第35話 水路に残る甘さ
翌朝、フィリアの返事は、リュシエンヌのもとへ届けられた。
封をしたあとも、しばらく胸が落ち着かなかった。
あれでよかったのだろうか。
言いすぎただろうか。
逆に、肝心なことを言い足りなかったのではないか。
そんな考えが何度も浮かんだが、そのたびにセレスティアの言葉を思い出した。
――あなたの言葉です。
綺麗ではなくてもいい。
正しく整っていなくてもいい。
誰かに見せるための白い言葉ではなく、自分の胸から出た言葉なら、それでいい。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
だが、穏やかな時間は長く続かなかった。
朝食が終わる頃、近衛騎士の一人が書斎へ急ぎ足でやってきた。
「副団長。水路側の追跡班から報告です」
セレスティアは茶器を置き、すぐに顔を上げた。
「入りなさい」
騎士は一礼し、机の前へ進む。
靴には泥がつき、外套の裾も湿っていた。昨夜からそのまま動いていたのかもしれない。顔には疲労が見えるが、声ははっきりしていた。
「西水路の第三排水口付近で、黒煙と同系統の残留を確認しました。さらに、古い荷車の車輪跡と血痕らしきものが少量」
「バルナバスか、刺客か」
「判別はまだ。ただ、現場近くで焦げた香袋が見つかりました」
その言葉に、フィリアの腰元の祈祷札がかすかに熱を持った。
思わず手を当てる。
セレスティアはすぐに気づいた。
「反応ですか」
「少しだけです。香袋、という言葉に」
イザベラが、朝から居座っていた椅子の上で目を細める。いつの間にか完全に屋敷の一員みたいになっているのが、少し不思議だった。
「現物は?」
「封印して持ち帰りました。現在、外の保管室に」
「見に行きましょう」
イザベラが立ち上がる。
セレスティアは一瞬、フィリアを見た。
「あなたは――」
「行きます」
言ってから、フィリアは急いで付け足した。
「近づきすぎません。嫌になったら言います。約束は守ります」
セレスティアは少しだけ黙った。
その沈黙は、もう以前のように怖くない。判断している沈黙だとわかる。
「……わかりました。ただし、保管室の入口までです」
「はい」
「反応が強ければ、そこで止めます」
「はい」
マリエッタが記録用の手帳を手に取る。
「では、わたしも参ります。今日は水路関連ですね」
「ええ」
セレスティアの声が少し低くなる。
「おそらく、地下と繋がります」
*
保管室は屋敷の北側、外壁に近い場所にあった。
普段は押収品や危険物を一時的に保管する部屋らしく、扉には厚い鉄板が打たれ、封印用の溝が刻まれている。中へ入る前から、空気が少し乾いていた。
フィリアは扉の前で足を止める。
腰元の祈祷札が、じわりと温かい。
嫌な感じはある。
だが、刺客の刃ほど鋭くはない。
香炉ほど甘くもない。
もっと薄く、湿っている。
「……水に濡れた香りです」
フィリアは小さく言った。
セレスティアが振り返る。
「香り?」
「はい。甘さはあります。でも、大聖堂の香炉よりずっと薄くて……水路の匂いに混じっている感じです」
イザベラが鼻を動かした。
「私は何も匂わないわね。まあ、封印布越しだし」
「たぶん、匂いというより気配です」
「でしょうね。続けて」
イザベラに促され、フィリアは目を閉じた。
湿った石。
古い水。
薄く溶けた甘い香。
そこへ、鉄のようなものが少し混じっている。
「血の気配も、少し」
騎士が顔を上げた。
「現場にも血痕がありました」
セレスティアの目が鋭くなる。
「量は」
「少量です。致命傷ほどではありません」
「刺客の負傷と一致する可能性がありますね」
マリエッタが記録する。
イザベラは保管室の中へ入り、封印された小箱を持ち出した。卓の上に置き、銀糸の封を確かめる。
「開けるわよ。フィリア、距離はそのまま」
「はい」
小箱の蓋が開く。
中には、黒く焦げた布袋のようなものが入っていた。掌に収まるほどの大きさで、紐は半分焼け切れている。中身はすでに湿って固まっているらしく、形が崩れていた。
蓋が開いた瞬間、フィリアの喉の奥が少し詰まった。
