第4話 近衛の屋敷
目が覚めたとき、フィリアは一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
白い天井。
薄い灰色の壁。
大聖堂の候補生部屋にしては簡素すぎて、故郷の教会の寝台にしては整いすぎている。窓から差し込む朝の光は柔らかく、布越しに部屋の空気を淡く照らしていた。
そして、少し遅れて思い出す。
処刑台。
氷のような女騎士。
近衛騎士団の屋敷。
隣室で眠ると告げた、低い声。
「……あ」
小さく息が漏れた。
生きている。
まだ、自分は生きている。
その実感が、朝になってようやく身に染みてきた。昨夜は疲労と緊張で意識が落ちるように眠ったが、目覚めてしまえば現実がまた形を持って押し寄せる。自分は依然として“偽聖女”として断罪された身であり、この屋敷での滞在は安息ではなく保留だ。
――救いではなく、保留。
昨夜セレスティアに言われた言葉が脳裏によみがえる。
冷たいようでいて、妙に正しい言葉だった。あの人は自分に甘い期待を与えない。だが見捨てもしない。だからこそ、信じられるのかもしれない、とフィリアは思う。
寝台の上で身を起こすと、手首に巻かれた包帯が目に入った。白く清潔な布。傷はまだ痛むが、昨日ほどではない。指でそっと撫でると、丁寧に巻かれた布の感触と一緒に、セレスティアの無駄のない手つきが思い出される。
それだけで頬が少し熱くなってしまい、フィリアは慌てて顔を振った。
何を考えているのだろう。
相手は近衛騎士団副団長で、自分は処刑されかけた罪人だ。
立場も何もかも違いすぎる。
けれど、あの人が自分の傷を“ひどい扱いだ”と見てくれたことだけは、どうしても胸に残っていた。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「フィリア様、起きておられますか?」
マリエッタの声だ。
「は、はい……!」
慌てて返事をすると、扉の向こうから柔らかい声が返る。
「失礼しますね」
入ってきたマリエッタは、朝の光によく似合う人だった。栗色の髪をきっちりまとめ、昨日と同じく動きやすそうな服装だが、朝だからか表情が少し柔らかい。手には湯気の立つ水差しと布、そして畳まれた新しい衣服を持っている。
「お加減はいかがです?」
「だ、大丈夫です……たぶん」
「たぶん、ですか」
くすりと笑われて、フィリアは昨夜のやりとりを思い出した。
セレスティアも同じことを言っていた。
それが顔に出たのか、マリエッタが少し目を細める。
「副団長にそう言われましたか?」
「えっ……どうして……」
「副団長、そういう言い回しが多いんです。『たぶんでは困る』『大丈夫に見えない』。本人はあまり自覚がないようですが」
言いながら、マリエッタは洗面台へ湯を移し、布を整えていく。手慣れたものだ。部屋に人の気配が増えるだけで、妙に落ち着く。
「……セレスティアさまは、もう起きていらっしゃるんですか?」
何気ないふうを装って尋ねたつもりだったが、声が少し上ずった。マリエッタはそれを聞き逃さなかったらしく、ちらりとこちらを見る。
「ええ。副団長なら、もうとっくに」
「やっぱり……」
「今朝は珍しく、かなり早い時間から見回りを終えて戻られていました」
珍しく、という言葉にフィリアは瞬いた。
「忙しい、のですね」
「忙しいですね。ふだんの業務に加えて、王宮との折衝、団内の調整、外部警戒。それに今は、フィリア様の件もありますから」
そこまで言って、マリエッタは少しだけ声を和らげた。
「ですが、副団長が自分で抱え込むと決めた案件です。遠慮なさらなくて大丈夫ですよ」
遠慮するなと言われても、やはり気後れはする。
だが、そう言ってもらえるだけで少し肩の力が抜けた。
マリエッタは手早く身支度の用意を整えながら、続きを告げる。
「朝食は小食堂に運びます。できればそこで召し上がってください。部屋に閉じこもりきりだと気が滅入りますから」
「小食堂……」
