第5話 眠れぬ夜の手
王宮からの予備聴取官が明日来る。
その知らせは、書斎の空気だけでなく、フィリアの胸の内にも重く沈んだ。
書見道具の箱から受け取った薄青の栞は、いまも膝の上に置かれている。淡い花模様の刺繍が、先ほどまでの穏やかな空気の名残のように見えた。けれど、そのやわらかい色さえ、今は少し遠く感じる。
明日。
また問われる。
また見られる。
また、自分が何も証明できないまま、誰かの言葉ひとつで“偽り”へ押し戻されるかもしれない。
心臓がいやにうるさかった。
伝令の騎士が去り、書斎にはしばし沈黙が落ちた。最初にその静けさを動かしたのは、セレスティアだった。
「日程が早まっただけです」
淡々とした口調。
けれど、フィリアを落ち着かせるために言っているのだとわかる。
「正式な裁定ではない。探りを入れに来るだけなら、こちらにも準備の余地はあります」
マリエッタがすぐに頷く。
「むしろ副団長の目の届く屋敷内でやるなら、まだましですね。王宮へ引きずっていかれるよりずっと」
その言い方は少しきついが、事実なのだろう。
フィリアは自分の指先を見つめたまま、小さく息をついた。
怖い。
だが、昨日の処刑台の上の恐怖とは少し違う。あのときは何も持っていなかった。言葉も、味方も、立つ場所も。今は少なくとも、この屋敷で、話を聞いてくれる人がいる。
それでも心が追いつくわけではない。
「フィリア様」
マリエッタが声を和らげる。
「今日はもう、これ以上考え込まない方がいいかもしれません。昼食のあと、少し休まれては?」
「でも……」
「考えたところで、今日のうちに王宮の態度が変わることはありません」
きっぱり言われると、返す言葉がなかった。
セレスティアもまた、短く言う。
「同意します。今のあなたに必要なのは、思考の整理より、体力の確保です」
正しい。正しすぎて反論できない。
結局その日は、それ以上の詮索や確認を一旦打ち切ることになった。昼食は朝と同じ小食堂で取り、午後はマリエッタに勧められるまま、書斎から借りた本を一冊だけ客間へ持ち帰った。薬草図譜の簡易版のような本で、難しすぎず、図も多い。おそらくフィリアが読みやすいものを選んでくれたのだろう。
だが、本の頁は思うように頭へ入ってこなかった。
視線は文字を追っているのに、意味がすべり落ちていく。
たびたび、明日のことが頭をよぎるからだ。
どんな人が来るのだろう。
王太子寄りの者か。
大聖堂寄りの者か。
それとも、単に王宮の命令をこなすだけの冷たい官吏か。
問いに答えられなければどうなるのか。
うまく答えても、捻じ曲げられるのではないか。
自分の言葉は、本当に意味を持つのだろうか。
夕方になるころには、肩と首がすっかり強張ってしまっていた。
窓の外では、近衛騎士たちの訓練が終わりに近づいているらしい。木剣の打ち合う音が昼間より少なくなり、代わりに掛け声や片付けの物音が遠くに混じっていた。
フィリアは本を閉じ、胸元の祈祷札をそっと押さえた。
今日は昼のあいだ一度も反応を見せていない。静かだ。まるで何も起こらなかったかのように。ただ、その沈黙がかえって不気味でもあった。
「……あなたも、明日が怖いの?」
独り言のように問いかけても、当然返事はない。
それでも少しだけ、故郷の礼拝堂を思い出す。木造りの小さな祭壇。冬には隙間風が入ってくる古い窓。司祭の穏やかな声。祈りの時間になると、決まって夕日が床へ斜めに落ちた。
王都へ来てから、故郷を思い出す余裕すらなかった。
今になって急に、その匂いや色が恋しくなる。
扉が叩かれたのは、そんなふうに物思いへ沈みかけていたときだった。
「フィリア様、夕食をお持ちしました」
マリエッタの声に返事をすると、彼女はワゴンを押して入ってきた。今夜は小食堂ではなく、部屋で食べられるようにしてくれたらしい。温かいスープと、薄切りの肉を挟んだ柔らかなパン、小鉢に入った果物。昨日と同じように食べやすいものばかりだ。
「副団長から、今夜は部屋で休ませるようにと」
「セレスティアさまが……」
「ええ。『無理に人のいるところへ出す必要はない』と」
その言葉だけで、また胸が少し温かくなる。
マリエッタは食事を整えながら、ちらりとフィリアの顔を見た。
「眠れそうですか?」
図星だった。
フィリアは曖昧に視線を落とす。
「……まだ、わかりません」
