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処刑されるはずの偽聖女ですが、冷徹女騎士さまだけが私を信じてくれます  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第29話 香炉の底

 近衛の屋敷へ戻ると、香炉はすぐに静室へ運び込まれた。


 普段ならフィリアが使うはずの小さな部屋は、今は簡易の鑑定室になっている。窓は半分だけ開けられ、卓の上には防護布が敷かれ、香炉を包んでいた封印布の端にはイザベラの結んだ銀糸が光っていた。


 部屋に入っただけで、フィリアは鼻の奥にまだ残っていた甘い香りを思い出した。


 白い回廊。

 リュシエンヌの微笑み。

 考えるのをやめたくなる、柔らかな香り。


 でもここでは、その香りはずいぶん弱くなっていた。封印布で包まれているからだろう。腰の祈祷札も、熱いというより、遠くで小さく鳴っているような反応しか示さない。


「まず確認だけ」


 イザベラが言った。


「今日は無理に近づかない。大聖堂でかなり香を吸ってる。鼻と頭が鈍ってる可能性があるわ」


「はい」


 素直に頷くと、イザベラは少し意外そうに眉を上げた。


「聞き分けがいいわね」


「無理をしない約束なので」


「いいことだけど、調子狂うわ」


 そう言いながらも、口調は悪くなかった。


 セレスティアは部屋の入口近くに立っていた。いつでもフィリアを外へ出せる位置だ。マリエッタは記録用の紙と筆を持ち、卓の脇に控えている。


 イザベラが封印布を一枚ずつ外す。


 銀の香炉が姿を現した。


 大聖堂で見たときと同じ、美しい香炉だった。丸みのある形、花の透かし模様、磨かれた銀の表面。ぱっと見ただけなら、清らかな礼拝具にしか見えない。


 けれど、こうして屋敷の静室で見ると、フィリアには違うものも見えた。


 蓋の内側。

 香皿の縁。

 花模様の隙間。


 そこに、薄く灰色が沈んでいる。


「……綺麗なのに、底が重いです」


 フィリアはぽつりと言った。


 イザベラが手を止める。


「底が重い?」


「はい。表面は整っているのに、下の方に沈んでいるものがある感じです。大聖堂では香りが強くて、もっと柔らかく包まれているように感じました。でも今は……」


「今は?」


「甘さが抜けたぶん、奥の濁りが見えやすいです」


 自分でも不思議な表現だと思った。

 でも、そうとしか言えなかった。


 イザベラはしばらく香炉を見つめ、それから小さく頷く。


「なるほど。香で隠していたというより、香そのものが覆いになっていた可能性があるわね」


「覆い、ですか」


「そう。嫌なものを甘さで包んで、受け入れやすくする」


 その言葉に、フィリアの背筋が少し冷えた。


 リュシエンヌの言葉も、そうだった。

 優しさで包んで、拒みにくくする。

 本人が意識しているかどうかはまだわからない。けれど、香炉の在り方と彼女の話し方がどこか似ているように思えてしまう。


 セレスティアが静かに問う。


「分解できますか」


「できるけど、壊さない保証はしないわよ」


「証拠として残せる範囲で」


「注文が多いわね」


「必要です」


「でしょうね」


 イザベラは文句を言いながらも、手つきは慎重だった。細い銀具で蓋を外し、香皿を持ち上げる。その瞬間、フィリアの祈祷札がふっと熱を持った。


「反応しました」


 すぐに言う。


 セレスティアがこちらを見る。


「強いですか」


「まだ大丈夫です。でも……香皿の下です」


 イザベラの目が鋭くなる。


「そこね」


 香皿を外すと、底の部分に黒ずんだ薄い板が貼りついていた。


 いや、板ではない。


 何かの欠片だった。


 銀でも鉄でもない。白い石のような、骨のような、けれど一部だけ黒く染まった小片。花の透かしの真下に隠れるように、ぴたりと嵌め込まれている。


 マリエッタが息を呑む。


「最初から香炉にあったものですか?」


「いいえ」


 イザベラは即答した。


「後から入れられてる。しかも雑じゃない。かなり器用に仕込んである」


 セレスティアの声が低くなる。


「聖具管理官か、修復担当者か」


「あるいは、その前から誰かが仕込んでいたかね」


