第33話 白き聖女との対話
翌朝の屋敷は、いつもより静かだった。
騎士たちの足音も、使用人たちの気配もある。けれど誰も大きな声を出さない。まるで、今日この屋敷で行われる対話の重さを、建物全体が知っているようだった。
フィリアは客間の鏡の前に立ち、薄青灰色の服の襟元を整えていた。
大聖堂へ行くわけではない。
処刑台へ引き戻されるわけでもない。
ここは近衛の屋敷で、セレスティアの管理下にある場所だ。
それでも、胸は静かに緊張していた。
リュシエンヌが来る。
筆頭聖女候補。
王都が愛する白き聖女。
かつてフィリアへ優しく微笑み、その後、何も言えない場所へ追いやった人。
そして、香炉の影響を受けていたかもしれない人。
フィリアは深く息を吸う。
怒っている。
怖い。
けれど、知りたい。
その三つが胸の中で絡まり合っていた。
机の上には手帳が置いてある。昨夜書いた一文が、まだ目に残っていた。
――灰の娘と呼ばれても、わたしはフィリア・エルソン。
フィリアは手帳を閉じ、そっと鞄に入れた。今日の対話で何かを感じたら、また書き留めるつもりだった。誰かに奪われる前に、自分の言葉として残すために。
扉が叩かれる。
「フィリア」
セレスティアの声だ。
「はい」
扉を開けると、そこには黒の近衛礼装に身を包んだセレスティアが立っていた。大聖堂へ行った時と同じ、隙のない姿だ。ただし今日は、敵地へ乗り込むためではなく、この屋敷に相手を迎えるための装いだった。
「体調は」
「大丈夫です」
「祈祷札は」
「少しだけ温かいです。でも、嫌な感じではありません」
「緊張の反応かもしれませんね」
「たぶん」
フィリアがそう答えると、セレスティアはわずかに眉を上げた。
「たぶん、ですか」
「あ……いえ。今のは、本当にたぶんです。体調のことではなくて」
「ならいい」
いつもの確認。
そのやりとりだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
セレスティアはフィリアの顔を見て、静かに言う。
「もう一度だけ確認します。会話の途中で嫌になったら、合図を」
「はい」
「言葉にできなければ、手を上げるだけでいい」
「はい」
「リュシエンヌの問いに、すべて答える必要はありません」
「わかっています」
フィリアは頷いた。
「でも、今日は聞きたいことがあります」
「ええ」
「だから、途中で怖くなっても……すぐには逃げないかもしれません」
セレスティアの目が少しだけ細くなる。
「怖いまま続けることと、無理をすることは違います」
「はい。無理になったら、言います」
「約束です」
「約束します」
その言葉を交わしてから、二人は談話室へ向かった。
*
リュシエンヌが屋敷へ到着したのは、午前の鐘が二つ鳴った少し後だった。
彼女は今日も白い法衣を着ていた。けれど以前より、どこか印象が違う。髪も服も整っている。微笑みもある。だが、あの甘く包み込むような香りは、ほとんどしなかった。
代わりに、彼女自身の緊張が見えた。
ほんのわずかに硬い指先。
口元へ浮かべた微笑みの遅れ。
目の下の、ごく薄い影。
完璧な白さに、小さなひびが入っているように見えた。
談話室には、セレスティア、フィリア、マリエッタ、イザベラがいた。リュシエンヌ側の従者は別室で待機させられている。リュシエンヌはその条件を受け入れた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
リュシエンヌは静かに一礼した。
セレスティアが答える。
「こちらが指定した条件に応じたことは確認しました」
「信用がありませんのね」
「状況が状況ですので」
「もっともです」
リュシエンヌはそう言って、席へ着いた。
以前なら、この時点で彼女は場の空気を自分のものにしていただろう。優しい声、完璧な所作、甘い香り。すべてを使って、相手を柔らかく包み込んでいた。
けれど今日は違う。
香炉がない。
それだけで、リュシエンヌの存在感はまだ美しいままだが、どこか生身に近く見えた。
フィリアはその事実に、静かに息を呑む。
リュシエンヌも人なのだ。
当たり前のことなのに、今まで見えていなかった。
最初に口を開いたのは、リュシエンヌだった。
「香炉の件について、説明を聞かせていただきたいのです」
セレスティアが短く答える。
「香炉の底部から、旧聖印具由来と思われる欠片が発見されました。誘導香の媒介として使用された可能性があります」
リュシエンヌの表情が、ほんの少し固まった。
「誘導香……」
イザベラが腕を組む。
「ざっくり言えば、嗅いだ相手の疑念を鈍らせる香よ。強い洗脳じゃない。けど、長く使えば判断に影響する」
「……その香炉は、私の控え礼拝室にありました」
「ええ」
「では、私はそれを、毎日吸っていたことになりますわね」
リュシエンヌの声は静かだった。
だが、その奥に小さな震えがあった。
フィリアはそれに気づいた。
リュシエンヌは恐れている。
自分が何をしていたのか。
自分の判断がどこまで自分のものだったのか。