その言葉に、フィリアの胸が少しざわついた。
誰かと食事をする。
それだけのことが、今の自分にはひどく高い壁に思える。
王都へ来てから、食卓はずっと緊張の場所だった。候補生たちの視線。侍女たちの噂話。誰がどれだけ食べたか、どんな所作をしたかまで見られているような息苦しさ。失敗してからは、なおさらだった。
そんなことを考えていると、マリエッタが気づかわしげに言った。
「副団長とわたしだけです。騎士たちの食堂ではありません」
「……そう、なんですね」
「ええ。ですから、そんなに構えなくても大丈夫ですよ」
言いながら、彼女は灰色の朝着をフィリアへ手渡した。昨日の部屋着より少ししっかりした布で、動きやすさを重視したものらしい。色味は地味だが、肌ざわりがいい。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。着替えが済んだら声をかけてください」
マリエッタがいったん部屋を出ると、フィリアは新しい朝着へ袖を通した。大聖堂で与えられていた白い候補生服と違い、この服は目立たない。誰かに“聖女候補らしく”見られるための服ではなく、ただ過ごすための服だ。
それだけで、妙に落ち着く。
胸元から祈祷札を取り出し、一度だけ掌に包む。今朝は熱もなく静かだった。昨夜の反応がまるで夢のようだ。
「……あなたも、静かにしていてね」
小さく呟いてから布袋を胸元へしまい、フィリアは扉を開けた。
廊下は朝の静けさに包まれていた。窓から差し込む光が石の床へ長く伸び、冷たいはずの空間にやわらかな輪郭を与えている。遠くでかすかに剣戟の音が聞こえる。もう訓練が始まっているのだろう。
マリエッタに案内され、小食堂へ向かう。
途中、何人かの騎士や使用人とすれ違った。彼らはみな足を止めるほどではないが、一瞬だけフィリアを見る。そして視線を逸らす者、眉をひそめる者、あからさまに戸惑った顔をする者。それぞれ反応は違うが、少なくとも“歓迎”ではない。
胸の奥がきゅっと縮む。
やはりそうだ。
ここは大聖堂ではないが、だからといって自分が急に無害な客になれるわけではない。処刑台から連れ戻された偽聖女。近衛副団長が個人的に保護している謎の娘。そういう目で見られて当然だ。
視線に耐えかねてうつむくと、隣を歩くマリエッタが何でもないふうに言った。
「皆、驚いているだけです」
フィリアは顔を上げる。
「でも……」
「副団長が誰かをこうして屋敷内へ置くこと自体、かなり珍しいんです。しかも王都中が知っているあの騒ぎの当人ですから、なおさら」
「ご迷惑を……」
「またそれですか」
やんわりとした口調なのに、少しだけ叱るような響きがあった。
「迷惑かどうかを決めるのは、副団長とこの屋敷の人間です。少なくとも、わたしはまだそう思っていません」
その言葉に、フィリアは少しだけ胸が軽くなった。
小食堂は、昨日の応接間よりやや狭いが、窓が大きくて明るかった。長卓ではなく、三人ほどが座ればいっぱいになる丸い食卓が中央に置かれている。壁際には食器棚と小さな暖炉。気取らないが、行き届いた部屋だ。
そして、その窓際にセレスティアはいた。
すでに朝の軽装へ着替えている。濃紺に近い黒の騎士服に、肩からだけ外套をかけた姿。鎧こそ着けていないが、それでも剣帯は腰にあり、まるでいつでも動けるように整えられていた。
窓から差す朝日が、彼女の髪をほんの少しだけ柔らかく見せている。
だが顔を上げてこちらを見た瞬間、その印象はすぐに引き締まった。
「起きましたか」
「は、はい。おはようございます……」
おずおずと挨拶すると、セレスティアは一拍だけ間を置いてから答えた。
「おはようございます」
普通の返事。
ただそれだけなのに、フィリアはなぜかほっとした。
昨日の夜、“おやすみなさい”が返ってきたときと同じ感覚だった。明日がある人同士のやりとり。ささやかで、でも確かな日常の言葉。