 イザベラは小片に直接触れず、銀の棒をかざした。棒の先が白く曇り、そのあと、薄い灰色へ変わる。


「……これ、旧聖印具の破片かもしれないわ」


 部屋の空気が止まった。


 フィリアの胸の奥も、ぐっと重くなる。


「旧聖印具……」


 昨日、記録にあった言葉だ。地下聖具庫へ運び込まれた、破損した旧聖印具の一部。


 セレスティアが一歩近づく。


「断定できますか」


「今すぐには無理。でも材質と反応は近い。正式に鑑定すれば、聖印具由来かどうかはかなり絞れる」


「香炉に、それを仕込んだ理由は?」


「簡単に言えば、香に“聖性らしさ”を混ぜるためでしょうね」


 イザベラは小片を睨むように見た。


「ただの誘導香なら、魔術師や聖具師に怪しまれやすい。でも聖具の破片を媒介にすると、反応が聖性に寄る。受け取る側は“清らかな香”だと思いやすい」


 フィリアは思わず口元を押さえた。


 清らかな香。

 そう思っていた。

 大聖堂の香は、正しいものだと。リュシエンヌのまとう香りは、彼女の清らかさの一部なのだと。


 でも実際には、疑問を飲み込ませるための甘さだったかもしれない。


「……ひどい」


 声が漏れた。


 イザベラも、セレスティアも、マリエッタも、すぐには何も言わなかった。


 フィリアは小片を見つめたまま続ける。


「これが本当に聖印具の欠片なら、本来は祈りのためのものですよね。誰かを縛るためのものじゃない」


「ええ」


 セレスティアが短く答える。


「聖性を利用した誘導。かなり悪質です」


 フィリアの腰の祈祷札が、また少し熱くなった。


 怒りに反応したのだろうか。

 それとも、香炉の底にある濁りに反応しているのか。


 どちらでもいい気がした。


 今、フィリアは確かに腹を立てていた。


 自分がされたことにだけではない。祈りや聖具が、人の考えを鈍らせる道具に変えられていることに。


 マリエッタが静かに記録を取りながら言った。


「問題は、リュシエンヌ様がどこまでご存じだったかですね」


 その名前が出ると、フィリアの胸は少しだけ別の痛みを覚えた。


 リュシエンヌは知っていたのだろうか。


 あの香炉が普通ではないと。

 自分の微笑みや言葉が、香りに助けられていると。

 あるいは、彼女自身もまた、その香りに包まれていた側なのだろうか。


「……リュシエンヌ様も、吸っていたんですよね」


 フィリアが言うと、三人の視線がこちらへ向いた。


「控え礼拝室にあったなら、あの方も毎日」


 イザベラが少し黙った。


「そうね。もし知らずに使っていたなら、彼女自身も影響を受けていた可能性はある」


「影響を受けると、どうなりますか」


「量と期間によるわ。短期なら軽い思考鈍化や安心感。長期なら、自分の判断を疑いにくくなるかもしれない。特に、その香を焚く場所で祈りや決断を繰り返していたら」


 フィリアは、リュシエンヌの完璧な微笑みを思い出した。


 彼女はいつも正しかった。

 少なくとも、正しいと疑っていなかった。


 もしその正しさの一部が、香炉によってさらに固められていたのだとしたら。


「……それでも、したことは消えませんよね」


 フィリアは小さく言った。


「リュシエンヌ様が知らなかったとしても、わたしは、あの人の言葉で何度も苦しくなりました」


 言ってから、少しだけ罪悪感が湧いた。


 けれど、今はその言葉を引っ込めたくなかった。


 セレスティアが静かに答える。


「消えません」


 フィリアは顔を上げる。


「ただし、責任の所在は分けて考える必要があります」


「はい」


「彼女自身の選択と、香炉の影響。その二つは別です」


 マリエッタが頷く。


「灰色のものを灰色のまま見る、ですね」


 フィリアは少しだけ苦笑した。


「難しいです」


「ええ、難しいです」


 マリエッタは優しく言った。


「でも、フィリア様は今、それをしようとしています」


 その言葉に、胸が少し温かくなる。


 決めつけない。

 でも、傷ついた事実をなかったことにしない。

 許すかどうかを急がない。


 それも境界なのだろう。


 イザベラは小片を封印用の小瓶に収め、強く栓をした。


「ひとまず、この欠片は私が分析する。香炉本体は近衛管理で保管。大聖堂へは“汚染確認のため一時預かり”で押し通しなさい」


