第22話 守られるだけではなく
刺客の夜が明けても、屋敷の緊張は解けなかった。
朝の近衛騎士団管轄区は、いつもより人の動きが多い。廊下を行き交う騎士たちの足音は固く、低く交わされる報告の声も短い。窓の外では、外壁近くに残った痕跡を調べるため、数人の騎士が地面へ膝をついていた。
フィリアは小食堂の席で、温かい粥を前にしていた。
喉に残っていた黒煙の痛みは、マリエッタが用意してくれた香草薬のおかげでだいぶ和らいでいる。けれど、身体の奥に残った緊張はまだ抜けきっていなかった。
目を閉じれば、黒い外套の男がよみがえる。
音もなく開く扉。
刃に浮かぶ黒い紋様。
「苦しませない」と告げた低い声。
匙を持つ手が、ほんの少し止まる。
「無理に全部食べなくていいですよ」
向かいからマリエッタが声をかけた。
フィリアははっとして顔を上げる。
「……いえ、食べます」
自分でも少し驚くほど、はっきりした声が出た。
マリエッタが目を瞬かせる。
「フィリア様?」
「食べます。体力を戻さないと、何もできないので」
口にしてから、フィリアは自分の言葉を確かめるように匙を握り直した。
今までなら、食べられない自分を責めていたかもしれない。迷惑をかけていると考え、謝ってばかりいたかもしれない。けれど昨夜、セレスティアは言った。
まず失われないこと。
生きて、自分の力を知り、使い方を学ぶこと。
それが、今できる最初のことだと。
なら、食べることも、眠ることも、休むことも、逃げではない。
生きるための準備なのだ。
フィリアは粥を口へ運んだ。温かさが喉を通り、胃へ落ちる。体がほんの少しだけ戻ってくる感覚があった。
小食堂の扉が開いたのは、そのときだった。
セレスティアが入ってくる。
昨夜から休んでいないのだろうか。黒の騎士服は整っているが、目元には薄い疲労がある。それでも彼女の足取りは乱れず、背筋もまっすぐだった。
けれどフィリアにはもう、わかってしまう。
この人は、無理をしている。
「おはようございます、セレスティアさま」
「おはようございます」
セレスティアはいつも通り答え、席へ着いた。マリエッタがすぐに茶を注ぐ。
「追跡班から報告は?」
マリエッタが問うと、セレスティアは茶に口をつける前に答えた。
「刺客の血痕は西の水路で途切れました。逃走を補助した者がいるのは確実です。黒煙の残留物は封じています。イザベラへ確認を依頼しました」
「刃は?」
「こちらも封印済み。触れた木片が黒ずんでいました。呪的成分は強い」
フィリアの胸が小さく冷える。
あの刃が触れていたら。
その想像が一瞬よぎる。
だが、すぐに深呼吸した。怖い。怖くていい。でも、そこで固まったままではいたくない。
「セレスティアさま」
「何です」
「その刃のこと、わたしにも教えてください」
セレスティアの目が、静かにこちらを向いた。
「今すぐに?」
「はい」
「あなたは昨夜襲われたばかりです。無理に関わる必要はありません」
「無理に、ではありません」
フィリアは匙を置き、膝の上で手を重ねた。
「怖いです。でも、知らないままだと、もっと怖いです」
マリエッタが黙って二人を見守る。
セレスティアはすぐには答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
フィリアは続ける。
「昨日、わたしが黒い糸に気づけたのは、たぶんわたしの力が反応したからです。なら、あの刃や煙のことも、わたしにしかわからないことがあるかもしれません」
「それでまた負担がかかる可能性があります」
「わかっています」
「わかっているなら――」
「だから、勝手には触りません。近づきません。セレスティアさまと、イザベラ様が安全だと判断した範囲だけにします」
言い切ると、セレスティアの言葉が止まった。
フィリア自身も、胸が少し震えていた。
こんなふうに自分から条件を出すことなど、以前の自分ならできなかった。
けれど、今は言える。
「守られるだけではなく、わたしも、知りたいんです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。
