第30話 聖具管理官の証言
翌朝、近衛の屋敷へ一人の男が連れてこられた。
聖具管理官エルネスト・バルテ。
大聖堂で長く聖具の保管と点検を任されてきた男だという。年は五十に届くかどうか。痩せた肩に地味な灰色の外套をまとい、白髪の混じった髪をきちんと撫でつけていた。
彼は罪人として縄をかけられていたわけではない。
けれど、二人の近衛騎士に挟まれて屋敷へ入ってきた姿は、どう見ても任意の聞き取りに来た者の顔ではなかった。
怯えている。
フィリアには、遠目にもそれがわかった。
怒りや悪意ではない。
追いつめられ、どうすればいいかわからなくなっている人の気配。
灰色。
そう思った瞬間、腰に結んだ祈祷札がかすかに温かくなった。
「反応しましたか」
隣に立つセレスティアが、すぐに問う。
「少しだけです」
フィリアは小さく答えた。
「でも、嫌な感じとは少し違います。疲れている……というか、怖がっている感じがします」
「本人の状態に反応している可能性がありますね」
セレスティアは短く頷き、視線をエルネストへ戻した。
聞き取りは応接間ではなく、小さな会議室で行われることになった。広すぎず、逃げ場も少ないが、威圧的すぎるほどではない部屋だ。机を挟み、片側にセレスティア、イザベラ、記録役のマリエッタ。少し離れた位置にフィリア。向かいにエルネスト。
フィリアが同席することを聞かされたとき、エルネストはあからさまに顔色を変えた。
それは嫌悪というより、恐怖だった。
「な、なぜ、この娘が……」
声が震えている。
セレスティアが冷静に答える。
「彼女は香炉の異常を見つけた参考人です」
「しかし、フィリア・エルソンは……」
偽聖女。
そう続けようとしたのだろう。
けれど、セレスティアの視線を受けて、エルネストは言葉を飲み込んだ。
「……失礼しました」
フィリアは膝の上で手を握った。
まだ痛む。
そういう目を向けられると、胸の奥は少し痛む。
けれど、以前のように崩れはしなかった。
自分はもう、あの言葉だけで全部を決められる存在ではない。
「始めます」
セレスティアが告げた。
「エルネスト・バルテ。あなたは筆頭聖女候補リュシエンヌ・アルベールの控え礼拝室へ運ばれた銀香炉の管理に関わりましたね」
「……はい」
「その香炉は地下聖具庫から出された」
「はい。古い聖具でしたが、修復すれば使用可能と判断されました」
「誰が判断しましたか」
エルネストは一瞬だけ視線を泳がせた。
「わ、私です」
嘘だ。
フィリアはそう思った。
根拠があったわけではない。
ただ、エルネストの周囲の空気が、その瞬間だけ濁った。黒くなるほどではない。けれど灰色の水に墨が一滴落ちたような、わずかな濁り。
フィリアが息を呑むと、セレスティアが視線だけでこちらを見た。
フィリアは小さく首を横に振る。
まだ断言できない。
けれど、違和感はある。
セレスティアはエルネストへ向き直った。
「あなたの判断で、筆頭聖女候補の礼拝室へ?」
「……はい」
「大聖堂の正式回答には、旧聖印具の破片について記載がありませんでした」
エルネストの肩がぴくりと跳ねた。
部屋の空気が変わる。
イザベラが腕を組み、低く言った。
「香炉の底から出たわよ。隠す場所としては悪くなかったけど、甘かったわね」
「そ、そんな……私は……」
「知らないと言うつもり?」
イザベラの声は鋭い。
エルネストは口を開き、閉じた。額に汗が滲んでいる。
フィリアはその様子を見ながら、胸が重くなるのを感じた。
この人は、黒ではない。
けれど、何かを隠している。
灰色。
怖くて、疲れていて、でも黙っている。
セレスティアは声を荒らげなかった。
「エルネスト。あなたをここへ呼んだのは、断罪するためではありません。事実を確認するためです」
「……」
「ただし、虚偽があれば話は変わります」
静かな声だった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
