第3話 救いではなく保留
東側の小客間は、先ほどの北側の部屋より少しだけ狭かった。
けれどそのぶん、落ち着いた空気があった。窓は細長く、夕陽はもう届かないが、壁際の燭台に灯った火が柔らかく室内を照らしている。寝台は清潔で、白いシーツに皺ひとつない。小さな丸卓と椅子、簡素な衣装棚、壁際に据えられた洗面台。やはり豪奢ではないが、必要なものだけが整えられた部屋だった。
フィリアは部屋の中央に立ったまま、自分の胸元を押さえていた。
布袋に収められた祈祷札は、いまはもう光っていない。先ほどの現象が嘘のように静かだ。けれど静かになったからといって、あれがなかったことになるわけではない。部屋の空気が揺れ、水差しが黒ずみ、セレスティアが即座に警戒した。その一つひとつが、フィリアに「おまえは普通ではない」と囁いてくるようで、胸が締めつけられる。
扉の前には、まだセレスティアが立っていた。
扉を閉めて去るのかと思っていたのに、彼女は出ていかない。外套を脱ぎ、腕だけに薄い黒革の防具を残した軽装に替えているが、それでも立ち姿には抜き身の剣のような鋭さがあった。細身の体躯のどこにそんな圧があるのかわからないほど、静かにしているだけで部屋の空気を引き締める。
フィリアは落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせた。自分のせいでまた厄介ごとを持ち込んでしまった。ようやく部屋に落ち着いたと思ったのに、結局、何か起こしてしまう。しかも今度は自分でも原因がわからない。
「……すみません」
ぽつりと漏らした声は、自分でも驚くほど小さかった。
だがセレスティアは聞き逃さなかったらしい。灰青の瞳がまっすぐこちらへ向く。
「何に対する謝罪です」
低く、静かな声。
責める響きではないのに、フィリアは思わず肩を縮めた。
「その……部屋を、また変えていただくことになってしまって……」
「それは問題ではありません」
即答だった。
「ですが、わたしが……また、何か、よくないことを……」
「フィリア」
名を呼ばれ、言葉が止まる。
セレスティアは扉から離れ、部屋の中央まで歩いてきた。先ほどまでの張りつめた警戒は残しているが、その足取りには無駄がない。まるで迷う暇など与えないように、当然の顔でフィリアの前に立つ。
「先に言っておきます」
彼女はまっすぐに言った。
「私は、あなたを救ったつもりはありません」
その一言に、フィリアの胸がひやりと冷えた。
思わず目を見開く。
泣きそうになるのを、かろうじて堪える。
やはりそうだ。
当然だ。
処刑台から連れ出されたとき、どこかで期待してしまっていた。自分は助けられたのだと。この人は自分の味方なのだと。けれどそれは、フィリアが勝手に膨らませてしまった希望に過ぎなかったのかもしれない。
セレスティアは、フィリアの表情の変化に気づいているはずだった。それでも、彼女は言葉を濁さない。
「あなたをあの場で止めたのは、救済のためではない」
淡々とした声が続く。
「疑義があったからです。処刑の手続きも、証拠の揃い方も、聖縄の反応も、すべてが不自然だった。だから止めた」
フィリアは唇を噛んだ。
そう言われれば、その通りだった。セレスティアは最初から「信じる」とは言っていない。「あそこで殺させる気はなかった」と言っただけだ。勝手にそこへ希望を見たのは、自分だ。
視界が少し滲む。
でも泣くのは違う気がした。
それは、この人の誠実さに失礼だ。
だからフィリアは、小さく息を吸って頷いた。
「……はい」
「ですが」
続いたその一言に、フィリアは反射的に顔を上げる。
セレスティアは、わずかに目を細めていた。冷たいというより、言葉の選び方に迷っているような表情だった。
「保留にした以上、私は最後まで見届けます」
その声音は静かだった。
けれど、曖昧さはなかった。
「あなたが本当に何者で、何をしていないのか、あるいは何を隠されているのか。それを確認するまでは、誰にもあなたを奪わせません」
誰にもあなたを奪わせません。
その言い方が、フィリアの胸の奥へ深く落ちた。
救いではない。
保留だ。
まだ信じたわけでもない。
それでも、この人は最後まで見届けると言った。途中で放り出さないと。誰にも奪わせないと。
それだけで、胸が熱くなるのを止められない。
「……どうして、そこまで」
また同じ問いを口にしている。
