第2話 氷刃、抜剣
近衛騎士団管轄区の門が開いたとき、フィリアは自分がまだ夢の中にいるのではないかと思った。
重く厚い鉄門は、王都の城壁内でもさらに選ばれた者だけが出入りを許される区域の象徴だった。白と灰の石を積み上げて築かれた高い塀、等間隔に立つ見張り塔、槍を持つ騎士たちの一糸乱れぬ動き。どこを見ても厳格で、鋭く、隙がない。
だが、不思議と恐ろしさはなかった。
処刑台の上で全身を貫いていたあの凍えるような恐怖とは、種類が違うのだ。ここにあるのは冷たい秩序であって、悪意ではない。少なくとも今のフィリアには、そう感じられた。
馬車は門を抜け、石畳の広い中庭へ進んでいく。訓練場らしき広場では、夕刻近いというのにまだ何人もの騎士が木剣を振っていた。打ち合う音。号令。革靴が石を踏む音。それらが規則正しく耳に届く。
生きている場所の音だった。
フィリアは膝の上で両手を握り締めた。手首の赤い痕はまだじんじん痛む。けれど、その痛みすら、自分がまだここにいるのだと教えてくれる。
隣に座るセレスティアは、門をくぐってから一言も話していなかった。灰青の瞳は前方だけを見つめ、何かを計算するように細くなっている。馬車の中で淡く発光した聖縄の切れ端は、彼女がすでに黒い布に包んで回収していた。
あれは何だったのだろう。
考えようとするたびに、胸の奥がざわざわする。自分は本当に何者なのか。なぜあの縄が反応したのか。なぜセレスティアは、あの場であれほど強く処刑を止めようとしたのか。
わからないことばかりだった。
やがて馬車が止まる。
「副団長、お帰りなさいませ」
外から声がかかり、扉が開いた。差し込んできた夕日の色が、車内の空気を薄く金色に染める。
先に降りたセレスティアは、当然のようにフィリアへ手を差し伸べた。黒い手袋に覆われた長い指。華奢な飾りなど何一つない、戦う人の手だ。
フィリアは一瞬ためらってから、その手に自分の指先を重ねた。
温かい。
手袋越しなのに、その温度はたしかに伝わってくる。処刑台の上で抱き上げられたときにも感じた熱だ。冷たい鎧の人なのに、どうしてこんなに手は温かいのだろうと、場違いなことを思ってしまう。
馬車から降りると、二人を待っていたのは、若い女官と数名の騎士だった。女官は栗色の髪をきっちりまとめ、動きやすそうな衣装の上に近衛の紋章入りのエプロンをつけている。年はフィリアより少し上だろうか。生き生きとした茶色の瞳が印象的な人だった。
「副団長、その方が……?」
「フィリアだ。私の保護下に置く」
セレスティアが簡潔に告げると、女官は一瞬だけ目を丸くした。だがすぐに姿勢を正し、丁寧に一礼する。
「承知しました。わたしはマリエッタと申します。副団長付きの侍女兼補佐をしております」
柔らかい声だった。処刑台で浴びせられた罵声ばかりが耳に残っていたフィリアには、その普通の声音がひどくありがたく思える。
「……フィリア、エルソンです」
おずおずと名乗ると、マリエッタはほんの少しだけ目元を和らげた。
「お疲れでしょう。まずはお部屋へ」
「その前に医務室だ」
セレスティアが言う。
「ですが副団長、医務官は今、北棟の負傷者対応で――」
「なら私室に運べ。薬箱を用意しろ」
命令は迷いなく下される。マリエッタは「はい」と即答し、慣れた足取りで先導に回った。
フィリアは二人のやりとりを眺めながら、どうしていいかわからず立ち尽くしていた。ここにいていいのだろうか。自分は本来、王都の処刑台で終わるはずだった罪人だ。こんな場所に連れてこられるなど、想像したこともない。
そんなフィリアの戸惑いを読んだように、セレスティアが短く言った。
「歩けますか」
「は、はい……たぶん」
「たぶん、では困る」
「え……」
「倒れるなら、また抱えて行くことになります」
さらりと言われて、フィリアはぱっと顔を赤くした。広場で抱き上げられた記憶が鮮明に蘇る。あれだけ大勢の前で、あんなふうに。
「だ、大丈夫ですっ、歩けます……!」
思わず強く言ってしまうと、セレスティアはわずかに目を細めた。
「ならいい」
からかわれたのだろうか。
いや、この人がそんな冗談を言うようにも思えない。
けれど口元がほんのわずか、ほんのわずかだけ緩んだような気がして、フィリアは余計に混乱した。
