第1話 処刑台の少女
鐘の音が、嫌に澄んで聞こえた。
それは本来、祈りのための音色だったはずだ。朝の礼拝を告げ、夕べの感謝を運び、迷える者に神の御名を思い出させるための、穏やかな鐘。けれど今日、王都の中央広場に鳴り響くその音は、フィリアにとって自分の終わりを告げる弔鐘にしか聞こえなかった。
石畳の冷たさが、裸足の足裏から容赦なく伝わってくる。
薄い白衣はすでに何度も引きずられ、裾を汚していた。手首には縄が食い込み、わずかに動かすだけでも皮膚が擦れて痛い。けれどその痛みすら、今となっては遠いもののように思えた。
広場を埋め尽くす人々の視線のほうが、よほど鋭く、よほど冷たかったからだ。
「偽聖女だ」
「よくも王家を騙したものだ」
「見てごらん、あれが偽物だよ」
「大聖堂もずいぶん慈悲深い。あんなの、もっと早く始末すべきだったのに」
ひそひそ声が、風に乗るように耳へ届く。
届いてしまう。
聞きたくないのに、聞こえてしまう。
フィリアはうつむいた。金色がかった淡い髪が肩から落ち、視界を隠してくれる。ほんの少しだけ、それが救いだった。もし顔を上げてしまえば、自分を蔑む人々の表情を見てしまう。怒り、嘲り、軽蔑、好奇。そういうものを一斉に向けられて、平然と立っていられるほど、フィリアは強くなかった。
王都へ来た日のことを、ふと、思い出す。
あの日はよく晴れていた。
地方の小さな教会で育ったフィリアにとって、王都は何もかもがまぶしかった。高い尖塔、白亜の大聖堂、色とりどりの衣装をまとった人々、香の焚かれた礼拝堂、磨き上げられた回廊。そこに立つだけで、自分まで少しだけ綺麗で価値のある人間になれたような気がした。
――聖女候補。
そう呼ばれたときは、信じられない思いだった。
自分のような何の取り柄もない娘が、そんな尊いものに数えられるなんて、場違いにもほどがあると、最初は何度も辞退しようとした。けれど、故郷の司祭も、教会の子どもたちも、みんな目を細めて言ってくれたのだ。
『フィリアなら大丈夫だよ』
『お前は人に寄り添うことを知っている』
『神は、きっとそういう娘をお選びになる』
だから、怖かったけれど、少しだけ嬉しかった。
誰かの役に立てるのなら。
故郷の誇りになれるのなら。
祈りを必要とする人の力になれるのなら。
そう思って王都へ来た。
なのに。
「……っ」
フィリアは小さく肩を震わせた。
現実はあまりにもあっけなかった。
聖女候補として王都へ上がってからの生活は、最初こそ丁重だった。だが、その実、そこには見えない秤が置かれていたのだ。どれほど癒やしの奇跡を見せられるか。どれほど人々に“わかりやすい救い”を与えられるか。どれほど王家と大聖堂にとって都合のいい象徴になれるか。
フィリアは、そのどれにも十分には応えられなかった。
熱にうなされる子どもに触れたとき、呼吸が少し楽になった。
夜ごと悪夢に苦しむ侍女に祈りを捧げたとき、その夜だけは眠れたと言われた。
泣き崩れていた老女の手を包んだとき、痛みは残っていても心が落ち着いたと感謝された。
けれどそれは、王都が求める奇跡ではなかった。
傷が一瞬で塞がるでもなく、倒れた者が劇的に立ち上がるでもなく、聖堂に集う貴族たちを唸らせるような華々しい光が満ちるでもない。
地味で、ささやかで、曖昧で、証明しづらいものばかりだった。
そして、あの日。
大聖堂の大儀式で、王太子妃候補の親族が病に伏せた折、聖女候補たちが力を試される場で、フィリアだけが“奇跡を起こせなかった”と断じられた。
それだけで充分だった。
筆頭聖女候補リュシエンヌは鮮やかな光を灯し、人々を感嘆させた。大司教オルディスは深く頷き、王太子エドガーは満足げに言った。
『やはり本物は誰の目にも明らかだ』
その翌日には、フィリアの部屋から禁じられた祈祷文の断片が見つかり、さらに翌日には王家の聖印具に不調が起き、その責任まで押しつけられた。
気がつけば、すべてが決まっていた。
聖女候補ではなく、偽聖女。
尊き奉仕者ではなく、王家を欺いた罪人。
保護される娘ではなく、処刑されるべき見せしめ。
あまりに早すぎて、抗う間もなかった。
いや、本当は違う。
抗えなかったのだ。
