第10話 聖性鑑定
翌朝、屋敷の空気はいつもより少しだけ張っていた。
理由は明白だった。
今日は、セレスティアが呼んだ宮廷魔術師が来る。
イザベラ――その名を最初に聞いたとき、フィリアはどんな人物なのか想像もつかなかった。ただ、セレスティアが迷いなく呼び寄せ、マリエッタも「あの方なら信用できます」と言った以上、少なくとも敵ではないのだろうと思うしかない。
だが、信用できることと、怖くないことは別だった。
鑑定。
その言葉の響きは、どうしてもフィリアの胸をざわつかせる。
王都へ来てから、自分は何度も“測られる側”だった。
奇跡を示せるか。
聖女らしいか。
価値があるか。
そのたびに、見えない秤の上へ載せられてきた気がする。
だからたとえ今回が、処刑や断罪のためではなく、真実を確かめるための鑑定なのだとしても、身体は勝手にこわばってしまうのだ。
小食堂で出された朝食を前にしても、フィリアの手は少し落ち着かなかった。匙を持つたび、かすかに指先が震える。隠そうとしても、セレスティアが見逃すはずもない。
「食べられませんか」
低い声で問われ、フィリアは慌てて首を振った。
「い、いえ……食べられます」
「なら食べなさい」
言い方はいつも通り簡潔だった。
けれど、その一言に無理に励ます色はない。ただ当然のこととして示されるぶん、かえって従いやすい。
フィリアは小さく頷き、温かいスープをひと口飲んだ。
優しい塩気が喉を通る。
それだけで少しだけ、張りつめたものがほどける。
マリエッタが卓上のパン籠を整えながら、さりげなく口を開いた。
「イザベラ様は、怖い方ではありませんよ」
「……そう、なんですか」
「ええ。口は少々鋭いですが、相手の取り扱いに慣れていらっしゃいます」
「それは怖い方なのでは?」とフィリアが思わず小さく返してしまうと、マリエッタはくすりと笑った。
「副団長ほどではありません」
「マリエッタ」
セレスティアの声音が一段低くなる。
だが本気で咎めているわけではないと、もうフィリアにもわかる。
その小さなやりとりに、少しだけ胸が軽くなる。
食事を終えたあと、セレスティアはフィリアを応接間ではなく、屋敷の奥にある小さな静室へ案内した。以前は使われていなかったらしい部屋だが、ここ数日で整えられたのだろう。中央に丸卓がひとつ、壁際に長椅子、窓辺には薄いレースのような白布が掛かっている。余計な装飾はなく、外の気配も届きにくい。
「ここで、ですか」
「ええ」
セレスティアは部屋を見回しながら答える。
「北側客間より反応が少ない。静かで、他の聖具の影響も受けにくい」
言われてみれば、空気が違う。
大聖堂の礼拝堂のような重い神聖さではなく、もっと乾いた、澄んだ静けさだ。
祈るための部屋というより、何かを見極めるための部屋。そんな印象だった。
フィリアが丸卓の前で少し立ち尽くしていると、セレスティアが短く言った。
「座りなさい」
促されるまま腰を下ろす。
セレスティアはいつものように少し斜め後ろへ位置取った。だが今日は応接間のときより距離が近い。手を伸ばせば届くほどではないが、気配としてはすぐ傍にある。
「そんなに緊張しなくていい」
不意にそう言われ、フィリアは目を瞬いた。
セレスティアの視線は真正面ではなく、やや横へ向けられている。
だからこそ、その言葉が余計に素直に落ちてきた。
「……しているの、わかりますか」
「わかります」
即答だった。
「顔色も、指先も、呼吸も」
やっぱり全部見抜かれている。
少しだけ恥ずかしくなって俯くと、セレスティアは続けた。
「ただ、今回の鑑定は“足りないものを探す”ためではない」
フィリアは顔を上げる。
「むしろ逆です。何があるのか、何が起きているのかを見極めるためのものだ」
それは、今のフィリアに必要な言葉だった。
足りないかどうかを測られるのではない。
何があるのかを見る。
その違いは大きい。
フィリアは小さく息を吐いた。
「……はい」
それからほどなくして、静室の扉が軽く叩かれた。
「入るわよ」
返事を待たず扉が開き、部屋へ入ってきたのは、五十代半ばほどに見える女性だった。
灰を帯びた金髪をきっちりと結い上げ、細身の濃茶のローブを纏っている。背筋はしゃんと伸び、顔立ちは整っているが、いかにも気難しそうな印象もある。瞳は淡い琥珀色。年齢を重ねた知性と、他人を必要以上に甘やかさない温度が同居した目だった。
