第19話 代わりではないか
セレスティアが語った“レオナ”という名は、翌日になってもフィリアの胸の中に残っていた。
朝の光が客間へ差し込み、マリエッタが用意してくれた湯で顔を拭き、腰紐に祈祷札を結び直しても、その名はどこか消えなかった。
レオナ。
セレスティアが、守れなかった人。
妹のように育った人。
心の痛みに敏感で、聖堂に利用され、壊れかけ、王都から離れた人。
フィリアは鏡の前で髪を整えながら、自分の顔を見つめた。
淡い蜂蜜色の髪。
薄青の瞳。
まだ少し痩せた頬。
王都へ来る前より、どこか疲れた顔。
レオナという人は、どんな顔をしていたのだろう。
自分に似ていたのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
違う。
そんなことを考えるべきではない。
セレスティアはそんなふうには言っていなかった。
レオナの代わりとして自分を見ているなど、一言も。
けれど一度芽生えた疑いは、簡単には消えなかった。
セレスティアが処刑台で自分を止めた理由。
自分の手首の傷を丁寧に手当てしてくれた理由。
眠れない夜に手を握ってくれた理由。
無茶をしないように何度も止める理由。
それらはすべて、優しさや信頼だと思っていた。
いや、今もそう信じたい。
でも、もしその奥に“今度こそ守りたい”という過去への償いがあるのだとしたら。
自分は、フィリアとして見られているのだろうか。
それとも、守れなかった誰かの影として、見られているのだろうか。
そんなことを考える自分が嫌だった。
セレスティアは、誰よりも誠実に向き合ってくれている。
疑うなんて失礼だ。
それなのに、不安は胸の奥に沈んでいく。
「……だめ」
小さく呟いて、フィリアは髪紐を結んだ。
今日は地下聖具庫の周辺記録をさらに洗う日だと聞いている。
自分は屋敷内で待機し、必要があれば祈祷札の反応を記録する。
昨日セレスティアに示された、今の自分の役目。
なら、余計なことを考えている場合ではない。
そう思ったのに、小食堂へ向かう足取りは少し重かった。
*
朝食の席で、セレスティアはいつも通りに見えた。
黒の騎士服。
整えられた髪。
静かな灰青の瞳。
食事の量も、会話の少なさも、普段と変わらない。
ただ、フィリアの方が普段通りではなかった。
セレスティアが「手首の具合は」と問えば、フィリアは少し遅れて「大丈夫です」と答える。
祈祷札の反応を聞かれれば、「今は落ち着いています」と返す。
どれも必要な会話なのに、言葉の出方がどこかぎこちない。
自分でもわかる。
セレスティアも気づいているはずだ。
けれど彼女は、食事中には追及しなかった。
ただ一度だけ、フィリアの顔色を見るように視線を向けた。
「体調が悪いのですか」
「い、いえ……体調は、大丈夫です」
嘘ではない。
身体は悪くない。
悪いのは胸の中だけだ。
「そうですか」
セレスティアはそれ以上聞かない。
その配慮が、逆に胸を締めつける。
マリエッタは二人の様子を交互に見て、何かを察したようだった。
だが彼女もまた、今は何も言わなかった。
朝食が終わると、セレスティアは書斎へ向かい、マリエッタも地下聖具庫の管理記録を受け取るために外部との連絡へ出た。
フィリアは客間に戻ることになったが、部屋の中にいるのが少し息苦しくて、自然と裏庭へ足が向いた。
昨日、レオナの話を聞いた庭。
白い花が朝の光を受けて揺れていた。
薬草の葉に、まだ露が残っている。
静かな庭だった。
けれど、昨日セレスティアがそこで語った過去のせいで、フィリアにはもうただの庭ではなくなっていた。
フィリアは石のベンチへ腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。
レオナという人は、ここへ来たことがあるのだろうか。
幼い頃のセレスティアと、この庭で過ごしたのだろうか。
それとも、もっと別の屋敷で、別の庭で、笑っていたのだろうか。
考えても仕方のないことばかりが頭に浮かぶ。
自分は醜いのではないかと思った。
守れなかった過去を話してくれたセレスティアに対して、こんなふうに自分の居場所を疑うなんて。
レオナの苦しみを聞いたあとで、自分が代わりなのではないかと不安になるなんて。
けれど、苦しかった。
セレスティアがくれる言葉が、自分に向けられたものだと思いたい。
あの手のぬくもりも、夜に傍にいてくれた時間も、全部、フィリア自身に向けられたものだと信じたい。
でも、もし違ったら。
もし、あの優しさの根が“レオナを守れなかった後悔”だけだったなら。
そのとき、自分はどうすればいいのだろう。
「フィリア様」
不意に声をかけられ、フィリアははっと顔を上げた。
マリエッタだった。
いつの間にか庭の入口に立っている。
その手には書類の束ではなく、薄い外套が一枚あった。
「冷えますよ」
「あ……ありがとうございます」
マリエッタは外套をフィリアの肩へかけると、隣に腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
やがて、マリエッタが静かに口を開く。
