第17話 穢れの気配
その夜、フィリアはなかなか寝つけなかった。
昨日までのように、処刑台の記憶が直接襲ってくるわけではない。鐘の音も、群衆の声も、石畳の冷たさも、今夜は少し遠い。
それでも眠れないのは、別のものが胸の奥に沈んでいるからだった。
地下聖具庫。
その名前を思い浮かべるだけで、胸元の祈祷札がかすかにぬくもるような気がする。実際に熱を持っているのか、それとも自分の意識がそこへ向かいすぎているだけなのか、フィリアにはわからなかった。
寝台の上で、フィリアは横向きになったまま、窓の外の暗がりを見つめる。
王都の夜は、故郷の夜とは違う。
故郷の教会では、夜になると虫の声や風の音が聞こえた。古い木造の礼拝堂は、風が吹くたびに小さく鳴り、冬は窓枠がかたかた震えた。暗闇の中にも土や草の匂いがあって、世界がちゃんと眠っているのだと感じられた。
けれど王都の夜は、眠っていない。
遠くの馬車の車輪、夜警の足音、どこかの屋敷で閉まる扉の音。近衛の屋敷の中では、一定の間隔で巡回の靴音が響く。
秩序があり、灯があり、人の目がある。
なのに、その奥に何かが隠れている気がする。
昼間、セレスティアが図面に布をかけてくれたおかげで、地下聖具庫の文字を見続けることはなくなった。
けれど、一度見てしまったものは、心の内側に残る。
古い石段。
冷たい空気。
閉ざされた扉。
その奥に沈む、重く、湿った気配。
それらは実際に見た記憶ではないはずなのに、なぜか妙に具体的だった。
「……見えてしまったものの責任まで、全部背負おうとしないこと」
イザベラの忠告を、小さく口の中で繰り返す。
わかっている。
今の自分が一人でどうにかできるものではない。
勝手に踏み込もうとしてはいけない。
無理をすれば、セレスティアにも、マリエッタにも迷惑をかける。
それでも、気になる。
自分の力が、もし本当に見えない歪みを浮かび上がらせるものなのだとしたら。
王都のどこかに沈んでいる“それ”を、放っておいていいのだろうか。
そう考えた瞬間、胸元の祈祷札が、今度ははっきりと熱を持った。
「……っ」
フィリアは身を起こす。
熱い。
痛いほどではない。
けれど、ただのぬくもりではない。
呼びかけに近い。
彼女は布袋ごと札を手に取り、両手で包んだ。白く光ることはない。だが、掌の内側にじわじわと脈動のようなものが伝わってくる。
どこかで、何かが動いている。
そう思った瞬間、部屋の燭台の炎がふっと細くなった。
窓は閉まっている。
風はない。
なのに、室内の空気が一瞬だけ冷える。
フィリアは息を止めた。
怖い。
でも、これは処刑台の記憶とは違う。
目の前の現象だ。
祈祷札の熱が強まる。
その熱に引かれるように、フィリアの意識がゆっくりと部屋の外へ向かっていく感覚があった。
廊下。
階段。
石壁。
扉。
さらに遠く。
もっと深いところ。
それは視覚ではない。
けれど、“方角”だけがわかる。
北ではない。
近衛の屋敷の中でもない。
王都の中心部。
大聖堂の方角。
「……いや」
思わず声が漏れる。
行きたいわけではない。
行けるはずもない。
なのに、胸の奥で何かが反応している。
そのとき、扉の向こうで足音が止まった。
「フィリア?」
低い声。
セレスティアだった。
フィリアははっとして顔を上げる。
今夜、彼女は隣室ではなく、廊下向かいの控え室にいるはずだった。昼間の反応が気がかりだからと、いつもより近い場所で休むと言っていたのだ。
やはり、気づかれた。
「……起きています」
どうにか答えると、すぐに返事が来る。
「入ります」
扉が開いた。
セレスティアは夜用の軽装だったが、腰には短剣だけでなく細身の剣も帯びていた。完全に休むつもりではなかったのだろう。灰青の瞳はすでに覚醒していて、部屋の空気を一瞬で読み取っている。
彼女は燭台の細くなった炎と、フィリアの手元にある祈祷札を見て、すぐに表情を引き締めた。
「反応ですか」
「……はい。たぶん」
「どこに」
問いは短い。
だが、今のフィリアにはありがたかった。
説明しきれないものを、余計な言葉で包まなくていい。
「大聖堂の方角です」
セレスティアの目がわずかに細くなる。
「地下聖具庫?」
「わかりません。でも……たぶん、そちらの方角から、何かが」
フィリアは自分の胸元を押さえた。
「呼ばれているみたいで……でも、行きたいというより、気持ち悪いです。胸の奥を、指で引っかかれているみたいな」
言葉にした途端、その気持ち悪さが少し強くなる。
セレスティアはすぐに近づき、フィリアの前に片膝をついた。視線の高さが近づく。
「祈祷札を見せてください」
「はい」
フィリアが両手を差し出すと、セレスティアは札に直接触れず、布越しに状態を確認した。
触れた瞬間、彼女の指先がわずかに止まる。
「熱いですね」
「はい」
「痛みは」
「ありません。ただ……落ち着かなくて」
セレスティアは頷き、少しだけ考えるように目を伏せた。
「無理に追わないでください」
