第31話 消えた聖具管理官
聖具管理官バルナバスが消えた。
その報せが書斎にもたらされた瞬間、部屋の空気は、まるで冬の水を流し込まれたように冷たくなった。
逃げたのか。
消されたのか。
あるいは、最初から姿を消す予定だったのか。
フィリアには判断できない。けれど、ひとつだけわかることがあった。
香炉の底に隠された旧聖印具の欠片。
それを補強材として修復職人へ渡した人物。
その名前が出た途端に、本人が行方をくらました。
偶然で済ませるには、あまりにも出来すぎている。
セレスティアは若い騎士から報告を受けると、すぐに短く指示を出した。
「大聖堂の出入口を確認。正門、裏門、納品口、地下搬入口。昨日の夕刻以降の出入り記録をすべて押さえろ」
「はっ」
「バルナバスの私室と執務室は封鎖。大聖堂側には、近衛の立ち会いなく触れさせるな」
「承知しました」
若い騎士が駆け出す。
扉が閉まると、イザベラが腕を組んで低く言った。
「動きが早いわね。こちらが香炉の底を見つけることまで予想していたのかしら」
「あるいは、トマを呼んだ時点で察したのかもしれません」
マリエッタが記録紙をまとめながら答える。
「修復職人が近衛の屋敷へ呼ばれたことは、隠しきれませんから」
「でしょうね」
イザベラは舌打ちした。
「職人の方を先に押さえられただけ、まだましよ。あちらが先に口封じに動いていたら面倒だったわ」
口封じ。
その言葉に、フィリアの肩がわずかに強張った。
トマの、傷だらけの手を思い出す。
香炉を修復したことを悔やみ、震えていた職人の手。
あの人もまた、知らないうちに危ない場所へ立たされていたのだ。
「フィリア」
セレスティアの声で、意識が引き戻される。
「はい」
「あなたは屋敷で待機を」
予想していた言葉だった。
でも、胸の中に小さな抵抗が生まれる。
「大聖堂へ行くんですか」
「ええ。バルナバスの執務室を確認します」
「わたしは……」
言いかけて、セレスティアの視線が少し鋭くなった。
「昨夜の刺客、香炉、旧聖印具。まだ危険が読めません」
「はい」
「あなたを不用意に大聖堂へ戻す理由はありません」
正しい。
いつも通り、セレスティアの判断は正しい。
けれどフィリアは、そこで黙りたくなかった。
「でも、もしバルナバスさんの部屋に、香炉と同じ気配が残っていたら」
セレスティアは返事をしなかった。
フィリアは膝の上で手を握る。
「わたしなら、少しはわかるかもしれません。旧聖印具の欠片に反応した時と同じものがあるかどうか」
「危険です」
「わかっています」
「わかっているなら――」
「だから、一人では行きません。近づきすぎません。無理ならすぐに言います」
自分でも、声が震えているのがわかった。
怖くないわけではない。
大聖堂へ戻ることも、バルナバスという人物の痕跡に近づくことも、昨夜のような刺客がまた来るかもしれないことも、全部怖い。
それでも、ここで何も知らずに待つだけなのは、もっと苦しかった。
「守られるだけではなく、と言いました」
フィリアはセレスティアを見た。
「でも、勝手に無茶をするという意味ではありません。約束を守って、できることだけします」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
イザベラが面白そうに片眉を上げる。
「言うようになったじゃない」
「イザベラ」
セレスティアが低く制する。
「私は賛成とも反対とも言ってないわよ。ただ、今のこの子が“何も見ずに待ってろ”で納得するとは思えないってだけ」
マリエッタも静かに言った。
「副団長。フィリア様を連れて行くなら、こちらで条件を決められます。置いていって、万一屋敷側を狙われる方が厄介な可能性もあります」
「……」
セレスティアはすぐには頷かなかった。
その迷いが、フィリアには少し嬉しくもあった。
簡単に連れていくわけではない。
危険を見ないふりもしない。
本気で考えてくれている。
やがて、セレスティアは息を吐いた。
「条件を追加します」
「はい」
「大聖堂内では、私の指示に即座に従うこと。反応が強ければ退出。バルナバスの部屋には、扉の外から確認するところまで」
