第11話 癒やしではない力
静室に残った空気は、鑑定が終わったあともしばらく揺れていた。
目に見える光はもう消えている。
卓上の真鍮の円環も、水晶棒も、イザベラが丁寧に革箱へ戻してしまった。
それなのに、フィリアの胸の内側だけが、まだ白く明るいものを抱えたままだった。
偽物ではない。
たったそれだけの言葉が、こんなにも身体の奥へ深く残るとは思わなかった。
何度も何度も、心の中で繰り返してしまう。
自分は空っぽではなかった。
何も持たないまま聖女のふりをしていたのではなかった。
ただ、違っていただけなのだと。
けれど、その“違い”の正体は、まだ十分に理解できていない。
涙がようやく落ち着いたころ、イザベラは椅子へ深く腰かけ直し、革箱の蓋を閉めながら言った。
「……落ち着いた?」
ぶっきらぼうだが、待ってくれていたのだとわかる口調だった。
フィリアは布で目元を押さえたまま、小さく頷く。
「……はい」
「なら続けるわよ。今の段階で、あんた自身にも理解しておいてもらわなきゃ困る」
その言葉に、フィリアは背筋を伸ばした。
ここからが本当の意味での説明なのだろう。
セレスティアは相変わらずフィリアのすぐ脇に立ったままだった。肩に置かれていた手はすでに離れている。けれど、その気配は変わらず近い。フィリアはそれを感じるだけで、まだ足場があるような気がした。
イザベラは卓上へ、さきほど使った銀の薄板を一枚だけ置いた。
「まず確認だけど、一般に王都で“聖女”って呼ばれてるものは、大きく三つの要素で見られる」
細い指が、机の上を軽く三度叩く。
「ひとつ、治癒。傷や病を癒やす力。
ひとつ、祝福。作物、安産、旅路、安全――そういう人の営みに穏やかな加護を与える力。
最後に、顕現。いわゆる“わかりやすい奇跡”ね。光、聖印、儀式での反応」
フィリアは黙って聞いていた。
それらは、まさに王都が聖女へ求めていたものだ。
儀式の場で見せるべきもの。人々が拍手し、王家が価値を認めるもの。
「王都の聖女制度が好むのは、このうち特に一つ目と三つ目よ」とイザベラは続ける。「目に見えて役に立つものと、目に見えて“聖女らしい”もの」
マリエッタがやや皮肉っぽく眉を上げた。
「ずいぶん正直に仰いますね」
「事実だもの。信仰は本来もっと広いのに、制度にすると狭くなるのよ」
イザベラはあっさり言い切った。
「で、あんたの力はそこから少し外れてる」
フィリアは無意識に指先を握る。
「……外れて、いる」
「そう。完全に別物じゃない。でも主軸が違う」
イザベラは銀の薄板へ指先をかざす。
すると板の表面に、さきほどと同じような淡い曇りが浮かんだ。
「通常の治癒系聖性なら、傷んだ箇所へ直接働きかけて、肉体や生命力の回復を促す。けれどあんたの場合、最初に反応するのはそこじゃない」
「では……どこに?」
思わず問うと、イザベラはフィリアを見た。
「歪みよ」
短い、だが強い言葉だった。
「人や物や場所に溜まった、目に見えない悪影響。呪詛、穢れ、邪気、悪意の澱、そういう“本来あるべきでない偏り”へ先に触る」
フィリアは息を呑んだ。
歪み。
その言い方は、自分がこれまで感じてきた“重い感じ”や“嫌な冷たさ”にひどく近かった。
「だから、傷を一瞬で塞いだり熱を下げたりするのは苦手。でも逆に、原因が呪いや精神汚染に近い場合は強い。眠れない人が落ち着いたり、悪夢にうなされる人が少し楽になったりしたのは、そのせいね」
故郷でのことが、胸に蘇る。
夜ごと泣いていた子ども。
苦しげに息を吐いていた老女。
頭痛を訴えていた巡礼者。
自分は何もしていないと思っていた。ほんの少しそばにいて、手を握って、祈っただけだと。
でも、あれも力だったのだ。
「……じゃあ、わたしは……治せなかったんじゃなくて」
言葉が震える。
怖いくらいに、胸の奥から何かがほどけていく。
「治す場所が、違ったんですね……」
イザベラは、初めて少しだけ柔らかい目をした。
「そういうこと」
セレスティアが低く問う。
「つまり、あの大聖堂の儀式では、最初から不利だった」
「不利というより、評価軸が噛み合っていなかった」
イザベラはあっさり返した。
「怪我人を癒やせ、光を出せ、聖印へ綺麗に反応しろ――そういう儀式なら、この子は主力じゃない。むしろ目立たない」
「だから失敗扱いされた……」
マリエッタが呟く。
「ええ。でも、もしあの儀式の場そのものに穢れや呪詛があったなら話は別よ。この子は別方向で強く反応したはず」
その言葉に、静室の空気が少し変わる。
フィリアもセレスティアも、同じことを思ったのだろう。
聖印具の保管室の前で感じた、あの嫌な圧迫感。
「……イザベラ様」
フィリアは勇気を出して口を開く。
「わたしが保管室の前で感じたのも、そういうものなんでしょうか」
