第28話 白い回廊へ戻る
大聖堂の尖塔が見えた瞬間、フィリアの指先は冷たくなった。
馬車の窓から見える白い石壁。朝の光を受けて、まるで何も汚れを知らない場所のように輝いている。王都の人々が祈りを捧げ、聖女を讃え、清らかな奇跡を信じる場所。
かつてのフィリアにとっても、そこは憧れの場所だった。
けれど今は違う。
白すぎる壁が、少し怖い。
「呼吸が浅いです」
隣からセレスティアの声がした。
フィリアははっとして、胸に手を当てる。
「……すみません」
「謝るところではありません。吸って」
言われるままに息を吸う。
「吐いて」
ゆっくり吐く。
それだけで、足元が少し戻ってくる。
向かいの席では、イザベラが腕を組んでいた。
「入る前から潰れたら困るわよ。嫌になったら戻ればいい。調査は他の方法でも続けられる」
「……はい」
「ただし、行くなら“戻された”顔はしないこと」
フィリアは顔を上げた。
イザベラは淡々と言う。
「あんたは連行されるんじゃない。確認しに行くの。そこ、間違えない」
厳しい言い方だった。
でも、その言葉で背筋が伸びた。
「はい。確認しに行きます」
セレスティアが短く頷く。
「その認識でいい」
馬車が大聖堂の外門前で止まった。
扉が開く。
先に降りたのはセレスティアだった。黒の近衛礼装。余計な装飾はないのに、白い大聖堂の前ではかえって強く見える。
続いてイザベラ。
最後に、フィリアは差し出されたセレスティアの手を取った。
以前なら、その手に縋るように降りていたかもしれない。けれど今日は違う。支えてもらいながらも、自分の足で石畳に立つ。
白い回廊へ戻るのではない。
調べに来たのだ。
門前には、大聖堂の司祭と数名の修道女が待っていた。彼らの視線が一斉にフィリアへ向く。
驚き。警戒。好奇心。
そして、かすかな嫌悪。
フィリアの胸が少し痛む。
だが、隣に立つセレスティアの気配が揺らがなかった。
「近衛騎士団副団長セレスティア・ヴァルクレインです。事前に通達した聖具点検のため参りました」
司祭は丁寧に頭を下げた。
「承っております。ですが、まさか……フィリア・エルソンを伴われるとは」
その呼び方に、フィリアの指がわずかに動いた。
“様”も“嬢”もつかない。
ただ、名前だけ。
セレスティアの声が少し低くなる。
「彼女は本件の参考人です。私の管理下にあります」
「……承知しました」
司祭は表情を整えたが、完全には隠せていない。
イザベラがぼそりと言う。
「歓迎されてないわね」
「わかりやすくて助かります」
セレスティアが返す。
そのやりとりに、フィリアは少しだけ息を吐けた。
大聖堂の中へ入る。
白い回廊。
高い天井。
磨き込まれた床。
淡く漂う乳香。
すべてが記憶のままだった。
けれど、そこに立つ自分は前と同じではない。薄青灰色の服に、近衛の外套。腰には祈祷札。胸元ではなく、腰に結ばれているだけで、少しだけ自分の領域が守られている気がした。
回廊を進む途中、何人かの候補生とすれ違った。
小さなざわめきが走る。
「あれ……」
「フィリア?」
「どうして……」
声は小さい。
でも聞こえる。
フィリアはうつむきかけて、やめた。
怖い。
怖いけれど、ここで視線を落としたくなかった。
すると、セレスティアがほんの少し歩調を落とした。
「急がなくていい」
それだけだった。
でも十分だった。
「はい」
フィリアは短く答え、前を向いた。
案内されたのは、大聖堂の奥にある控え区画だった。候補生時代には、近づくことも許されなかった場所だ。廊下の石材も、壁の装飾も、表の回廊よりさらに上質で、空気まで整えられているように感じる。
そして、匂いがした。
甘い。
花の蜜に似た、柔らかな香り。
けれど、その底に薄い濁りがある。
フィリアは足を止めた。
「……あります」
声が思ったより小さくなった。
セレスティアがすぐに振り返る。
「香りですか」
「はい。あの時と同じ……たぶん、近いです」
イザベラが鼻を鳴らす。
「距離は?」
「この先です。奥の方から」
司祭が少し困ったような顔をした。