甘い。
でも、腐っている。
香炉の香りを水に沈め、泥と血を混ぜたような気配だった。
「……同じです」
フィリアは口元を押さえた。
「香炉と同じ系統です。でも、使い方が違う。これは……隠すため?」
「隠す?」
セレスティアが聞き返す。
「はい。気配を薄めるために、水路で焚いた……いえ、撒いたのかもしれません。香りでぼかして、追えないように」
イザベラが袋の中を銀の棒で探る。
「正解に近いわね。これは携帯用の香袋。焚くというより、潰して中身を広げるタイプよ。水気と反応して香が散るようにしてある」
「逃走用ですか」
「ええ。足跡も血の匂いも、呪的な追跡もぼかすためのもの」
フィリアは胸が冷えるのを感じた。
つまり、逃げた者は準備していた。
水路へ入ることも、追跡を受けることも、最初から想定していたのだ。
「バルナバスさんは、自分でこれを用意したのでしょうか」
フィリアが言うと、セレスティアは低く答えた。
「彼にそこまでの呪的知識があったかは不明です」
「誰かが渡した?」
「その可能性が高い」
イザベラが香袋を再び封じる。
「水路、地下聖具庫、旧聖印具、誘導香。全部が同じ系統の技術で繋がってる。単独犯じゃないわ」
単独犯ではない。
その言葉が、保管室の冷たい空気の中で重く落ちた。
マリエッタが記録を見ながら言う。
「組織、あるいは大聖堂内部の一派でしょうか」
「一派、というほど表に見える形ではないでしょうね」
セレスティアの声は硬い。
「隠れて動く者がいる。大聖堂の権限と保管物を利用でき、水路にも逃走経路を持つ者たちが」
フィリアは指先を握った。
見えない網。
昨日、自分がそう感じたもの。
その網の形が、少しずつ濃くなっていく。
「フィリア」
セレスティアが呼ぶ。
「はい」
「これ以上見ますか」
フィリアは自分の身体へ意識を向けた。
胸は少し重い。
鼻の奥に嫌な甘さが残っている。
けれど、まだ耐えられないほどではない。
しかし、約束を思い出す。
限界の手前で止まる。
「……今日は、ここまでにします」
そう言うと、セレスティアの目元が少しだけ和らいだ。
「良い判断です」
その一言で、フィリアは少し誇らしくなった。
*
昼過ぎ、水路周辺の地図が書斎へ広げられた。
王都の水路は複雑だった。大通りの下を流れる整備水路、古い排水路、今は使われていない地下水道、貴族街の雨水路、そして大聖堂の地下と繋がる古い排水口。
フィリアは図面を見て、思わず眉を寄せた。
「こんなにあるんですか」
「王都は古い街ですから」
マリエッタが説明する。
「表の道より、地下の方が昔のまま残っていることも多いんです」
「地下……」
その言葉に、祈祷札がかすかに熱を持つ。
セレスティアが図面の一部を指で押さえた。
「ここが昨日の刺客の痕跡が途切れた場所。そしてこちらが、バルナバスの荷車が消えたと推定される水路付近」
二つの地点は、離れているようで、地下水路の線で繋がっていた。
「同じ水路網ですね」
マリエッタが言う。
「ええ。さらに、その上流側に大聖堂の古い地下排水口があります」
フィリアは図面の線を目で追った。
大聖堂。
地下聖具庫。
水路。
逃走地点。
繋がっている。
見えないと思っていた網が、地図の上に線として現れていた。
「地下聖具庫から、水路へ出られるんですか」
「公式には封鎖されています」
セレスティアが答える。
「公式には」
「はい」
その一言で十分だった。
公式に封鎖されている場所ほど、実際には誰かが使っていることがある。フィリアもここ数日の出来事で、それくらいはわかるようになっていた。
イザベラが図面を覗き込みながら言う。
「地下聖具庫の奥に、古い浄化排水路があったはずよ。昔の儀式で使った水や香灰を流すためのもの。今は閉じられてるはずだけど」
「閉じられている“はず”が多すぎますね」
マリエッタが静かに言う。
「まったくね」
イザベラは肩をすくめた。
セレスティアは地図を見つめ、しばらく考え込んだ。
その横顔を見て、フィリアは胸が少しざわつく。
この人は今、地下へ行くことを考えている。