けれどもう、止められなかった。
セレスティアは少しだけ視線を逸らした。
「騎士だからです」
最初の返答は、それだけだった。
あまりに簡潔で、あまりに正しい答え。
だが、数秒の沈黙のあと、彼女は付け足すように言った。
「少なくとも、無実かもしれない者を、見せしめのために斬首台へ送る国であってほしくはない」
フィリアは息を呑んだ。
それは自分のためだけの言葉ではない。
もっと大きな、彼女自身の信念の言葉だった。
この人はきっと、強いのだ。
剣が強いだけではなく、折れないものを内側に持っている。
だから王太子の前でも、大司教の前でも、ああして剣を抜けたのだろう。
自分のためではないのかもしれない。
でも、それでもよかった。
この人の信念の延長線上に、自分が今ここで生かされているのだとしても、それは十分すぎる奇跡に思えた。
扉の向こうから、控えめなノックが響いた。
「副団長。失礼します」
マリエッタの声だ。
「入れ」
扉が開き、マリエッタが盆を持って入ってきた。湯気の立つ茶と、小皿に乗せられた焼き菓子、それから小さな瓶が二つ。ひとつは軟膏、もうひとつは、薄青色の液体が入ったガラス瓶だった。
「温めた茶です。少し落ち着く効き目のある香草を入れてあります。こちらは夜用の鎮静薬。副団長から、念のため置いておけと」
最後の言葉に、フィリアはそっとセレスティアを見た。
彼女は何でもないことのように視線を外している。
マリエッタは丸卓へ盆を置き、部屋を見回してから、わずかに声を落とした。
「それで……北側のお部屋の件ですが、黒ずんだ水差しは隔離しました。念のため、同じ棚にあった聖銀の燭台も確認しましたが、そちらは問題ありません。ただ」
「ただ?」
「副団長の部屋に保管していた旧式の護符箱が、少し熱を持っていました」
フィリアはびくりと肩を震わせる。
自分のせいだろうか。
また、何か触れてしまったのだろうか。
セレスティアの眉がわずかに動いた。
「持ってこなくていい。封をしたまま保管。明日、イザベラを呼ぶ」
その名に、マリエッタが「ああ」と小さく頷く。どうやら屋敷に出入りする、信頼できる人物なのだろう。
「宮廷魔術師の方ですね。副団長が呼ぶなら、かなり本気です」
「最初から本気です」
セレスティアは淡々と返した。
マリエッタは少しだけ笑みを滲ませる。
「ええ、存じ上げています」
そのやりとりに、フィリアはほんの少しだけ救われた気がした。部屋に漂う緊張を、マリエッタが少しずつ薄めてくれている。セレスティアが厳しさ一辺倒なら、きっと自分は息が詰まってしまっていただろう。
「では、フィリア様」
マリエッタが柔らかな声で言う。
「今夜のところは、無理に何かを考えなくて大丈夫ですよ。考えて答えが出る段階ではありませんから」
「……はい」
「それに、副団長はこう見えて、一度拾ったものは滅多に手放しません」
「マリエッタ」
セレスティアの声が少しだけ低くなる。
だがマリエッタは肩をすくめるだけだ。
「事実でしょう?」
「もののように言うな」
「では何と?」
「……保護対象だ」
その返答を聞いて、マリエッタが笑いを噛み殺すように口元へ手を当てた。フィリアも、なぜだかわからないが少しだけ胸のあたりが温かくなる。
保護対象。
物のようではない。
でも、まだ特別でもない。
曖昧で、距離のある言い方。
それなのに、いまのフィリアには、その曖昧さがありがたかった。
マリエッタは茶を注ぎ、フィリアへ差し出した。
「どうぞ。熱いので気をつけて」
両手で受け取ると、湯気とともにやさしい香りが立ちのぼった。カモミールに似た、けれどもう少し青さのある匂い。大聖堂のきつい香とは違い、肩の力が抜けていくような香りだった。
ひと口飲むと、じんわりと喉から胸へ温かさが広がる。
その熱に促されるように、フィリアはようやく丸卓の椅子へ腰を下ろした。ずっと立ったままでいたせいか、膝が少し震えている。疲れているのだと、いまさら実感した。
マリエッタはフィリアの様子を見てから、セレスティアへ視線を送った。
「副団長、今夜はどうなさいますか」
「この部屋の前に見張りを二人。交代制で。だが中へは入れるな」
「副団長ご自身は?」
「隣室を使う」
その答えに、フィリアは思わず顔を上げた。
「お隣、に……?」
「不満がありますか」
「い、いえ、そうではなく……」
ただ驚いただけだ。
