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処刑されるはずの偽聖女ですが、冷徹女騎士さまだけが私を信じてくれます  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第6話 偽聖女の朝

 朝の光は、思っていたよりずっと静かに部屋へ入ってきた。


 フィリアはまどろみの底から、ゆっくりと意識を浮かび上がらせる。昨夜は何度も眠りを逃したはずなのに、気づけば深く沈むように眠っていたらしい。目覚めた直後の胸のざわつきが、昨日までよりずっと薄いことに、自分で少し驚いた。


 夢を見なかったわけではない。


 処刑台の高みも、鐘の音も、群衆のざわめきも、遠くにぼんやりとはあった。けれどそれらは、すぐ傍に立つ現実ではなく、向こう岸を流れていく景色のようだった。


 そして、その理由もわかっていた。


 右手に、まだぬくもりが残っていたからだ。


「……あ」


 小さく声が漏れる。


 視線を落とすと、寝台の脇へ引き寄せられた椅子に、セレスティアが座っていた。夜着ではなく、黒の薄手の上衣に肩だけ外套をかけたまま、背筋を伸ばして眠っている。完全に眠り込んでいるわけではないのだろう。少しでも物音がすればすぐ目を開けそうな、浅い休息だった。


 そして、その手がまだフィリアの指を包んでいる。


 昨夜、眠れないフィリアを落ち着かせるために握られた手。

 眠るまでこうしていると言った手。

 まさか本当に、夜が明けるまでこのままだったのだろうか。


 胸の奥が、じわりと熱くなる。


 そんなことをされる理由が自分にあるとは思えなかった。

 なのにこの人は、当然のようにやってしまう。

 しかもきっと、自分ではそれを特別なことだと思っていない。


 フィリアは動くこともできず、ただじっとその横顔を見つめた。


 朝の光を受けたセレスティアは、夜の燭台の下で見るよりも少しだけ柔らかく見えた。閉じた睫毛は長く、整いすぎるほど整った鼻梁や唇の線は、こうしていれば人形のようですらある。けれど、よく見ればその目の下にはごく薄く疲労の影があった。


 自分のせいだ。


 そう思った瞬間、胸がきゅっと痛む。


 眠れないからといって呼び、眠るまで手を握らせ、結局この人まできちんと休ませなかった。昨夜は嬉しさと安堵のほうが勝っていたが、朝になってみると申し訳なさが先に立つ。


 どうしよう。

 起こすべきだろうか。

 それともそっと手を抜いて離れるべきか。


 迷っているうちに、フィリアの指がごくわずかに動いた。

 次の瞬間、セレスティアの目が開く。


 あまりにも早かった。

 まるで最初から眠っていなかったような速さで、灰青の瞳がはっきりと焦点を結ぶ。


「……起きましたか」


 低い、朝の少し掠れた声。


 それだけでなぜか心臓が跳ね、フィリアは慌てて身を起こしかけた。


「は、はい……! あの、おはようございます……!」


「おはようございます」


 返事はいつも通り淡々としている。

 けれど、その手はまだフィリアの指を包んだままだ。


 フィリアの頬が熱くなる。

 気づいていないのだろうか。いや、この人が気づいていないはずがない。


「あ、あの……」


「何です」


「その、手……」


 ようやくそう言うと、セレスティアは一拍だけ沈黙し、それから自分の手元へ視線を落とした。


 そして、ほんのわずかに眉を寄せる。


「……失礼しました」


 そう言って、ようやく手が離れる。


 離れた瞬間、指先が少しだけ心もとなく感じるのが悔しい。けれどそんなことを顔に出すわけにもいかず、フィリアは夜具の端を握りしめた。


「いえ、あの……ありがとうございました」


「礼は不要です」


「でも……本当に、眠れました」


 それは事実だった。

 あの手があったから、眠れたのだ。

 ひとりで怯える必要はないと言われ、そのとおりにしてみたら、本当に夜を越えられた。


 セレスティアはその言葉を受けて、ほんの少しだけ目を伏せる。


「そうですか」


 短い答え。

 だが拒絶ではない。

 むしろ、それで十分だと言うような響きだった。


 そこでようやく、セレスティアは自分が椅子に座ったまま夜を明かしたのだと自覚したらしい。肩を軽く回し、わずかに首の筋をほぐす。その仕草に、どれだけ無理な姿勢でいたのかが垣間見えて、フィリアはいたたまれなくなった。