イザベラは腕を組み、少しだけ考えるように眉を寄せた。
「可能性は高い。少なくとも、ただの石や金属へ反応した感じじゃないわね」
「でも、聖印具は神聖なもののはずです」
「神聖なものが、常に綺麗なまま使われるとは限らないわ」
その返答は冷酷なくらい現実的だった。
「強い聖具ほど、人の思惑も祈りも恐れも集まる。管理が悪ければ澱む。誰かが意図的に細工すればなおさら」
フィリアの背筋に冷たいものが走る。
もし本当にそうなら。
自分が感じた違和感は気のせいではなく、実際に“何か”だったということになる。
そして、その何かを感じ取れてしまうからこそ、自分は邪魔だったのかもしれない。
セレスティアも同じ結論へ至ったらしい。
彼女の視線がわずかに鋭くなる。
「この力は、“治せない聖女”ではなく“見抜く聖女”ということか」
「近いわね」とイザベラが頷く。「ただ、“見抜く”だけじゃない」
彼女は卓上の古びた除け札を指先でつまみ上げた。
さきほど部屋の隅から見つかった、機能が崩れて逆に穢れを溜めていた護符片だ。
「この子が反応したあと、これに溜まっていた澱は一部ほぐれた」
イザベラはそれを光へかざす。
「つまり、単に見つけるだけじゃなく、“緩める”“浮かせる”“外へ出す”ところまで働いてる」
「……だから、あの燭台や水差しの黒ずみが表に出てきたんですね」
フィリアが言うと、イザベラは「ええ」と頷いた。
「治癒が“傷を塞ぐ”力だとすれば、あんたのは“蓋を剥がす”力に近い。隠れていたものを表へ引っ張り出して、本来の状態へ戻しやすくする」
蓋を剥がす。
それは、少し怖い言葉でもあった。
だって、見えないままなら穏やかに過ごせたものを、見えるようにしてしまうのだから。
その不安が顔に出たのだろう。イザベラはフィリアを見て、少し声を落とした。
「怖い顔しなくていい。蓋を剥がすのは、壊すためじゃない」
「……はい」
「見えない汚染は、対処できないまま人を蝕む。だったら、見えるようにする力にも価値がある」
その言葉に、フィリアの胸が少しだけ温かくなる。
価値。
その単語を、今の自分に向けて言われることが、まだうまく信じられない。
けれど目の前の魔術師は、気休めではなく、仕事としてそう判断しているのだとわかる。
セレスティアが一歩、卓へ近づいた。
「イザベラ。具体的には、どの程度まで影響が及ぶ」
「相手次第ね」
彼女は即答する。
「軽い穢れや、長年溜まった澱、精神の疲労なら、近くにいるだけでも少しずつ緩むでしょう。でも強い呪詛や深い汚染だと、この子だけでどうにかなる段階じゃない。むしろ“見えてしまう”ぶん、負担の方が大きい」
フィリアは無意識に胸元の祈祷札へ触れた。
「負担……」
「反応するたびに疲れるでしょう?」
図星だった。
北側客間での反応のあとも、先ほどの円環のあとも、嫌な疲れではないが確かな消耗はあった。
「はい……少し、体が空っぽになるみたいな」
「それが限界を超えると危ない。だから訓練なしで無闇に使っちゃ駄目」
イザベラははっきり釘を刺した。
「特に、誰かを助けたい一心で無茶をするタイプに見えるから、なおさらね」
フィリアは思わず言葉に詰まる。
否定しきれない。
もし目の前で苦しんでいる人がいたら、自分の疲れなど後回しにしてしまうだろうと、自分でもわかっていたからだ。
「……気をつけます」
「“気をつける”じゃ足りないのよ」とイザベラは容赦なく言う。「周りが止めること。特にあんた」
最後の言葉はセレスティアへ向けられたものだった。
「この子が無理をしたら、問答無用で止めなさい」
「承知しました」
セレスティアは迷わず頷いた。
そのやりとりを見て、フィリアは胸の奥に奇妙な安心を覚える。
勝手に無茶をしても止めてもらえる。
それは少し子どもっぽい考えかもしれないが、今の自分にはありがたかった。
マリエッタが腕を組み、首を傾げる。
「でも副団長、この力って……王都にとってかなり扱いづらいですよね」
「ええ」とイザベラが先に答えた。「派手に治すわけでもない。儀式映えもしない。なのに隠し事や汚染には敏感。制度に組み込むには面倒だし、都合の悪いものを掘り起こしかねない」
フィリアはその言葉に、胸の温かさとは別の寒気を覚えた。
やはりそうだ。
自分はただ“役に立たない”から切られたのではない。
邪魔になる可能性があったからこそ、より危うかったのかもしれない。
「……だから、処刑を急いだ可能性もある」
セレスティアの低い声が落ちる。
イザベラはすぐには答えず、卓上の護符片を指先で転がした。
「可能性は否定しないわ。ただし、それを今ここで断言するには材料が足りない」
「わかっています」
「でも少なくとも、この子を“失敗した候補生”で片づけるには危うすぎる」