怖かったから。誰も信じてくれなかったから。自分でも、もしかしたら本当に自分は空っぽなのかもしれないと、思ってしまったから。
「前を見ろ」
低い声とともに、背中を押された。
フィリアはよろめき、処刑台の中央へ進まされる。木で組まれたその壇は広場の中央に高く設えられ、王都中の目が自分に集まるようになっていた。逃げ場など、最初からない。
前方の一段高い席には、王家と大聖堂の要人たちが並んでいる。
中央に座すのは、王太子エドガー・ルーヴェルト。黄金の飾緒を肩に垂らし、端正な顔立ちに揺るぎない威厳を貼りつけた男。その隣には大司教オルディスが穏やかな微笑みを浮かべて座り、その少し後ろには、筆頭聖女候補リュシエンヌ・アルベールが白金色の法衣に身を包んで立っていた。
リュシエンヌは美しかった。
誰もが聖女と聞いて思い描くような、美しさだった。柔らかな金髪、澄んだ青い瞳、慈愛に満ちた微笑み。こうして遠目に見ても、その姿は絵画のように整っている。
だからこそ、余計に辛い。
あの人の隣に立ったとき、自分がどれほど場違いで、どれほどみすぼらしい存在なのかを、フィリアは嫌というほど思い知ったのだ。
ざわめきが少し収まったところで、大司教オルディスが立ち上がった。
「静粛に」
老齢のはずなのに、よく通る声だった。
その一声で、広場の喧噪は波が引くように鎮まる。
「本日ここに、王家と大聖堂の名において裁定を下す。被告、フィリア・エルソン。汝は聖女候補と偽り、神聖なる王家と民を欺き、禁を破る祈祷に手を染めた疑いにより、すでに有罪と定められている」
有罪。
その言葉が胸に落ちた瞬間、息が詰まった。
何度聞いても慣れない。
認めたくなくても、それは現実として自分を締め付ける。
「なお、被告の不正により聖印具へ異常が生じ、王都に混乱をもたらしたことも確認されている。この罪は重く、慈悲をもってしても看過はできぬ」
慈悲。
フィリアはこわごわ顔を上げた。
大司教の声色は優しかった。むしろ、哀れむようですらあった。だがその言葉の中身は、あまりにも冷たい。
どうして、そんなふうに言えるのだろう。
まるで自分が、本当に悪いことをした人間みたいに。
「……ちが……」
声が漏れた。
誰にも届かないほど小さな、掠れた声。
「私は……」
違います、と言いたかった。
やっていません、と言いたかった。
私にはそんなこと、できません、と。
でも、言葉は喉の奥で崩れた。
広場を埋める人の群れ。壇上の権威ある人々。重武装の騎士たち。冷たい空気。処刑台の縄。晒し者にされる恥。頭がうまく働かなかった。
自分ひとりの細い声では、何一つ変えられないと、もう知ってしまっていた。
王太子エドガーが立ち上がる。
「フィリア・エルソン」
名を呼ばれ、フィリアはびくりと肩を揺らした。
「そなたは王家の庇護と栄誉を受けながら、それに応えられなかった。そればかりか、聖女の座にしがみつき、不正な手段で周囲を欺いた。言い逃れがあるなら、この場で述べよ」
形式だけの慈悲だった。
わかっている。
いまさら何を言っても、覆ることなどない。
それでも、言わなければならないのかもしれないと思った。最後くらい、自分の口で、自分は違うと言うべきなのかもしれない。
フィリアは震える唇を開いた。
「……わた、し、は……」
けれど次の瞬間、観衆のどこかから石が飛んできて、足元へ転がった。
「偽物のくせに喋るな!」
「見苦しい!」
「本物の聖女さまに謝れ!」
誰かの怒号が響く。
それをきっかけに、またざわめきが広がった。
フィリアは息を呑み、反射的に身を縮めた。怖い。怖い。怖い。あんなにも大勢が、自分を憎んでいる。どうして。何をそんなに。自分はただ、役に立ちたかっただけなのに。
視界が滲み、立っているのもつらくなる。
そのとき。
「――静まれ」
低く、鋭い声が響いた。
一瞬で空気が変わった。
大司教の時とは違う。祈りでも説得でもなく、ただそれ自体が刃のような声だった。ざわついていた群衆が、今度は本能的な怯えによって口をつぐむ。
フィリアははっとして、声のした方を見た。
処刑台の脇。
罪人を見張るように立っていた近衛騎士の一団の、その先頭。
黒に近い濃紺の髪を後ろで束ね、銀の縁取りを施した黒鎧を纏う、一人の女騎士。