「はい」
「部屋に入るかどうかは、現地で私とイザベラが判断します」
「はい」
「そして、嫌だと思ったら言うこと」
最後の条件に、フィリアは静かに頷いた。
「言います」
「約束です」
「約束します」
セレスティアはそれでようやく小さく頷いた。
「では同行を許可します」
*
再び訪れた大聖堂は、昨日よりも空気が悪かった。
表の礼拝堂では、何事もなかったかのように祈りの声が響いている。けれど奥へ進むほど、人の気配が慌ただしく、視線も刺さるようになった。
バルナバスの失踪は、まだ公にはされていないらしい。
だが、内部ではすでに広まっているのだろう。
司祭たちは落ち着かず、修道女たちは目を伏せ、聖具係と思しき者たちは近衛の姿を見ると明らかに身を固くした。
フィリアはセレスティアの半歩後ろを歩いていた。
昨日の白い回廊より、今日はさらに深い場所へ向かっている。
候補生時代には絶対に入ることのなかった管理区画。
そこへ足を踏み入れるたび、腰の祈祷札がかすかに熱を持つ。
だが、昨日の香炉ほどではない。
古いものが多いのだ。
疲れているもの。
長く使われ、祈りと手垢を吸ったもの。
灰色の気配があちこちに沈んでいる。
「大丈夫ですか」
セレスティアが小さく問う。
「はい。少し重いですけど、嫌なものばかりではありません」
「嫌なものばかりではない」
「はい。古い感じです」
イザベラが後ろからぼそりと言う。
「大聖堂に聞かせてやりたいわね。古くて疲れてるって」
「イザベラ様」
マリエッタがたしなめるが、声には少し笑いが混じっていた。
その小さなやりとりで、フィリアの緊張が少しだけ緩む。
案内役の司祭が、重い扉の前で立ち止まった。
「こちらが、バルナバス管理官の執務室です」
扉にはすでに近衛の封鎖印が貼られている。セレスティアの部下が先に来て封鎖したのだろう。
フィリアは扉を見た瞬間、息を止めた。
嫌な感じがある。
強くはない。
けれど、香炉の底に沈んでいた濁りと似ている。
「……あります」
すぐに言う。
「扉の向こうです。甘くはありません。でも、同じ井戸の水みたいな……」
イザベラが真顔になる。
「同系統ね」
セレスティアは案内役の司祭へ目を向けた。
「鍵を」
「はい」
司祭は震える手で鍵束を取り出した。
扉が開く。
その瞬間、空気が流れ出した。
古い紙。
蝋。
銀磨きの薬品。
そして、その底に沈む、濁った香の残り香。
フィリアは一歩下がりそうになったが、踏みとどまった。
「入れますか」
セレスティアが問う。
「……扉のところなら」
「無理はしない」
「はい」
執務室は狭く、几帳面に整えられていた。
壁には聖具管理簿の棚。机の上には書類箱。窓際には小さな祈祷台。床には一枚の敷物があり、部屋の奥には施錠された保管棚がある。
整いすぎている。
フィリアはそう感じた。
まるで、誰かが急いで片づけたあとみたいだった。
生活の乱れがないのではなく、乱れを消したような部屋。
セレスティアも同じことを感じたのか、机の上を一瞥して言った。
「資料が少なすぎる」
マリエッタが棚を確認する。
「管理簿はありますが、直近の数冊だけ抜けています」
「逃走前に持ち出したか」
イザベラが保管棚へ近づく。
「鍵は?」
案内役の司祭が慌てて答える。
「管理官本人が持っていたはずです。予備鍵は大聖堂長室に――」
「開けます」
セレスティアが短く言った。
「よろしいのですか」
「封鎖対象です。必要なら後で報告します」
言い終わるより早く、近衛騎士が道具を差し出した。セレスティアは自分で鍵穴を確認し、あっという間に棚を開ける。
中は空ではなかった。
だが、妙な隙間があった。
本来なら何かが収まっていたはずの場所だけが、四角く埃を逃れている。
「ここに何が?」
セレスティアが司祭へ尋ねる。
「わ、わかりません。保管棚は管理官の専用で……」
イザベラが棚の奥に指をかざす。
「残留があるわ。フィリア、無理なら下がりなさい」
「……少しだけ見ます」
フィリアは扉の近くから、棚の奥を見た。
そこだけ、空気が重い。
香炉の底にあった欠片よりも、さらに深い。