「昨日の話、気になっていますか」
フィリアはすぐに答えられなかった。
否定しても仕方がない。
かといって、何をどう話せばいいのかもわからない。
「……はい」
ようやく頷くと、マリエッタは小さく息を吐いた。
「レオナ様のことですね」
「マリエッタさんも、ご存じなんですか」
「ええ。わたしがこの屋敷へ勤め始めた頃には、もうレオナ様は王都を離れていました。でも、お名前は何度か」
フィリアは膝の上で指を握った。
「セレスティアさまにとって、とても大事な方だったんですよね」
「そうですね」
マリエッタは否定しなかった。
「妹のような方だったと聞いています。副団長がまだ今ほど感情を隠す前の、数少ない記憶の一つかもしれません」
その言葉に、フィリアの胸が少し痛む。
今ほど感情を隠す前。
つまり、レオナの件がセレスティアを変えたのだろうか。
「……わたし」
フィリアは迷いながら、少しずつ言葉を探した。
「こんなこと、思ってはいけないのかもしれません。でも……」
「はい」
「セレスティアさまが、わたしを守ってくださるのは……わたしが、レオナ様に似ているからなのかなって」
口にした瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
言ってしまった。
自分の中の一番小さくて、醜くて、情けない不安を。
マリエッタはすぐには答えなかった。
ただ、庭の白い花を見つめている。
その沈黙が怖くなって、フィリアは慌てて続けた。
「違うって思いたいんです。セレスティアさまは、そんな失礼な方ではないって。でも、わたしの力も少し似ていて……聖堂に利用されそうになったところも似ていて……」
声が震える。
「それなら、わたしは本当に、フィリアとして見てもらえているのかなって」
最後の方は、ほとんど囁きだった。
マリエッタは少しだけ目を伏せた。
そして、ゆっくり言う。
「似ている部分は、あると思います」
フィリアの胸が沈む。
けれど、マリエッタはすぐに続けた。
「でも、それは“代わり”という意味ではありません」
「……」
「副団長は、過去を忘れる方ではありません。忘れられない方です。だから、フィリア様の姿に、レオナ様の時にできなかったことを思い出したのは事実かもしれません」
それは厳しい言葉だった。
でも、優しい嘘ではない。
「ただ、フィリア様をここへ置いて、手当てして、夜に手を握って、怒って、止めて、言葉を選んでいるのは……今ここにいるフィリア様を見ているからだと、わたしは思います」
フィリアは顔を上げた。
マリエッタは穏やかに微笑む。
「副団長は不器用です。とても。過去に引きずられることもあります。でも、誰かを別の誰かの代わりにして満足できるほど、器用でも薄情でもありません」
その言葉に、胸の奥の何かが少しだけ揺れた。
信じたい。
でも、まだ怖い。
「……聞いても、いいんでしょうか」
フィリアは小さく呟いた。
「セレスティアさまに、直接」
「いいと思います」
マリエッタは即答した。
「ただし、聞くならちゃんと聞いた方がいいです。遠回しにすると、副団長は遠回しに受け取れない可能性があります」
その言い方に、フィリアは思わず少しだけ笑ってしまった。
「確かに……そうかもしれません」
「ええ。副団長に繊細な言外の察しを期待すると、時々大変なことになります」
マリエッタは真面目な顔で言う。
それがかえって可笑しくて、フィリアの胸の苦しさが少しだけ和らいだ。
*
その機会は、思ったより早く訪れた。
午後、地下聖具庫周辺の資料を確認するため、フィリアは書斎へ呼ばれた。
大きな図面は布で覆われ、フィリアの負担にならないよう、必要な箇所だけを別紙に抜き出してある。
セレスティアらしい配慮だった。
マリエッタは別件で一度席を外し、書斎にはフィリアとセレスティアだけが残った。
机の上には、地下連絡路の出入り記録。
そこに三日前、リュシエンヌの従者が修復済みの香炉を受け取るため地下区画付近へ入った記録があることがわかり、セレスティアはその欄をじっと見つめていた。
「大聖堂側に照会します」
彼女が言う。
「この香炉がどこから出て、どこへ運ばれたのか。確認が必要です」
「……はい」
フィリアは答えたが、頭の半分は別のことで占められていた。
聞くなら、今かもしれない。
でも、怖い。
もし答えが、自分の望まないものだったら。
自分は、レオナの代わりなのか。
それとも違うのか。
そんな問いを向けること自体が、セレスティアの傷を抉るのではないか。
そう思うと、どうしても口が重くなる。
「フィリア」
セレスティアが顔を上げた。
「朝から様子が違います」
逃げられなかった。
フィリアは息を呑む。
「体調ではないですね」
「……はい」
「地下の反応でもない」
「はい」
「では、何です」
問いはまっすぐだった。
逃げ道を塞ぐためではなく、ちゃんと知るための問い。
フィリアは膝の上で手を握りしめた。
「……聞いても、いいですか」
「内容によります」
いつもの返答。
それが少しだけ、勇気になった。
「レオナ様のことです」