長身だった。
すらりとした肢体に無駄がなく、抜き身にせずともその存在だけで剣の鋭さを感じさせる。冷たい灰青の瞳が群衆を一瞥しただけで、先ほどまで好き勝手に喚いていた人々が押し黙る。
フィリアは彼女のことを知っていた。
王都に来て間もない頃、侍女たちの噂話で聞いた名だ。
近衛騎士団副団長。
氷刃の女騎士。
セレスティア・ヴァルクレイン。
王国最強とまで言われる剣士。武功において男の騎士たちすら圧し、功績によって王家に口を出すことを許された、異例の存在。冷徹で、厳格で、誰にも媚びず、情に流されない女。
そんな人が、どうしていま、自分のほうを見ているのだろう。
視線が合った。
灰青の瞳が、真正面からフィリアを捉える。
怖い、と思うはずだった。
なのにその目には、不思議と侮蔑がなかった。
厳しい。
鋭い。
けれど、見定めるようでいて、切り捨てる色ではない。
セレスティアはゆっくりと処刑台へ上がってきた。鎧が擦れる音がやけに鮮明に聞こえる。階段を上がるたび、周囲の騎士たちが緊張したように姿勢を正す。
王太子エドガーが眉をひそめた。
「セレスティア卿。何のつもりだ」
「職務の確認です、殿下」
よく通るが、感情の起伏を抑えた声だった。
彼女はフィリアのすぐ傍まで来ると、一度だけその拘束された手首へ視線を落とし、それから王太子へ向き直る。
「罪人の移送および処刑執行に際し、最終確認を行うのは近衛の役目。異議は」
「その役目はすでに終えているはずだ」
「私の中では、終わっておりません」
ぴんと糸を張るような沈黙が走る。
あまりにもはっきりとした物言いに、群衆まで息を潜めていた。
大司教オルディスが柔らかく口を開く。
「セレスティア卿、気持ちはわかります。しかし裁定はすでに下されております。この娘は――」
「その娘が、本当に“その罪”を犯したのかを、私は問うています」
大司教の言葉を遮って、セレスティアは言った。
広場がどよめく。
それは当然だった。王家と大聖堂が公に有罪と定めた娘を、近衛騎士が処刑台の上で疑義ありと示すなど、前代未聞だ。
フィリア自身も、何を言われたのかわからず、ただ目を見開くことしかできなかった。
エドガー王太子の目が険しくなる。
「近衛は裁定を覆す機関ではない」
「承知しております。ですが、王家を守る剣として申し上げます。あまりにも不自然だ」
「何がだ」
セレスティアは一歩だけ進み、処刑台の床を指先で示した。
「この娘の拘束に使われた聖縄に、反応が出ています」
ざわめきがまた広がる。
フィリアは息を呑んだ。いま自分の手首に巻かれている縄――聖具の一種であり、邪悪なものや呪いを縛るためのもの。その縄が、たしかにさきほどから熱を持っていた。痛いほどではない。だが、じわじわと何かが震えるような感覚がある。
「罪人を縛る聖縄が、なぜ浄化反応に近い脈動を示すのか」
セレスティアの声は冷静だった。
「少なくとも、ただの禁呪使いに出る反応ではない」
大司教の表情が、ほんのわずかに固まった。
リュシエンヌもまた、初めて微笑みを消している。
フィリアは混乱した。
浄化反応。
そんなもの、自分にはわからない。けれどセレスティアが嘘を言っているようには見えなかった。
エドガー王太子が低く言う。
「たとえ多少の異常があろうと、この娘が無能である事実は変わらぬ。聖女の力を持たぬ者が偽りの座にいた、それだけで罪は充分だ」
無能。
その一言が胸を刺した。
けれど次の瞬間、セレスティアの目が鋭く細められる。
「それは罪ではありません」
はっきりと。
広場全体に聞こえる声で、彼女は言った。
「力がないことと、欺いたことは別です。無能を罰する国であれば、それはもはや神の国ではなく恐怖の国だ」
観衆の中から、今度は先ほどとは違うざわめきが漏れた。
誰もそんなふうに言わなかった。
少なくともフィリアは、王都に来てから一度も聞いたことがなかった。力を示せなければ価値がない。役に立てなければいらない。奇跡を見せなければ意味がない。ずっとそういう空気ばかりだったから。
なのにいま、この人は処刑台の上で、そんなのは罪ではないと言った。
それだけで、泣きそうになる。
大司教が静かな声で言う。
