第21話 失いたくない
刺客が消えた夜のあと、近衛の屋敷は眠らなかった。
廊下には騎士たちの足音が絶えず響き、窓の外では外壁沿いを捜索する灯火がいくつも揺れていた。遠くで短い号令が飛び、門の開閉音が低く鳴る。普段から警戒の厳しい屋敷ではあったが、今夜の空気は明らかに違っていた。
誰かが、フィリアを殺しに来た。
その事実だけが、屋敷中の温度を変えていた。
フィリアは客間ではなく、応急的に移された小さな控え室にいた。先ほどまで使っていた部屋は、侵入経路と残留物の確認のため封鎖された。寝台、窓枠、扉、刺客が落とした黒煙の痕、床に焼きついたように残る黒い斑点。それらはすべて調査対象になった。
控え室には、マリエッタが用意してくれた厚手の毛布と温かい茶がある。けれど、手はまだ震えていた。
寒いわけではない。
怖かったのだ。
あの刃が目の前に来た瞬間。
男の声が「苦しませない」と告げた瞬間。
自分が死ぬものとして扱われているのだと、身体が理解してしまった。
処刑台の恐怖とは違う。
あれは大勢の前で、正しさの名を借りて命を奪われる恐怖だった。
今夜のこれは、暗闇の中で、何の声も残せずに消される恐怖だった。
どちらも怖い。
けれど今夜は、別のことも怖かった。
セレスティアの顔だ。
刺客を追い払った直後、セレスティアはフィリアを抱きしめていた。あの冷静な人が、声を掠らせて「無事でよかった」と言った。腕に力がこもっていた。まるで、少しでも離せば本当に失ってしまうと恐れているようだった。
それが胸から離れない。
嬉しいと思った。
でも同時に、痛かった。
セレスティアの中にある、レオナを守れなかった記憶。
その痛みが、今夜また抉られたのではないかと思うと、フィリアの胸まで苦しくなる。
「フィリア様」
マリエッタが、湯気の立つ茶を差し出した。
「少しだけでも飲んでください。喉に煙が残っているはずです」
「……ありがとうございます」
カップを受け取ると、指先に温かさが戻ってくる。香草の匂いが強めだった。おそらく、落ち着くように調合してくれたのだろう。
ひと口飲むと、喉に引っかかっていた黒煙の苦さが少し薄れた。
「セレスティアさまは……」
尋ねるつもりではなかった。
でも、気づけば口に出ていた。
マリエッタは少しだけ表情を曇らせる。
「刺客の残したものを確認しています。近衛の騎士たちと、封鎖範囲の指示も」
「休まれないんですね」
「今夜は無理でしょう」
静かな答えだった。
それは責めるような言い方ではなく、長く仕えている者だからこそわかる諦めに近かった。
「副団長は、こういう時ほど止まりません。止まると、考えてしまうから」
「考えてしまう……」
「ええ。何を失いかけたのかを」
その言葉に、フィリアはカップを握る手へ力を込めた。
胸の奥が痛む。
自分も怖かった。
けれど、セレスティアも怖かったのだ。
きっと、違う形で。
そのとき、控え室の扉が叩かれた。
マリエッタがすぐに立ち上がる。
「はい」
「私です」
低い声。
セレスティアだった。
扉が開く。
入ってきた彼女は、戦闘直後よりさらに空気を鋭くしていた。黒の上衣の袖には薄く煤がつき、剣帯もそのままだ。髪は少しだけ乱れていたが、それでも姿勢は崩れていない。
ただ、目が冷たかった。
フィリアへ向ける目ではない。
敵へ向けるために、感情を凍らせた目だ。
「怪我はありませんか」
開口一番、それだった。
フィリアは小さく頷く。
「はい。煙を少し吸っただけです」
「喉は」
「少し痛いですが、マリエッタさんのお茶でだいぶ……」
「そうですか」
セレスティアは短く答えたあと、マリエッタへ視線を向ける。
「医務官には」
「呼んであります。まもなく来ます」
「念のため、肺と喉を確認させてください。黒煙に呪的成分が混じっていた可能性があります」
「承知しています」
二人の会話は実務的だった。
必要な確認。
必要な指示。
そのどれもがフィリアを守るためのものだとわかる。
でも、だからこそ、セレスティアが一度も腰を下ろさないことが気になった。
「セレスティアさま」
「何です」
「……少し、座ってください」
言った瞬間、マリエッタがわずかに目を見開いた。
セレスティアも、予想していなかったのか、短く沈黙する。
「私は問題ありません」
「問題なくても、座ってください」
自分で言ってから、フィリアは少し驚いた。
こんなふうに強く言うつもりはなかった。
でも、言わずにはいられなかった。
セレスティアの目が細くなる。
「今は確認することが――」