王都最強と呼ばれる近衛騎士の副団長が、自分のような処刑寸前の娘の隣室で夜を明かすなど、あり得ないように思えたから。
だがセレスティアにとってはそれが当然の判断らしい。
「いまの段階では、あなたの周囲で何が反応するかわからない。異変があればすぐ対処できる位置にいるべきです」
合理的な説明。
その通りなのだろう。
それでもフィリアは、心の奥にほんの少しだけ広がる安堵を否定できなかった。隣室にこの人がいる。そう思うだけで、眠れる気がする。
マリエッタはそれ以上何も言わず、「では、着替えをこちらへ」と衣装棚の上に置かれた包みを示した。中には淡い灰色の部屋着と、柔らかな夜着が入っているらしい。
「サイズは……だいたいで見繕いました。合わなければ明日直します」
「あ、ありがとうございます……」
「お風呂は今夜は控えた方がいいでしょう。手首の傷がありますし、疲れすぎていますから。洗面用の湯はたっぷり置いておきますね」
てきぱきと説明しながら、マリエッタは部屋の細かな準備を整えていく。寝台脇に新しい水差しを置き、茶を保温用の布で包み、窓の鍵を確認し、燭台の位置まで調整する。その一つひとつが実に慣れていて、気づけばフィリアは少しだけ見入っていた。
自分がここにいてもいいのだろうか、という不安はまだ消えない。
でも少なくとも、この二人は「邪魔だ」とは言っていない。
それどころか、ここで今夜を越すための準備をしてくれている。
それだけで胸がいっぱいになる。
「ではわたしはこれで」
マリエッタが一礼し、扉へ向かう。
そこでふと思い出したように振り返った。
「そうだ、副団長。王宮からの追加通達で、明後日にも最初の聴取があるかもしれないそうです」
部屋の空気が少し張る。
フィリアの指先が、カップを握ったまま固まった。
明後日。
もうそんなに早く。
再審問と聞いても、どこか遠い話のように感じていた。けれど日付が与えられると急に現実味を帯びる。王家と大聖堂の前に、また立たされるのだろうか。今度こそ、もう逃げ道はないのではないか。
セレスティアはフィリアの顔色が変わったことに気づいたようだった。
「正式な召喚状が届くまでは動かない」
それはマリエッタへ向けた言葉のようでいて、同時にフィリアへ向けたものでもあった。
「その前に、こちらで確認を進める」
「承知しました」
マリエッタは最後にフィリアへ穏やかな笑みを向ける。
「おやすみなさいませ、フィリア様。今夜は少しでも眠れますように」
扉が閉まり、部屋には再びセレスティアとフィリアだけが残った。
沈黙。
けれど先ほどの沈黙とは違う。少しだけ疲れた静けさだった。
フィリアは茶をもうひと口飲む。温かい。おいしい。少しだけ目の奥の張りが緩む。
「……明後日、なのですね」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
セレスティアは壁際の椅子へ腰を下ろした。扉からも窓からも寝台からも目が届く位置だ。まるで部屋の一角に剣が置かれたみたいだった。
「可能性の話です。決まったわけではありません」
「でも、きっと、そう遠くないですよね」
「ええ」
否定はしない。
「怖いですか」
問い返され、フィリアは少しだけ笑ってしまった。笑うような場面ではないはずなのに、自分でも不思議だった。
「……はい。とても」
「そうでしょうね」
その返しがあまりにも当然で、少しだけ肩の力が抜ける。
「でも」
フィリアはカップを見つめながら言った。
「前よりは、少しだけ……違います」
「何が」
問いは短い。
だが急かすようではなかった。
フィリアは自分の胸の内を探る。
何が違うのだろう。
怖いことは変わらない。
自分が無力であることも、何もわかっていないことも変わらない。
それでも、たしかに違っている。
「……ひとりでは、ないので」
口にした瞬間、頬が少し熱くなった。
言いすぎただろうか。
重すぎただろうか。
こんなふうに頼るのは、迷惑ではないだろうか。
不安になって視線を上げると、セレスティアはほんのわずかに目を見開いていた。
だがそれも一瞬で、すぐにいつもの静かな表情へ戻る。
「その認識は、間違っていません」
低い声が、静かに落ちる。
「いまのあなたはひとりではない。少なくとも、私の管轄にあるうちは」
最後に少しだけ距離を置くような言い方が混じるのが、いかにもこの人らしかった。
全部を優しく言ってしまわない。必ずどこかに線を引く。