それがわかってしまった。
「地下水路へ入るんですか」
フィリアが尋ねると、セレスティアはゆっくり顔を上げた。
「調査隊を出します」
「セレスティアさまも?」
「必要なら」
その答えに、フィリアの胸がひやりとした。
地下。
穢れ。
水路。
刺客。
旧聖印具。
危険なものばかりだ。
「……危ないです」
「ええ」
「ええ、じゃなくて」
思わず強く言ってしまい、フィリアは自分で驚いた。
セレスティアも、少しだけ目を瞬かせる。
マリエッタが小さく咳払いをした。笑いをこらえているようにも見えたが、今はそれどころではない。
フィリアは手を握りしめた。
「危ないとわかっていて行くなら、ちゃんと準備してください。休んでからにしてください。ひとりで行かないでください」
言葉が次々に出た。
「それから、わたしに黙って行かないでください」
最後の一文を言った瞬間、書斎が静かになった。
セレスティアはフィリアを見ていた。
怒ってはいない。
驚いているようでもあり、どこか困ったようでもあった。
「……黙って行くとは言っていません」
「言わなくても、行きそうです」
フィリアはすぐ返した。
イザベラがついに吹き出した。
「言われてるわよ、副団長」
「イザベラ」
「でも否定できないでしょう?」
セレスティアは少しだけ沈黙した。
否定しないのが答えだった。
フィリアは胸がぎゅっとなる。
「わたしは、セレスティアさまが傷つくのを見ているだけなのは嫌だと言いました」
「覚えています」
「なら、黙っていなくならないでください」
声が少し震えた。
刺客の夜、黒い糸がセレスティアの剣を伝おうとした瞬間を思い出す。
あの時の恐怖は、まだ体に残っている。
セレスティアはしばらくフィリアを見つめ、それから静かに言った。
「わかりました」
あまりに素直な返答に、フィリアは逆に言葉を失った。
「地下水路へ向かう場合、事前に伝えます。単独では行かない。準備と休息も取る」
セレスティアは一つずつ、確認するように言葉を置いた。
「これでいいですか」
フィリアは目元が熱くなるのを感じた。
「……はい」
「約束します」
その言葉に、胸の奥がほどける。
自分の不安を、子どもっぽいと退けられなかった。
必要ないと切り捨てられなかった。
この人は、約束として受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「でも、ありがとうございます」
そう言うと、セレスティアは少しだけ困ったように目を伏せた。
*
夕方、リュシエンヌから返事が届いた。
昨日フィリアが送った手紙への返書だった。
今回は短かった。
――あなたの言葉を読みました。
――香炉のない部屋で、もう一度話したいと、私も思っています。
――私はまだ、自分の白さをどう扱えばいいのかわかりません。けれど、あなたを灰と呼ぶ言葉に従いたくないことだけは、今はわかります。
――水路の件、バルナバス管理官について、思い出したことがあります。明日、直接伝えに参ります。
読み終えたフィリアは、しばらく手紙を見つめた。
「思い出したこと……」
セレスティアの目が鋭くなる。
「重要かもしれません」
イザベラが頷いた。
「香炉の影響が抜けて、記憶の曇りが薄れ始めた可能性もあるわ」
フィリアはリュシエンヌの文字を指でなぞった。
筆跡はまだ美しい。
けれど昨日より、少しだけ人の手の揺れがあるように見えた。
白に混じる影。
それは怖いものだけではないのかもしれない。
影があるから、人の形が見えることもある。
フィリアは手帳を開き、今日の最後に書いた。
――水路に甘い香り。
――地下は繋がっている。
――セレスティアさまは、黙って行かないと約束してくれた。
――リュシエンヌ様が思い出したこと。明日聞く。
そこまで書いて、少し迷い、もう一行足した。
――怖い。でも、もう誰かだけを先に行かせたくない。
筆を置くと、胸の奥に静かな熱が残った。
王都の地下で何が待っているのか、まだわからない。
けれど、フィリアはもう、ただ待つだけの娘ではなかった。