それを、今になって恐れている。
セレスティアは感情を挟まず続けた。
「現段階では、あなたが香炉の性質を知っていたかどうかは不明です」
「知らなかった、と言えば信じますか」
「証拠次第です」
「……でしょうね」
リュシエンヌは小さく笑った。
その笑みは、以前のような完璧な微笑みではなかった。少し疲れていて、少し自嘲が混じっていた。
「私は、あの香炉を聖具管理官から受け取りました。古い聖具ですが、祈りの集中を助けると説明されました。控え礼拝室で使えば、儀式前の心が整うと」
「誰から」
「バルナバス管理官です」
部屋の空気が少し締まる。
リュシエンヌは続けた。
「私は疑いませんでした。疑う理由がなかった。大聖堂の聖具管理官が、筆頭聖女候補へ渡す香炉ですもの」
「香りに違和感は?」
イザベラが尋ねる。
「ありました」
リュシエンヌはあっさり認めた。
フィリアは少し驚く。
彼女は膝の上で指を重ね、静かに言った。
「甘すぎると思いました。でも、不快ではなかった。むしろ、あの香りを嗅ぐと、迷いが薄れる気がしました」
「迷い?」
「ええ。聖女としてどう振る舞うべきか。何を選ぶべきか。誰を導くべきか。そういう迷いが、静かに沈むのです」
沈む。
その言葉に、フィリアの胸が小さく反応した。
リュシエンヌは顔を伏せたまま続ける。
「私は、それを良いことだと思っていました。聖女は迷ってはいけないと教えられてきましたから」
その言葉は、思っていたよりも重かった。
聖女は迷ってはいけない。
フィリアは初めて、リュシエンヌの白さの奥にあるものを見た気がした。
完璧であれ。
清らかであれ。
迷わず、微笑み、正しさを示せ。
彼女もまた、その型に押し込められていたのかもしれない。
フィリアの胸に、複雑な感情が広がる。
だからといって、自分が傷つけられた事実は消えない。
けれど、リュシエンヌがただの加害者として立っているわけでもない。
灰色。
そう思った。
リュシエンヌは顔を上げ、まっすぐフィリアを見た。
「フィリア」
名前を呼ばれて、フィリアの背筋が伸びる。
「私は、あなたに聞きたいことがあります」
「……はい」
「あなたは、あの香りをどう感じましたか」
フィリアはすぐには答えなかった。
セレスティアの教え通り、間を取る。
自分の言葉を探す。
「柔らかい香りでした」
ゆっくりと口にする。
「甘くて、清らかに感じるのに……嗅いでいると、考えるのをやめたくなりました」
リュシエンヌの瞳が揺れる。
「あなたも?」
「はい」
「いつから?」
「候補生の頃から、たぶん。リュシエンヌ様の近くにいると、そういう香りがしていました」
リュシエンヌの顔から、少しずつ血の気が引いた。
その反応は、演技には見えなかった。
「……そう」
彼女は小さく呟いた。
「私は、ずっとそれをまとっていたのね」
部屋の中が静かになる。
マリエッタが筆を止めずに記録を続けている音だけが、かすかに聞こえた。
リュシエンヌはフィリアから目を逸らさなかった。
「私の言葉も、あなたを縛っていた?」
その問いに、フィリアの胸が痛んだ。
ここで優しく曖昧にすれば、楽かもしれない。
いいえ、香りだけのせいです。リュシエンヌ様は悪くありません。
そう言えば、この場は少し柔らかくなるかもしれない。
でも、それは違う。
フィリアは息を吸った。
「縛られました」
声は震えた。
でも、引っ込めなかった。
「香りのせいだけではないと思います。リュシエンヌ様の言葉も、表情も、立場も……全部が、わたしには強すぎました」
リュシエンヌの唇がかすかに動く。
フィリアは膝の上で手を握りながら続けた。
「最初は優しくしてくださったと思います。でも、儀式でわたしがうまくできなかったあと、リュシエンヌ様の優しさは、わたしを安心させるものではなくなりました」
「……」
「わたしを、間違った場所にいる子として見ているように感じました。哀れんでいるようで、でも、こちらの言葉は聞いてもらえないような」
言いながら、胸が熱くなる。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからない。
「だから、怖かったです」
最後は、小さな声だった。
リュシエンヌは何も言わなかった。
完璧な微笑みは、もうない。
そこにいるのは、美しいが、どこか途方に暮れた一人の女性だった。
「……私は」
リュシエンヌはゆっくりと言葉を出す。
「あなたを、導くべきだと思っていました」
フィリアは黙って聞いた。
「地方から来て、力の扱いも知らず、王都の礼儀もわからない。傷つきやすくて、いつも不安そうで……だから、私が正しい場所へ導いてあげなければと」
その言い方に、フィリアの胸が少し痛む。
悪意だけではない。
むしろ、彼女の中では善意だったのだろう。
でも、それでも苦しかった。
「私は、それが優しさだと思っていました」
リュシエンヌの声がかすかに掠れる。
「違ったのね」
フィリアはすぐには答えられなかった。
違った。
でも、それだけで切り捨てるには、リュシエンヌの顔はあまりにも痛そうだった。