「セレスティアさま」
フィリアはもう一度呼んだ。
その声が震えていたせいか、セレスティアは言葉を止める。
「わたしは、ここにいます」
低い騒音のようだった屋敷の音が、少し遠のいた気がした。
フィリアはカップを膝の上へ置き、まっすぐセレスティアを見る。
「ちゃんと、生きています。だから……少しだけ、座ってください」
セレスティアの表情が、かすかに揺れた。
冷たく整えていた目の奥に、別の色が浮かぶ。
あの刺客の夜の直後に見えた、切実な恐れに近い色。
マリエッタは何も言わなかった。
ただ静かに一歩下がり、部屋の隅にある椅子を示す。
長い沈黙のあと、セレスティアはようやく椅子へ腰を下ろした。
それでも背筋はまっすぐで、すぐ立ち上がれる姿勢のままだ。
「……これでいいですか」
「はい」
フィリアは小さく頷いた。
座ってくれただけなのに、少しだけ安心する。
立ったまま、剣のように張り詰めている姿は、今にも自分自身を削ってしまいそうで怖かったからだ。
「刺客は、捕まらなかったんですね」
フィリアが尋ねると、セレスティアの目にまた冷たさが戻る。
「逃走しました。ただし、無傷ではありません。外壁を越えた痕跡と血痕があります」
「血……」
「こちらの追跡班が追っています。ですが、逃走経路に黒煙と同系統の妨害痕がありました。単独ではない可能性が高い」
マリエッタが静かに補足する。
「誰かが外で逃走を助けたということですね」
「ええ」
セレスティアは頷いた。
「そして刺客の刃ですが、単なる毒刃ではありませんでした。黒い紋様に呪的な成分がある。触れれば傷口から穢れを流し込む類のものです」
フィリアの背筋が冷えた。
あの刃が、自分に触れていたら。
ただ傷を負うだけでは済まなかったのかもしれない。
「あなたの祈祷札が、刃の紋様を一瞬乱した」
セレスティアの視線が、フィリアの腰元へ向く。
「それがなければ、もっと危険でした」
「わたしは……ただ、嫌だと思っただけです」
「それで十分です」
その返答は静かだった。
「あなたは抵抗した」
抵抗。
その言葉に、フィリアは息を呑む。
そうか。
自分は、抵抗したのだ。
処刑台の上ではできなかったことを、今夜、ほんの少しだけ。
「……怖かったです」
「ええ」
「足も、動かなくて。声も、ほとんど出なくて」
「それでも言った」
セレスティアの声が落ちる。
「嫌だと」
フィリアは膝の上のカップを見つめた。
そうだ。
たった二文字だった。
いや、と。
何も言えないまま終わるのは嫌だと。
それだけの言葉が、あの夜の自分を処刑台の上の自分とは違う場所へ立たせたのかもしれない。
マリエッタが少しだけ柔らかく言う。
「フィリア様は、ちゃんとご自分を守ろうとされました」
「……守ろうと」
「ええ」
胸が熱くなる。
自分が、自分を守ろうとした。
それは当たり前のようで、フィリアにとっては当たり前ではなかった。
ずっと、誰かに裁かれる側だった。
自分を守る権利があると、思えていなかった。
でも今夜、怖くても嫌だと言えた。
そのことを、セレスティアもマリエッタも見てくれている。
扉の外で足音が止まり、医務官が到着した。
フィリアは簡単な診察を受けた。喉と肺に大きな異常はなく、黒煙の影響も今のところ軽い。ただし念のため、しばらくは喉に負担をかけないこと、香草薬を飲むこと、夜明けまで誰かが様子を見ることになった。
診察が終わると、マリエッタが医務官を外へ送り、控え室にはまたフィリアとセレスティアだけが残った。
先ほどより、部屋は静かだった。
屋敷の騒ぎは続いている。
けれど、ここだけ少し切り離されている。
フィリアは毛布を引き寄せながら、そっとセレスティアを見た。
彼女はまだ椅子に座っている。
剣はすぐ手の届く位置に置かれ、視線は扉と窓を何度も確認している。
警戒は解いていない。
でも、それ以上に、何かを押し殺しているように見えた。
「セレスティアさま」
「何です」
「……怖かったですか」
自分でも、踏み込みすぎた問いだと思った。
セレスティアは一瞬、答えなかった。
灰青の瞳が静かにフィリアへ向く。
その目は、怒ってはいなかった。
ただ、隠していたものを突然見られた人のように、少しだけ静かすぎた。
「私が?」
「はい」
「私は騎士です」
いつものような返答。
けれど、今夜のフィリアはそこで引かなかった。
「騎士でも、怖いことはあると思います」
セレスティアの指が、椅子の肘掛けに触れる。
