第27話 甘い香炉
リュシエンヌの香りについて、フィリアが改めて考えるようになったのは、その翌朝だった。
朝食の席で、マリエッタが何気なく香草茶を置いたときだ。
湯気に混じって、やわらかな花の匂いが立った。緊張を和らげるための、いつもの香草茶。けれどその香りに触れた瞬間、フィリアはふと、大聖堂の白い回廊を思い出した。
磨かれた床。
高い窓から差し込む光。
候補生たちの衣擦れ。
そして、リュシエンヌが通ったあとに残る、甘く清らかな香り。
あれは本当に、ただの香だったのだろうか。
「フィリア様?」
マリエッタの声で我に返る。
「あ……すみません」
「香り、強すぎましたか?」
「いえ。そうではなくて……」
フィリアはカップを両手で包み、少し迷ってから言った。
「リュシエンヌ様の香りを思い出していました」
セレスティアの手が、ほんの少し止まる。
「昨日の話ですね」
「はい。控え礼拝室に運ばれた香炉と関係があるかもしれない、という」
マリエッタが椅子へ腰を下ろす。
「具体的には、どんな香りでした?」
「大聖堂の乳香に似ています。でも、それより甘くて……花の蜜みたいで、少しだけ眠くなるような」
「眠くなる?」
セレスティアが聞き返す。
フィリアは首を傾げた。
「眠くなる、というより……考えるのをやめたくなる感じです」
口にしてから、自分でもぞくりとした。
そうだ。
あの香りを嗅ぐと、リュシエンヌの言葉に逆らうのが少し難しくなる気がした。優しい声と、整った微笑みと、甘い香り。その全部が重なって、自分の考えが薄い布に包まれるような感覚。
当時は、自分が弱いだけだと思っていた。
でも、もし違ったら。
「考えるのをやめたくなる香り……」
マリエッタが低く繰り返す。
セレスティアの顔から表情が薄れる。怒っているのではない。考えを鋭く研いでいる顔だった。
「マリエッタ。香炉の修復担当者について、追加照会を」
「はい」
「それと、控え礼拝室に出入りした者の記録も。筆頭聖女候補本人だけでなく、従者、香の管理係、清掃係まで」
「承知しました」
会話がすぐ実務へ移っていく。
その速さに、フィリアは胸の奥が少し冷えた。
「……やはり、怪しいのでしょうか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
そして、言葉を選ぶように言う。
「怪しい、というより、確認すべき要素が増えた」
「同じことでは?」
「少し違います」
フィリアが瞬くと、セレスティアは続けた。
「怪しいと決めてしまえば、見たいものだけを見ることになる。確認する、という姿勢を保つ方がいい」
その言葉は、フィリアの胸にすっと落ちた。
灰色のものたち。
見分けるには、決めつけてはいけない。
「……はい。確認、ですね」
「ええ」
セレスティアは短く頷いた。
「ただし、危険な可能性は高い」
結局そこは否定しないのが、この人らしかった。
*
香炉についての手がかりは、その日の昼過ぎに届いた。
正確には、大聖堂からではない。マリエッタが独自に繋ぎを取った、聖具修復職人の助手からだった。
場所は書斎。
窓際の机には、簡素な紙片が一枚置かれている。正式な報告書ではない。急いで書かれた私信のようなものだ。
マリエッタが読み上げる。
「香炉は旧聖具庫に長く保管されていた銀製。表面の黒ずみと香皿部分の歪みを修復。修復中、担当職人が一度体調不良を訴えたが、大聖堂側から急ぎのため作業継続を要請された……とあります」
「体調不良」
セレスティアの声が冷える。
「症状は?」
「頭痛、吐き気、強い眠気。翌日には回復。ただし、作業後しばらく香の匂いが鼻から抜けなかった、と」
フィリアの腰元で、祈祷札がかすかに熱を持った。
「反応があります」
「強いですか」
「いいえ。でも……嫌な感じです。刺客の刃ほど黒くはありません。でも、甘いのに、底が濁っているような」
「香炉そのものが汚染されている可能性があるわね」
その声に、フィリアは振り返る。
いつの間にか、イザベラが扉のところに立っていた。濃茶のローブを纏い、片手に小さな革鞄を持っている。
「来ていたのですか」
セレスティアが言う。
「呼ばれたから来たのよ。ちょうど面白そうな話をしているじゃない」
「面白い話ではありません」
「面倒な話ほど、調べる側にとっては面白いの」
イザベラは遠慮なく机へ近づき、紙片を覗き込んだ。
「ふうん。香炉ね。甘い香り、眠気、思考の鈍化。あり得るわ」
「何がですか」
フィリアが問うと、イザベラは革鞄を机に置いた。
「聖具を媒介にした誘導香。古い聖具に溜まった澱を、香に混ぜて薄く広げる。嗅いだ人間を劇的に操るほどじゃないけど、緊張を緩めたり、疑問を飲み込ませたりするくらいなら可能ね」
フィリアの背筋が冷える。
「そんなものが……」
「大聖堂の正式な儀式で使われる香は、本来、集中や鎮静のためのものよ。悪いものじゃない。でも、混ぜ物次第で毒にもなる」
イザベラは淡々と言う。
「薬草と同じ。量と使い方を間違えれば、人を助けるものも人を縛るものになる」
フィリアは拳を握った。
リュシエンヌの香り。
あの優しい声。
大聖堂の回廊で、考えるのをやめたくなった自分。
あれがもし、香のせいだったとしたら。
自分の弱さだけではなかったのだとしたら。
安堵と怒りが、同時に胸の中へ湧いた。
「……でも、リュシエンヌ様が知って使っているかは、まだわからないんですよね」
フィリアが言うと、イザベラが片眉を上げた。
「そうね。そこを分けて考えられるなら上出来」