静かな命令だった。
「今、あなたが感じているものが本当に地下聖具庫から来ているのか、別の場所から誘導されているのか、判断できません」
「誘導……」
その言葉に、フィリアの背筋が冷えた。
自分が感じているものが、単なる反応ではなく、誰かに引き寄せられている可能性。
考えたくなかったが、セレスティアはそういう危険を見落とさない。
「あなたの力が隠れた歪みに反応するなら、逆にその力を誘うものがあっても不思議ではありません」
「……わたし、どうすれば」
「まず、呼吸を」
セレスティアが言う。
フィリアははっとして、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
「吸って」
声に従って息を吸う。
「吐いて」
吐く。
昨夜、眠れない夜に手を握ってもらったときと同じだった。
あのときと同じ低い声が、今度は恐怖ではなく、得体の知れない反応から意識を引き戻してくれる。
何度か呼吸を繰り返すうち、胸元の熱がほんの少しだけ弱まった。
完全に消えたわけではない。
でも、引っ張られる感覚が遠のく。
「……少し、ましになりました」
「そのまま。札を胸元から離して、机の上へ」
フィリアは頷き、祈祷札を布袋ごと机の上へ置いた。
不思議なことに、体から離れた瞬間、熱はさらに弱まった。
ただし完全に消えない。
布袋の周囲だけ、ほんのり空気が白く澄んでいるように見える。
セレスティアはそれを見つめ、低く呟く。
「……距離で反応が変わる」
「そう、みたいです」
「覚えておきましょう」
そう言ってから、彼女は扉の方へ振り返った。
「マリエッタを呼びます」
「今からですか」
「ええ。記録が必要です」
その言葉の通り、数分もしないうちにマリエッタが駆けつけた。夜着に上着を羽織った姿だったが、眠気はほとんど見せない。さすがに慣れているのか、あるいはこの屋敷に仕える者としてすぐに切り替えられるのか。
「反応ですか?」
部屋へ入るなり、彼女は机の上の祈祷札を見て表情を引き締めた。
「大聖堂方面に引かれる感覚があったそうです」
セレスティアが簡潔に説明する。
「時間を記録。夜半過ぎ、風なし、燭台の炎が一時的に減衰。祈祷札に熱反応。フィリア本人の体調は、軽い胸部不快感と動悸」
「承知しました」
マリエッタはすぐに手帳を取り出し、書きつけ始める。
その実務的なやりとりを聞いているうちに、フィリアは少しずつ現実へ戻ってくる。
怖い現象も、こうして記録され、言葉に分けられると、ただの得体の知れない恐怖ではなくなる。
マリエッタは記録を終えると、フィリアの方へ顔を向けた。
「今、気分は?」
「少し落ち着きました」
「吐き気や頭痛は?」
「ありません」
「眠気は?」
「……少し、飛んでしまいました」
正直に答えると、マリエッタはやわらかく頷いた。
「でしょうね。温かいお茶を持ってきます。落ち着く香草を少し強めにしましょう」
「ありがとうございます」
マリエッタが部屋を出ていくと、フィリアとセレスティアだけが残った。
机の上の祈祷札は、まだ淡い熱を持っている。
触らなければ、そこまで強く引かれることはない。
けれど、それが反応し続けている事実が、部屋の空気を静かに張りつめさせていた。
「……地下聖具庫に、何かあるんでしょうか」
フィリアは小さく尋ねた。
セレスティアはすぐには答えなかった。
断定できないことを断定しない人だ。
それがわかっているから、フィリアも急かさず待つ。
やがて彼女は静かに言った。
「可能性は高まりました」
やはり、そうなのだ。
「ただし、あなたが感じたものが地下聖具庫の“中”なのか、そこに関係する何かなのかはまだ不明です」
「関係する何か……」
「例えば、地下から持ち出された聖具。あるいは地下へ運び込まれた何か。もしくは、同じ系統の汚染」
フィリアはその言葉に胸が冷えるのを感じた。
もし地下聖具庫の穢れが、そこにあるだけではなく、外へ出ているのだとしたら。
大聖堂の中だけでなく、王都のどこかへ広がっているのだとしたら。
「……怖いですね」
ぽつりと漏らすと、セレスティアがフィリアを見る。
「ええ」
いつものように否定しない。
「怖いものです」
その一言で、フィリアは少しだけ肩の力を抜いた。
怖がっていい。
怖くて当然。
何度もそう言われてきたから、今はもう、恐怖を感じること自体を責めなくて済む。
「でも、怖いだけでは……ないです」
自分でも驚くほど自然に、次の言葉が出た。
セレスティアは静かに続きを待つ。
「気になります。何があるのか。どうしてわたしに反応するのか。……それに、もし誰かがそのせいで苦しんでいるなら」
そこまで言って、イザベラの忠告を思い出して少し口を閉じる。
見えてしまったものの責任まで全部背負わないこと。
だから、言い方を変えた。
「わたし一人でどうにかするとは、思っていません。でも、知らないふりは……したくないです」
言い終えたあと、胸が少し震えた。
