第34話 白に混じる影
リュシエンヌが去ったあと、屋敷にはしばらく誰の声も戻らなかった。
談話室の窓から入る光は、午後の終わりに向かって少しずつ色を薄くしている。卓の上には、リュシエンヌが座っていた痕跡だけが残っていた。置かれたままの茶器。少しも減っていない茶。彼女が一度だけ指先で触れたカップの縁。
フィリアはそれを見つめていた。
白き聖女。
王都がそう呼びたがる人。
誰もが清らかだと信じて疑わなかった人。
フィリア自身も、ずっと遠くから見上げていた人。
けれど今日ここにいたリュシエンヌは、完璧な聖女ではなかった。
迷い、怯え、傷つき、自分が何をしてきたのかを確かめようとしていた。
その姿は美しかったが、もう神殿の壁に描かれた聖女像のようではなかった。
人だった。
そのことが、フィリアの中で静かに揺れていた。
「疲れましたか」
セレスティアの声がして、フィリアは顔を上げた。
「……はい。少し」
「横になりますか」
「いえ。まだ、大丈夫です」
そう答えてから、フィリアは自分の言い方に少しだけ苦笑した。
「大丈夫というより……考えています」
セレスティアは椅子に座ったまま、短く頷いた。
「無理に整理する必要はありません」
「でも、整理しないと、また夜にぐるぐる考えてしまいそうで」
「それはあり得ますね」
あっさり言われて、フィリアは少しだけ目を丸くした。
「そこは否定しないんですね」
「あなたは考え込みやすい」
「……そうですね」
否定できなかった。
マリエッタが空にならなかった茶器を片づけながら、やわらかく言う。
「今日のことは、考え込んでも仕方ないと思いますよ。むしろ、すぐに割り切れる方が怖いです」
「割り切れません」
フィリアは素直に言った。
「リュシエンヌ様が怖かったことも、本当です。苦しかったことも。でも……あの人も、ずっと白い聖女でいなければいけなかったのかもしれないと思うと」
言葉がそこで止まる。
同情なのか。
理解なのか。
それとも、ただ混乱しているだけなのか。
自分でもわからない。
イザベラは腕を組み、壁際にもたれたまま鼻を鳴らした。
「情けをかけすぎる必要はないわよ」
「……はい」
「でも、事情を考えるのは悪くない。あの子が完全に敵かどうかは、まだ決まってないから」
その言い方はぶっきらぼうだったが、フィリアには助けになった。
完全な敵ではない。
でも、完全な味方でもない。
まだ灰色のまま置いておく。
それでいいのだ。
セレスティアが卓の上の記録を手元へ寄せた。
「重要なのは、リュシエンヌが“真の白き聖女”という言葉を聞いていたことです」
空気が、少しだけ事件の方へ戻る。
フィリアも背筋を伸ばした。
「バルナバス管理官が言っていたんですよね」
「ええ。古い聖印具が、彼女の力を高めると」
「でも、その旧聖印具は破損していて、持ち出し禁止だった」
マリエッタが記録を確認しながら続ける。
「にもかかわらず、欠片は香炉に仕込まれ、大きな本体らしきものは管理官の保管棚から消えた」
「そして管理官本人も消えた」
イザベラが肩をすくめる。
「綺麗に並べると、ずいぶん嫌な絵になるわね」
フィリアは手帳を開いた。
今日は何度も開いているせいで、表紙の端が少し柔らかくなっている。そこに、自分の字で出来事を書いていく。
――リュシエンヌ様は「真の白き聖女」という言葉を聞いていた。
――古い聖印具が力を高める、とバルナバス管理官が話した。
――白き聖女が目覚める前に、という紙片と繋がる可能性。
――目覚めるとは何か。
最後の一文で、筆が止まった。
「目覚めるって……どういうことなんでしょう」
フィリアがつぶやくと、セレスティアが静かに答えた。
「候補は複数あります。リュシエンヌ自身の力の覚醒。旧聖印具の再起動。あるいは、その二つを組み合わせた儀式」
「儀式……」
その響きに、フィリアの腰元の祈祷札がごくわずかに温かくなった。
反応というほどではない。
けれど、何かの言葉が触れたような感覚。
セレスティアはすぐに気づいた。
「反応しましたか」
「少しだけです。嫌な感じではありません。でも……儀式、という言葉に」
イザベラが目を細める。
「やっぱり、その線かもしれないわね」
「旧聖印具を使って、リュシエンヌ様を白き聖女として目覚めさせる儀式、ですか」
マリエッタの声には、隠しきれない不安があった。
「でも、そのためにフィリア様を沈める必要があるとしたら……」
言葉が止まる。
フィリアはその先を、胸の内で受け取った。
白き聖女を目覚めさせるために、灰の娘を沈める。
自分は、何かの対になる存在として扱われているのかもしれない。
白と灰。
光と濁り。
聖女と偽物。
また、誰かの作った物語に押し込められようとしている。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな怒りが灯った。
「……勝手です」
声がこぼれた。
全員の視線が、フィリアへ向く。
「わたしを灰の娘と呼んで、リュシエンヌ様を白き聖女と呼んで、目覚めるとか沈めるとか……勝手です」
言葉が震える。
でも止まらなかった。
「わたしたちは、儀式の道具じゃありません」
部屋が静かになる。
フィリアは、言ったあとで少し息を呑んだ。
怒りを口にするのは、まだ慣れない。
けれど、胸の奥は不思議と軽くなっていた。
セレスティアは、しばらくフィリアを見つめていた。
やがて、短く言う。
「その通りです」
それだけだった。
でも、その一言があるだけで、怒ってよかったのだと思えた。