案内されたのは、近衛騎士団本棟から少し離れた、副団長用の居館だった。詰所というより、小規模な屋敷に近い。石造りだが華美ではなく、装飾も最低限で、全体に清潔で張り詰めた印象がある。
玄関を入ってすぐ、フィリアはふわりと鼻先をくすぐる香りに気づいた。
乾いた香草。
白木。
少しだけ金属。
そして、ごく淡く漂う剣油の匂い。
戦う人の家なのに、どこか整えられていて落ち着く香りだった。香を焚いて飾り立てた貴族の屋敷とも、大聖堂の乳香とも違う。余計なものを削ぎ落とし、必要なものだけを残した空間の匂いだ。
「こちらへ」
マリエッタに促され、フィリアは応接間らしき部屋へ通された。高価な絨毯や絵画はないが、磨かれた木のテーブルと長椅子、壁際の本棚、小さな暖炉があり、静かに暮らすには充分すぎる空間だった。
セレスティアはフィリアを椅子へ座らせると、すぐにマリエッタへ指示を飛ばす。
「温かい湯と薬、清潔な布。それから食事。軽いものでいい」
「はい。着替えも必要ですね?」
「……そうだな」
そこで初めて、セレスティアはフィリアの白衣に視線を落とした。処刑台まで引きずられ、石畳に擦れ、袖口も裾も汚れている。薄布越しに見える手首の痕も痛々しい。
その視線に気づいて、フィリアは思わず肩を縮めた。
見苦しい、と思われたのではないか。
そう身構えたが、セレスティアが口にしたのは別の言葉だった。
「……ひどい扱いだ」
低く、押し殺した声。
怒っているように聞こえた。
フィリアは目を瞬かせる。
まただ。
この人はどうして、自分に向けられた傷にそんな顔をするのだろう。
マリエッタが素早く部屋を出ていき、しばし二人きりになる。
沈黙が落ちた。
気まずい、というより、どう振る舞えばいいかわからない。フィリアは膝の上に手を置いたまま、視線を床へ落とす。セレスティアは向かいには座らず、少し離れた窓際に立っていた。外套を脱ぎ、長剣だけを壁際に立てかけているが、それでも鎧姿のままなので、部屋の空気がどこか鋭いままだ。
何か言わなければならない気がした。
「……あの」
「はい」
「本当に、助けていただいて……ありがとうございました」
ようやく絞り出した言葉に、セレスティアはしばらく答えなかった。窓際に立ったまま、外の訓練場を一瞥し、それからフィリアへ向き直る。
「礼は、調査が終わってから受けます」
「調査……」
「あなたが何者で、なぜ聖縄が反応したのか。それがわからない限り、私はまだ判断を下していません」
やはりそうだ。
無条件に救われたわけではない。
ただ、それでも。
「それでも……」
フィリアは俯いたまま続ける。
「それでも、あそこで、止めてくださったこと……うれしかったです」
胸の奥から言葉がこぼれた。理屈ではない。たとえ疑われたままでも、たとえ保留に過ぎなくても、あの場で剣を抜いてくれたことが、どれほど救いだったか。
セレスティアは黙った。
返事がないことに、フィリアは自分が余計なことを言ったのではないかと不安になる。
だが、しばらくして彼女は低く言った。
「……そうですか」
それだけだった。
それだけなのに、不思議と拒絶ではなかった。
ほどなくしてマリエッタが戻ってきた。銀盆には湯の入った鉢、薬瓶、布、包帯。それから別の侍女が畳んだ衣類まで運んできている。
「では、副団長。こちらはわたしが」
「いや」
セレスティアは即答した。
「手首の痕は私が見る」
マリエッタが「え」とわずかに目を丸くする。フィリアも同じくらい驚いた。
「ですが、副団長――」
「見届ける必要がある」
マリエッタは一瞬、何か言いたげに口を開きかけたが、結局「承知しました」とだけ答えた。その表情の端に、ごくかすかな面白がる気配が見えたのは、気のせいだろうか。
セレスティアはフィリアの正面の椅子へ腰を下ろした。ようやく目線の高さが近づく。鎧のせいで威圧感はあるが、広場で見下ろされたときよりずっとましだった。
「手を」
フィリアはおずおずと両手を差し出す。
セレスティアの手袋が外され、白く細い、しかし節のしっかりした手が現れた。剣を握る人の手だ。華奢に見えて硬い。だが今その指先は、薬をつけた布を摘まみ、驚くほど慎重にフィリアの手首へ触れてくる。
冷たい、と思った。
いや、正確には指先そのものは少し冷えていたが、触れ方が熱を帯びていた。丁寧すぎるほど丁寧だった。
「いたっ……」
少し沁みて、フィリアが肩を揺らす。