そう言ってイザベラはフィリアを見る。
「聞きなさい、フィリア。あんたの力は“癒やし”ではない。でも、“癒やしではないから価値がない”なんてこともない」
その言葉は、フィリアの胸へ真っ直ぐ届いた。
癒やしではない。
価値がないわけでもない。
王都で一番突きつけられてきた否定が、ようやく正面からほどかれていく。
「……はい」
返事は小さかった。
けれど、前よりずっとしっかりした声だった。
イザベラはその変化を見たように、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「いい返事」
そして立ち上がる。
「今日のところはここまで。次はもう少し細かく系統を追うけど、それはこの子が休んでからにする」
「助かります」とマリエッタが言う。「さすがに少し顔色が落ちてきていますし」
自分では大丈夫だと思っていたが、そう言われてみれば確かに少し身体が重い。
ただ、それ以上に、胸の中へ言葉が多すぎて、もううまく整理できなくなっていた。
偽物ではない。
癒やしではない力。
歪みを見つける。
蓋を剥がす。
隠れた穢れを表へ出す。
全部が新しくて、全部が今までの自分を塗り替えていく。
イザベラは革箱を閉じ、出ていく前に一度だけ振り返った。
「ひとつだけ忠告」
フィリアは顔を上げる。
「あんたのその力、うまく扱えば誰かを救える。でも同時に、見なくていいものまで見せる」
琥珀色の瞳が細くなった。
「だから、自分で自分を嫌わないこと。見えてしまったものの責任まで、全部背負おうとしないこと」
その言葉に、フィリアは一瞬だけ息を呑む。
まだ何も始まっていないのに、なぜだかその忠告がすでに胸へ刺さった。
きっと自分は、見えてしまったものの前で、放っておけなくなる。
そういう性質を見抜かれているのだろう。
「……はい」
「返事だけは素直ね。まあ、それでいいわ」
イザベラはそう言い残し、今度こそ静室を後にした。
扉が閉まる。
部屋にはフィリア、セレスティア、マリエッタの三人だけが残された。
しばらく、誰も何も言わなかった。
静けさの中で、フィリアは自分の掌を見つめた。
何も変わっていないように見える。
細くて、少し傷が癒えかけていて、特別な光を纏っているわけでもない手。
それでももう、この手を昨日までと同じ気持ちで見ることはできなかった。
「……癒やしじゃ、ないんですね」
ぽつりと漏れた言葉へ、最初に答えたのはセレスティアだった。
「ええ」
短いが、否定ではない。
「でも、意味がないわけではありません」
その言葉に、フィリアはゆっくり顔を上げる。
セレスティアの目は、鑑定前よりも明らかにまっすぐだった。
「むしろ、必要とされる場は確実にある」
「でも……王都では」
「王都の基準が、すべてではない」
はっきりと言い切られる。
フィリアは唇を少し震わせた。
王都へ来てから、自分のすべてが王都の秤で測られているようだった。
そこで価値がないなら、本当に価値がないのだと思わされていた。
けれどこの人は、そんな秤がすべてではないと言う。
「……そう、でしょうか」
「そうです」
今度は一切の迷いがない声だった。
マリエッタもやわらかく続ける。
「少なくとも、この屋敷ではもう、“何もできない偽聖女”なんて見方はされませんよ」
フィリアは思わず目を伏せた。
その言葉だけで、また泣きそうになる。
「ただし」とマリエッタは少しだけ真面目な声になる。「副団長もイザベラ様も仰った通り、この力は厄介です。役立つぶん、目をつけられやすい」
フィリアの胸がかすかに冷える。
「……はい」
「だから、今まで以上に慎重に動く必要があります」
慎重に。
その言葉の意味は重かった。
真実を知れたことは嬉しい。
でも同時に、その真実が新しい危険を呼び込む。
この力は、自分を救うだけのものではなく、誰かにとっては都合の悪いものでもあるのだ。
セレスティアが一歩だけ近づいた。
「フィリア」
「……はい」
「今は、無理に答えを全部出そうとしなくていい」
低く落ち着いた声。
「自分が偽物ではなかった。それだけでも、今日は十分です」
その言葉に、張りつめていた何かが少しだけほどける。
十分。
今日はそれで十分。
ずっと、自分は何かを証明し続けなければならない気がしていた。
けれど今は、一度に全部を理解しなくてもいいのだと、許されたような気がした。
「……はい」
今度の返事には、さっきよりも少しだけ力がこもっていた。
窓の外には、昼下がりのやわらかな光が差している。
王都は相変わらずそこにあり、理不尽も噂も消えてはいない。
それでも今、フィリアの中でははっきりと一つ、世界の見え方が変わっていた。
自分の力は、癒やしではない。
でも、確かに力なのだ。