「ではセレスティア卿は、この娘が潔白だと?」
「少なくとも、現時点でここで殺してよいとは思いません」
セレスティアはフィリアを振り返らない。
それでも、彼女の背はフィリアを庇うようにわずかに前へ出ていた。
「再調査を求めます。身柄は近衛が預かる」
「認められぬ」
即座にエドガーが切り捨てる。
「王家と大聖堂の面目に関わる。今さら処刑を止めれば、民に混乱を招く」
「混乱を恐れて誤りを見逃すのであれば、それは統治ではなく隠蔽です」
「言葉に気をつけよ、セレスティア」
「剣で語れと仰るなら、そのほうが得意です」
空気が凍る。
冗談ではないと誰もがわかった。セレスティアは本気だ。王太子を前にしても一歩も退かない。いや、必要とあらば本当にこの場で剣を抜くつもりなのだと、その場の全員に伝わってしまった。
フィリアは震えた。
恐怖からではない。
自分のために、ここまで言う人がいることが信じられなくて。
どうして。
どうして、この人だけ。
大司教オルディスが、ゆっくりと目を閉じた。何かを計算している顔だった。ここでセレスティアと正面衝突するのは得策ではない――そう判断したのだろう。近衛騎士団副団長の影響力は大きい。しかも群衆の前だ。力ずくで押し通せば、それこそ火種になる。
やがて彼は重々しく口を開いた。
「……慈悲を示しましょう」
その言葉に、フィリアの胸がざわつく。
「本日の執行は一時保留とする。被告フィリア・エルソンの身柄は、再調査のため近衛騎士セレスティア・ヴァルクレインに一時預託する」
群衆が騒然となる。
不満、困惑、驚き、様々な声が飛び交う。
だが、ひとまず、処刑は止まった。
止まったのだ。
フィリアは理解が追いつかないまま、膝から力が抜けそうになるのをこらえた。まだ終わっていない。無罪になったわけでもない。ただ先送りされただけだ。けれど、それでも。少なくとも、今日ここで死ぬわけではない。
エドガー王太子は露骨に不快感を隠さなかったが、公開の場で大司教の裁定を翻すことはしなかった。リュシエンヌは静かにフィリアを見つめている。その青い瞳の奥に何があるのか、読み取ることはできない。ただ、その美しい顔から完全に慈愛の色が失われていることだけはわかった。
処刑吏が戸惑いながら一歩退く。
セレスティアはその場でフィリアの縄に手をかけた。黒革の手袋越しの指先が、きわめて手際よく結び目を解いていく。ほどけた縄が床へ落ちた瞬間、フィリアの身体がぐらりと傾いた。
支えを失ったからではない。
緊張が切れたのだ。
「あ……」
倒れる、と思った。
だが次の瞬間、強い腕が肩を抱き留めた。
鎧越しの冷たさと、その奥にある確かな熱。
硬いのに、不思議と安心する感触。
「立てますか」
初めて、近い距離で声を聞いた。
低く、静かな声。
優しくはない。甘くもない。けれど、見捨てる響きではなかった。
フィリアは震える唇で何か言おうとして、うまく言葉にならなかった。ありがとうございます、と言いたかったのかもしれない。どうして助けてくれるのですか、と尋ねたかったのかもしれない。
結局、出たのはか細い息だけだった。
セレスティアは小さく息をつくと、やや身を屈めた。
「無理をしなくていい」
その言葉と同時に、彼女はフィリアを抱き上げた。
「……え」
フィリアは目を見開いた。
いわゆる横抱きだった。片腕が背に、もう片腕が膝裏に回され、軽々と持ち上げられてしまう。広場中の視線がさらに集まるのを感じ、顔が一気に熱くなる。
「せ、セレスティアさま……っ」
「歩かせればまた倒れる」
それだけ言って、彼女はさっさと処刑台を降り始めた。
鎧の匂い。革の匂い。ごく薄い金属油の匂い。ほんのかすかに、清涼な香草のような香りもする。騎士らしい無駄のない匂いだった。血や泥の気配を知っている人の、けれど不思議と嫌悪を抱かせない、凛とした匂い。
フィリアは胸元でぎゅっと白衣を握りしめた。
大勢に見られているのに、さっきまでとは違う。さきほどまでは晒し者だった。いまは、この人の腕の中にいる。その事実だけで、世界との距離が少しだけ変わったように思えた。
処刑台を下りると、近衛騎士たちが道を開ける。
誰も口を挟まない。