するとセレスティアの動きがすぐに止まる。
「痛みますか」
「す、少しだけ……大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
きっぱりと言われ、フィリアはまた言葉を失った。
この人はどうして、こんなふうに「大丈夫ではない」と言い切るのだろう。王都へ来てからずっと、フィリアは周囲の期待に応えられなかった自分に対して「大丈夫です」「平気です」と言う癖をつけてしまっていた。そうしないと、もっと価値がなくなる気がしていたから。
けれどセレスティアは、それを許さない。
「痛いなら痛いと言いなさい」
「……はい」
「つらいならつらいと。無理なら無理だと」
薬を塗る手は優しいままなのに、声だけは厳しい。叱られているようでもあり、教えられているようでもある。
「ここでは、少なくとも私の前では、それを隠す必要はありません」
フィリアは思わず顔を上げた。
灰青の瞳がまっすぐこちらを見ている。冷徹と呼ばれる人の目。なのにいまは、不器用なくせに誤魔化しのない真っ直ぐさだけがそこにある。
「どうして……」
また口にしていた。
今日何度目かわからない問い。
「どうして、そこまで……」
セレスティアは答えなかった。
ただ、薬を塗り終えた手首へ新しい布を巻き、包帯を留める。その手つきはやはり手慣れていて、きっと彼女はこれまでにも何人もの負傷者を手当てしてきたのだろうと思わせた。
沈黙のままもう片方の手首も処置される。
その時間が、妙に長く感じる。
やがてセレスティアは顔を上げ、フィリアの問いにようやく答えた。
「あなたの目が、助けを求めていたからです」
簡潔で、飾りのない答えだった。
フィリアは息を呑む。
それは、同情だろうか。
騎士として当然の義務だろうか。
それとももっと別の――。
「それだけ、ですか……?」
自分でも情けない問いだと思う。
けれど聞かずにいられなかった。
セレスティアは一瞬だけ目を細めた。何かを測るように。あるいは、自分の内側にも確信がないものを確かめるように。
「……いまは、それで充分でしょう」
いまは。
その二文字が胸に残る。
今後は違うのだろうか。違っていくのだろうか。そんな期待めいたものを抱く資格が自分にあるとは思えないのに、どうしても心が反応してしまう。
ちょうどそのとき、マリエッタが湯気の立つ茶と軽食を運んできた。柔らかく煮た野菜のスープ、小さな白パン、蜂蜜を少し落とした温かい茶。
「まずは食べましょう。空腹のままだと余計に気分が悪くなります」
彼女の声は明るいが、押しつけがましくない。その配慮に、フィリアは胸がじんわりする。
大聖堂では、食事さえまともに喉を通らなかった。候補生たちは皆、美しく、清らかで、完璧に振る舞うことを求められていた。食べる姿ひとつにも品位が問われる。そのうえ失敗を重ねたフィリアには、食卓すら居心地の悪い場所だった。
けれど今、目の前に置かれた湯気の立つスープは、ただ「食べていい」と言ってくれているように見える。
「……いただきます」
両手で器を包むと、温かさが指先へ染みた。ひと口飲む。野菜の甘みと塩気がじわりと広がり、空っぽだった胃がようやく自分の存在を主張し始める。
途端に、涙がこぼれそうになった。
おいしいからではない。
生きている人間みたいなことをしている自分に、急に実感が追いついてしまったからだ。
スプーンを持つ手が小さく震える。
それに気づいたのか、マリエッタが何も言わずにティーカップをフィリアの手元へ寄せ、セレスティアは見て見ぬふりをして窓の外へ視線を逸らした。
優しいのだと思う。
二人とも、それぞれ違う形で。
食事を半分ほど終えたころ、扉が叩かれた。
「副団長、騎士団長代理より伝令です」
「入れ」
入ってきた若い騎士は、フィリアの姿を認めた瞬間わずかに目を見開いたが、すぐに礼を取り直した。
「王宮より通達。被疑者フィリア・エルソンの身柄預かりを正式に認可。ただし、王命による再審問の準備が整い次第、出頭を命ずるとのことです」
「想定内だ」
セレスティアは淡々と答える。
「加えて……筆頭聖女候補リュシエンヌ・アルベールより、見舞いの品が届いております」
その名に、フィリアの指先がぴくりと震えた。
見舞い。
誰のための。
何のための。
セレスティアの目が冷たく細くなる。
「受け取りは拒否」