「了解しました」


 セレスティアは頷いた。


「それと、大聖堂側へはまだ欠片の詳細を伏せます」


「当然ね。相手が動く前に、修復担当者と聖具管理官を押さえた方がいい」


 イザベラが言うと、セレスティアは短く返す。


「すでに手配しています」


「早いわね」


「必要です」


 イザベラは笑った。


「本当にその言葉、便利に使うわね」


 セレスティアは答えなかった。


     *


 鑑定が終わったあと、フィリアは庭へ出た。


 大聖堂から戻ってきた昨日よりは落ち着いている。けれど、鼻の奥にまだ甘い香りが残っている気がして、外の空気を吸いたかった。


 古い石灯籠のそばへ行くと、腰の祈祷札がかすかに温かくなる。


 これは嫌ではない。

 ただ古く、疲れているだけの反応。


 フィリアは少しだけ安心した。


「今日も、ただ疲れているだけですね」


 小声で言うと、背後から声がした。


「また話しているのですか」


 セレスティアだった。


 フィリアは振り返る。


「……聞こえました?」


「少し」


「変だと思っても、黙っていてくださっていいんですよ」


「変だとは思っていません」


 あまりに真面目に返されて、フィリアは少し笑ってしまった。


 セレスティアは石灯籠の近くまで来るが、すぐ隣には立たない。半歩ほど距離を置く。その距離感が、今は落ち着く。


「香炉のこと、考えていましたか」


「はい」


 フィリアは正直に頷いた。


「腹が立ちました」


「それは自然な反応です」


「でも、リュシエンヌ様も影響を受けていたかもしれないと思うと……どう怒ればいいのか、わからなくなります」


 セレスティアは少し黙った。


 庭に風が通り、白い花が揺れる。


「怒りは、急いで形にしなくていい」


 静かな声だった。


「急いで?」


「ええ。誰に向けるべきか、どこまで向けるべきか、今すぐ決めなくていい」


 フィリアは石灯籠を見た。


 白でも、黒でもなく、灰色のもの。

 疲れているもの。

 けれど放っておけば濁るかもしれないもの。


「でも、怒っている自分が少し怖いです」


「なぜ」


「だって、怒ると、相手を全部悪いものにしたくなるから」


 言ってから、胸の奥が少し痛む。


「リュシエンヌ様に傷つけられたことは本当です。でも、あの人も香炉のせいで何かを見誤っていたのかもしれない。そう思うと、怒っていいのか、悪いのか……」


「怒っていい」


 セレスティアは、迷わず言った。


 フィリアは顔を上げる。


「ただし、怒りのまま断じなくていい」


 その言葉に、胸の中の糸が少しほどけた。


「怒ることと、裁くことは違うのですね」


「ええ」


 セレスティアは頷いた。


「あなたは傷ついた。だから怒っていい。だが、相手の責任をどう判断するかは、事実を見てからでいい」


 フィリアはゆっくり息を吐いた。


 怒っていい。

 でも、怒りのまま決めなくていい。


 それも境界なのかもしれない。

 自分の痛みをなかったことにしないための線。

 けれど相手を見誤らないための線。


「……また、手帳に書くことが増えました」


「良いことです」


「セレスティアさまの言葉ばかり増えていきます」


「それは困りますか」


「いいえ」


 フィリアは小さく笑った。


「あとで読み返すと、落ち着きます」


 言ったあとで、少し恥ずかしくなった。


 セレスティアも一瞬だけ言葉を失ったようだった。けれど、すぐに静かに返す。


「それなら、役に立っているようで何よりです」


 その言い方が少しだけぎこちなくて、フィリアは胸の奥が温かくなる。


 夕方の光が庭を薄く染めていた。


 香炉の底から出てきた小さな欠片。

 甘い香りの正体。

 リュシエンヌの微笑みの裏にあるかもしれない灰色。


 わからないことは増えた。


 でも、フィリアはもう、それをただ怖がるだけではなかった。


 怒りも、迷いも、同情も、疑いも。

 全部を急いで白黒にしなくていい。


 灰色のまま見て、記録して、必要なところに線を引く。


 そのやり方を、少しずつ覚え始めていた。

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