いや、挟めないのだろう。セレスティアの纏う圧が、それを許さない。
広場を抜ける途中、群衆のあちこちから声が飛んだ。
「本当に連れていくのか」
「近衛が罪人を庇うなんて」
「でも、セレスティア様がああまで言うなら……」
「いや、騙されているのかもしれない」
「偽聖女のくせに……」
聞こえた。
まだ聞こえる。
けれどもう、それだけではなかった。
かすかな戸惑い。
揺らぎ。
絶対だったはずの“有罪”に、ひびが入る音。
セレスティアは一度も振り返らず、ただまっすぐ前を見て歩いていく。陽光を受けて、黒鎧の縁が鈍く光る。抱き上げられたままのフィリアには、その横顔しか見えない。
整いすぎるほど整った顔立ち。
長い睫毛の影。
感情を表に出さない、彫像のような輪郭。
それでも、その顎の線はわずかに強張っていた。怒っているのかもしれない。広場の空気に。王家に。大聖堂に。あるいは、自分自身の知らない何かに。
「……どう、して……」
気づけば、言葉が漏れていた。
セレスティアの歩みが、ほんの少しだけ緩む。
「何がです」
「どうして……私なんかを……」
そこまで言って、フィリアは自分で自分の言葉に傷ついた。
私なんか。
そんな言い方しかできない自分が情けない。でも、本心でもあった。助けられる価値など、自分にあるとは思えない。
セレスティアはしばし答えなかった。
広場を抜け、石壁に囲まれた回廊へ入ったところで、ようやく彼女は低く言った。
「まだ、信じるとは言っていない」
その一言に、胸がきゅっと縮む。
やっぱりそうだ。
当然だ。
この人だって、無条件に味方してくれているわけではない。
けれど、次の言葉が落ちてきた。
「ですが」
セレスティアの声は静かだった。
「あなたを、あそこで殺させる気はなかった」
フィリアは息を止めた。
優しい言葉ではない。
愛情の告白でもない。
信頼の宣言でもない。
それでも、それは今日一日で誰からも向けられなかった、まぎれもない意志だった。
殺させる気はなかった。
その一言だけで、張りつめていた心が決壊しかける。
視界が滲んだ。
泣いてはいけない、と思うのに涙が勝手に溜まっていく。
セレスティアは気づいているはずなのに、あえて見ないふりをした。おそらく、それが彼女なりの気遣いなのだろう。肩を抱く腕だけが、ほんのわずかに確かさを増す。
しばらく歩いて、王都中央広場の喧騒が遠ざかったころ、フィリアはようやく小さく呟いた。
「……ありがとう、ございます……」
ほとんど聞こえないような声だった。
だがセレスティアは確かに聞き取ったらしい。
「礼は不要です」
「でも……」
「まだ、何も終わっていない」
現実的な返答。
冷たいと言えば冷たい。
けれどそれは嘘ではない。
フィリアは目元を袖で拭いた。
そうだ。終わっていない。たまたま今日の処刑が止まっただけ。明日にはまた状況が変わるかもしれない。この人の気が変わるかもしれないし、王家が力ずくで連れ戻しに来るかもしれない。
それでも、ほんの少しだけ思ってしまう。
もし。
もし本当に、この人が自分の話を聞いてくれるのなら。
もし少しでも、自分が偽物ではない可能性を見てくれるのなら。
もう一度だけ、生きたいと思ってもいいのだろうか。
回廊の先、外套を纏った近衛の馬車が待っていた。
その傍らに控える騎士たちが、一斉に敬礼する。
「副団長」
「屋敷へ戻る」
「はっ」
セレスティアはフィリアを抱いたまま馬車へ乗り込んだ。中は簡素だが清潔で、軍用らしく無駄がない。彼女は向かいの席ではなく、隣へ腰掛け、そのままフィリアをそっと座らせた。必要以上に乱暴ではなく、かといって過剰に丁寧でもない、妙に手慣れた動作だった。
扉が閉まり、馬車が動き出す。
揺れに身を任せながら、フィリアはおそるおそる隣を見た。
セレスティアは窓の外を見ていた。整った横顔に感情は薄い。
だが、近くで見るとわかる。
その美しさは冷たいだけではない。ひどく張りつめていて、危ういのだ。誰にも寄りかからず、誰の手も借りず、ずっと剣だけを握って生きてきた人の顔だった。
ふいに、セレスティアが視線だけこちらへ向けた。
「何か」
「い、いえ……」
慌てて首を振る。
すると彼女は少しだけ眉を寄せた。
