第24話 聖女の力とは何か
訓練が終わったあと、フィリアはしばらく手帳を開いたまま、何も書けずにいた。
小部屋の窓から差し込む光は、午後にしては少し弱い。雲が出ているらしく、庭の白い花も、いつもより色を失って見えた。机の上には、イザベラが残していった封印箱が置かれている。中身はすでに別室へ移されたが、まだ微かに金属と薬草の匂いが残っていた。
境界を引く。
今日の訓練で教わったことは、たったそれだけだった。
けれどフィリアにとって、それは今までのどんな祈祷よりも難しかった。祈れ、と言われる方がずっと簡単だ。誰かのために手を合わせることなら、故郷の教会で何度もしてきた。苦しむ人のそばに座り、眠れない子どもの手を握り、涙を拭う老女の隣で黙っていることも。
だが、自分と相手の間に線を引くことは、ほとんどしたことがなかった。
誰かが苦しんでいれば、自分が何とかしなければと思ってしまう。自分には価値がないかもしれないから、せめて役に立たなければと思ってしまう。王都へ来てからは、それがもっと強くなった。
だから、境界を引くという行為は、どこか冷たいことのようにも感じられた。
フィリアは手帳に、ゆっくり文字を書きつける。
――押し返さない。消そうとしない。ここから先は自分の場所だと決める。
そこまで書いて、筆が止まった。
「自分の場所……」
声に出すと、少し不思議な響きがした。
自分の場所。
自分の領域。
自分が踏み荒らされないための線。
そんなものを持っていいのだろうか、と一瞬思ってしまうところが、たぶん自分の弱さなのだろう。
扉が軽く叩かれた。
「入っても?」
セレスティアの声だった。
「はい」
フィリアが返事をすると、扉が開く。セレスティアはいつもの黒い騎士服ではなく、少しだけ軽い上衣姿だった。午後の休息時間に入ったのかもしれない。とはいえ腰には短剣があり、完全に気を抜いた姿ではない。
「まだ書いていたのですか」
「はい。忘れないうちに、と思って」
そう言ってから、フィリアは少しだけ手帳を閉じかけた。
けれどセレスティアは覗き込もうとはしなかった。ただ、卓の向こう側に立ち、封印箱があった場所を一瞥する。
「疲れは」
「少しあります。でも、昨日よりは軽いです」
「ならいい」
短い返事。
そこで会話が終わるかと思ったが、セレスティアは椅子へ座った。少し珍しい。用件だけなら、いつも立ったまま済ませる人だ。
フィリアは筆を置く。
「何か、ありましたか」
「確認をしに来ました」
「確認?」
「今日の訓練で、あなたが何を感じたか」
その言い方は、記録のための確認にも聞こえた。だがセレスティアの声には、それより少し柔らかいものが混じっている。
フィリアは手帳に視線を落とした。
「穢れに近づかれるのが、怖かったです」
「ええ」
「でも、押し返さなくても止められるとわかったら……少し、楽でした」
「境界の感覚ですか」
「はい。まだ、ちゃんとできているのかはわかりません。でも、あれがあると、全部を受け取らなくていい気がしました」
言ってから、フィリアは少しだけ黙る。
全部を受け取らなくていい。
それは穢れに対してだけではない気がした。人の視線も、噂も、悪意も、期待も、同情も。王都へ来てから浴びてきたすべてを、フィリアは無意識に受け取ろうとしていたのかもしれない。
セレスティアは静かに頷いた。
「それが大事です」
「でも……」
「でも?」
「聖女なら、苦しんでいる人のものを受け取るべきなのかな、とも思ってしまって」
言葉にすると、思っていたより情けない響きになった。
フィリアは慌てて続ける。
「いえ、イザベラ様の言っていることはわかるんです。無理をしてはいけないって。でも、聖女って、本来は人の苦しみに寄り添うものなのかなって」
セレスティアはすぐには答えなかった。
窓の外で風が鳴る。遠くから、訓練場の号令がかすかに届いた。
「あなたは、聖女とは何だと思いますか」
逆に問われ、フィリアは目を瞬かせた。
「わたしが、ですか」
「ええ」
「……わかりません」
正直な答えだった。
「王都へ来るまでは、祈る人だと思っていました。人の痛みのそばにいて、少しでも楽になるように願う人。でも王都では、奇跡を起こす人でした。傷を治して、光を出して、王家や大聖堂に認められる人」
言いながら、胸が少し重くなる。
「そのどちらにも、わたしはなれなかった気がしていました」
「今は?」
セレスティアの問いは静かだった。
フィリアは手帳の表紙を指先でなぞる。
「今は……まだ、わからないです。でも、誰かの苦しみを全部引き受ける人ではないのかもしれない、と少し思いました」
それは、自分で言って初めて形になった考えだった。
「寄り添うことと、飲み込まれることは違うのかもしれません」
セレスティアの目が、わずかに和らいだ。
「良い答えです」
短い一言。
フィリアは頬が少し熱くなった。
「まだ、答えになっていないと思います」
「今はそれで十分です」
そう言って、セレスティアは机の上の手帳へ視線を向けた。中身を見るのではなく、そこにある行為を見ているようだった。
「聖女の力とは何か。王都の者は、わかりやすい結果で測りたがる。癒やしたか。光ったか。儀式に応えたか」
「はい」
「ですが、あなたの力はそうではない」
「……はい」
「なら、あなた自身も別の言葉で考える必要がある」
別の言葉。
フィリアはその一言を胸の中で繰り返した。
王都が用意した言葉ではなく、自分の感覚に近い言葉で。
