だからこそ、妙に胸へ刺さる。


「……そう、でしょうか」


「ええ」


 それだけ。

 でも、その一言で、その服に少しだけ触れてみたくなる自分がいる。


 結局、数着の着替えと、日用品、必要な小物を最低限揃えることになった。買い物というにはあまりに実務的だが、それでも自分のためのものが選ばれていく感覚は、フィリアにとって久しぶりだった。


 候補生時代の服は、すべて“大聖堂の聖女候補”として整えられたものだった。今選ばれているものは、誰かの象徴ではなく、ただ暮らすための衣服だ。


 それが少し、うれしかった。


 会計を終え、店を出る前に、セレスティアがフィリアへ目を向ける。


「戻れますか」


 問いは短い。

 でも意味はわかる。

 怖いなら戻ってもいい。今ならまだそう言っているのだ。


 フィリアは一度だけ店の外を見た。通りにはもう先ほどの女はいない。だが、人々の視線はまだある。石を投げる街。断罪を見世物にする街。やさしくない場所。


 それでもフィリアは、ゆっくり首を縦に振った。


「……戻れます」


 足はまだ少し震えている。

 けれど今度は、自分で言えた。


 セレスティアは短く頷き、店主へ礼を述べて外へ出た。その背へ続きながら、フィリアは胸元の祈祷札にそっと触れる。今日は不思議と熱くならなかった。ただ静かに、そこにあるだけだ。


 帰り道、石が飛んでくることはなかった。

 囁き声はあった。目もあった。けれど、それだけだった。


 屋敷の門が見えたとき、フィリアはようやく胸の奥に溜まっていたものを吐き出すように息をついた。


「……戻ってこれた」


 ほとんど独り言だった。

 けれど隣のセレスティアには聞こえたらしい。


「ええ」


 低い声が返る。


「戻ってきました」


 その言葉は、ただ距離を移動したことを言っているようでいて、別の意味も持っている気がした。


 石を投げる街へ出て、傷ついて、それでも崩れきらずに戻ってきた。

 その事実を、セレスティアはちゃんと受け取ってくれている。


 門をくぐる直前、フィリアは勇気を出して言った。


「……さっき、庇ってくださって、ありがとうございました」


 セレスティアは少しだけ歩を緩める。


「庇ったのではありません」


「え……」


「当然のことをしただけです」


 また、その言葉。

 必要なこと。当然のこと。


 けれど今度のフィリアは、少しだけ違う気持ちで受け取れた。


「それでも……うれしかったです」


 そう言うと、セレスティアは正面を向いたまま、ほんの一拍置いてから答えた。


「……そうですか」


 それだけなのに、フィリアには充分だった。


 石を投げる街は、まだ変わっていない。

 きっと明日も簡単には変わらない。

 それでも今日、フィリアは一度、その街へ出て、石に怯え、言葉に傷つき、それでも戻ってきた。


 その小さな事実が、胸の奥にひとつだけ、確かな重みとして残っていた。

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