守られるだけではなく。
この章の扉が、自分の中で開いた気がした。
セレスティアはフィリアをじっと見た。
その視線は厳しい。
でも、突き放すものではない。
「……あなたは、昨夜のことを軽く見ているわけではありませんね」
「はい」
「怖さも、残っている」
「はい」
「それでも知りたいと」
「はい」
三度目の返事で、セレスティアは小さく息を吐いた。
「わかりました」
フィリアは目を見開く。
「いいんですか」
「条件付きです」
いつもの冷静な声だった。
「イザベラの立ち会い。私の同席。反応が出たら即中止。あなたが体調を隠した場合、その後の関与は認めません」
厳しい条件だった。
でも、嬉しかった。
“駄目”ではなく、“条件付きで認める”と言ってくれたからだ。
「はい。約束します」
フィリアが頷くと、セレスティアは少しだけ目を細めた。
「約束です」
その言葉が、いつもより少し重く聞こえた。
*
午前の遅い時間、イザベラが屋敷へ到着した。
昨夜の報告を受けていたらしく、いつも以上に険しい顔をしている。灰金の髪をきっちり結い上げ、濃茶のローブの上から簡易防護用の銀糸飾りを肩に掛けていた。
「まったく、次から次へと面倒を持ってくるわね」
開口一番、それだった。
フィリアは思わず頭を下げる。
「すみません……」
「あなたが謝ることじゃないわ。殺しに来たやつが悪い」
即座に切り返され、フィリアは目を瞬かせた。
投げた側が悪い。
殺しに来たやつが悪い。
当たり前なのに、いちいち胸へ沁みる。
イザベラはフィリアの顔をじっと見た。
「顔色は悪くないわね。喉は?」
「少し痛みますが、大丈夫です」
「たぶん、じゃないのね」
「はい」
「ならよし」
短いやりとりのあと、封鎖された客間近くの小部屋に、刺客が残した黒煙の残留物と、床に焼きついた黒斑を削り取った石片が運ばれた。刃そのものはまだ危険が高いため、別室に封印したままだという。
フィリアはセレスティアの隣に立っていた。
その距離は近い。
近いけれど、以前のように“隠される”位置ではない。
見える場所に立たせてもらっている。
それだけで、少しだけ背筋が伸びた。
「まず、見るだけ」
イザベラが釘を刺す。
「触らない。近づきすぎない。嫌な感じが強くなったらすぐ言う」
「はい」
「我慢したら、次から絶対に見せない」
「はい」
厳しい。
でも、その厳しさの中にはちゃんと安全があった。
卓の上に置かれた小さな石片は、黒く煤けていた。
けれど普通の煤とは違う。
表面が乾いているのに、底の方で濡れたような艶がある。見ているだけで、胸の奥に薄い不快感が広がった。
腰紐に結んだ祈祷札が、じわりと熱を持つ。
「反応しています」
フィリアはすぐに言った。
セレスティアの視線がこちらへ向く。
「強さは」
「昨夜ほどではありません。でも……嫌です。静かに腐っているみたいな」
イザベラがその表現に眉を上げた。
「静かに腐っている、ね。面白い感覚表現をするじゃない」
「す、すみません」
「褒めてるのよ」
そう言って、イザベラは銀の細い棒を石片の近くへかざした。棒の先に薄灰色の靄がまとわりつき、すぐに白い火花のように弾ける。
「呪煙ね。相手を殺すためというより、視界と感覚を鈍らせるもの。逃走用でもあり、標的を弱らせるためでもある」
「標的……」
自分のことだ。
フィリアは胸が冷えるのを感じたが、逃げなかった。
「これ、地下聖具庫の気配と似ていますか?」
フィリアが尋ねると、セレスティアの眉がわずかに動いた。
「無理に比べなくていい」
「無理ではありません。……少し、確認します」
フィリアは石片をじっと見た。
黒い靄。
腐った香。
油のように伸びる悪意。
それと、地下聖具庫の名前を見たときの感覚。
冷たい石。
沈んだ重さ。
閉じた扉の奥から滲むもの。
「同じでは、ないです」
フィリアはゆっくり言った。
「地下聖具庫の方は、もっと古くて、重くて、沈んでいる感じでした。これは……それを薄くして、刃物みたいに尖らせた感じがします」