セレスティアも静かに頷く。
「香炉が汚染されている可能性と、彼女が意図して使っているかは別です」
「はい」
フィリアは自分に言い聞かせるように答えた。
決めつけない。
白にも黒にも急がない。
灰色のまま、見ていく。
「調べるには、香炉そのものが必要ね」
イザベラが言う。
マリエッタが渋い顔をした。
「筆頭聖女候補の控え礼拝室にあるものを、どうやって?」
「借りる」
セレスティアが短く答える。
マリエッタは一瞬だけ黙ったあと、静かに言った。
「副団長、それは借りるではなく押収では」
「手続き上は点検です」
「言い方だけ整えましたね」
「必要です」
あまりに真面目な返答に、イザベラが鼻で笑った。
「まあ、近衛副団長が大聖堂の聖具点検を申し入れる口実は作れるでしょうね。刺客が呪具を持っていた以上、王都内の聖具汚染を疑うのは自然だもの」
「ええ」
セレスティアは頷いた。
「ただし、リュシエンヌ側にも伝わる」
「当然でしょうね」
「なら、先に動く必要がある」
部屋の空気が締まる。
フィリアは、机の上の紙片を見つめた。
「わたしは……」
言いかけると、三人の視線が集まる。
以前なら、それだけで言葉を引っ込めていた。けれど今は、深呼吸して続ける。
「わたしは、香りを確認できます」
セレスティアの眉がわずかに動いた。
「危険です」
「近づきすぎません。触りません。無理もしません。でも、リュシエンヌ様の香りを覚えているのは、たぶんわたしです」
「記憶だけで十分な場合もあります」
「でも、もし本物の香炉に近づいたとき、同じ反応が出るなら……手がかりになります」
言い切ってから、心臓が少し速くなる。
怖い。
また危険へ近づこうとしているのかもしれない。
でも、無茶をしたいわけではない。
役に立ちたい。
そして、自分自身でも知りたい。
あの香りに包まれていた頃の自分が、どこまで自分の意思で黙っていたのかを。
セレスティアは長く黙った。
拒まれるかもしれないと思った。
それでも、フィリアは視線を逸らさなかった。
やがてセレスティアは言った。
「条件があります」
胸が少しだけ明るくなる。
「はい」
「私とイザベラが安全を確認した後。香炉から一定距離を保つ。香りを直接吸い込まない。反応が強まったら即時撤退」
「はい」
「そして、あなた自身が嫌だと思ったら、その時点でやめる」
最後の条件に、フィリアは少しだけ目を見開いた。
「わたしが、嫌だと思ったら」
「ええ」
セレスティアはまっすぐに言う。
「あなたの感覚を利用するために調査するのではありません。あなたが自分の意思で協力できる範囲を確認するためです」
胸の奥が熱くなる。
利用ではない。
協力。
その違いが、今のフィリアにはとても大きかった。
「……はい。約束します」
「なら、同行を許可します」
その言葉に、フィリアは静かに頷いた。
*
夕方、フィリアは自室で衣服を整えていた。
大聖堂へ向かうのは、翌日の朝になるという。正式な点検申し入れはすでに近衛から送られ、王宮側にも最低限の根回しをするらしい。
久しぶりに、大聖堂へ行く。
そう考えるだけで、胸が重くなる。
あの白い回廊。
候補生たちの視線。
リュシエンヌの微笑み。
大司教の穏やかな声。
戻りたくない場所だ。
けれど、戻らなければ見えないものもある。
フィリアは机の上の手帳を開き、新しいページに書いた。
――甘い香炉。
――香りは、人を安心させることも、考えを鈍らせることもある。
――確認する。決めつけない。無理をしない。
そこまで書いて、少し迷い、もう一行足す。
――わたしは、大聖堂へ戻るのではない。調べに行く。
その一文を書いた途端、胸の中に小さな芯が通った気がした。
扉が叩かれる。
「フィリア」
セレスティアだった。
「はい」
扉を開けると、彼女は廊下に立っていた。もう夜の支度をしているのか、少し軽い上衣姿だ。けれど表情は明日のことをすでに考えている顔だった。
「明日の件で確認を」
「はい」
「大聖堂に入ったら、あなたが不安定になる可能性があります」
「……はい」
「過去の記憶が戻ることもある。香に反応する可能性もある。人の視線もある」
ひとつひとつ、逃げずに示される。
フィリアは頷いた。
「わかっています」
「それでも行きますか」
セレスティアの声は静かだった。
止めるためではなく、確かめるための問い。
フィリアは自分の手帳へ一瞬視線を向け、それから答えた。
「行きます」
「理由を聞いても?」
「戻るためではなく、調べるためです」
その答えに、セレスティアの目元がほんの少し和らいだ。
「良い答えです」
フィリアは照れくさくなり、視線を落とす。
「手帳に書いたばかりなので」
「それでも、あなたの言葉です」
その一言に、胸があたたかくなる。
セレスティアは続けた。
「明日は、私が隣にいます」
「はい」
「あなたが一言でも“嫌だ”と言えば、そこで止めます」
フィリアは顔を上げた。
刺客の夜に、自分が言った言葉。
いやです。
何も言えないまま終わるのは嫌です。
あの小さな抵抗を、この人はちゃんと覚えている。
「……はい」
フィリアは小さく頷いた。
「言います。ちゃんと」
「約束です」
「約束します」
二人の間に、静かなものが落ち着く。
それは重い誓いではない。
けれど、明日の自分を支えるための、小さな線だった。
甘い香炉。
リュシエンヌの香り。
大聖堂の白い闇。
怖いものは多い。
でもフィリアはもう、ただ連れ戻される娘ではなかった。
自分の意思で、確かめに行くのだ。