彼女は部屋へ入るなり、フィリアとセレスティアをひと目見て、すぐに鼻を鳴らした。
「なるほど。あんたが保護してる娘って、この子」
「そうです」
セレスティアは簡潔に答える。
「イザベラ様」とマリエッタが後ろから一礼する。「お忙しいところ恐れ入ります」
「忙しいからこそ来たのよ。セレスティアが“至急”なんて寄越してくる時点でろくな案件じゃないもの」
言いながらも、イザベラはすでに部屋の空気を読むように視線を巡らせていた。その動きには無駄がなく、着席する前から仕事は始まっているのだとわかる。
フィリアはおそるおそる頭を下げた。
「……フィリア・エルソンです」
「イザベラ・フェルノー。宮廷魔術師。まあ、肩書きはどうでもいいわ。今日はあんたを裁きに来たんじゃない。調べに来たの」
最初の言い方はぶっきらぼうだったが、その中に妙な誠実さがあった。
取り繕わない人なのだろう。
優しげに見せて油断を誘うタイプではない。
それがむしろ、今のフィリアには少しありがたかった。
イザベラは卓の向こうへ腰を下ろし、ローブの内側から小さな革箱を取り出した。中には細い水晶棒、銀の薄板、真鍮の円環、色のついた糸束、そして見たことのない刻印入りの小石がいくつも収められている。
「さて」
彼女はフィリアをまっすぐ見た。
「先に言っておくけど、痛いことはしない。せいぜい少し疲れるくらい。ただし、誤魔化しは利かないわ」
フィリアの喉がこくりと鳴る。
「……はい」
「それと、聞くことがあれば途中で聞く。わからないならわからないでいい。半端に“こうかもしれない”で答えないこと」
その言い回しに、フィリアは一瞬だけセレスティアを思い出した。
似ている。
物の言い方は違うのに、本質がどこか似ている。
「では始めるわ。まず手を出して」
フィリアは包帯の巻かれた両手をそっと卓の上へ置く。
イザベラは一度その手首の傷を見てから、何も言わずに水晶棒を指先で軽く弾いた。透明な棒はかすかな音を立て、それからフィリアの手首の上をゆっくりなぞるように動いていく。
冷たくはない。
けれど触れられている場所が、わずかにざわつくような感覚がある。
「……へえ」
イザベラの眉がわずかに上がる。
「最初からずいぶん素直に出るじゃない」
「何が」
セレスティアが問う。
「まだ断定はしない。あんた、黙ってなさい」
ぴしゃりと返されても、セレスティアは眉ひとつ動かさない。慣れているのだろう。
イザベラは次に銀の薄板を取り出し、フィリアの手の甲へかざした。
すると板の表面に、うっすらと白い曇りのような筋が浮かんでは消えた。
「……浄化系に近い反応。でも純粋な治癒じゃない」
独り言のような呟き。
フィリアの胸がどきりとする。
浄化。
治癒ではない。
それは、自分が今まで何度か感じていた“何か”を言葉にしたように聞こえたからだ。
「フィリア」とイザベラが急に顔を上げる。「あんた、人に触れて“重さが抜ける”みたいな感覚を受け取ったことは?」
フィリアは少し考えた。
「……あります」
「具体的に」
「故郷の教会で、眠れない方がいて……手を握ってお祈りしたら、朝には少し楽になったって。それから、頭が痛いとか、胸が苦しいとか言っていた人が、わたしが傍にいると少しだけましになることが……」
「傷そのものが消えたわけじゃない」
「はい」
「熱が下がるとか、腫れが引くとかでもない」
「……そういうことは、ほとんど」
イザベラは何度か頷き、水晶棒を今度は胸元の祈祷札の上へ向けた。
「それ、見せて」
フィリアは一瞬だけ迷ったが、すぐに布袋を取り出して卓へ置いた。
イザベラがそれへ手を伸ばした瞬間、室内の空気がごくわずかに震えた。
フィリアにもわかった。
セレスティアも、マリエッタも、気づいたらしい。
視線が一斉に札へ集まる。
イザベラは構わず布袋を開き、中から小さな札片を取り出した。
紙ではなく、薄い木片に祈祷文を刻んだものらしい。地方教会らしい素朴な作りだ。だが表面を走る文字は古く、見慣れない書式で記されていた。
「……これを作った司祭、ただ者じゃないわね」
イザベラが低く言う。
「え?」
「護符としては素朴。でも基礎式が古い。地方でこれを維持してたなら、相当昔の系統よ」