イザベラも小さく笑う。
「いいわね。やっと腹が立ってきたじゃない」
「やっと、ですか」
「怒りは悪いものじゃないわ。自分の輪郭を守るためには必要な時もある」
フィリアは手帳の端を握った。
自分の輪郭。
境界線と似ている。
誰かが決めた白と灰に塗り潰されないための、線。
*
その日の夕方、リュシエンヌから二通目の手紙が届いた。
一通目とは違い、宛名はセレスティアではなかった。
フィリア・エルソンへ。
その文字を見た瞬間、フィリアの胸が少しだけ鳴った。
差出人は、リュシエンヌ・アルベール。
封蝋は大聖堂のものではなく、アルベール家の私的な紋章だった。白百合と細い月を組み合わせた印。大聖堂の権威ではなく、彼女個人として書いたものなのだろう。
フィリアは封書を手にしたまま、セレスティアを見た。
「開けても、いいでしょうか」
「まず外側を確認します」
セレスティアが受け取り、イザベラが簡易検査をする。香や呪的な仕掛けはない。ただの手紙だと判断されてから、ようやくフィリアの手元へ戻ってきた。
封を開ける指が少し震える。
中には、短い文章が書かれていた。
流れるような美しい筆跡。けれど、ところどころに迷ったような筆圧があった。
フィリアはゆっくり読み上げる。
「――今日、あなたの言葉を聞いて、私は初めて自分の白さが怖くなりました」
読みながら、胸がきゅっとなる。
「――私はずっと、白くあることが正しさだと思っていました。迷わず、揺れず、誰かを導く者であること。それが聖女なのだと」
部屋の中は静かだった。
「――けれど、もしその白さが、誰かの声を聞かないための布だったのなら。私は、あなたに何をしてしまったのか、まだうまく見られません」
フィリアの喉が少し詰まる。
続き。
「――香炉のこと、バルナバス管理官のこと、私は知っている限りを話します。ですが、その前に一つだけ伝えたいのです。あなたが今日、私に『苦しかった』と言ってくれたことを、私は忘れません」
最後の一文は、少し間を空けて書かれていた。
「――あなたを灰と呼ぶ者がいるなら、私はその言葉を信じません。けれど、私が白と呼ばれることも、今はまだ怖いのです」
読み終えたフィリアは、手紙を膝の上に置いた。
すぐには何も言えなかった。
リュシエンヌの完璧な微笑み。
白い法衣。
揺らがない声。
その裏に、こんな言葉を書く人がいた。
胸の中に、また複雑な感情が広がる。
苦しい。
でも、少しだけ温かい。
マリエッタが静かに言った。
「……彼女自身も、揺れ始めていますね」
イザベラは腕を組む。
「香炉の影響が抜けたからか、フィリアに言われたからか。たぶん両方ね」
セレスティアは黙って手紙を見ていた。
フィリアは顔を上げる。
「返事を、書いてもいいですか」
「今すぐですか」
「はい」
「疲れていませんか」
「少し。でも、今書きたいです」
セレスティアはフィリアの顔をしばらく見ていた。
そして、静かに頷く。
「わかりました。ただし、書く前に深呼吸を」
「はい」
その確認が少しおかしくて、フィリアは小さく笑った。
紙と筆を用意してもらい、フィリアは机に向かった。
返事は、長くは書けなかった。
言葉を選びすぎると、かえって嘘のようになりそうだったからだ。
少し悩み、最初の一文を書いた。
リュシエンヌ様へ。
――今日のお手紙を読みました。
そこからしばらく筆が止まる。
セレスティアも、マリエッタも、イザベラも、誰も急かさなかった。
フィリアはゆっくりと続けた。
――わたしは、まだあなたを怖いと思っています。
――苦しかったことも、なかったことにはできません。
――でも、今日あなたがわたしの言葉を聞いてくださったことも、なかったことにはしません。
書きながら、胸の奥が少しずつ静かになっていく。
――白と灰という言葉で、わたしたちを決める人がいるなら、わたしもその言葉を信じたくありません。
――わたしはフィリア・エルソンです。
――あなたも、白き聖女という名前だけではないのだと思います。
最後に、少し迷ってから書いた。
――また話してください。今度は、香炉の香りのないところで。
それで筆を置いた。
読み返してみると、少し不格好な手紙だった。
綺麗な言い回しも、社交辞令もほとんどない。
でも、今の自分にはこれしか書けなかった。
「……変でしょうか」
不安になって尋ねると、セレスティアが静かに首を横へ振った。
「あなたの言葉です」
それ以上の評価はなかった。
けれどフィリアには、それが一番嬉しかった。
*
夜、フィリアは手帳に今日の出来事を書いた。
リュシエンヌの手紙。
自分の返事。
白と灰という呼び名への怒り。
儀式の可能性。
目覚める、沈める、という言葉の怖さ。
最後に、一行だけ加えた。
――わたしたちは、呼び名ではない。
その文字を見つめていると、胸の奥に小さな熱が灯った。
それは怒りにも似ている。
でも、怒りだけではない。
自分の名前を取り戻そうとする力だ。
フィリアは窓の外を見た。
王都の夜は静かだった。
けれど、その地下で何かが動いている気配は消えない。
バルナバスの行方も、旧聖印具の本体も、まだわからない。
それでも、今日ひとつだけ変わったことがある。
白き聖女と灰の娘。
誰かがそう呼んだ二人は、呼び名の外で言葉を交わし始めた。
それがどんな結果になるのかは、まだわからない。
けれどフィリアは、手帳を閉じながら思った。
沈まない。
沈めさせない。
そして、誰かを白い像の中へ閉じ込めもしない。
明日は、また少し前へ進める気がした。