セレスティアは何も言わない。
イザベラも口を挟まない。
この問いには、フィリアが答えるべきだとわかっているのだろう。
「……たぶん」
フィリアは言葉を選ぶ。
「優しさだった部分も、あったと思います」
リュシエンヌの目がわずかに上がる。
「でも、わたしにとっては、苦しかったです」
フィリアは自分の胸に手を当てた。
「わたしの言葉より、リュシエンヌ様の正しさの方がいつも先にあるように感じたから」
リュシエンヌは目を閉じた。
その横顔は、白き聖女というより、初めて自分の白さを疑った人の顔だった。
「そう……」
彼女は小さく息を吐く。
「私は、あなたを見ているつもりで、自分の正しさを見ていたのね」
フィリアはその言葉に、胸の奥がじんとした。
リュシエンヌは、逃げなかった。
少なくとも今、この瞬間は。
それが、フィリアにはわかった。
けれどセレスティアの声が、現実へ戻すように落ちた。
「香炉とバルナバス管理官について、知っていることをすべて話してください」
リュシエンヌは目を開けた。
「もちろんです」
その声には、さきほどまでとは違う硬さがあった。
「バルナバス管理官とは、香炉の受け渡し以外でも何度か会っています。彼は、私に“真の白き聖女”になる日が近いと言っていました」
「真の白き聖女」
イザベラが低く繰り返す。
「ええ。古い聖印具が、私の力をさらに高めるだろうと」
フィリアの祈祷札が熱を持つ。
セレスティアの目が鋭くなる。
「古い聖印具について、具体的に何を?」
「詳しくは知らされていません。ただ、大聖堂の地下には、かつて王都を守った聖印具が眠っていると。今は破損しているけれど、正しい聖女が触れれば再び目覚める、と」
「それが、白き聖女が目覚める、という言葉に繋がるのね」
イザベラの声が低い。
リュシエンヌは眉を寄せた。
「その言葉を、どこで?」
セレスティアは机の上に、黒い紙片の写しを置いた。
リュシエンヌがそれを読む。
その顔が、はっきりと強張った。
「……灰の娘を沈めよ」
かすれた声。
「これは、何ですか」
「バルナバスの執務室から発見されました」
「私ではありません」
即座の否定だった。
その速さに、フィリアは息を呑む。
リュシエンヌはセレスティアではなく、フィリアを見た。
「フィリア。これは、私ではありません」
その声には、初めてはっきりとした焦りがあった。
フィリアはリュシエンヌを見つめる。
嘘かもしれない。
本当かもしれない。
まだわからない。
けれど、少なくとも今のリュシエンヌは、フィリアを“導くべき弱い子”としてではなく、自分の言葉を届けなければならない相手として見ている。
それは、以前とは違った。
「……今は、断定しません」
フィリアは静かに答えた。
「でも、聞きました」
リュシエンヌの瞳が揺れた。
「あなたの言葉として、聞きました」
その瞬間、リュシエンヌの表情が崩れた。
ほんの少しだけ。
泣くわけではない。
けれど、ずっと張っていた白い仮面が、確かに割れたように見えた。
「ありがとう」
小さな声だった。
完璧な聖女の声ではない。
一人の人の声だった。
*
リュシエンヌが帰ったあと、談話室には深い静けさが残った。
フィリアは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
疲れた。
けれど、嫌な疲れではない。
胸の奥に長く絡まっていた糸が、少しだけほどけたような疲れだった。
「よく言えました」
セレスティアが言った。
フィリアはゆっくり顔を上げる。
「怖かったです」
「ええ」
「でも、言えてよかったです」
「そうですね」
短い返事。
けれど温かかった。
イザベラが肩を回しながら言う。
「白き聖女様、思ったより揺れてたわね」
「香炉の影響が抜け始めているのかもしれません」
マリエッタが記録を整理する。
「ただ、彼女が完全に無関係かはまだわかりません」
「もちろんよ。けど、少なくとも駒の一つではありそうね」
駒。
その言葉は冷たい。
けれど、リュシエンヌを見たあとでは、完全には否定できなかった。
フィリアは手帳を開く。
そして、今日の対話を書き始めた。
――リュシエンヌ様は、香炉を知らなかったと言った。
――迷いが薄れる香りを、良いものだと思っていた。
――わたしを導くべきだと思っていた。
――優しさだった部分もある。でも苦しかった。
――彼女は「灰の娘を沈めよ」は自分ではないと言った。
――今は断定しない。でも、言葉として聞いた。
そこまで書いて、フィリアは筆を止めた。
「……白き聖女も、人でした」
ぽつりとこぼす。
セレスティアが静かにこちらを見る。
「ええ」
「それが、少し怖くて……少し、ほっとしました」
「両方あっていい」
その言葉に、フィリアは小さく頷いた。
白き聖女。
灰の娘。
誰かが決めた呼び名の中に、二人を閉じ込めることはできない。
リュシエンヌにも白以外の色がある。
フィリアにも灰色以外の色がある。
それを知ったことは、きっと小さくない。