これは自分の言葉だ。
誰かに言わされたのではない。
偽聖女と呼ばれ、処刑台へ上げられ、保護され、鑑定を受けて、それでも今、ようやく自分の中から出てきた言葉だった。
セレスティアはしばらくフィリアを見つめた。
やがて、ほんのわずかに目元を和らげる。
「良い言葉です」
フィリアは息を止めた。
褒められた。
それも、いつもの“よくやりました”とは少し違う。
自分の言葉そのものを、受け取ってもらえた気がした。
「……ありがとうございます」
「ただし」
すぐに続いたその言葉に、フィリアは小さく姿勢を正す。
「知らないふりをしないことと、無謀に踏み込むことは違います」
「はい」
「この件は私が調べます。あなたは、自分の状態を正確に伝える。それが今の役目です」
「……はい」
少しだけ残念な気持ちもあった。
でも、以前のように“何もするな”と押し込められたようには感じなかった。
役目を示されたからだ。
感じたものを、正確に伝える。
今のフィリアにしかできないこと。
それなら、守られているだけではない。
マリエッタが戻ってきた。湯気の立つ茶と、小さな蜂蜜菓子を盆に乗せている。
「眠る前なので軽く、と言いたいところですが、今日は少し糖分も入れましょう」
「すみません、夜中に……」
「謝罪は受け取りません。記録に残る現象が起きたので、仕事です」
あっさり言われ、フィリアは少しだけ笑ってしまった。
茶を飲むと、香草の温かさが胸へ広がっていく。
祈祷札の熱は、さらに弱まっていた。
セレスティアが記録のために手をかざして確認し、マリエッタがその変化を書き留める。
その一連の作業が終わるころには、部屋の空気も落ち着きを取り戻していた。
しかし、完全に終わったわけではない。
ただ、今夜の反応が収まっただけだ。
「フィリア様、今夜は札を机の上へ置いたまま休まれた方がよさそうですね」
マリエッタが言う。
「近くに置くと反応が戻るかもしれません」
フィリアは少し迷った。
祈祷札は故郷から持ってきた大切なお守りだ。
胸元にないと、少し心細い。
けれど今は、それが反応を強めるのなら離しておいた方がいいのだろう。
「……はい」
頷くと、セレスティアが机の上の札へ薄い布をかけた。
完全に封じるのではなく、直接見えないようにするだけ。
「これでいいでしょう」
そう言ってから、彼女はフィリアを見る。
「眠れそうですか」
少し前なら、たぶん“たぶん”と答えていただろう。
けれど今夜は違う。
「少し時間はかかると思います。でも……眠れると思います」
セレスティアは頷いた。
「では、しばらくここにいます」
「えっ」
「反応が完全に引くまでです」
合理的な理由。
いつものセレスティアらしい言い方。
けれどフィリアには、もうそれだけではない気遣いもわかってしまう。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
その返答が、以前より自然になっていることに気づき、フィリアは胸の奥が少し温かくなった。
マリエッタは二人を見比べ、何かを言いたそうにしながらも、結局にこりと笑うだけで部屋を出ていった。
部屋にはまた、セレスティアとフィリアだけが残る。
机の上の祈祷札は静かだった。
燭台の炎も、もう揺れていない。
夜はまだ深いが、先ほどのような得体の知れない引力は弱まっている。
フィリアは寝台へ戻り、夜具をかけた。
セレスティアは椅子に座り、扉と窓と机の札をすべて視界に入れられる位置を選んでいる。
その姿があまりにも自然で、フィリアは少しだけ笑いそうになった。
「何か」
すぐに気づかれる。
「いえ……本当に、どこにいても騎士なんだなと思って」
「それ以外の在り方をあまり知りません」
返ってきた言葉は、思っていたより静かだった。
フィリアはその横顔を見つめる。
強くて、冷静で、いつも自分の前に立ってくれる人。
でもその言葉の奥に、少しだけ寂しさがあるような気がした。
「……いつか」
眠気に少しずつ包まれながら、フィリアは小さく言った。
「セレスティアさまの、騎士じゃないところも、知れたらいいなと思います」
言ってから、自分でも大胆なことを言ってしまったと気づく。
でもセレスティアは怒らなかった。
ただ少しだけ、意外そうに目を細める。
「……見るほどのものはありません」
「そうでしょうか」
「そうです」
きっぱり言われたのに、フィリアはなぜか笑ってしまう。
「でも、わたしは知りたいです」
もう半分、眠りに落ちかけた声だった。
セレスティアはしばらく返事をしなかった。
その沈黙の意味を考える前に、フィリアの意識は少しずつ沈んでいく。
眠りに落ちる直前、低い声がかすかに聞こえた気がした。
「……いつか、話せることがあれば」
それが本当に聞こえたのか、夢だったのかはわからない。
ただ、その夜フィリアは、地下から呼ばれるような冷たい夢ではなく、静かな書斎の光の中で、誰かの言葉を待つ夢を見た。