エルネストはしばらく俯いていた。
やがて、掠れた声で言う。
「……私の判断ではありません」
マリエッタの筆が紙を走る音だけが響いた。
「誰の判断ですか」
セレスティアが問う。
エルネストは唇を震わせた。
「副大司教ガルディス様です」
その名を聞いた瞬間、イザベラが小さく舌打ちした。
「出たわね」
セレスティアの表情は変わらない。
「続けてください」
「香炉は、地下聖具庫に長く置かれていました。もともとは百年以上前の礼拝具です。香の乗りが良く、祝福儀式に向くと……そう言われました」
「言われた?」
「はい。副大司教様から、筆頭聖女候補の祈祷環境を整えるために修復せよと」
「旧聖印具の破片は?」
エルネストの顔色がさらに悪くなる。
「あれは……聖性安定片だと説明を受けました」
「聖性安定片?」
フィリアは思わず聞き返していた。
エルネストは初めて、まともにフィリアの方を見た。怯えと困惑の入り混じった目だった。
「古い聖具の力を安定させるために使う、と……そう聞きました。破損した聖印具の一部だが、まだ聖性が残っている。香炉に仕込めば、焚く香が清らかに整うと」
清らかに整う。
その言葉が、フィリアの胸に嫌な形で落ちた。
リュシエンヌの香り。
清らかすぎる白。
考えることをやめたくなる甘さ。
セレスティアが低く言う。
「その破片が香の性質を変えることは、知っていましたか」
「まさか……私は、本当に、聖性を安定させるためだと」
「修復担当者が体調不良を訴えています」
「知っています」
エルネストの声が細くなった。
「ですが、副大司教様は、古い聖具にはよくある反応だと。浄化が進めば落ち着くとおっしゃった」
「あなたはそれを信じた」
「……信じたかったのです」
部屋が静まり返った。
エルネストは両手を膝の上で握りしめていた。指の関節が白くなっている。
「私は、大聖堂に三十年仕えてきました。聖具を磨き、記録し、祭壇を整えてきた。副大司教様の命に疑問を持つことは……ありませんでした」
「なかったのではなく、持たなかったのでしょう」
セレスティアの言葉は厳しかった。
エルネストはうつむく。
「……その通りです」
フィリアはその横顔を見ていた。
この人は、たぶん悪人ではない。
でも、悪人ではないからといって、何もなかったことにはならない。
マリエッタが静かに尋ねる。
「リュシエンヌ様は、その破片のことをご存じでしたか」
エルネストは首を横へ振った。
「わかりません。私が直接説明したことはありません。香炉は副大司教様の側近を通して、控え礼拝室へ運ばれました」
「では、リュシエンヌ様本人が知っていたかは不明」
「はい」
フィリアは膝の上で手を握った。
また灰色が増える。
リュシエンヌが知っていたかどうかは、まだわからない。
香炉を仕込んだのは副大司教ガルディス。
聖具管理官は命令に従った。
修復職人は体調不良を訴えた。
香炉は筆頭聖女の部屋へ運ばれた。
ひとつの黒幕で片づく話ではない。
いくつもの小さな黙認と恐れと信頼が、積み重なっている。
「エルネストさん」
気づけば、フィリアは口を開いていた。
セレスティアがわずかにこちらを見る。
だが止めなかった。
エルネストはびくりと顔を上げる。
「……何でしょう」
「香炉を使う人が、どうなるかは考えませんでしたか」
責めたいわけではなかった。
ただ、聞きたかった。
エルネストは唇を噛んだ。
「……考えませんでした」
正直な答えだった。
「私は、聖具を整える者です。使う方々の祈りに口を出す立場ではないと、そう思っていました」
「でも、その聖具が人に影響するなら」
「はい」
エルネストの声が震えた。
「考えるべきでした」
フィリアの胸が少し痛んだ。
この人は今、初めて本当に自分のしたことを見ているのかもしれない。
「私も、考えなかったことがあります」
フィリアは静かに言った。