「ですが副団長、相手はアルベール家で――」
「聞こえませんでしたか。拒否です。品は封を切らずに返送しろ。今後この屋敷へ外部からの贈答を入れるな」
「はっ」
伝令の騎士は敬礼して去っていく。
扉が閉まったあと、部屋の空気はまた少し張り詰めた。
フィリアは恐る恐る口を開く。
「リュシエンヌ様は……」
「様づけは不要です」
セレスティアが即座に遮る。
「少なくとも、いまのあなたに対して見舞いを送る立場ではない」
その声音には、広場で王太子へ向けていたものと似た冷えがあった。はっきりした敵意、とまではいかなくとも、警戒と拒絶は隠されていない。
フィリアは唇を結ぶ。
リュシエンヌのことを思い出すたび、胸の奥がざわつく。美しくて、完璧で、誰もが慕う聖女候補。最初は優しく微笑みかけてくれたのに、ある日を境にその目は変わった。
『あなたは優しすぎるのね、フィリア』
『でも、それでは王都では生き残れないわ』
あの言葉の意味を、いまなら少しだけ理解できる気がする。
「……怖いのですね」
気づけば、セレスティアがそう問うていた。
フィリアは思わず目を見開く。
怖い。
その通りだった。王都の仕組みが。再審問が。自分の知らない真実が。リュシエンヌが。自分自身が。
けれど認めるのは、まだ怖かった。
だから少し迷ってから、かすかに頷く。
「はい……」
セレスティアはそれを咎めなかった。
ただ当然のことのように、「そうですか」と受け止める。
「怖くていい」
短い言葉だった。
「怖くないふりをする必要はありません。少なくともここでは」
その「ここでは」が、妙に温かく響く。
ここでは。
この屋敷では。
この人の前では。
フィリアは器を持つ手に力を込めた。泣きたくなってしまう。どうしてこんなに、普通の言葉が胸に刺さるのだろう。
「副団長」
マリエッタが空気を少し変えるように口を挟む。
「お部屋の用意が整いました。北側の客間をお使いいただけます。静かで日当たりもいい部屋です」
「ありがとう、マリエッタ」
礼を言うと、彼女はほんの少し目を丸くしたあと、にっこりと微笑んだ。
「どういたしまして」
そのあまりに自然な返しに、フィリアの胸の奥がまた揺れる。王都へ来てから、誰かに礼を言って、素直に礼を返されたことが、どれほどあっただろう。
食事を終えると、セレスティアは立ち上がった。
「部屋まで案内します」
「えっ、あの、マリエッタさんが……」
「私が案内します」
言い切られてしまい、フィリアはそれ以上何も言えなかった。マリエッタのほうを見ると、彼女はにこにことしながら何も言わない。むしろ少しだけ楽しんでいるようにすら見える。
廊下へ出る。
石造りの家なのに、足音は不思議と柔らかく響く。壁には必要最低限の燭台しかなく、飾りは少ない。けれど行き届いていて、冷たいのに荒れていない。住む人の性質が表れているような空間だった。
北側の客間は、想像よりずっと立派だった。大きな窓、清潔な寝台、木机、棚、手洗い用の小さな台まである。質素だが、十分すぎる。
「しばらくはここを使いなさい」
セレスティアが言う。
「必要なものがあればマリエッタへ。勝手に敷地外へ出ることは許可しません」
「……はい」
「監視のためではありません」
すぐに付け加えられて、フィリアはまた顔を上げた。
「外はまだ危険です。今日は広場であなたの顔が知れ渡った。近衛の管轄区内でも、快く思わない者はいます」
「……そう、ですよね」
現実を思い出して、少しだけ肩が落ちる。
助かったからといって、世界が急に優しくなったわけではない。
その様子を見て、セレスティアはほんのわずか間を置いてから言った。
「ですが」
フィリアは視線を戻す。
「この部屋にいる限り、誰もあなたへ手を出させません」
その言葉は、剣を抜いたときと同じくらい強かった。
穏やかな声なのに、断言だった。
誰もあなたへ手を出させません。
それは護衛としての当然の宣言なのかもしれない。
けれどフィリアには、それ以上の意味を持って届いてしまう。
「……ありがとうございます」
今度の礼に、セレスティアは何も否定しなかった。ただ小さく頷くだけだ。
彼女が部屋を出ようとした、そのときだった。
フィリアの胸元――正確には、処刑台から持ち帰ったまま白衣の内側に隠していた小さな祈祷札が、じわりと熱を帯びた。
「っ……!」