マリエッタが二人分の朝食を並べ始める。焼きたての薄いパン、卵料理、柔らかく煮た豆のスープ、刻んだ果物、それから温かい茶。大聖堂の食卓ほど華美ではないが、ずっと食べやすそうだった。
「座ってください」
セレスティアに促され、フィリアは恐る恐る椅子へ腰を下ろす。食卓を囲む距離が近い。近すぎて落ち着かない。相手がこの人だとなおさらだ。
食事が始まってもしばらくは静かだった。セレスティアは必要以上に話しかけない。だがフィリアが食べられているかどうかだけは、時おり視線で確認しているようだった。
気づけば、自分はちゃんと食事を口へ運んでいる。
昨日まで、緊張や恐怖で何も喉を通らなかったのに。
それが少し不思議で、少し嬉しい。
「手首は」
ふいにセレスティアが口を開いた。
「昨日より痛みますか」
「い、いえ……少しましです」
「そうですか」
それだけで会話は終わる。
けれど、確認してくれたことが嬉しいと思ってしまう自分がいる。
マリエッタはその様子を横目で見ながら、わざとらしく咳払いした。
「副団長、イザベラ様には使いを出しました。昼前には来られるそうです」
セレスティアが頷く。
「了解しました」
「あと、北側客間から移した物ですが、祈祷具の棚だけ、まだ微弱な反応が残っています。護符箱だけでなく、古い聖銀の針立てにも」
「……やはり近いものに伝播しているか」
低い声でそう呟くと、セレスティアはフィリアへ目を向けた。
「食後、少し屋敷内を見てもらいます」
「わ、わたしが、ですか?」
「ええ」
「でも、そんな……」
自分が歩き回れば、また何か反応させてしまうかもしれない。
そう思うと怖い。
だがセレスティアは落ち着いた口調で続ける。
「それを確認するためです。どこで、何に、どう反応するのか。わからないまま怯えていても前へ進めません」
正論だった。
怖いけれど、その通りだとも思う。知らないまま“よくないもの”と決めつけられるのは、もう嫌だった。昨日までの自分は、何もわからないまま偽聖女の烙印を押され、流されるように処刑台へ上がったのだ。
だからフィリアは、少しだけ躊躇ってから頷いた。
「……わかりました」
その返事に、セレスティアの目がほんのわずかに和らいだ気がした。
「無理はさせません」
「はい」
「気分が悪くなったら言うこと」
「……はい」
「たぶん、ではなく」
先回りするように言われて、フィリアは小さく目を丸くした。マリエッタが吹き出しそうになるのを堪えているのが見える。
少しだけ、ほんの少しだけ。
食卓の空気がやわらかくなる。
朝食を終えると、セレスティアは立ち上がり、屋敷内を案内し始めた。
応接間、書斎、小さな会議室、裏口へ続く回廊、使用人たちが行き来する裏階段、客間、保管庫。どこも整理されていて、物が少ない。だが少ないぶん、それぞれの場所に意味があるのだとわかる。
「この屋敷は副団長用の居館ですが、実質的には近衛の準詰所も兼ねています」とマリエッタが説明する。「ですから、私室の近くにも最低限の武器庫や書庫があるんです」
「書庫……」
思わず口にすると、セレスティアがわずかにこちらを見る。
「本は読みますか」
「はい……故郷の教会では、あまり多くはありませんでしたけれど」
「なら、必要なら貸します」
あまりに自然に言われて、フィリアは思わず立ち止まりそうになった。
本を貸す。
そんな何気ない申し出が、今の自分にはひどく大きく感じられた。
「……ありがとうございます」
返すと、セレスティアはそれ以上何も言わない。
けれど、断るつもりではないのだとわかる。
やがて一行は、昨日異変の起きた北側客間の前へ着いた。扉には簡単な封印が施されている。マリエッタが慎重にそれを解き、扉を少しだけ開けた。
部屋の中は、昨夜とほとんど変わらない。
ただ、寝台脇にあった水差しだけが布で覆われ、棚の一部にも封が貼られていた。
「無理だと思ったらすぐに下がります」とマリエッタが言う。
フィリアは胸元の祈祷札を押さえ、そっと中へ足を踏み入れた。
一歩。
二歩。
空気が少しだけひんやりする。