偽聖女でも、失敗でも、無能でもなく。
浄化。顕在化。境界。
そして、寄り添うことと飲み込まれないこと。
「難しいですね」
思わず本音がこぼれた。
セレスティアは少しだけ目を細める。
「難しいです」
あっさり同意されたので、フィリアは小さく笑った。
「否定しないんですね」
「簡単だと嘘をつく理由がありません」
「それは、そうですけど」
セレスティアらしい答えだった。
けれど、こういう率直さに何度も救われている。変に励まされるより、ずっといい。難しいものは難しい。でも一緒に考えることはできる。そう言われている気がするからだ。
そこへ、扉の外からマリエッタの声がした。
「副団長、フィリア様。お茶をお持ちしても?」
「入って」
セレスティアが答える。
入ってきたマリエッタは、盆に茶と焼き菓子を載せていた。今日の菓子は小さな蜂蜜入りの丸い焼き菓子で、表面にうっすら粉砂糖が振られている。
「訓練後は甘いものが必要です」
マリエッタは当然のように言った。
「イザベラ様も、糖分を取らせなさいと仰っていました」
「イザベラ様が?」
「ええ。『あの子は放っておくと考えすぎるから、甘いもので一度頭を止めなさい』と」
あまりにその人らしい言い方で、フィリアは思わず笑ってしまった。
「その通りかもしれません」
「でしょう?」
マリエッタは茶を置きながら、ちらりとセレスティアを見た。
「副団長も召し上がってください。昨夜からずっと渋い顔ばかりですので」
「渋い顔は関係ないでしょう」
「関係あります。部屋の空気に影響します」
セレスティアは反論しかけて、やめた。
フィリアはそのやり取りにまた少し笑う。
こういう何気ない会話が、最近は少しだけ好きになっていた。刺客の夜も、地下聖具庫の不安も消えたわけではない。けれど、温かいお茶と、ささやかな冗談があるだけで、世界は少しだけ人の暮らしに戻る。
フィリアは焼き菓子をひとつ手に取った。
甘い。
やわらかくて、少し懐かしい味がする。
「……故郷の教会でも、似たものを焼いていました」
「そうなのですか?」
マリエッタが微笑む。
「はい。蜂蜜は高かったので、こんなに甘くはなかったですけど。冬祭りの日だけ、司祭様が少し多めに入れてくれて」
言いながら、フィリアは故郷の礼拝堂を思い出した。
古い暖炉。
焦げかけた菓子の匂い。
子どもたちの笑い声。
祈りの時間が終わったあと、みんなで分け合った小さな甘さ。
王都へ来てから、そんな記憶を思い出すと胸が痛むばかりだった。戻れない場所のように感じていたから。
でも今は、少し違う。
過去の温かさとして、ちゃんと手元に置ける気がした。
「その頃から、誰かのそばにいるのが好きだったのですか」
セレスティアがふいに尋ねた。
フィリアは少し考える。
「好き、というより……そうしていると落ち着きました。誰かが泣いていたり苦しんでいたりすると、自分の胸もざわざわしてしまって。そばにいると、そのざわざわが少し静かになるんです」
言ってから、今ならそれも力の一部だったのかもしれないと思う。
マリエッタが静かに頷いた。
「フィリア様にとっては、人の苦しみが遠くの出来事ではなかったんですね」
「そうかもしれません」
「だから境界が必要なのだと思います」
マリエッタの言葉に、フィリアは顔を上げる。
「優しい人ほど、線を引くことを悪いことのように思いがちです。でも、線がないと、そばにいることも続けられません」
その言葉は、今日の訓練の意味を別の角度から照らしてくれた。
境界は拒絶ではない。
そばにいるために必要なもの。
「……そばにいるための線」
フィリアが呟くと、セレスティアが短く頷いた。
「良い表現です」
また褒められた。
フィリアは慌てて手帳を開き、その言葉を書き留めた。
――境界は拒絶ではない。そばにいるための線。
書き終えると、胸の中に小さな灯りがともったような気がした。
聖女の力とは何か。
今日の答えは、まだ完全ではない。
でも、少しだけわかったことがある。
聖女とは、苦しみを全部引き受ける人ではない。
奇跡を見せるための飾りでもない。
少なくともフィリアにとっては、苦しみのそばに立つために、自分の場所を失わない人なのかもしれない。
それは王都が求める聖女像とは違うかもしれない。
けれど、フィリアはもう、その違いをすぐに“失敗”とは思わなかった。
「フィリア」
セレスティアが名を呼ぶ。
「はい」
「明日以降、訓練は少しずつ進めます。急がないこと」
「はい」
「自分で考えることは大切ですが、考えすぎたら止まること」
フィリアは少し笑った。
「それは、イザベラ様にも言われました」
「なら、二人分守りなさい」
「はい」
素直に頷くと、セレスティアの目元がほんの少しだけ緩んだ。
マリエッタはその様子を見て、満足そうに茶を注ぎ足す。
「では今日は、これ以上難しい話は終わりにしましょう。夕食まで少し休んでください」
「でも、記録をもう少し」
「休むことも記録の一部です」
「それは……」
フィリアが返答に困ると、セレスティアが静かに言った。
「同意します」
二人に言われては、もう逆らえない。
フィリアは手帳を閉じた。
訓練は始まったばかりだ。
聖女の力とは何か、その答えもまだ途中だ。
でも今日は、ひとつだけ確かな言葉を手に入れた。
境界は、拒絶ではない。
そばにいるための線。
フィリアはその言葉を胸の中でそっと繰り返しながら、温かい茶をもう一口飲んだ。