フィリアは目を見開いた。
故郷の司祭は、やさしくて少し古風な人ではあったが、そんな特別な人物だとは思ったことがない。
「これに反応してるの?」とマリエッタが尋ねる。
「半分は違う」とイザベラは答えた。「護符単体でもわずかな浄化作用はある。でも、主に反応してるのはこの子自身よ。護符が増幅器になってるだけ」
その言葉に、フィリアの喉がきゅっと締まる。
自分自身。
やはりそうなのか。
イザベラは次に真鍮の円環を取り出し、卓の中央へ置いた。円環の内側には細かな刻印がびっしりと並んでいる。
「今から簡易的に聖性の流れを測る。怖くても、無理に抑え込まないこと」
「……はい」
「セレスティア、あんたそこ。もしこの子が倒れたら支えなさい」
「承知しました」
あまりにも自然に交わされるやりとりに、フィリアの胸が少しだけ落ち着く。
イザベラはフィリアの手を円環の上にかざさせ、自らも印を組むように指を動かした。
すると刻印が淡く光り始める。
金でも銀でもない、乳白色に近い光だった。
最初は静かだった。
だが数秒後、その光がふっと揺れ、円環の内側を白い霧のようなものが満たし始める。
「……っ」
フィリアは思わず息を呑む。
怖い、というより不思議だった。
自分の中から何かが引き出されている感覚がある。
でもそれは痛みではない。
むしろ、普段は奥底に沈んでいるものが、ようやく水面へ上がってくるような感覚に近い。
「抑えないで」とイザベラが鋭く言う。
フィリアは自分が無意識に肩へ力を入れていたことに気づき、ゆっくり息を吐いた。
その瞬間。
円環の内側の白い霧が、ふっと形を変えた。
光の筋が細く伸び、卓の端に置かれていた小さな銀の栞留めへ触れる。
セレスティアの書見道具の箱に入っていたものとよく似た、花模様の栞留めだ。たまたまマリエッタが机の上へ置いていたのだろう。
触れた瞬間、栞留めの表面にわずかな黒ずみが浮かび上がる。
いや、正確には――もともとあった曇りが、白い光に照らされてはっきり見えるようになった。
「見えた」
イザベラの声が低く鋭く落ちる。
次いで彼女は卓上の水差しへ視線を向けた。
こちらも銀の縁に、ごく薄く、だがたしかな灰色の斑が見えてくる。
マリエッタが息を呑んだ。
「これ……」
「浄化じゃなく、“顕在化”寄りね」
イザベラは円環の光を見つめながら言う。
「隠れていた穢れを浮かび上がらせてる。だから治癒儀式では目立たない。でも、汚染や呪詛がある場所だと敏感に反応する」
セレスティアの気配が、背後で一段深くなるのがわかった。
彼女もまた、その答えをずっと待っていたのだろう。
フィリア自身は、ただ呆然と卓を見つめるしかない。
自分の力が“ない”のではなく、
“違う”のだとしたら。
ずっと空っぽだと思っていたものが、実は別の形で存在していたのだとしたら。
「……まだ、終わってないわ」
イザベラの声が現実へ引き戻す。
「次、少しだけ強く流す。無理なら言いなさい」
フィリアは頷いた。
怖い。
けれど、やめたくはなかった。
イザベラが刻印の一部へ指を滑らせると、円環の光がわずかに強くなる。
その瞬間、フィリアの胸の奥で何かが脈打った。
「……っ!」
息が詰まる。
苦しいわけではない。
ただ、今まで感じたことのない“広がり”が、一気に身体の内側を走る。
卓の上に置かれていた祈祷札が、ほんのりと白く発光した。
同時に、室内の空気がしんと澄む。
窓辺に置かれていた古い燭台の煤けた部分が、するするとほどけるように消えていく。
壁際に立てかけてあった古い聖具箱の角からも、薄い灰色の靄のようなものが浮かび、白い粒になって散った。
「やっぱり……!」
マリエッタが声を震わせる。
セレスティアは無言だった。
だがその沈黙は、強い驚きと確信を孕んでいた。
イザベラだけが冷静に術式を見守っている。
「フィリア、見える?」
「……な、にが……」
「空気の濁り。嫌な感じのある場所」
フィリアは必死に感覚を辿った。
見えるわけではない。
だが、わかる。
窓辺は少し軽い。
壁際の箱のあたりはさっきまで重かったけれど、今は抜けた。
逆に、部屋の隅――誰も気にしていなかった小さな飾り台の下が、まだ少し冷たく沈んで感じる。
「あそこ……」
フィリアは震える指で部屋の隅を示した。
「飾り台の下……少し、嫌な感じが」