そして三歩目で、部屋の隅に置かれた小さな銀の燭台が、かすかに震えた。
「……っ」
フィリアが息を呑むのと同時に、燭台の表面へ薄い白い筋が走った。壊れるわけではない。燃えるわけでもない。だが、まるで曇りを拭うように、その銀が一瞬だけ強く光る。
セレスティアの視線が鋭くなる。
「それ以上は進まないでください」
フィリアは言われた通りその場で止まった。
白い筋はすぐに消えた。
だが今度は、布で覆われた水差しのほうから、じわりと黒い染みが浮かび上がる。
マリエッタが小さく息を呑む。
「やはり……黒ずみが、浮いてきています」
「押さえ込まれていた穢れが表面へ出ているのかもしれない」
セレスティアの言葉は冷静だったが、その瞳は真剣そのものだ。
フィリアは自分の胸の鼓動を聞いていた。
怖い。
けれど同時に、違う感情もある。
これは、破壊ではない。
少なくとも今の反応は、何かを壊しているのではなく、“見えなかったものを浮かび上がらせている”ように思えた。
「セレスティアさま……」
「何です」
「これ、わたしが……悪いものを、触ってしまっているのではなくて……」
言いながら、自分でも何を言いたいのかわからなくなる。
でも、言葉を探すしかなかった。
「隠れていたものが、出てきている……みたいな、感じがします」
沈黙。
セレスティアはすぐには答えなかった。
代わりに一歩だけ前へ出て、フィリアと水差しの間へ体を入れる。それから黒ずみの広がる様子をじっと観察した。
「……可能性はあります」
やがて彼女はそう言った。
「あなたの反応は、汚染そのものを増幅しているのではなく、顕在化させているように見える」
その言葉に、フィリアは胸の奥が熱くなった。
顕在化。
見えなかったものを、見えるようにする。
それが本当なら。
自分はただの失敗作でも、空っぽの偽物でもなく、別の形で役に立つのかもしれない。
――そんな期待を抱くのは、まだ早い。
わかっている。
けれど、その可能性をこの人が言葉にしてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
「今日はここまでです」
セレスティアがすぐに判断を下す。
「長く留まる必要はない。反応は確認できた」
マリエッタが頷き、扉を閉める。
廊下へ戻ると、フィリアはほっと息をついた。緊張していたのだと、いまさら気づく。胸元の祈祷札は静かなままだが、少しだけ温かい。
セレスティアはその様子を見て、短く言った。
「よく耐えました」
その一言に、フィリアは目を見開いた。
褒められた。
いま、たしかに。
王都へ来てから、失敗や不足ばかりを数えられてきた自分にとって、その短い言葉はあまりにもまっすぐで、あまりにも不意打ちだった。
「……っ、ありがとうございます」
声が少し掠れる。
泣きそうになるのを、今度はどうにか堪えた。
セレスティアはそれ以上何も言わず、歩き出す。
だがその背が、昨日より少しだけ遠くないように見えた。
屋敷の見取りと反応確認を終えたあと、三人は書斎へ入った。ここだけは、屋敷の他の部屋より少しだけ私的な気配がある。壁一面の本棚。整然と積まれた書類。窓辺の机。窓の外には訓練場の一角が見えた。
「少し休みましょう」とマリエッタが言い、茶を用意する。
フィリアが窓際へ目を向けると、屋敷の外門近くで騎士たちが二人、こちらを見て何か話しているのが見えた。表情まではわからない。だが、その視線の向きで充分だった。
「……皆さん、やっぱり……」
無意識に漏らした言葉を、セレスティアが拾う。
「気になりますか」
「え……」
「周囲の視線が」
図星だった。
フィリアはうつむき、膝の上で手を重ねる。
「……はい。少し」
「少し、ではないでしょう」
また見抜かれる。
この人には、どうしてこうも簡単に見抜かれてしまうのだろう。
「……怖い、です」
正直に言うと、セレスティアは頷いた。
「当然です」
そして、窓の外を一瞥してから静かに続ける。
