第25話 小さな境界線
翌朝、フィリアはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ白く、屋敷の中も静かだった。けれど胸の内側は、不思議と落ち着いている。腰紐に結んだ祈祷札も、今日は熱を持っていない。
寝台から下り、机の上に置いた手帳を開く。
昨日の最後に書いた一文が、すぐ目に入った。
――境界は拒絶ではない。そばにいるための線。
フィリアはその文字を指先でなぞった。
線を引くことは、相手を突き放すことだと思っていた。人の苦しみに触れられるなら、できるだけ受け止めなければいけないと思っていた。役に立ちたいなら、我慢しなければならないと思っていた。
でも、それでは続かない。
自分の場所がなくなれば、誰かのそばに立つこともできなくなる。
「……小さな線で、いいんだ」
そう呟くと、胸の奥が少し軽くなった。
扉が叩かれたのは、そのすぐあとだった。
「起きていますか」
セレスティアの声だ。
「はい」
扉を開けると、そこには黒の軽装に身を包んだセレスティアが立っていた。朝の光の中で見ると、昨夜より顔色はましに見える。きちんと休めたのかどうかは怪しいけれど、少なくとも限界まで張り詰めている様子ではなかった。
「おはようございます」
「おはようございます。祈祷札の反応は?」
「今はありません」
「体調は」
「大丈夫です」
答えてから、フィリアは少しだけ笑った。
「たぶん、じゃなくて」
セレスティアは一拍置いてから、ほんのわずかに目を細めた。
「なら結構です」
それだけのやりとりなのに、朝の空気が柔らかくなる。
「今日は、庭で少し訓練をします」
「庭で?」
「イザベラの指示です。閉じた部屋ばかりではなく、自然の気配がある場所で境界を確認した方がいいと」
フィリアは思わず窓の外を見た。
近衛の屋敷の裏庭。白い花と薬草のある、静かな庭。レオナの話を聞いた場所でもある。
胸に少しだけ緊張が走ったが、不思議と嫌ではなかった。
「わかりました」
「無理はしないこと」
「はい」
「少しでも違和感があれば言うこと」
「はい」
「我慢しないこと」
「はい」
あまりに続くので、フィリアは小さく笑ってしまった。
「何か」
「いえ……セレスティアさまは、本当に確認が丁寧だなと思って」
「必要です」
「はい。知っています」
そう返すと、セレスティアは少しだけ黙った。
怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。彼女はただ、どう返せばいいのか一瞬迷ったような顔をしていた。
「……支度ができたら来なさい」
「はい」
扉が閉まったあと、フィリアは手帳を胸に抱えた。
昨日より、少しだけ息がしやすい。
*
庭には、朝露が残っていた。
薬草の葉先に透明な滴が光り、白い花はまだ半分眠っているように下を向いている。空気はひんやりしていたが、冷たすぎるほどではない。石壁に囲まれた小さな庭なのに、ここだけ王都の喧噪から少し遠い。
イザベラはすでに来ていた。
濃茶のローブの裾を片手で持ち上げ、薬草の近くにしゃがみ込んでいる。宮廷魔術師というより、庭の土を勝手に観察する偏屈な学者のようだった。
「遅いわよ」
「指定時刻より早いはずですが」
セレスティアが返すと、イザベラは立ち上がりながら肩をすくめた。
「私が先に来てるんだから遅いの」
「理不尽です」
「世の中そういうものよ」
あまりに自然な応酬に、フィリアは少し笑ってしまった。
イザベラはそれに気づくと、満足げに頷いた。
「笑えるなら悪くないわね。顔色も昨日よりいい」
「はい。少し眠れました」
「少し?」
横からセレスティアが低く反応した。
フィリアは慌てて付け足す。
「ちゃんと、です。少し早く起きただけで」
「ならいい」
イザベラは二人を見比べ、呆れたように息を吐いた。