「副団長なら『わからないでは困る』と言いそうですね」
思わず、少しだけ笑ってしまった。
ほんのわずかだが、マリエッタも安心したように表情を緩める。
「少しでも食べて、湯を使って、早めに横になるのがいいですよ」
「はい」
「明日は副団長も同席しますから」
その一言が、フィリアの指先に入った余計な力を、少しだけ緩めた。
「……同席、してくださるんですか」
「もちろんです。させないつもりがありませんもの」
その言い方には、わずかに呆れが混じっていた。フィリアにはそれが心強かった。
「王宮の人間が来ようが、大司教が来ようが、副団長が自分の保護下にある方をひとりで座らせるはずがありません」
なんでもないことのように言う。
けれど、それはとても大きな約束のように聞こえた。
夕食を終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。
窓の向こうに浮かぶ夜の色は深く、屋敷のあちこちに灯った明かりが静かに石造りの廊下を照らしている。近衛の屋敷は夜になっても完全には眠らないらしい。遠くで交代の足音が聞こえ、時折、小さな話し声が風に乗って届く。
だが客間の内側は静かだった。
マリエッタが洗面用の湯を用意し、湯たんぽ代わりの温石まで寝台へ入れてくれる。彼女は何か言いたげにフィリアを見たが、結局は「では、ごゆっくり」とだけ言って出ていった。
扉が閉まり、再び一人になる。
フィリアは湯で顔と手を拭き、夜着に着替えた。手首の包帯は少し汚れていたが、まだ巻き直すほどではない。痛みも昨日より薄い。それなのに、胸のあたりだけが落ち着かなかった。
寝台へ入っても、すぐには眠れないだろう。
そう思いながら、夜具の中へ足を入れる。温石のおかげで、冷えはなかった。むしろ眠るには十分すぎるくらいに整えられている。
それでも、目を閉じた途端に蘇るものがあった。
広場のざわめき。
石畳の冷たさ。
大司教の穏やかな声。
王太子の視線。
飛んできた石。
“偽物”という罵声。
呼吸が浅くなる。
だめだと思った。
まだ眠れる状態ではない。
少しだけ起きていよう。そう思って起き上がると、胸元の祈祷札が微かに熱を持った。
「……っ」
思わず布越しに押さえる。
今夜も反応するのだろうか。
何かまた起こしてしまうのではないか。
だが熱はすぐに引いた。
代わりに、耳の奥に処刑台の鐘の音が蘇った気がした。
――違う、違う。
ただの記憶だ。
今ここに鐘なんて鳴っていない。
そう自分へ言い聞かせても、心は簡単には騙されてくれない。
夜が深まるにつれ、眠れない焦りだけが募った。
一度眠りかけても、すぐに意識が浮かぶ。寝返りを打つ。目を閉じる。処刑台の夢が来そうになる。息苦しさに目を開ける。それの繰り返しだった。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
燭台の火は小さくなり、部屋の隅は暗く沈んでいる。
そのとき、夢とも現ともつかないまどろみの中で、誰かが自分の名を呼んだ気がした。
『フィリア』
低い声。
はっと目を開ける。
だが部屋には誰もいない。
喉が乾いていた。心臓も速い。
まただ。悪夢の入り口へ、何度も引き戻される。
どうしよう。
呼ぶべきだろうか。
隣室にいると言っていた。何かあれば呼べとも言われた。
でも、ただ眠れないだけで起こしてしまうのは迷惑ではないか。
明日は聴取があるのに。この人だって休まなくてはならないのに。
フィリアは夜具を握りしめ、唇を噛んだ。
「……大丈夫」
小さく言ってみる。
だが、声はまるで自分を納得させられなかった。
次の瞬間、また鐘の音がした気がした。
広場の声が重なる。
石が飛ぶ。
縄が食い込む。
“偽聖女”。
「っ……!」
息が詰まり、フィリアはとうとう夜具を払いのけて起き上がった。胸元の祈祷札が今度ははっきり熱い。だが、それが札の熱なのか、自分自身の動悸なのかわからない。
考えるより先に、足が床へ降りていた。
扉へ向かう。
呼ぶつもりはなかったのに。
でも一人では、もう持ちこたえられそうになかった。
扉を開けようとした、その瞬間。
「フィリア?」
隣室側から、低い声がした。
手が止まる。
心臓も、一瞬だけ止まったように感じた。
「……セレスティア、さま……?」
「起きていたのですか」
足音が近づいてくる。扉の向こうで立ち止まる気配。