けれど強さは薄い。何かがそこにあって、いまは持ち去られたあと、残り香だけが沈んでいる。
「旧聖印具……かもしれません」
言葉は自然に出た。
「香炉の欠片より大きいものが、ここにあったような感じがします。でも、今はありません」
「持ち出された」
セレスティアの声が冷える。
マリエッタが記録する手を止めずに問う。
「持ち出されたのは、バルナバス本人でしょうか」
「それを確認します」
セレスティアは机へ向かい、引き出しを順に開けた。
一番下の引き出しだけが、鍵ごと壊されていた。
内側には、灰になりきらなかった紙片が残っている。
イザベラがそれを慎重に取り出した。
「燃やしたのね。でも雑」
紙片には、わずかに文字が残っていた。
――地下聖具庫より、破損聖印具片、移送。
――再利用不可。封印継続。
――持出禁止。
そこまで読んだ瞬間、案内役の司祭の顔色が変わった。
「持出禁止……?」
セレスティアが紙片を見つめる。
「禁じられた聖印具片を、香炉に仕込んだ」
イザベラが続ける。
「しかも、まだ大きな本体か別の欠片があった可能性がある。それが今、消えている」
フィリアの胸が重くなる。
香炉の底の小片は、一部にすぎなかったのだ。
もっと大きなものがある。
それが持ち出された。
誰が。
何のために。
「フィリア」
セレスティアが呼ぶ。
「はい」
「その残留は、地下聖具庫の気配と繋がりますか」
フィリアはゆっくりと頷いた。
「はい。たぶん、同じです」
声が少し震えた。
「でも、地下で感じたものより、ここの残り香は……動いたあとの気配みたいです。閉じ込められていたものが、外へ持ち出された感じ」
自分で言いながら、背筋が冷えた。
閉じ込められていたものが外へ。
その言葉が、部屋に重く落ちた。
セレスティアは即座に判断した。
「大聖堂内の旧聖印具関連区画を封鎖。バルナバスの移動経路を追う。門の記録だけでなく、地下搬入口と水路も確認」
「水路?」
案内役の司祭が驚く。
「昨夜の刺客も水路で痕跡を消した」
セレスティアの声は冷静だった。
「同じ逃走経路を使った可能性があります」
フィリアはその言葉に、昨夜の刺客の黒い刃を思い出した。
刺客。
香炉。
旧聖印具。
地下聖具庫。
水路。
全部が、少しずつ繋がり始めている。
けれど、まだ中心が見えない。
そのときだった。
腰の祈祷札が、急に強く熱を持った。
「……っ」
フィリアは思わず手で押さえる。
セレスティアが即座に振り返る。
「どうした」
「近いです」
「何が」
フィリアは視線を部屋の奥へ向けた。
机でも、保管棚でもない。
壁際の祈祷台。
小さな白い布の敷かれた、何の変哲もない祈祷台。
そこに置かれた銀の燭台の陰。
「そこ……」
フィリアが指差す。
セレスティアが祈祷台へ近づき、布をめくった。
下から、小さな黒い紙片が出てきた。
紙片には、短い文字が書かれていた。
――白き聖女が目覚める前に、灰の娘を沈めよ。
部屋の空気が凍った。
フィリアは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
白き聖女。
灰の娘。
灰の娘。
それが自分を指しているのだと気づいた瞬間、足元が冷たくなる。
セレスティアの手が紙片を握り潰しそうになり、寸前で止まった。
証拠だと、理性が止めたのだろう。
「……フィリアを狙った指示文か」
イザベラの声が低い。
マリエッタの顔も青ざめていた。
「白き聖女とは、リュシエンヌ様のことでしょうか」
「まだ断定できません」
セレスティアはそう言ったが、その声はこれまでになく冷たかった。
フィリアは、祈祷札を握りながら必死に呼吸を整える。
怖い。
怖いけれど、倒れたくない。
ここで終わりたくない。
「……わたしは」
小さく声を出す。
セレスティアがこちらを見る。
「わたしは、沈みません」
声は震えていた。
でも、言えた。
「何も言えないまま、終わりません」
セレスティアの瞳が、一瞬だけ揺れた。
それから彼女は、静かに頷いた。
「ええ。終わらせません」
大聖堂の白い壁の奥で、何かが動いている。
けれどフィリアはもう、ただ沈められるだけの娘ではなかった。




