第26話 灰色のものたち
古い石灯籠のことを、フィリアはその日の手帳に書いた。
――庭の石灯籠。嫌なものではない。古く、少し疲れている。近づくと腰の祈祷札が温かくなるが、胸は苦しくならない。
書いてから、少しだけ迷い、最後に一行を足した。
――灰色のものは、必ずしも悪いものではない。
その言葉を書いたとき、フィリアはなぜかリュシエンヌのことを思い出した。
完璧な白に見える人。
けれど、その白さが少し怖い人。
同時に、刺客の刃にまとわりついていた黒い気配も思い出す。
あれは迷う余地がなかった。
こちらを傷つけるためだけに研がれた、鋭い黒だった。
でも、世界は白と黒だけではない。
庭の石灯籠のように、古くて、疲れていて、でも悪意ではないものがある。
人も、たぶんそうなのだろう。
フィリアが手帳を閉じたところで、扉が叩かれた。
「入ってもいいですか?」
マリエッタの声だった。
「はい」
入ってきたマリエッタは、腕に布の束を抱えていた。淡い青灰色、白、薄い緑。先日買った衣服を、少し直してくれたらしい。
「袖を少し詰めました。動きやすくなっていると思います」
「ありがとうございます。そこまでしていただいて……」
「服が合わないと、訓練にも日常にも差し支えますから」
マリエッタは当然のように言い、衣装棚へ布を納めていく。
フィリアはその後ろ姿を見ながら、ふと口を開いた。
「マリエッタさん」
「はい?」
「人も、灰色の石みたいなことがあるんでしょうか」
唐突な問いだった。
自分でも、言ってから少し恥ずかしくなる。
けれどマリエッタは笑わなかった。手を止め、少しだけ考えるように首を傾ける。
「あると思います」
「……やっぱり」
「人はだいたい灰色ですよ。白だけの方も、黒だけの方も、そう多くはありません」
マリエッタは棚の扉を閉め、フィリアの方へ向き直った。
「ただ、灰色だから許されることと、許されないことは別です」
その言葉に、フィリアは顔を上げる。
「別……」
「ええ。誰かに事情があっても、誰かを傷つけていい理由にはなりません。けれど、傷つけた人を理解しようとすることまで、間違いではありません」
フィリアはその言葉を胸の中で繰り返した。
理解することと、許すことは違う。
境界を引くことにも似ている。
「難しいですね」
「難しいです」
マリエッタはあっさり頷いた。
「ですから、一人で決めない方がいいです。フィリア様は特に、相手の苦しさまで自分で持とうとしてしまいますから」
「……気をつけます」
「気をつけるだけでは足りない時は、わたしたちが止めます」
マリエッタの言い方はやわらかいのに、妙に力強かった。
フィリアは少し笑う。
「セレスティアさまと似ていますね」
「副団長に似ていると言われると、喜んでいいのか迷いますね」
「いい意味です」
「なら、受け取っておきます」
そんな会話が、少しだけ日常のように感じられた。
けれど、その穏やかさは長く続かなかった。
廊下の向こうから、急ぎ足の音が近づいてきたのだ。
扉が叩かれる。
「マリエッタ殿、副団長がお呼びです」
騎士の声だった。
マリエッタの表情がすっと変わる。
「何かありましたか」
「大聖堂から、地下聖具庫に関する回答が届きました」
その一言で、フィリアの背筋が伸びた。
地下聖具庫。
腰の祈祷札が、かすかに温かくなる。
マリエッタはフィリアを見る。
「無理に来なくて構いません」
そう言われたが、フィリアは首を横に振った。
「行きます。……でも、無理はしません」
マリエッタは数秒だけフィリアを見つめ、それから小さく頷いた。
「では、一緒に」
*
書斎には、すでにセレスティアがいた。
机の上には封蝋のついた文書が広げられている。大聖堂の紋章。白い翼と聖杯の印。以前ならそれを見るだけで胸が縮んだだろうが、今のフィリアは一度だけ深呼吸してから部屋へ入れた。
セレスティアはフィリアを見るなり、最初に問う。
「体調は」
「大丈夫です」
「祈祷札は」
「少しだけ温かいです。でも、嫌な感じは強くありません」
「わかりました」
それだけで、今の状態が共有される。
フィリアは書斎の椅子に座った。マリエッタがさりげなく水を用意してくれる。
「大聖堂の回答は?」
マリエッタが尋ねると、セレスティアは文書へ目を落とした。
「地下聖具庫について、現在は通常使用されていない。危険物はなく、古い祭器類のみ保管。直近の出入りは修復担当の聖具管理官と、筆頭聖女候補の従者による香炉の搬出のみ」
「予想通りですね」
「ええ。綺麗すぎます」
セレスティアの声は冷静だった。
綺麗すぎる。
その言葉に、フィリアは少しだけ胸がざわつく。
「記録が、ですか」
「ええ」
セレスティアは別の紙を机に広げた。
「こちらは近衛側で入手した搬入記録です。大聖堂の正式回答では触れていない搬入が、二週間前に一件あります」
「何が運ばれたんですか」
「破損した旧聖印具の一部、と記されています」
聖印具。
その言葉に、フィリアの腰の祈祷札がじわりと熱を増した。
思わず手で押さえる。
「フィリア?」
セレスティアがすぐ反応する。
「……その言葉に、反応しました」
「旧聖印具?」
「はい」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
嫌な感じだ。けれど、刺客の刃のような鋭い黒ではない。もっと古く、沈んでいる。昨日の地下聖具庫の図面に近い。
