第20話 大聖堂への道
明後日――その日付は、あまりにも近かった。
書状を受け取った翌朝、フィリアはまだ薄暗い時間に目を覚ました。
眠れなかったわけではない。むしろ、ここ数日の中では驚くほど静かに眠れた。
だが、目を開けた瞬間、胸の奥で小さく何かが鳴る。
――大聖堂へ行く。
その事実だけが、すぐに意識の表面へ浮かび上がってきた。
寝台の上で身を起こし、両足を床へ下ろす。
冷たい石の感触が、妙に現実的だった。
戻るのだ。
あの場所へ。
候補生として迎えられ、
失敗者として扱われ、
最後には罪人として引き出された場所へ。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
けれど同時に、別の感覚もあった。
逃げてはいない、という感覚。
昨日までなら、ただ恐怖だった。
けれど今は、その恐怖の中に、小さな芯のようなものがある。
「……大丈夫」
自分へ言い聞かせるように呟く。
大丈夫。
何がどう大丈夫なのかは、まだはっきりしない。
それでも、以前のように何もかも崩れていく感じはなかった。
着替えを済ませ、扉を開ける。
廊下にはすでに人の気配があった。
朝の近衛は早い。
騎士たちの足音が規則的に響き、使用人たちが静かに動いている。
フィリアが小食堂へ向かうと、マリエッタがすでに準備を整えていた。
「おはようございます、フィリア様」
「おはようございます」
マリエッタはフィリアの顔を一瞬見て、少しだけ安心したように頷く。
「眠れましたか?」
「はい。思っていたよりも」
「それはよかった」
そう言って、温かい茶を差し出してくれる。
その湯気を見ていると、少しだけ呼吸が整う。
「副団長は?」
「すでに書斎です。昨夜から資料を見直していらっしゃいます」
フィリアは小さく頷いた。
セレスティアは、こういうとき迷わない。
やるべきことを整理して、一つずつ潰していく。
それがどれほど心強いか、フィリアはこの数日でよく知っていた。
*
書斎の扉を叩くと、すぐに声が返る。
「入って」
フィリアが中へ入ると、机の上には書類が広げられていた。
大聖堂の配置図、候補生棟の見取り図、聖印具の管理記録の写し――。
セレスティアはそれらの上に手を置いたまま、こちらを見た。
「早いですね」
「……少し、落ち着かなくて」
「当然です」
その一言で、フィリアの肩の力が少し抜ける。
無理に平静を装わなくていい。
そう言われているようだった。
「座りなさい」
促されるまま、机の向かいに腰を下ろす。
セレスティアは一枚の紙をフィリアの方へ向けた。
「これは大聖堂の簡易図です。あなたがいた頃と大きくは変わっていないはずですが、確認しておきます」
フィリアはそれを見つめる。
見慣れたはずの構造。
中央礼拝堂、回廊、候補生棟、司祭区画。
そして――聖印具保管室。
そこへ視線が止まる。
胸が、わずかにざわついた。
「……ここです」
指先で示す。
「保管室の前で、あの感じがありました」
「どの程度の強さでしたか」
「……押し返されるような、重さでした。息がしづらくなるくらい」
セレスティアは無言で頷き、別の紙へ何かを書き込む。
「それが常にあったのか、それとも一時的なものかは不明ですが……少なくとも異常です」
マリエッタが後ろから覗き込む。
「通常の聖具保管室で、そのような感覚はあり得ませんね」
「ええ」
セレスティアは短く答える。
「ですので、今回の目的は三つ」
指で机を軽く叩く。
「一つ、大聖堂内の空気を確認すること。
二つ、保管室周辺への接近。
三つ、リュシエンヌの動向の観察」
フィリアは息を呑む。
改めて聞くと、簡単な話ではない。
「……わたしは、何をすればいいでしょうか」
「無理に何かをする必要はありません」
セレスティアははっきり言う。
「感じたことを、そのまま伝えなさい。それだけで十分です」
フィリアは小さく頷く。
それなら、できるかもしれない。
無理に強くなろうとしなくていい。
ただ、自分の感覚を誤魔化さなければいい。
「それと」
セレスティアが少しだけ視線を上げた。
「昨日、リュシエンヌに何を感じましたか」
その問いに、フィリアは少しだけ考えた。
「……はっきりした穢れ、という感じではありませんでした」
「違う?」
「はい。でも……空気の底が、少し冷たいような」
言葉を選びながら続ける。
「見えない何かを隠している、というより……触れられたくないものがある、みたいな」
マリエッタが小さく息をつく。
「厄介ですね」
「ええ」
セレスティアも同意する。
「明確な汚染なら対処は容易ですが、意図的に隠されたものは厄介です」
フィリアは机の上の地図を見つめた。
大聖堂。
そこにある“正しさ”。
そして、その裏にあるかもしれないもの。
昨日までは、ただ怖かった。
だが今は、怖さの中に“知りたい”という感情が混じっている。
「……セレスティアさま」
「何です」
「もし、わたしの力で何か見えてしまったら……どうすればいいでしょうか」
正直な問いだった。
見えるのが怖い。
でも、見えたものから目を逸らすのも、同じくらい怖い。
セレスティアは少しだけ考えてから答える。
「まず、私に伝えなさい」
それから、続ける。
「一人で抱え込まないこと。それが最優先です」
フィリアはその言葉をゆっくり噛みしめる。
一人で抱え込まない。
それは、今の自分にとって何より難しく、そして何より必要なことだった。
「……はい」
小さく、でも確かに頷く。
セレスティアはそれを見て、わずかに目を細めた。
「それでいい」
その一言で、胸の奥の不安が少しだけ形を失う。
*
その日の午後は、準備に充てられた。
服装は目立たないもの。
だが、粗末には見えないもの。
フィリアは昨日選んだ薄青灰色のワンピースを試着した。
鏡の前に立つ。
そこに映るのは、以前とは少しだけ違う自分だった。
同じ顔。
同じ髪。
同じ体。
でも、目の奥が違う。
まだ弱い。
まだ揺れる。
それでも、完全に折れてはいない。
「……行ける」
小さく呟く。
怖いままでいい。
震えていてもいい。
それでも、足を止めない。
扉の向こうから、マリエッタの声がした。
「フィリア様、準備はいかがですか?」
「はい、今行きます」
返事をして、もう一度だけ鏡を見る。
偽りではなかった自分。
癒やしではない力を持つ自分。
そして、これから王都の“正しさ”と向き合う自分。
まだ名前のつかないその自分へ、フィリアは小さく頷いた。
明日、大聖堂へ向かう。
すべてが変わるとは思わない。
でも、何かが動き出すことだけは、確かだった。