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて彼女は、少しだけ目を伏せた。
「……ありました」
その声は、ひどく低かった。
フィリアの胸が、きゅっと痛む。
「あなたの部屋の扉が開いていた時」
セレスティアは静かに言う。
「間に合わなかったかもしれないと、思いました」
言葉が一つずつ落ちるたびに、フィリアの胸にも重みが増していく。
「黒煙が出た時、視界が切れた。窓へ逃げた刺客より、あなたが煙に巻かれたことの方が先に浮かんだ」
セレスティアの拳が、ごくわずかに握られる。
「私はまた、守れないのかと」
フィリアは息を止めた。
また。
その一語に、レオナの影が重なる。
やはり、そうだったのだ。
今夜、セレスティアはただ刺客へ怒っていたのではない。
過去の痛みごと、フィリアを失う恐怖に触れてしまっていた。
「セレスティアさま……」
「わかっています」
彼女はフィリアが何を言おうとしたのか察したように、静かに続けた。
「あなたはレオナではない。私はあなたを代わりにしているわけではない。昼間、そう言いました」
「はい」
「それでも」
セレスティアの声が、初めて少し揺れた。
「失うことへの恐怖は、別です」
フィリアは胸の奥が熱くなる。
セレスティアはゆっくり顔を上げた。
「私は、あなたを失いたくない」
その言葉は、部屋の静けさの中で、あまりにもはっきり響いた。
フィリアの心臓が、強く鳴る。
失いたくない。
それは護衛としての言葉かもしれない。
保護対象を守る責任としての言葉かもしれない。
でも、それだけではなかった。
少なくとも今のセレスティアの顔は、義務だけを語る人の顔ではなかった。
「……わたしを、ですか」
確認する声が震える。
セレスティアは逃げなかった。
「はい」
短く、まっすぐに。
「あなたを」
フィリアの目元が熱くなる。
どうして今夜は、こんなにも涙が出そうになるのだろう。
怖かったからだけではない。
生きているからだ。
生きていて、この人の言葉を聞いているからだ。
「……わたしも」
フィリアは毛布を握りしめながら、ゆっくり言った。
「セレスティアさまに、いなくなってほしくありません」
セレスティアの瞳がわずかに揺れる。
「今夜、黒い糸が剣に絡もうとしたとき……すごく怖かったです。もしセレスティアさまが傷ついたらって」
言葉にすると、またその瞬間の映像が蘇る。
黒い糸。
刃を伝う穢れ。
セレスティアの手元へ伸びる悪意。
「わたし、守られるだけじゃ嫌です」
その言葉は、まだ完全な決意と呼ぶには小さい。
でも確かに、胸の奥から出てきたものだった。
「まだ何もできないかもしれません。でも……あなたが傷つくのを見ているだけなのは、嫌です」
セレスティアはしばらく黙っていた。
怒られるかもしれないと思った。
無理をするなと、今はまだその段階ではないと、そう言われるかもしれない。
けれど、返ってきたのは違う言葉だった。
「……では、生きていなさい」
フィリアは顔を上げる。
セレスティアは、静かに続ける。
「あなたが生きて、自分の力を知り、使い方を学ぶこと。それが、今できる最初のことです」
「……はい」
「守られるだけで終わりたくないのなら、まず失われないことです」
その言葉は厳しい。
でも、やさしかった。
フィリアは涙をこらえながら頷く。
「生きます」
セレスティアが静かにフィリアを見る。
「何も言えないまま、終わりません」
あの刺客の前で言った言葉を、もう一度、自分の意思で言う。
「ちゃんと、ここにいます」
セレスティアの表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。
それから彼女は立ち上がり、フィリアの前へ来た。
今度は抱きしめるのではなく、そっと膝をつき、フィリアの手に触れた。
確認するように。
そこにいることを確かめるように。
「ええ」
低い声が落ちる。
「ここにいてください」
フィリアはその手を、今度は自分から握り返した。
手は温かかった。
少しだけ冷えた指先を包むように、確かな熱がある。
屋敷の外では、まだ刺客の行方を追う騎士たちの声が続いている。
事件は終わっていない。
黒い刃の謎も、地下聖具庫の気配も、何一つ解決していない。
けれどこの夜、二人の間にはひとつの言葉が残った。
失いたくない。
それはまだ恋と呼ぶには早いのかもしれない。
けれど、ただの義務ではなかった。
ただの庇護でもなかった。
フィリアはその言葉を、震える胸の奥へ大切にしまった。