「何かありましたか」
その問いに、フィリアは答えられなかった。
眠れないだけです。
怖いだけです。
夢を見そうで、ひとりでいるのがつらいだけです。
そんなことを、うまく言葉にできる気がしない。
沈黙が返事になってしまった。
すると、向こう側の気配がわずかに低くなる。
「開けます」
否を言う間もなく、隣室側からの連絡扉が静かに開いた。
セレスティアは外套こそ外していたが、まだ完全には寝ていない格好だった。黒いシャツに薄手の上衣を羽織っただけの簡素な姿。長い髪もほどいておらず、ただ結び目を少し緩めただけらしい。それがかえって普段よりも距離を近く感じさせ、フィリアは言いようのない戸惑いに襲われた。
だが、そんなことを考えていられる状態でもなかった。
セレスティアはフィリアの顔を見た瞬間、何も言わずに一歩だけ近づいた。
「……悪夢ですか」
低く、落ち着いた声。
問い詰めるものではなく、ただ確認するための声だった。
フィリアはこくりと頷くしかできない。
「鐘の音が、聞こえる気がして……」
掠れた声で言うと、セレスティアの表情がわずかに曇る。
「処刑台の記憶ですね」
「……はい」
「呼べばよかった」
短い言葉だった。
責める口調ではない。
むしろ、当然のことのように言われたことが、フィリアにはひどく意外だった。
「でも……眠れないだけで……」
「それだけではありません」
きっぱりと切られる。
「眠れないのは結果です。原因は、恐怖がまだ抜けていないからでしょう」
図星だった。
フィリアは俯き、指先を握る。
「……迷惑かと、思って」
そう口にした瞬間、セレスティアがごく小さく息をついた気配がした。
怒ったわけではない。
呆れた、というのとも少し違う。
どうしてこの娘はそこまで自分を後回しにするのか、とでも言いたげな気配。
「フィリア」
「……はい」
「私はあなたに、何かあれば呼べと言ったはずです」
「はい……」
「今のこれは、その“何か”に含まれます」
低い声は変わらないのに、その内容がどうしようもなく優しかった。
フィリアは泣きそうになるのを堪えながら、頷いた。
しばらく沈黙が落ちる。
セレスティアは部屋の中を一度見回し、それから寝台へ視線を向けた。
「戻りなさい」
「え……」
「横になってください」
戸惑いながら寝台へ戻ると、セレスティアもためらいなくその横へ歩いてきた。何をするつもりなのか、フィリアにはわからない。だが彼女の動きには無駄がなく、迷いもない。
セレスティアは寝台の脇へ片膝をつき、夜具の端を軽く整えた。そして、フィリアがまだ強張っている手元へ視線を落とす。
「手を」
またその言葉だ。
昨日、傷の手当てをするときと同じ。
フィリアはおずおずと片手を差し出した。するとセレスティアは、自分の大きな手でそれを包み込むように握った。
温かい。
指先から、ゆっくりと熱が染みてくる。
強すぎず、でも逃がさない力。
ただ握っているだけなのに、不思議と胸のあたりのざわめきが少し静まる。
フィリアは目を見開いた。
「セレスティアさま……」
「落ち着くまで、こうしていなさい」
当たり前のことのように言われる。
「それで眠れるなら、そのほうが早い」
合理的な口実をつけているのだと、フィリアにもわかった。
本当にただそれだけなのかもしれない。
それでも充分だった。
セレスティアは寝台の脇へ置かれた椅子を引き寄せ、そこへ腰を下ろした。片手だけはフィリアの手を包んだまま。背筋はまっすぐで、まるで夜警のようだ。いや、実際そのつもりなのだろう。隣室ではなく、この場でフィリアが眠るまで見張るつもりなのだ。
「目を閉じて」
低い声が促す。
フィリアは従った。
握られた手から、たしかな熱が伝わる。
鐘の音は、もう聞こえなかった。
「呼吸をゆっくり」
「……はい」
「吸って」
従う。
息を吸う。
「吐いて」
吐く。
その単純な繰り返しが、夜の静けさの中で少しずつ身体を現実へつなぎとめていく。処刑台の記憶ではなく、いまここにある温度へ。石畳ではなく寝台のやわらかさへ。罵声ではなく、この低い声へ。
しばらくして、フィリアはかすかに目を開けた。
燭台の弱い光の中で、セレスティアの横顔が見える。
冷たい人だと思っていた。
実際、今も表情は厳しい。
でも、その手だけはどこまでもやさしい。
「……どうして」
半分、眠気に沈みながら問う。