「地下と似ています」
フィリアは慎重に言った。
「でも、まだ遠いです。文字で見ているだけだからかもしれません」
セレスティアは頷き、文書を少し遠ざけた。
「無理に見なくていい」
「大丈夫です。……ただ、その旧聖印具は、今も地下に?」
「記録上はそうです」
マリエッタが眉を寄せる。
「大聖堂が回答で触れていないのは不自然ですね」
「意図的に伏せたか、回答した者が知らされていないか」
「どちらにしても面倒です」
「ええ」
二人の会話を聞きながら、フィリアは文書の端を見つめた。
旧聖印具。
破損。
地下聖具庫。
それらの言葉が、静かに繋がっていく。
「……リュシエンヌ様の従者が運び出した香炉は、そのあとどこへ?」
フィリアが尋ねると、セレスティアの目がわずかに鋭くなる。
「筆頭聖女候補の控え礼拝室です」
「控え礼拝室……」
「ええ。儀式前に祈りを捧げるための私室に近い部屋です」
フィリアは思い出そうとした。
大聖堂の奥、候補生たちが入れない区画。筆頭聖女候補だけが使う場所。白い扉。金の飾り。廊下に漂う甘い乳香。
リュシエンヌがいつも纏っていた、整えられすぎた香り。
フィリアは小さく息を呑む。
「……香炉」
「何か思い出しましたか」
「リュシエンヌ様が来たとき、香りがしました」
セレスティアもマリエッタも黙って続きを待つ。
「大聖堂の乳香に似ているけれど、少し甘くて……整いすぎている感じの香りです。あの時は、ただリュシエンヌ様の香だと思ったんですが」
「その香炉と関係があるかもしれない」
「わかりません。でも、もし地下から出した香炉を使っているなら……」
フィリアの声が自然と小さくなる。
リュシエンヌが纏う清らかな香り。
それが、地下聖具庫と繋がっているかもしれない。
そう思っただけで、白だと思っていたものの下に灰色が滲むような感覚があった。
セレスティアはすぐに結論を急がなかった。
「現段階では推測です」
「はい」
「ですが、調べる価値はある」
マリエッタが資料をまとめながら言った。
「香炉の搬出記録、修復担当者、筆頭聖女候補の控え礼拝室。次はそこですね」
「ええ」
セレスティアは頷いた。
フィリアはその会話を聞きながら、自分の手帳を開いた。
――旧聖印具という言葉に反応。地下聖具庫と似ている。古く沈んだ重さ。
――リュシエンヌ様の香り。甘く、整いすぎている。香炉と関係があるかは不明。
そこまで書いて、手が止まる。
リュシエンヌは灰色なのだろうか。
それとも、白く見えるように整えられた何かを纏っているのだろうか。
フィリアにはまだわからない。
けれど、ひとつだけはっきりしていた。
見た目だけで判断してはいけない。
白く見えるものも、灰色かもしれない。
黒く見えるものも、ただ古く疲れているだけかもしれない。
そして灰色のものを、すべて悪いと決めつけてはいけない。
「フィリア」
セレスティアに呼ばれ、顔を上げる。
「今日はここまでにしましょう。反応が続いています」
「でも、まだ」
「ここまでです」
いつもより少し強い声だった。
フィリアは一瞬だけ言い返したくなった。
でも、腰の祈祷札はまだ熱い。胸の奥も少し重い。
約束を思い出す。
「……はい。ここまでにします」
そう答えると、セレスティアの目元がわずかに和らいだ。
「良い判断です」
その一言に、胸が少し温かくなる。
守られるだけではなく、約束を守る。
止まるべきところで止まる。
それも、自分で立つことの一部なのだ。
*
夕方、フィリアは庭へ出た。
古い石灯籠のそばに立つと、腰の祈祷札がまた少しだけ温かくなった。けれど、嫌ではない。
「今日も疲れているだけですね」
小さく声をかける。
石灯籠が答えるわけではない。
でも、その沈黙は静かだった。
背後から足音が近づく。
振り返ると、セレスティアが立っていた。
「石灯籠と話していたのですか」
「……聞こえていましたか」
「少し」
フィリアは頬を赤くする。
「変ですよね」
「いいえ」
即答だった。
「記録対象との関係を確認していたのでしょう」
「そんな立派なものではありません」
「では?」
「……なんとなく、労わりたくなっただけです」
セレスティアはしばらく石灯籠を見つめた。
「それも、あなたらしい」
その言葉に、フィリアは少しだけ驚いた。
「わたしらしい、ですか」
「ええ」
ただそれだけ。
けれど、フィリアはその言葉を胸の中で何度も繰り返したくなった。
自分らしい。
偽物ではなく。
誰かの代わりでもなく。
王都の枠から外れた失敗でもなく。
自分らしい。
庭の白い花が、夕風に揺れる。
灰色のものたちは、世界のあちこちにある。
古く、疲れ、沈んでいるもの。
まだ悪意ではないもの。
でも放っておけば、いつか黒く濁るかもしれないもの。
それを見分ける力が、自分にあるのなら。
怖いけれど、知りたい。
フィリアは石灯籠へそっと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
勝手に触れない。
無理に受け取らない。
小さな境界線を、そこにも置く。
「また明日、見に来ます」
石灯籠にそう告げると、隣でセレスティアが静かに言った。
「それがいい」
夕暮れの庭は、静かだった。
けれどその静けさの中で、フィリアは少しずつ、自分の力だけでなく、世界の色を見分ける目を育て始めていた。