「あなたたち、確認しないと会話できないの?」
「必要な確認です」
「はいはい」
マリエッタも庭へ茶の準備を持ってきており、そのやり取りを聞きながら肩を震わせていた。
訓練は、庭の中央で始まった。
昨日のように黒い欠片を使うのではなく、今日はイザベラが小さな袋から三つの石を取り出した。白い石、灰色の石、黒ずんだ石。どれも指先ほどの大きさだ。
「今日やるのは、見分け」
「見分け、ですか」
「そう。全部が全部、危険な穢れじゃない。古いもの、疲れたもの、ただ汚れているだけのもの。そういうのまで全部“悪いもの”扱いしてたら、あんたの体が持たない」
イザベラは白い石を卓へ置いた。
「これは浄化済み。何もない」
次に灰色の石を置く。
「これは古い祈祷具の欠片。力は抜けてるけど、悪いものではない」
最後に黒ずんだ石。
「これは昨日の残留物をかなり薄めたもの。危険は低いけど、嫌な感じはあるはず」
フィリアは三つの石を見た。
見た目だけなら、灰色の石と黒ずんだ石の差はそれほど大きくない。だが、腰の祈祷札は黒ずんだ石にだけ、かすかに反応していた。
「わかる?」
「少しだけ」
「じゃあ、目を閉じて」
フィリアは目を閉じた。
朝の庭の気配が濃くなる。土の匂い。薬草の匂い。近くにいる人たちの呼吸。遠くの訓練場の音。
その中に、三つの石の感覚を探す。
白い石は、ほとんど何もない。静かで、軽い。そこにあるだけ。
灰色の石は、少しだけ重かった。けれど嫌ではない。古い布や、長く使われた木の机に似ている。疲れているが、悪いわけではない。
黒ずんだ石は違う。
細い棘のようなものがある。近づくと、胸の奥が少しざらつく。
「……白は静かです。灰色は古くて、少し重い。でも嫌ではありません。黒い石は、ざらざらしています」
「よし」
イザベラの声がする。
「灰色を悪いものだと思わなかったのは大事よ。古いものや疲れたものまで全部敵に見えたら、王都なんて歩けないから」
フィリアは目を開けた。
「王都も、そうなんですか」
「そりゃそうよ。古い街だもの。祈りも恨みも喜びも後悔も、そこら中に染みついてる」
イザベラは何でもないように言う。
「問題は、それがただの名残なのか、今も人を傷つけるものなのか。そこを見分けること」
フィリアは頷いた。
何もかもを怖がる必要はない。
でも、危険なものから目を逸らしてもいけない。
その中間を見つける訓練なのだ。
「もう一度。今度は順番を入れ替えるわ」
イザベラが石を布で隠し、位置を変える。
フィリアは目を閉じる。
静かなもの。古いもの。ざらつくもの。
何度か繰り返すうちに、少しずつ違いがわかるようになってきた。まだ完璧ではない。迷うこともある。それでも、最初よりずっと落ち着いて感じ取れる。
セレスティアはずっと無言で見守っていた。
でも、フィリアが迷ったときだけ、決まって低く言う。
「急がなくていい」
それだけで、焦りが少し引く。
やがて五度目の見分けを終えたところで、イザベラが手を叩いた。
「はい、終わり」
「もう、ですか?」
「もう、よ。物足りないくらいで止めるのが訓練」
昨日も同じようなことを言われた気がする。
フィリアは苦笑した。
「続けたくなるのは、少し進めている証拠ですか」
「いいえ。調子に乗り始めた証拠よ」
容赦がない。
マリエッタがそこで茶を差し出した。
「では、調子に乗る前に休憩ですね」
「助かります」
フィリアは素直に受け取った。
温かい茶を飲むと、体の緊張がゆっくり解けていく。
庭の空気は、さっきより明るくなっていた。白い花も少し開いている。
「フィリア」
セレスティアが声をかけた。
「はい」
「今日の見分けは、良かった」
短い言葉。
けれど、昨日とはまた違う嬉しさがあった。
「ありがとうございます」
「ただし、過信しないこと」
「はい」
「今日わかったのは、薄いものを見分けられる可能性がある、という段階です」