イザベラは即座に視線を向け、マリエッタへ命じる。
「布をどけて」
マリエッタが慎重に飾り台の下を覗くと、古びた小さな護符片が挟まっていた。表面は半ば煤け、印の一部がひび割れている。
「こんなところに……?」
「古い除け札ね」とイザベラが吐き捨てるように言う。「機能が崩れて、逆に穢れを溜めてる」
フィリアは息を呑んだ。
本当にわかったのだ。
自分には、何かが。
そこでようやく、イザベラが術式を切った。
円環の光がすっと消え、静室には元の静けさが戻る。
同時に、フィリアの身体から一気に力が抜けた。
「っ……」
ふらりと揺れたその瞬間、背後からしっかりと支えられる。
セレスティアの手だった。
「無理をしすぎです」
低い声が落ちる。
「ご、ごめんなさ……」
「謝らなくていい。座って」
支えられるまま長椅子へ移されると、マリエッタがすぐに水を差し出した。フィリアは両手で受け取り、少しずつ喉を潤す。たしかに少し疲れたが、嫌な消耗ではなかった。むしろ、長く押し込めていたものをようやく外へ出したあとの、奇妙な軽さがある。
イザベラは卓の上の器具を片づけながら、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が重くて、フィリアは水差しを握ったまま固まる。
やがて彼女は顔を上げ、セレスティアを見る。
「結論から言うわ」
琥珀色の瞳が細くなる。
「この子は“偽聖女”ではない」
部屋の空気が止まった。
フィリアの胸も、息も、何もかもが一瞬止まった気がした。
「ただし、一般的な聖女の治癒系統とは明確に別物よ。これは浄化と顕在化――穢れ、呪詛、汚染の検知と露出に極端に寄った聖性」
言葉が頭に入るまで、数秒かかった。
偽ではない。
別物。
浄化と顕在化。
フィリアは呆然とイザベラを見つめる。
「じゃあ……わたし、は……」
「少なくとも、空っぽの偽物じゃない」
その言い方は相変わらずぶっきらぼうだった。
けれどフィリアには、それで充分すぎた。
目の奥が熱くなる。
泣くつもりはなかったのに、涙が勝手に滲んでくる。
セレスティアの手が、肩へそっと置かれた。
強すぎない重み。
でも、ここにいると伝えるには十分な重み。
イザベラはなおも続ける。
「問題は二つ。ひとつは、この力が王都の聖女制度と致命的に相性が悪いこと。見栄えのする治癒や光ではなく、隠れている穢れを暴く系統だから」
セレスティアが低く頷く。
「つまり、都合が悪い」
「そういうこと」
イザベラの口元が皮肉げに歪む。
「もうひとつは、この子が反応しすぎる対象が、王都の中に思ったより多いことよ」
マリエッタが息を呑む。
「多い、って……」
「この屋敷ですら複数出た。大聖堂や王宮を本格的に見たらどうなるかわからないわね」
その言葉に、静室の空気が再び張りつめた。
フィリアはまだ涙の滲んだ目のまま、ただ一つだけ理解する。
自分は偽物ではなかった。
でも、それで全部が解決するわけではない。
むしろこの力は、王都のもっと深い場所へ触れてしまうかもしれない。
それでも――。
フィリアは唇を震わせながら、どうにか言葉を絞り出した。
「……よかった」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「わたし、何もないんじゃ、なかった……」
セレスティアの肩の手が、ごくわずかに力を増す。
イザベラはそれを見て、ふっと息をついた。
「ええ。少なくとも、そこはもう疑わなくていい」
その言葉が、今度こそフィリアの胸へ真っ直ぐ落ちた。
疑わなくていい。
ずっと自分で自分を疑ってきた。
足りないのではないか。
空っぽなのではないか。
何も持っていないのではないかと。
けれど今、はっきり言われた。
そこはもう疑わなくていい、と。
涙がひとしずく、膝の上へ落ちた。
マリエッタがそっと新しい布を差し出す。
フィリアはそれを受け取り、急いで目元を押さえた。
泣くのはまだ早い気もした。
でも、どうしても止められなかった。
静室の窓の向こうでは、昼の光が白く揺れている。
世界は変わらずそこにある。
処刑台も、石を投げる街も、王都の理不尽も、まだ消えていない。
それでも今、フィリアの中でひとつだけ、確かなものが生まれていた。
自分は、偽物ではない。