けれどその線の内側へ、自分を確かに置いてくれている。
フィリアは唇を引き結び、泣きそうになるのを必死にこらえた。
処刑台の上では、誰も自分の言葉を待っていなかった。
ここでは、自分が怖いと言うことも、ひとりではないと感じたことも、ちゃんと受け取られる。
それがどれほど救いに近いものか、セレスティア本人はきっとわかっていない。
しばらくして、セレスティアが立ち上がった。
「着替えなさい。私は隣室にいます」
「あ……はい」
「扉は施錠してください。内側からも」
「はい」
「何かあれば、すぐに呼ぶこと」
フィリアはこくりと頷く。
セレスティアは扉の前で一度だけ足を止め、それから振り返らずに言った。
「それから」
「……はい?」
「あなたが保留であるのは、価値がないからではない」
扉越しの明かりの中で、その背だけが見える。
「確認が必要だからです。そこを取り違えないように」
それだけ言い残して、彼女は部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
フィリアはしばらくその場で動けなかった。
価値がないからではない。
確認が必要だから。
言い換えれば、まだ決まっていないということだ。
無価値だと切り捨てられたわけではなく、自分にもまだ測られていない何かがあるのかもしれないということだ。
そんな言葉ひとつで、胸の奥の何かが崩れそうになる。
やがてフィリアはゆっくりと立ち上がり、部屋着へ着替えた。薄い灰色の布は思っていたより柔らかく、肌に触れても痛くない。手首の包帯が目に入るたび、あの人の手つきを思い出してしまう。丁寧すぎるくらい丁寧だった。冷徹な人なのに。
着替え終えて寝台へ腰を下ろすと、ようやく疲労がどっと押し寄せてきた。
体が重い。
頭も、胸も。
けれど眠る前に、どうしても確かめたくなった。
フィリアは胸元の祈祷札をそっと取り出し、両手に包む。
淡い布袋。
故郷の司祭が縫ってくれた、不揃いな糸目。
そのどこにも禍々しさはない。むしろ懐かしい。子どもの頃に礼拝堂の椅子でうたた寝したときのような、やさしい木と祈りの匂いがかすかに残っている。
「……あなたは、何なの……?」
問いかけても答えはない。
当然だ。
だが、ほんの一瞬だけ、袋の奥がぬくもった気がした。
フィリアははっとして顔を上げる。
同時に、隣室から物音がした。
椅子が引かれるような、すぐに立ち上がった気配。
「フィリア?」
扉越しに、セレスティアの声。
フィリアは慌てて札を握りしめた。
「だ、大丈夫です!」
「何かありましたか」
「いえ、その……少し、あたたかくなっただけで……」
数秒の沈黙。
扉の向こうで、気配が止まる。
それからセレスティアの声が、いつもより少しだけ近く、低く落ちた。
「無理に反応を起こそうとしないでください。何もわからないうちは危険です」
「……はい」
「眠れそうですか」
予想していなかった問いに、フィリアは目を瞬かせる。
「た、たぶん……」
「たぶん、では困る」
先ほどと同じ言い回し。
けれど今度は、少しだけ柔らかい響きがあった。
フィリアは思わず口元を緩める。
「……大丈夫、です」
「そうですか」
「セレスティアさま」
呼びかけると、向こうの気配が止まる。
「なんです」
「……おやすみなさい」
扉越しに告げるには、あまりにも普通の言葉だった。
それなのに、王都へ来てから一度も口にしたことがなかった気がする。処刑寸前の罪人には、明日の朝を前提とした挨拶など似合わないと思っていたからだ。
だからこそ、その一言はフィリアの中で特別だった。
扉の向こうで、わずかな沈黙がある。
そして、低く静かな声が返ってきた。
「……ええ。おやすみなさい、フィリア」
その返答に、フィリアは目を閉じた。
明日が来る。
たぶん本当に、来るのだ。
まだ信じ切れない。
でも、少なくとも今夜、この屋敷で、自分は斬首台の夢だけを見て眠るのではない。
救いではなく、保留。
愛情ではなく、責任。
それでもかまわなかった。
それでもこの夜は、フィリアにとって生き延びた最初の夜だった。
寝台へ横たわると、疲れ切った体はあっという間に沈んでいく。
包帯の巻かれた手首を胸の上でそっと重ねる。
その奥に、まだぬくもりが残っていた。
それが祈祷札の熱なのか。
あの人の手の記憶なのか。
フィリアには、もうわからなかった。