「どうして、そこまでしてくださるんですか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
やがて、静かな声が落ちる。
「あなたが、ひとりで怯える必要はないからです」
その一言に、胸がいっぱいになる。
ひとりで怯える必要はない。
そんなふうに言われたのは初めてだった。
怖いなら怖いままでいい。
でも、ひとりではない。
その意味を、今夜のフィリアは痛いほど欲していた。
「……わたし、弱いですね」
ぽつりと漏らすと、セレスティアの指が少しだけ動いた。励ますように。咎めるようにではなく。
「昨日、処刑台に立たされて、今日、王宮の聴取を告げられた人間が、平然としているほうがおかしい」
「でも……」
「弱いのではなく、普通です」
普通。
その言葉が、ひどくやさしかった。
王都へ来てからずっと、自分は足りないのだと思っていた。
聖女としても、候補生としても、王都の人間としても。
けれどこの人は、今の自分を“普通”だと言う。
足りないから怯えているのではなく、当然のこととして。
「……ありがとうございます」
もう何度目かわからない礼を言うと、セレスティアは小さく息をついた。
「本当に、あなたは礼ばかり言う」
「だって……」
「礼を言われるたび、私が何か特別に優しいことをしたように聞こえる」
思いがけない言葉に、フィリアは少しだけ目を開けた。
「違うんですか……?」
問うと、セレスティアは一瞬だけ言葉に詰まったようだった。
そして、ごくわずかに視線を逸らす。
「……少なくとも、私の中では、必要なことをしているだけです」
それが彼女の本音なのだろう。
自分を特別に優しい人間だと思っていない。むしろ、当然の責務として行っているつもりなのだ。
けれどフィリアにとっては、十分すぎるほど特別だった。
夜は静かに更けていく。
どれくらいそうしていただろう。
セレスティアの手の熱を感じながら、フィリアの意識は少しずつゆっくり沈んでいった。呼吸も、先ほどよりずっと楽になっている。胸元の祈祷札ももう熱を持たない。
眠りへ落ちる直前、フィリアは半ば夢うつつのまま、小さく呟いた。
「……本当に、いなくならないでくださいね」
それが言葉としてちゃんと発音できていたのか、自分でもわからない。
あまりに幼い願いのようで、恥ずかしくもあった。
けれど、返事はたしかに聞こえた。
「いまは、ここにいます」
短い。
でも嘘のない声だった。
それで十分だった。
フィリアはようやく、今度こそ深く眠りへ落ちる。
夢の中で鐘は鳴らなかった。
代わりに、遠い春のような静かな光が差していた。
*
どれくらい経ってからだろう。
セレスティアは、フィリアの呼吸がようやく完全に眠りのそれへ変わったことを確認してから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
細く長い指はまだフィリアの手を包んでいる。離そうと思えば離せる。だが、眠りの中でわずかにその指先が縋るように返ってくるのを感じると、結局、すぐにはできなかった。
月明かりが窓から差し込み、寝台の端を白く照らしている。
セレスティアは眠る少女の横顔を見つめた。
処刑台の上で見たときより、いくらか穏やかだ。それでも痩せた頬や薄い目の下の影は、これまでどれだけ追い詰められてきたかを物語っている。
「……ひとりで怯える必要はない、か」
自分で口にした言葉を、かすかに繰り返す。
あれはフィリアのためだけではなく、どこかで自分自身へ向けた言葉でもあるのかもしれなかった。
かつて、守れなかったものがある。
その記憶はいまだ刃のように胸へ残っている。
だからこそ今、目の前のこの少女を、何もわからないまま失わせたくない。
それが責務なのか。
贖罪なのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
まだセレスティア自身にも判然としなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。
この手を、あの処刑台へは戻さない。
セレスティアは眠るフィリアの手をもう一度だけ確かめるように握り、それからようやく、ほんの少しだけ身を引いた。
それでも完全には離さず、夜が明けるまで椅子に座ったまま、静かにその傍らを守り続けた。