「具合が悪いなら言いなさい」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫に見えません」
返す言葉がない。
処刑台から連れ出されたばかりなのだから当然だ。顔色も悪いだろうし、震えも止まっていない。自分でもわかる。けれど、迷惑をかけたくないという思いが先に立ってしまう。
「……すみません」
反射的に謝ると、セレスティアの眉間のしわが深くなった。
「謝罪を求めたつもりはありません」
「ご、ごめんなさ……」
「フィリア」
名を呼ばれた。
それだけで、言葉が止まる。
いままで王都で、自分の名はたいてい“被告”だの“偽聖女”だのと置き換えられていた。名をそのまま呼ばれることが、こんなにも胸に刺さるとは思わなかった。
セレスティアはわずかに息を吐き、言い直す。
「いまは何も言わなくていい。屋敷へ着いたら、話を聞きます」
フィリアはそっと頷いた。
屋敷へ着いたら。
話を聞く。
それはつまり、まだ終わっていないということだ。
処刑台の上で切られるはずだった命に、その先が続くということだ。
馬車の窓から差し込む光が、膝の上に落ちる。
拘束されて赤くなった手首を見つめていると、不意に隣から黒い手袋の手が伸びてきた。
びくりと身を竦める。
けれどその手は、フィリアの手首に触れる寸前で一度止まり、確認するように静かに問うた。
「見せて」
フィリアはこくりと頷く。
セレスティアの指先が、食い込んだ痕をそっと確かめた。手袋越しなのに、その触れ方は驚くほど慎重だった。壊れものに触れるみたいに。傷つけたくないものに触れるみたいに。
「……ひどいな」
その呟きは、誰に向けたものだったのだろう。
フィリアにはわからない。
けれどその一言が、また泣きそうになるくらい優しかった。
あそこで、誰もこんなふうに傷を見てはくれなかったから。
みんな罪としか見なかったから。
セレスティアは短く命じるように言った。
「屋敷に着いたら薬を塗る。今日は休みなさい」
「……はい」
「食事も摂ること。眠れなくても、横にはなりなさい」
まるで当然のように告げられるその言葉が、信じられなかった。
生き延びた者に向けられる言葉だ。
明日がある者に向けられる言葉だ。
フィリアは唇を噛んだ。
泣かないように。
また取り乱して、この人を困らせないように。
それでも涙はひとしずく、膝の上に落ちた。
セレスティアは見ないふりをして、窓の外へ視線を戻す。
その横顔は相変わらず冷たくて美しい。
けれどフィリアには、もうわかってしまっていた。
この人は、少なくとも世界のすべてが自分の敵になったあの場所で、剣を抜いてくれた人だ。
たった一人。
たった一人だけ。
自分を見てくれた人だ。
馬車は王都の石畳を進み、やがて近衛騎士団の管轄区へ入る。
高い塀と厳重な門が見えてきた。
新しい牢獄かもしれない。
それでも構わない、とフィリアは思った。
処刑台よりはましだからではない。
あの人がいる場所なら、少しだけ息ができる気がしたからだ。
そのとき、馬車の揺れとは別の、小さな違和感が手首に走った。
「……あ」
赤く擦れた痕の奥が、微かに熱い。
じわり、と。
まるで何かが目を覚ますみたいに。
同時に、膝元へ落としていた聖縄の切れ端が、かすかに白く発光した。
フィリアが息を呑むのと、セレスティアが素早くそれを見たのは、ほとんど同時だった。
灰青の瞳が鋭く細められる。
「……やはり」
低い声でそう呟いた彼女は、すぐに外の騎士へ声を飛ばした。
「急げ。屋敷へ戻ったらすぐ封鎖。誰もこの娘に近づけるな」
ただならぬ声音だった。
フィリアは何が起きているのかわからないまま、発光する聖縄の切れ端を見つめる。
それはまるで、彼女が“何か”であることを知っているかのように、弱く、けれど確かに光を脈打たせていた。
偽物ではないとでも言うように。
あるいは、もっと別の何かを告げるように。
馬車は速度を上げる。
冷たい女騎士の横顔は、ますます険しくなっていた。
そしてフィリアは、自分の運命が処刑台の上で終わらなかった代わりに、もっと大きく、もっとわからないものへ巻き込まれ始めていることを、まだ知らなかった。