部屋の空気が変わった。
イザベラが真顔になる。
「薄くして、尖らせた」
「はい。元の水は同じ井戸かもしれないけど、形が違うというか……すみません、うまく」
「十分よ」
イザベラはセレスティアを見る。
「系統が繋がっている可能性がある。地下聖具庫にある何かを、加工して使ったか、同じ汚染源から呪具を作ったか」
セレスティアの目が冷たくなる。
「つまり、刺客と地下は無関係ではない」
「断定はまだ早い。でも線は濃いわ」
フィリアは黙ってその会話を聞いていた。
怖い。
やはり怖い。
でも、自分の言葉が情報になっている。
自分が感じたことが、調査を少し前へ進めている。
その事実に、身体の奥が小さく震えた。
役に立ちたいと思っていた。
でも、役に立つとはこういうことなのだろうか。
怖いものを見て、感じて、それを言葉にすること。
誰かが危険を避けられるように。
「フィリア」
セレスティアの声で現実へ戻る。
「顔色が落ちています。ここまでです」
「まだ――」
「約束」
短い一言。
フィリアは口を閉じた。
そうだ。
約束した。
無理はしない。隠さない。反応が出たら止める。
「……はい。少し、気持ち悪いです」
「下がって」
セレスティアの声は厳しいが、どこか安堵も混じっていた。
言えたことに対しての。
マリエッタがすぐに椅子を引き、温かい茶を持ってくる。フィリアはそこへ座り、深く息を吐いた。
イザベラが石片を封じ直しながら言う。
「今のは良かったわ。限界の前に言えた」
「……良かった、ですか」
「ええ。力を使うことより、止まる判断の方が大事な時もある」
その言葉に、フィリアは静かに頷いた。
守られるだけではなく。
でも、無茶をすることでもなく。
自分の力を知るというのは、たぶん境界を知ることでもあるのだ。
*
午後、フィリアは書斎の片隅で、今日感じたことを紙に書き出していた。
イザベラの勧めだった。
「感覚は言葉にしておきなさい。あとで比べられるから」
そう言われ、マリエッタが手帳を用意してくれた。表紙は淡い灰色で、手のひらより少し大きい。そこへフィリアは拙いながらも、感じたことを書いていく。
黒煙。
腐った香。
刃物のように尖った穢れ。
地下聖具庫とは同じではないが、遠いところで似ている。
見続けると胸が悪くなる。
祈祷札は腰位置でも反応。
文字にすると、不思議と恐怖が少し小さくなる。
得体の知れないものだった感覚が、記録になるからだ。
セレスティアは机の向こうで、地下聖具庫の出入り記録を確認している。
時折、フィリアの方を見るが、口は出さない。
見守られている。
けれど、任されてもいる。
その距離が、今のフィリアにはとても大事だった。
「セレスティアさま」
「何です」
「今日は、ありがとうございました」
「何に対する礼ですか」
「見せてくださったことです」
セレスティアは少しだけ目を細めた。
「危険でもありました」
「はい。でも、約束を守れば見せてくださるんだって、わかりました」
フィリアは手帳へ視線を落とす。
「それが、嬉しかったです」
セレスティアはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「あなたが約束を守ったからです」
その言葉に、フィリアの胸があたたかくなる。
信用された、とはまだ言い切れないのかもしれない。
でも、少なくとも小さな約束をひとつ積み上げられた。
守られるだけではなく。
無茶をするだけでもなく。
約束を守りながら、隣へ近づいていく。
フィリアは手帳の最後に、小さく一行を書き足した。
――怖かった。でも、逃げなかった。
それを見て、胸の中に少しだけ誇らしいものが灯る。
まだ弱い。
まだ怖い。
でも、昨日の自分より少しだけ前へ進んでいる。
書斎の窓の外では、午後の光が静かに傾き始めていた。
王都の地下にあるものも、刺客を送った者も、まだ見えない。
けれどフィリアはもう、ただ震えて待つだけではなかった。
自分の言葉で、感じたことを記録する。
それが、守られるだけではなく立つための、最初の一歩だった。