思わず息を呑む。
次の瞬間、部屋の空気がわずかに揺らいだ。
燭台の火がふっと細くなり、窓辺の白布が風もないのに揺れる。淡い、白銀に近い光がフィリアの胸元から漏れ、そのまま床へ細く走った。
セレスティアが一瞬で振り向く。
腰の剣こそ抜かなかったが、その目は戦場のそれになっていた。
「何を持っています」
「ち、違うんです、これは……故郷の教会でいただいた、お守りで……!」
慌てて胸元から札を取り出す。小さな布袋に包まれたそれは、地方教会で旅立ちの際に司祭が持たせてくれたものだった。何の変哲もない祈祷札のはずだった。なのにいまは、その袋の隙間から淡い光が滲み出ている。
部屋の気配がまた揺れた。
そして、寝台の脇に置かれていた銀の水差しが、かすかに黒ずんだ。
「……っ」
セレスティアがすぐにフィリアの前へ立つ。その動きは、考えるより速い。彼女はフィリアを背へ庇いながら、光る札を見つめた。
「浄化反応……?」
低い呟き。
フィリアには意味がわからない。
ただ、怖かった。自分の持ち物が、自分の知らないところで何かを起こしている。それがまた、自分を“異常”だと示す証拠になるのではないかと思うと、心臓が早鐘を打つ。
「わ、私、何もしていません……!」
思わず言い訳のように口走ると、セレスティアは振り返らずに言った。
「わかっています」
即答だった。
「黙って、私の後ろに」
その言葉に、フィリアは反射的に従う。背中越しに見るセレスティアの肩は、あまりに頼もしかった。
しばらくすると、光は少しずつ収まり、揺れていた気配も静まっていった。黒ずんだ水差しだけが、そこに確かに何かが起きたのだと告げている。
部屋に沈黙が落ちる。
フィリアは息を整えながら、小さく震える手で祈祷札を見つめた。これは故郷を出る朝、司祭が「困ったときのお守りだよ」と笑って持たせてくれたものだ。特別な聖具だなんて聞いていない。自分にも、ただの祈りの印にしか思えなかった。
なのに。
「副団長!」
騒ぎを聞きつけたのか、廊下の向こうからマリエッタの声がした。セレスティアは短く「入るな」と制し、それからゆっくりとフィリアへ向き直る。
その顔にあったのは、恐れではなかった。
確信に近い緊張だった。
「フィリア」
「は、はい……」
「あなたは、自分の力についてどこまで知っていますか」
問われて、フィリアは言葉に詰まる。
知っていることなど、ほとんどない。
少し人が落ち着くことがある。
苦しみが和らぐことがある。
悪夢を見る人の側にいると、眠れると言われることがある。
でもそんなのは、聖女の奇跡と呼べるようなものではないと、ずっと思っていた。
「……何も、知りません」
正直に答えると、セレスティアは数秒だけ黙った。そして、ゆっくりと、だがはっきりと告げる。
「では教えましょう。あなたは少なくとも、ただの偽聖女ではない」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
ただの偽聖女ではない。
肯定なのか否定なのかも、まだうまくわからない。
だが少なくともそれは、「何もない空っぽの偽物」だと言われ続けたフィリアにとって、初めて差し出された別の可能性だった。
セレスティアは床に残る淡い光の痕と黒ずんだ水差しを見やり、静かな声で続ける。
「今夜は部屋を変えます。ここはまだ確認が済んでいない。マリエッタ、東側の小客間を整えろ。誰もこの件を口外するな」
扉の外から、緊張した「はい」という返事が聞こえる。
フィリアは胸元の祈祷札をぎゅっと握り締めた。
怖い。
けれどそれ以上に、混乱していた。
もし自分が本当に“何か”なのだとしたら。
もし王都がそれを知っていて、自分を消そうとしたのだとしたら。
では、本当に、自分は何者なのだろう。
その答えを知るには、きっとまだ時間がかかる。
ただひとつだけ確かなのは、目の前の女騎士が、その答えを見つける前に自分を見捨てる気はなさそうだということだった。
セレスティアはフィリアへ手を差し出す。
「来なさい」
さきほど馬車を降りるときと同じ手。
けれど今度は、ただ支えるためだけのものではない気がした。
フィリアは震える指先で、その手を取る。
握り返された力は強く、迷いがない。
その瞬間、部屋の隅で消えかけていた白い光が、まるで応えるように一度だけ淡く脈打った。