「わかっています」
そう答えると、セレスティアは少しだけ目を細めた。
「本当に?」
「本当に」
フィリアが少しだけ強く返すと、マリエッタがまた笑いをこらえる顔になった。
イザベラは二人を見て、面白そうに言った。
「いいじゃない。言い返せるくらいには元気が出てきたってことよ」
フィリアは頬を赤くする。
「言い返したつもりでは……」
「言い返してたわよ」
即答だった。
セレスティアは否定しない。
フィリアはますます顔が熱くなったが、不思議と嫌ではなかった。
ちゃんと自分の言葉を返せる。
それは悪いことではないのだ。
*
訓練のあと、フィリアは庭に少し残った。
イザベラは屋敷内で黒刃の資料を見ると言って去り、マリエッタも茶器を片づけに戻った。セレスティアだけが、少し離れた場所に立っている。
白い花が風に揺れる。
フィリアはその花を見ながら、ぽつりと言った。
「灰色の石、少し好きでした」
セレスティアがこちらを見る。
「古いものの方ですか」
「はい。重いけど、嫌ではなくて。疲れているだけみたいで」
「疲れているだけ」
「変ですか」
「いいえ」
セレスティアは少し考えるように庭の石を見た。
「その感覚は、大事かもしれません」
「大事?」
「ええ。傷ついているものと、害を与えるものを分けて見られるなら」
その言葉に、フィリアは胸の奥が静かになるのを感じた。
傷ついているものと、害を与えるもの。
どちらも重く、暗く、見ただけでは似ているかもしれない。
でも違う。
人も、そうなのかもしれない。
王都で出会った人たちを思い浮かべる。
石を投げた人。リュシエンヌ。大司教。王太子。アーノルド。イザベラ。マリエッタ。セレスティア。
正しさの顔をした人。
傷を抱えた人。
誰かを傷つける人。
それでも完全には悪と呼べない人。
見分けることは、難しい。
「……わたし、まだたくさん間違えそうです」
「間違えるでしょう」
セレスティアはあっさり言った。
フィリアは思わず苦笑する。
「そこは否定してほしかったです」
「嘘になります」
「そうですね」
「ですが、間違えたら修正すればいい」
その言葉に、フィリアは目を上げた。
「最初からすべて正しく見分ける必要はありません。記録し、比べ、誰かに確認する。そうして精度を上げればいい」
セレスティアの声はいつも通り現実的だった。
でも、その現実的な言葉が、今のフィリアにはやさしい。
間違えても終わりではない。
直せばいい。
それは王都では教わらなかったことだった。
「……はい」
フィリアは頷いた。
「覚えておきます」
セレスティアは短く頷き返した。
そのとき、腰の祈祷札がほんの少し温かくなった。
フィリアは身構えたが、嫌な感じではない。
むしろ、庭の灰色の石に触れた時のような、古くて静かな反応だった。
「反応ですか」
セレスティアがすぐに気づく。
「はい。でも、大丈夫です。嫌なものではありません」
フィリアは庭の奥へ視線を向けた。
そこには、古い石灯籠があった。苔がつき、少し傾いている。きっと長くこの庭にあるものなのだろう。
「あの灯籠です。たぶん、古くて疲れているだけです」
「疲れている灯籠」
セレスティアが真面目に繰り返すので、フィリアは少し笑ってしまった。
「おかしいですね」
「いいえ。記録しておきましょう」
「本当に?」
「本当に」
セレスティアは真面目な顔のまま言う。
その様子が少し可笑しくて、けれどとても嬉しかった。
自分の感じたことを、変だと流さない。
ちゃんと扱ってくれる。
フィリアは庭の白い花と古い灯籠を見つめながら、静かに思った。
小さな境界線。
小さな見分け。
小さな記録。
そういうものを積み重ねて、自分の力を知っていくのだ。
守られるだけではなく、無茶をするのでもなく。
自分の足元に、少しずつ線を引きながら。