エルネストだけでなく、セレスティアたちもこちらを見る。
「大聖堂にいた頃、リュシエンヌ様の言葉が怖くても、それを自分が弱いからだと思っていました。香りが苦しくても、自分が慣れていないからだと思いました。……考えるのをやめていたのは、わたしも同じかもしれません」
「それはあなたの責任ではありません」
セレスティアの声が低く入った。
フィリアは小さく頷く。
「はい。今は、そう思えます。でも、だからこそ……考えるのをやめることが、どれだけ怖いか少しわかります」
エルネストの目が揺れた。
フィリアは続ける。
「だから、知っていることを全部話してください。誰かを罰するためだけではなくて、これ以上、誰かが考えるのをやめさせられないように」
自分でも、強い言葉を言ったと思った。
けれど声は震えなかった。
エルネストはしばらくフィリアを見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……わかりました」
そして彼は話し始めた。
香炉は一つではなかったこと。
古い聖具庫から、いくつかの礼拝具が「再利用」の名目で出されていたこと。
その一部は筆頭聖女候補の周辺へ、一部は大司教の儀式室へ、一部は王宮礼拝堂へ運ばれたこと。
旧聖印具の破片は、地下聖具庫の奥から小分けにされ、複数の聖具に仕込まれていた可能性があること。
話が進むたび、部屋の空気は重くなっていった。
イザベラの表情は険しく、マリエッタの筆もいつもより速く動いている。セレスティアは黙って聞いていたが、その沈黙がかえって鋭かった。
フィリアの祈祷札も、話の途中で何度か熱を持った。
特に「王宮礼拝堂」という言葉が出たときは、胸の奥がきゅっと締まった。
「王宮にも……」
小さく漏らすと、セレスティアが頷く。
「王家側にも波及しています」
「王太子殿下も、その香を……?」
「可能性はあります」
断定はしない。
けれど否定もできない。
王太子が処刑を急いだこと。
大聖堂の正しさを疑わなかったこと。
もし、そこにも何かの影響があったのなら。
いや、それでも。
フィリアは唇を結んだ。
影響があったかもしれない。
でも、彼が自分を処刑台へ送った事実は消えない。
また灰色。
世界は、思っていたよりずっと灰色ばかりだ。
*
聞き取りが終わったあと、エルネストは近衛の管理下で保護されることになった。
逮捕ではない。
ただし、自由に大聖堂へ戻すこともできない。
彼は部屋を出る前、フィリアへもう一度頭を下げた。
「フィリア様」
初めて、様がついた。
それだけで許す気にはならない。
でも、その変化を無視することもできなかった。
「あなたにしたことを、私は直接知りませんでした。ですが、知らないまま支えていたのだと思います」
エルネストの声は掠れていた。
「申し訳ありませんでした」
フィリアはすぐに「許します」とは言えなかった。
言うべきではないと思った。
だから、少し考えてから答えた。
「今は、受け取ります」
エルネストは小さく息を呑む。
「許すかどうかは、まだわかりません。でも、謝罪は受け取ります」
その言葉を聞いて、エルネストは深く頭を下げた。
彼が去ったあと、部屋にはしばらく沈黙が残った。
イザベラが最初に口を開く。
「ずいぶん難しい受け取り方を覚えたわね」
「変でしたか」
「いいえ。上等よ」
フィリアは少しだけ息を吐いた。
セレスティアが静かに言う。
「良い境界でした」
その一言に、フィリアの胸が温かくなる。
謝罪を受け取ることと、許すことは違う。
怒ることと、裁くことが違うように。
それもまた、線なのだ。
フィリアは手帳を開き、新しい一行を書いた。
――受け取ることと、許すことは違う。
書き終えると、指先が少し震えていた。
けれど、怖さだけではなかった。
自分は少しずつ、自分の心の置き場所を覚え始めている。
白い回廊で奪われた言葉を、ひとつずつ取り戻すように。