「す、すみません……!」


「何がです」


「その……ずっと、ここにいてくださったんですよね」


「そうですね」


「ちゃんと、眠れませんでしたよね……」


 セレスティアはそこで初めて、少しだけ不思議そうな顔をした。


「問題ありません」


「でも……」


「浅くは休めました。訓練で野営も慣れています」


 あまりにも彼女らしい返答だった。

 椅子で夜を明かしたことすら“問題ありません”で片づけてしまう。


 けれどフィリアには、やはりそれで済ませられない気持ちがある。


「……わたしのせいで」


「あなたのせいではない」


 即答だった。


「必要なことをしただけです」


 またその言葉だ。

 必要なこと。

 この人は、本当にそこへ全部を収めてしまう。


 だが今朝のフィリアには、その必要の中に自分が含まれていることが、昨日までより少しだけうれしかった。


 扉が叩かれたのは、その時だった。


「副団長、フィリア様。お目覚めでしたら失礼いたします」


 マリエッタの朝の声だ。


「入れ」


 返事をすると、彼女は湯気の立つ盆を持って入ってきた。朝の洗面用の湯と、軽い茶、それから清潔な包帯と軟膏まで揃っている。マリエッタは部屋へ入った途端、椅子に座るセレスティアと寝台の上のフィリア、そして二人の間に漂う妙な空気を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。


 だが何も言わず、いつもの調子で一礼する。


「おはようございます。お加減はいかがですか、フィリア様」


「お、おはようございます……。昨日より、だいぶ……」


「顔色も少しましですね。よかった」


 そう言いながら、彼女は洗面台へ湯を移した。それからさりげなくセレスティアを見た。


「副団長は、その……お部屋へ戻られますか?」


「そうします」


 セレスティアは立ち上がる。

 その動きはいつも通り隙がないが、やはり一晩椅子に座っていたせいか、ほんのわずかに肩が重そうだった。


 フィリアは思わず口を開く。


「セレスティアさま」


「何です」


「少しでも……休んでください」


 言った瞬間、僭越だったかもしれないと不安になる。

 自分の立場で、こんなことを言っていいのだろうか。


 だがセレスティアは意外にも、ほんの一瞬だけ目を丸くしたあと、静かに頷いた。


「ええ。着替えたら戻ります」


 それだけ言って部屋を出ていく。


 扉が閉まると同時に、マリエッタが口元へ手を当てて笑いを堪えるような顔をした。


「……な、何か?」


 フィリアがおずおずと問うと、彼女は首を振る。


「いいえ。ただ、副団長が“戻ります”なんて素直に言うの、珍しいなと思いまして」


「そう、なんですか?」


「ええ。たいていは『必要ありません』とか『問題ない』とか言って押し切るので」


 思わず、昨夜から今朝にかけて何度も聞いた言葉を思い出す。問題ありません。必要なことをしただけです。いかにもあの人らしい。


「でも、フィリア様が言うとちゃんと聞くんですね」


「えっ」


 慌てるフィリアに、マリエッタはにこりと笑う。


「副団長、もともと面倒見が悪い方ではないんです。ただ、見せ方があまりにも不器用で」


 その言い方に、フィリアは少しだけ気持ちが和らいだ。


 洗面を済ませ、包帯を巻き直してもらう。傷は順調に治っているらしく、マリエッタは「今日のところはこれで十分でしょう」と言った。


「朝食は小食堂へ運びますが、今朝は副団長、少し遅れるかもしれません」


「着替え、ですよね」


「それもありますし、朝一番で団内への指示を出しているはずです。今日は王宮の方が来ますから」


 その言葉に、穏やかになりかけていた胸がまた少しざわつく。


 そうだ。

 今日は予備聴取官が来る。

 昨日までの「明日」が、もう「今日」になってしまったのだ。


 顔に出たのだろう。マリエッタがやさしく言葉を足す。


「今すぐ来るわけではありません。昼前か、午後か、そのあたりでしょう。まだ少し時間があります」


「……はい」


「そのあいだに朝食を取って、必要なら話す内容も整理しましょう」


 必要なら、ではなく、きっと必要になる。

 けれど全部を整理できるとも思えない。何しろ、何をどう話せばいいのか、自分でもまだ整理がついていないのだから。


 小食堂へ向かう道すがら、フィリアは昨夜より少しだけ周囲を見られるようになっている自分に気づいた。屋敷の朝は規則正しく動いていた。廊下を行き交う使用人。報告書を抱えた騎士。窓の外ではすでに馬が引き出され、門前の衛兵が交代している。


 誰かの視線を感じるたびにまだ身はすくむ。

 だが昨日のように、すぐ地面ばかり見てしまうほどではなかった。


 その理由も、薄々わかっていた。

 昨夜、怖いと認めて、それでもひとりではなかったからだ。


 小食堂へ着くと、セレスティアはもういた。


 今朝はきちんと黒の騎士服へ着替え直し、髪もいつも通りきっちり結い直している。昨夜の少しだけ私的な姿は跡形もなく、もう王都最強の近衛副団長の顔に戻っていた。けれど、その目の下にわずかな疲れが残っていることだけは、フィリアにもわかった。


「おはようございます」


 もう一度、朝の挨拶をすると、セレスティアは頷いた。


「おはようございます。眠れましたか」


「……はい。たくさん」


「そうですか」


「セレスティアさまは……」


 そこまで言いかけて、止まる。

 休めましたか、と聞くのは差し出がましいだろうか。


 だがセレスティアは先を読んだように言った。


「問題ありません」


 先回りされたうえに、想像通りの答えが返ってきてしまい、フィリアは少しだけ唇を結んだ。


 それが可笑しかったのか、マリエッタが小さく笑う。


「副団長、それでは説得力がありませんよ」


「事実です」


「せめて『少しは休めました』くらいにしておけばよろしいのに」


 セレスティアは返答せず、代わりに席を勧めた。


 朝食は昨日までと同じく、胃にやさしいものだった。粥に近い麦煮、刻んだ野菜、白身魚の蒸し物、それから薄い果実茶。食べながら、フィリアはふと気づく。器が一人分増えている。


