第23話 浄化の訓練
それは、思っていたよりも静かな始まりだった。
「訓練」と聞いたとき、フィリアはもっと大げさなものを想像していた。魔法陣が床一面に描かれ、呪文を唱え、強い光が満ちるようなものを。
けれど実際に連れてこられたのは、屋敷の奥にある小さな空き室だった。
石造りの壁。
簡素な卓と椅子。
窓は小さく、外の光が細く差し込むだけ。
その中央に、布で覆われた小箱が置かれている。
「ここで行うわ」
イザベラが腕を組んで言った。
隣にはセレスティアが立っている。壁際に寄り、いつでも動ける位置だ。いつもの護衛の立ち位置だが、今日はそれに加えて「監督者」としての目も向けられている。
フィリアは小箱を見た。
胸が少しだけざわつく。
「中身は、昨日の残留物の一部よ」
イザベラが布に手をかける。
「もちろん、弱くしてある。いきなり本物でやるほど、私は無謀じゃないわ」
その言い方に、フィリアは少しだけ安心した。
布が外される。
中には、小さな黒ずんだ欠片が入っていた。石とも炭ともつかないそれは、見た瞬間にわかる。
嫌なものだ。
祈祷札が、腰の位置でじわりと熱を持つ。
「感じる?」
「はい……昨日のものと、似ています」
「当然ね。同じ系統だから」
イザベラは卓を軽く叩いた。
「今日やるのは“消すこと”じゃないわ」
フィリアは顔を上げる。
「消す……じゃない?」
「ええ。あなたはまだ、そんなことできない」
ばっさりだった。
だが、嫌な言い方ではなかった。
事実としての断言。
「じゃあ、何をするんですか」
「距離を取ること」
フィリアは首を傾げる。
「距離……?」
「あなたの力は、穢れに反応する。これはいいわね?」
「はい」
「でも、反応するだけだと引っ張られるの。昨夜みたいにね」
地下の気配。
引かれる感覚。
胸の奥を掴まれるような不快感。
フィリアは小さく頷く。
「だからまず、反応しても“引かれない”状態を作る」
イザベラはそう言って、フィリアの前に立った。
「手を出して」
フィリアは素直に両手を差し出す。
「目を閉じて」
言われた通りにする。
「いい? あなたの力は“見る”ものじゃない。“感じる”ものよ。視界に頼ると、余計なものまで拾う」
その言葉に、昨夜の黒い糸がよぎる。
確かに、見えた瞬間、恐怖も強くなった。
「今、あの欠片を感じて」
フィリアは意識を卓へ向ける。
すぐにわかった。
冷たい。
重い。
静かに腐っているような気配。
それが、じわじわと自分へ寄ってくる。
嫌だ。
身体がわずかに強張る。
「そこで止めて」
イザベラの声が落ちる。
「嫌だと思うのはいい。でも、“押し返そう”としない」
「え……?」
「押し返すと、ぶつかるのよ。あなたはまだ、それに耐えられない」
フィリアは戸惑う。
嫌なものが近づいてきたら、遠ざけたい。
それは自然なことのはずだ。
「じゃあ、どうすれば」
「ただ、線を引く」
イザベラはフィリアの手の上に、自分の指を軽く乗せた。
「ここから先は、自分の領域だって決めるの」
その言葉に、フィリアはゆっくり呼吸を整える。
線を引く。
押し返すのではなく、境界を決める。
自分の中へ入ってこないように。
フィリアは意識を胸の内側へ向けた。
怖い。
でも、逃げない。
昨日、自分は言った。
守られるだけではなく。
なら、これはその一歩だ。
静かに、意識を広げる。
黒い欠片の気配が近づいてくる。
じわりと、胸の奥をなぞろうとする。
――ここまで。
心の中で、小さく線を引く。
それは言葉でも、形でもない。
ただ、「ここから先は違う」と決める感覚。
すると、不思議なことが起きた。
気配が、止まった。
「……!」
フィリアの呼吸がわずかに乱れる。
押し返してはいない。
消してもいない。
でも、それ以上近づいてこない。
「いいわね」
イザベラの声が少しだけ柔らかくなる。
「それが最初の一歩」
フィリアはゆっくり目を開けた。
卓の上の欠片は、変わらずそこにある。
でも、さっきより距離があるように感じる。
「これが……」
「境界よ」
イザベラは頷いた。
「あなたが飲み込まれないための」
セレスティアが壁際から一歩だけ近づいた。
「負担は」
「少し、あります。でも……さっきより楽です」
正直に答える。
胸の圧迫感はある。
でも、押し潰されるような感じではない。
「よろしい」
セレスティアは短く言った。
その声に、わずかな安堵が混じっているのを、フィリアは聞き逃さなかった。
「次」
イザベラが指を鳴らす。
「今度は少しだけ近づけるわ」
「え」
「怖い?」
フィリアは一瞬迷った。
怖い。
正直に言えば、怖い。
でも。
「……少しだけなら」
そう答えると、イザベラはにやりと笑った。
「いい顔するじゃない」
欠片が、わずかにフィリアの方へ動かされる。
空気が重くなる。
祈祷札が、じわりと熱を持つ。
さっき引いた境界が、試される。
フィリアは深く息を吸った。
怖い。
でも、逃げない。
線を引く。
ここまで。
それ以上は、入らない。
気配がぶつかる。
押し返さない。
ただ、止める。
数秒。
長く感じる時間。
やがて、黒い気配がそれ以上進めなくなる。
「……できています」
フィリアは小さく言った。
自分でも信じられないくらい、声は落ち着いていた。
イザベラが頷く。
「いいわ。そのまま維持」
セレスティアは何も言わない。
ただ、じっと見ている。
その視線が、フィリアの背を支えている気がした。
やがてイザベラが欠片を元の位置へ戻す。
空気が軽くなる。
フィリアはその場で小さく息を吐いた。
「……終わり?」
「今日はここまで」
イザベラはあっさり言った。
「え、でも」
「やりすぎると壊れるわよ」
きっぱり。
フィリアは思わず苦笑する。
「まだ、そこまで強くないので」
「だから止めるの」
イザベラは肩をすくめた。
「続けるのは明日。今日はここで終わり」
セレスティアが静かに言う。
「よくやりました」
フィリアは顔を上げた。
その一言が、思っていたよりもずっと嬉しかった。
「……ありがとうございます」
胸の奥に、静かな熱が灯る。
怖かった。
でも、逃げなかった。
ほんの少しだけ、前に進めた。
守られるだけではなく。
その意味が、ほんの少しだけわかった気がした。