「この先は、筆頭聖女候補リュシエンヌ様の控え礼拝室です。現在は清掃を終えておりますが、個人の祈祷空間ですので――」
「点検対象です」
セレスティアが遮った。
「刺客が呪的成分を含む刃を使用した以上、大聖堂内の聖具汚染は看過できません」
「しかし」
「王宮へも通達済みです」
その一言で、司祭は黙った。
扉の前へ進む。
白い扉。金の縁取り。聖杯と花を組み合わせた意匠。
フィリアはその扉を見つめ、胸の奥がざわめくのを感じた。
ここに、リュシエンヌがいる。
そう思った瞬間だった。
扉が内側から開いた。
「お待ちしておりました」
そこに立っていたのは、リュシエンヌだった。
白い法衣。
淡い金髪。
湖面のような青い瞳。
そして、完璧に整った微笑み。
「セレスティア副団長。イザベラ様。それから……フィリア」
その声は、以前と同じように柔らかかった。
フィリアの喉が少し締まる。
甘い香りが、扉の内側から強く漂ってくる。
腰の祈祷札が熱を持った。
だが、フィリアは一歩だけ踏みとどまった。
「……リュシエンヌ様」
名前を返す。
それだけで、以前よりは前に進めている気がした。
リュシエンヌはフィリアを見て、ほんの少し目を細めた。
「顔色が良くなったのね。安心したわ」
優しい言葉。
優しい表情。
優しい香り。
けれど、フィリアはすぐに答えなかった。
間を取る。
答えたくない言葉には、すぐ答えなくていい。
そう教わった。
「ありがとうございます」
必要な礼だけを返す。
リュシエンヌの微笑みが、わずかに止まった。
セレスティアが前へ出る。
「礼拝室の香炉を確認します」
「ええ。どうぞ」
リュシエンヌはあっさり身を引いた。
その素直さが、かえって不気味だった。
礼拝室の中は、白と金で整えられていた。
小さな祭壇。柔らかな布。花を活けた銀器。磨かれた床。窓から差す光は薄い布で和らげられ、室内全体が淡い光に包まれている。
そして祭壇の脇に、銀の香炉が置かれていた。
丸みを帯びた美しい形。蓋には花の透かし模様。細い煙が、今もそこから立ちのぼっている。
甘い香りが、部屋に満ちている。
フィリアはすぐに胸が重くなるのを感じた。
眠くなる。
いや、眠気ではない。
考えるのをやめたくなる。
ここにいれば、何も疑わなくていい。リュシエンヌが正しい。大聖堂が正しい。自分はただ、差し出された道に従えばいい。
そんな感覚が、薄い布のように思考へ被さってくる。
「フィリア」
セレスティアの声がした。
その声で、布が少し破れた。
「……大丈夫です。まだ」
自分の声が少し遠い。
イザベラがすぐに前へ出る。
「直接吸わないで。布を」
マリエッタが用意してくれていた香避けの布を、フィリアは口元へ当てた。
少し楽になる。
イザベラは香炉へ近づき、銀の棒をかざした。
棒の先が、薄く曇る。
「出てるわね」
イザベラの声が低くなった。
リュシエンヌは静かに首を傾げる。
「何か問題が?」
「問題がない香炉は、検査棒を曇らせないのよ」
イザベラは短く言った。
「この香、いつから焚いているの」
「修復から戻って以来です。古い聖具ですが、香の乗りが良いと聞いていましたので」
「誰から」
「聖具管理官からです」
リュシエンヌの答えは淀みない。
セレスティアが問う。
「香炉が地下聖具庫から出たことは?」
「聞いております」
リュシエンヌは微笑む。
「ですが、聖具庫に保管されていた聖具は多くあります。古いからといって、穢れているとは限らないでしょう?」
その言葉に、フィリアは昨日の石灯籠を思い出した。
古いものは、悪いものとは限らない。
その通りだ。
でも、この香炉は違う。
フィリアには、それがわかる。
セレスティアがフィリアへ視線を向ける。
「感じますか」
フィリアは香避けの布を押さえながら頷いた。
「……灰色ではありません」
部屋の空気が止まる。
リュシエンヌの青い瞳が、フィリアへ向いた。
フィリアは怖かった。
でも続ける。
「古いだけのものとは違います。底に、濁りがあります。甘くて、柔らかくて……でも、考える力を薄くするみたいな」
言葉を出すたびに、腰の祈祷札が熱を増す。