「マリエッタさんも、ご一緒なんですか?」


「今日はそのつもりです」と彼女は当然のように答えた。「副団長だけだと、必要最低限のことしかお話ししませんから」


 セレスティアが静かに茶を置く。


「余計なことを言うな」


「余計ではありません」


 そのやりとりに、フィリアはほんの少しだけ笑った。


 食卓の空気は穏やかだった。

 穏やかであるぶん、今日やがて来る緊張との落差が際立つ。


 しばらくして、セレスティアが本題を切り出した。


「今日の聴取ですが、基本的に答える範囲は絞ります」


 フィリアは背筋を伸ばした。


「はい」


「わからないことを、わからないまま断言しないこと。記憶にないことを、曖昧に肯定しないこと」


「……はい」


「向こうが誘導しても、自分で見聞きしたこと以外は決めつけない」


 淡々とした指示。だが一つひとつが、フィリアには重要に聞こえる。


 昨日までの自分なら、問い詰められたら萎縮して、相手の言葉に引きずられてしまったかもしれない。実際、大聖堂では何度もそうなった。圧をかけられ、言い淀みを“認めた”と受け取られ、さらに追い詰められる。その繰り返しだった。


「あなたは、あなたが見たことだけを言えばいい」


 セレスティアの声が静かに続く。


「それ以外は私が止めます」


 その言葉があるだけで、胸の中の恐怖に少し輪郭がつく。

 完全に消えるわけではない。

 でも、無限に広がる霧ではなくなる。


「……はい」


 フィリアは頷いた。


「あと」


 マリエッタがパンをちぎりながら口を挟む。


「相手がどれだけ丁寧でも、優しげでも、全部を信用しすぎないこと。王宮の方は、にこやかに人の足元を見るのが上手いですから」


「マリエッタ」


「事実です」


 きっぱり言われ、フィリアは少しだけ背筋を寒くする。

 だが、それもまた必要な忠告だった。


 食後、セレスティアはフィリアを連れて応接間へ移った。今日の聴取はそこを使うらしい。椅子の位置、窓からの光、入口からの動線、すべてがすでに整えられている。無意識のうちにフィリアは、その座る場所を見て息を呑んだ。


 自分の椅子のすぐ斜め後ろに、セレスティアの席が置かれている。


 完全に隣ではない。

 だが手を伸ばせば届く距離だ。


「ここで話します」とセレスティアは簡潔に告げた。「私は後ろにいます。あなたが答えたくない質問には、答えなくていい」


「……はい」


 部屋の中には朝の光が差している。昨日、この屋敷へ来たばかりの頃より、少しだけ見慣れた場所になってきた。まだ居場所とは呼べない。けれど、敵ばかりの世界の中で、唯一呼吸ができる場所にはなり始めている気がした。


「フィリア」


 セレスティアに名を呼ばれ、振り返る。


「怖いなら、それを隠さなくていい」


 また同じことを言ってくれる。

 何度でも。


「怯えて見えて不利になる、などと考えなくていい。無理に平静を装うほうが危うい」


「……でも」


「あなたは、怖くて当然の立場にいます」


 その言葉に、昨夜のことがよみがえる。

 弱いのではなく、普通だと。

 怖いのは当然だと。


 自分が感じているものを、そのまま“あってよい”ものとして扱ってくれる人がいる。たったそれだけのことが、なぜこんなにも支えになるのだろう。


「……はい」


 フィリアは小さく答えた。


 そのとき、廊下の向こうで足音が止まった。


 軽くはない。

 だが騎士の足音とも違う。硬い床を踏む、数人分の節度ある靴音。ついに来たのだと、すぐにわかった。


 胸が大きく跳ねる。


 セレスティアが一歩、フィリアの後ろへ位置を取る。

 その気配が背にあるだけで、かろうじて息ができる。


 扉が叩かれた。


「王宮予備聴取官、アーノルド・レヴェイン。ご令嬢フィリア・エルソンへの聞き取りに参りました」


 穏やかな、老練な男の声だった。


 いかにも丁寧で、いかにも礼儀正しい。

 だからこそ怖い。


 フィリアは膝の上でそっと手を握る。

 その震えが止まらないのを感じた瞬間、背後から、ごく短く、低い声が落ちた。


「大丈夫です。ここにいます」


 たったそれだけ。


 それだけで、フィリアはうなずけた。


「……どうぞ」


 声は震えていた。

 けれど、昨日の処刑台の上よりはずっとましだった。


 偽聖女と呼ばれた朝は、まだ完全に終わっていない。

 それでもフィリアは、昨日までよりほんの少しだけ、自分の足で立っている。

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