「ですが、この屋敷であなたに無礼を働くことは許しません。視線までは止められないが、害意は止められる」
「……はい」
「それに」
そこで彼女は少しだけ声を落とした。
「彼らも見ているのは、“偽聖女”だけではない」
フィリアは顔を上げる。
「昨日、広場で私が止めた。今朝、屋敷内で異変が起きた。何かあると皆が察し始めている」
その言葉の意味が、ゆっくり胸へ落ちる。
ただ疑われているだけではない。
見定められているのだ。
何者なのか、まだわからない存在として。
それは怖い。
けれど、完全に切り捨てられているわけではないということでもあった。
「……そう、なのですね」
「ええ」
セレスティアは書斎机の上へ手を置き、ふと小さな木箱を引き寄せた。深い茶色の箱。古いものらしいが、丁寧に手入れされている。
「これは」
蓋を開けると、中には数枚のしおりと、小さな銀の栞留めが入っていた。
「母が使っていた書見道具です」
思いがけない言葉に、フィリアは目を瞬いた。
セレスティアが家族の話をするとは思わなかったからだ。
「母も本が好きでした。私はあまり読書向きではありませんが、この屋敷に本が多いのはその名残です」
そう言って彼女は、箱の中から刺繍の入った薄い栞を一枚取り出し、フィリアへ差し出した。
「使いますか」
「え……」
「本を読むなら」
ただそれだけの言い方。
けれどフィリアには、それが信じられないほど優しい申し出に思えた。
昨日の夜、本なら貸すと言ってくれたこともそうだ。
それは、この屋敷の時間の中へ少しだけ自分を入れてもいいと言われたような気がする。
フィリアはおそるおそる栞を受け取る。淡い青糸で小さな花模様が刺されていた。華美ではないが、丁寧な手仕事だとすぐわかる。
「大切なもの、では……」
「しまい込んだままにしておくより、使われたほうがましです」
そう言う彼女の横顔は、どこか少しだけ遠かった。
母。
セレスティアの母。
どんな人だったのだろう。
どうしてこの人は、そういう話をさらりと口にして、でもその先は語らないのだろう。
興味はあった。
けれど、今はまだ踏み込めない気がした。
「……ありがとうございます。大事にします」
そう言うと、セレスティアは短く頷いた。
そのとき、廊下のほうで慌ただしい足音がした。次いで、扉が叩かれる。
「副団長、失礼します!」
若い騎士の声。
セレスティアの表情が一瞬で引き締まる。
「入れ」
扉が開き、伝令の騎士が一礼する。
「宮廷より正式な通知です。明日、王宮側より予備聴取官がこちらへ来訪予定とのこと。被疑者フィリア・エルソンへの非公式聞き取りを行いたいと」
書斎の空気が凍る。
明後日ではなく、明日。
フィリアの指先から、受け取ったばかりの栞が滑りそうになる。
「非公式、ですって?」
マリエッタが鋭く言う。
「王宮は正式な召喚前に、ここで探りを入れるつもりですね」
「拒否は難しいな」
セレスティアが低く呟く。
そして、すぐにフィリアを見た。
「大丈夫ですか」
問われた瞬間、自分がどんな顔をしていたのか気づいた。
息が浅い。胸が苦しい。怖い。
けれど。
けれど、昨日の自分とは少し違う。
フィリアは膝の上で手を握り、ゆっくりと頷いた。
「……大丈夫、では、ないです」
正直に言えた。
そのこと自体に少し驚く。
「でも……逃げません」
声は震えていた。
それでも、はっきり言えた。
セレスティアの灰青の瞳が、まっすぐこちらを見る。
その視線の中に、初めてほんのわずかな肯定を見た気がした。
「ええ」
彼女は短く答える。
「逃がしませんし、逃がしません」
一瞬、意味を取り損ねる。
だがすぐにわかった。
逃げ道を奪うという意味ではない。
ひとりで抱えて潰れるような逃げ方もさせない、ということだ。
その不器用な言い回しが、なぜか嬉しかった。
書斎の窓の外では、朝の光がもうずいぶん高くなっている。
近衛の屋敷の一日は始まったばかりだ。
そしてフィリアもまた、この場所の中で、ただ怯えるだけではない何かを少しずつ学び始めていた。