「人を直接操るほどではないと思います。でも、逆らいにくくする。疑いを飲み込ませる。……そういう香りです」
自分で言い切った瞬間、室内の香りが少し重くなったように感じた。
リュシエンヌは、すぐには笑わなかった。
数秒だけ、表情が消えた。
それから、静かに微笑む。
「フィリア。あなたは、私が意図してそのような香を使っていると?」
柔らかい声。
だが、その奥に細い刃がある。
以前なら、ここで崩れていた。
違います。そんなつもりでは。すみません。
そう言って、自分の言葉を引っ込めていた。
けれど今は、違う。
フィリアは一度息を吸う。
「わかりません」
リュシエンヌの目が細くなる。
「わからない?」
「はい。リュシエンヌ様が知っていたのか、知らずに使っていたのか、わたしにはわかりません」
フィリアは震える手で布を押さえたまま、続ける。
「でも、この香炉の香りが普通ではないことは、感じます」
言えた。
決めつけずに、でも引っ込めずに。
セレスティアの気配が、すぐ隣にある。
イザベラが低く笑った。
「上出来」
リュシエンヌはフィリアを見つめたままだった。
その瞳は、もう優しいだけではない。
「変わったのね」
前にも聞いた言葉。
けれど今回は、少しだけ違う響きだった。
驚き。警戒。ほんの少しの苛立ち。
フィリアは答えなかった。
代わりに、セレスティアが口を開いた。
「香炉は一時預かります」
「副団長」
「汚染の疑いがあります。大聖堂内で使用を続けることは認められません」
リュシエンヌは静かにセレスティアを見る。
「それは、近衛の権限ですか?」
「王都防衛上の緊急措置です」
「強引ですね」
「必要です」
セレスティアの声は揺るがない。
少しの沈黙のあと、リュシエンヌは目を伏せた。
「……わかりました。持っていってください」
あまりにあっさりした承諾だった。
だが、フィリアにはわかった。
納得したわけではない。
ただ、この場で争う意味がないと判断したのだ。
イザベラが香炉を封印布で包む。煙が途切れた瞬間、室内の空気がほんの少し軽くなった。
フィリアは深く息を吸いかけ、セレスティアに止められた。
「まだ吸わない」
「……はい」
少しだけ気まずく頷くと、セレスティアの目元がほんのわずかに緩んだ。
リュシエンヌはそのやり取りを見ていた。
その視線に、フィリアは気づく。
リュシエンヌは微笑んでいなかった。
初めて見る表情だった。
美しいけれど、少しだけ冷たい。何かを測り直している顔。
「フィリア」
彼女が静かに呼んだ。
「はい」
「あなたは、どこまで行くつもりなの?」
問いは穏やかだった。
でも、答えを誤れば絡め取られる。
フィリアは手帳に書いた言葉を思い出した。
大聖堂へ戻るのではない。調べに行く。
そして、今はもうひとつ。
「わかりません」
フィリアは正直に言った。
「でも、何も言えないまま終わるところへは、戻りません」
リュシエンヌの青い瞳が、わずかに揺れた。
それが何の感情なのか、フィリアにはわからない。
ただ、それ以上リュシエンヌは何も言わなかった。
*
大聖堂を出たあと、馬車へ戻ったフィリアはしばらく黙っていた。
香避けの布を外しても、まだ鼻の奥に甘い香りが残っている気がする。けれど、外の空気は確かに軽かった。
「よく言えました」
セレスティアが言った。
フィリアは小さく息を吐く。
「怖かったです」
「当然です」
「でも、言えました」
「ええ」
その短い肯定が、胸にじわりと染みた。
イザベラは封印した香炉の箱を膝に置き、満足そうに言う。
「収穫は大きいわ。香炉は黒寄りの灰色。しかも、リュシエンヌが意図していたかどうかはまだ別問題」
「難しいですね」
フィリアが言うと、イザベラはにやりと笑った。
「難しいものを難しいまま扱えるようになったなら、上等よ」
馬車が動き出す。
大聖堂の白い尖塔が、少しずつ遠ざかっていく。
フィリアは窓の外を見ながら、腰の祈祷札にそっと触れた。
まだ少し熱い。
でも、焼けるような熱ではない。
自分は戻されたのではない。
調べに行き、確かめ、言葉を持ち帰った。
それだけで、白い回廊の記憶が少しだけ塗り替わった気がした。