セレスティアの瞳が、かすかに揺れた。
ほんの一瞬。
けれど確かに。
「……何を」
声は落ち着いていた。
でも、いつもより少し低い。
フィリアは喉の奥が震えるのを感じながら、言葉を選ばずに言った。
「わたしは、レオナ様の代わりですか」
書斎の空気が止まった。
言った瞬間、心臓が強く鳴った。
セレスティアの顔を見るのが怖くて、でも目を逸らしたくなくて、フィリアは必死に視線を保った。
セレスティアは動かなかった。
机の上に置いた手も、視線も、そのまま。
ただ、空気だけが静かに張りつめていく。
長い沈黙だった。
フィリアはその沈黙の中で、自分の問いがあまりにも無遠慮だったのではないかと後悔し始めた。
けれど、もう戻せない。
「……違います」
やがて、セレスティアが言った。
短い言葉。
静かな声。
けれど、その一語は迷いなく落ちた。
フィリアの胸が、少しだけ震える。
「違う」
「はい」
セレスティアはゆっくり息を吐いた。
「あなたは、レオナの代わりではありません」
今度は、はっきりと。
逃げ道のない言葉で。
フィリアの目元が熱くなる。
でもセレスティアは、そこで終わらせなかった。
「ただし」
その続きに、フィリアの指がこわばる。
「あなたを見た時、レオナのことを思い出したのは事実です」
やはり、と胸が少し痛む。
けれどセレスティアは目を逸らさない。
「処刑台の上で、あなたが何も言えずに立っていた時。聖堂に利用されかけ、力の性質を理解されず、誰にも信じられないまま消されようとしていた時。私は、過去に守れなかった人のことを思い出した」
声は静かだった。
だが、その静けさの底に痛みがある。
「だから、止めたのですね」
フィリアが小さく言うと、セレスティアは少しだけ首を振った。
「それだけなら、私はあなたを“保護対象”として処理したでしょう」
「……」
「手続きを止め、調査し、必要な証拠を集める。そこまでは、過去への償いでもできる」
セレスティアの灰青の瞳が、まっすぐフィリアを見た。
「ですが、夜にあなたが悪夢で眠れなかったこと。街で石を投げられて、それでも戻ってきたこと。自分の力を怖がりながらも、知らないふりはしたくないと言ったこと」
ひとつひとつ、これまでの時間をなぞるように、彼女は言葉を置いていく。
「それらは、レオナではありません」
フィリアの息が止まる。
「あなたです」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
セレスティアは続ける。
「あなたは、フィリア・エルソンです。怯えながらも、考え、言葉を選び、自分の足で少しずつ立とうとしている人です」
涙が滲む。
今度は止められなかった。
「私は、レオナを守れなかった後悔を持っています。それは消えません。これからも消えない」
セレスティアの声が、ほんのわずかに低くなる。
「けれど、その後悔を埋めるために、あなたを代用品にするつもりはありません」
フィリアは唇を噛んだ。
涙が一筋、頬を落ちる。
「……本当に?」
子どもみたいな確認だと思った。
それでも聞かずにいられなかった。
セレスティアは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「本当に」
短い。
けれど嘘のない声。
フィリアは胸の奥で、固まっていた不安が音もなく崩れていくのを感じた。
「すみません……こんなことを」
「謝る必要はありません」
「でも、セレスティアさまの傷に、踏み込むようなことを」
「踏み込まれたくなければ、答えませんでした」
その言い方があまりにもセレスティアらしくて、フィリアは泣きながら少しだけ笑ってしまった。
「そう、ですね」
「ええ」
書斎の空気が、少しだけ柔らかくなる。
セレスティアは机の上の布を一枚取り、フィリアへ差し出した。
以前と同じように。
言葉より先に、必要なものを差し出す人。
フィリアはそれを受け取り、目元を押さえた。
「……怖かったんです」
布越しに、小さく言う。
「セレスティアさまがくださった言葉も、手のぬくもりも、全部……本当はわたしじゃない誰かに向けられたものだったら、どうしようって」
言いながら、胸がまた少し痛む。
でも、今はもうその痛みを一人で抱える必要はない。
セレスティアは静かに答えた。
「あなたに向けたものです」
フィリアは顔を上げた。
「少なくとも、今あなたが思い返しているものは」
セレスティアの言葉は、いつも正確だ。
過去に何を思い出したかまでは否定しない。
でも、今までフィリアへ向けられたものを、きちんとフィリアのものだと言ってくれる。
それだけで、十分だった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
その返答も、前よりずっと自然だった。
フィリアは涙を拭いながら、胸の中で静かに思う。
自分は代わりではない。
レオナではない。
セレスティアの過去を消すための誰かでもない。
自分は、フィリア・エルソンだ。
そして、セレスティアはそれを見てくれている。
その事実が、今日の足場になった。




