第15話 王都の正しさ
リュシエンヌが去ったあとの談話室には、妙に重たい静けさが残っていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
扉の向こうで案内役の騎士が応対を終え、遠ざかっていく足音だけが、少し遅れて耳に届く。
それが完全に聞こえなくなってから、ようやくフィリアは大きく息を吐いた。
思っていた以上に、体へ力が入っていたらしい。
膝の上で握っていた指先は冷え、肩もこわばっている。
怖かった。
あの人の声も、微笑みも、座っているときの姿勢も、何もかもが整いすぎていて、見ているだけで自分の足元が少しずつ曖昧になっていくようだった。
大きな声を出されたわけではない。
罵られたわけでもない。
なのにどうして、あんなにも息が詰まるのだろう。
たぶん、それはリュシエンヌが“正しい人”の顔をしているからだ。
少なくとも王都では、彼女の佇まいそのものが正しさに見える。
美しく、清らかで、穏やかで、人を思いやっているように見える。
だから、その人が差し出すものは一見すると善意にしか見えない。
そこに含まれた支配や選別の気配に気づくには、自分の足元をしっかり持っていないといけないのだ。
「……水を」
低い声が落ちてきて、フィリアははっと顔を上げた。
セレスティアが短く指示すると、マリエッタがすぐに卓上の水差しからグラスへ水を注いで差し出してくる。
「ありがとうございます……」
両手で受け取り、一口飲む。
冷たすぎない水が、張りついた喉をゆっくりと通っていく。
それだけで少しだけ、自分がここに戻ってきた気がした。
「顔色は悪くないですね」とマリエッタが静かに言う。「でも、かなり疲れたでしょう」
「……はい」
素直に答えると、セレスティアが短く続けた。
「当然です」
その返しに、フィリアはほんの少しだけ肩の力を抜く。
いつもの言葉。
怖かった。
当然です。
そのやりとりが、今はもう呼吸を整えるための小さな足場になっていた。
「立てますか」
セレスティアに問われ、フィリアは一度自分の足へ意識を向けた。
震えている。
でも、立てないほどではない。
「……はい」
「なら、少し場所を移しましょう」
談話室を出たあと、三人はそのまま書斎へ向かった。
静かな部屋。
窓際の机。
整った本棚。
この数日で、フィリアにも少しだけ馴染んだ場所だ。
書斎へ入るなり、マリエッタが暖かい茶を用意し始める。
セレスティアは窓際に立ち、しばらく黙って外を見ていた。
その横顔はいつも以上に静かだった。
怒っているわけではない。
少なくとも、街で石を投げられたときのような、冷えた怒りではない。
ただ、何かを組み立てている顔だった。
さきほどリュシエンヌが落としていった言葉の一つひとつを、無駄なく拾い上げているのだろう。
フィリアは椅子へ腰を下ろし、ようやく小さく息をついた。
「……すみません」
気づけばまた言っていた。
リュシエンヌと対面したあとは、どうしてもこの言葉が先に出てしまう。
だが今度は、セレスティアがすぐには返さなかった。
代わりに振り返り、静かにフィリアを見る。
「今回は、何に対する謝罪です」
責める調子ではない。
確認だ。
だからフィリアは、逃げずに少し考えた。
「……うまく、できたのか、わからなくて」
それが本音だった。
「もっと、ちゃんと言えた方がよかったのかもしれません。もっと早く、大聖堂へ戻らないって言えた方が……」
「必要ありません」
即座に否定される。
「あなたは十分に言えた」
その言葉に、フィリアは少し目を瞬いた。
自分では、あの場でまだ足りないことばかり考えていたからだ。
マリエッタも茶器を置きながら頷く。
「ええ。むしろ、よくあの方相手に正面から言えました」
「でも……リュシエンヌ様は、あまり揺らいでいないように見えました」
「揺らいでいましたよ」
そう答えたのはセレスティアだった。
フィリアは驚いて顔を上げる。
「そう、だったんですか」
「ええ。表には出さないだけです」
セレスティアは窓辺から離れ、机の前へ立つ。
「彼女は“善意の提案を受け入れない、迷える娘”という図へ持ち込みたかった。そこへあなたが、自分の言葉で“大聖堂へ戻らない”と明確に線を引いた」
その説明に、フィリアは談話室でのやりとりを思い返す。
たしかにリュシエンヌは、こちらを説得し、包み込み、選ばせるように見せながら、実際には大聖堂へ戻る以外の道を細くしようとしていた。
「だから、あの人が最後に言ったんですね」
フィリアはぽつりと呟く。
「“変わったのね”って」
セレスティアが頷いた。
「ええ。あれは確認です。あなたが以前と同じように揺らせるかどうか」
フィリアは茶の湯気を見つめた。
以前の自分。
たしかに、少し違っていたのかもしれない。
いや、違っていなければ困るのだ。
処刑台から連れ戻され、偽物ではないと知り、何度も足場を与えられてきたのだから。
それでも、まだ怖い。
その事実も、消えない。
「……セレスティアさま」
「何です」
「リュシエンヌ様は、“王都は近衛の剣だけで守りきれるほど単純じゃない”って言いました」
胸の奥に刺さっている言葉だった。
「それって、やっぱり……本当なんでしょうか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
少し考えるように目を伏せ、それから静かに言う。
「本当です」
フィリアの指先が少しだけ冷える。
けれど、彼女はすぐに続けた。
「だからといって、あの言葉の置き方が善意だったとも限りません」
「……はい」
「王都は複雑です。正しさの顔をしていても、実際には誰かを押し潰すために使われることがある。制度も、信仰も、秩序も」
その一言一言が重い。
でも、今のフィリアにはちゃんと受け取れた。
「王都の正しさは、常に誰かを救うためのものではない」
セレスティアの声が低く落ちる。
「時には、都合の悪いものを切り捨てるための正しさにもなる」
フィリアの胸がきゅっと痛んだ。
それは、自分が処刑台へ上げられたときのことを、そのまま言い当てている気がしたからだ。
大司教も、王太子も、あの場で“正しさ”を口にしていた。
王都の秩序。
王家の面目。
民の混乱を防ぐため。
神聖を守るため。
全部、正しそうに聞こえた。
けれどその正しさの上にいたのは、切り捨てられる側の自分だった。
「……だから、わたしは邪魔なんでしょうか」
ぽつりと漏らしたその問いに、マリエッタが小さく顔を上げた。
セレスティアはまっすぐフィリアを見る。
「そう単純でもありません」
「でも、わたしの力は……隠れているものを見つけたり、浮かび上がらせたりするんですよね」
「ええ」
「それなら、王都にとって都合が悪いなら――」
「フィリア」
名を呼ばれ、言葉が止まる。
セレスティアは机へ片手を置いたまま、静かに言った。
「あなたが何を持っているかと、それを誰がどう扱おうとするかは、分けて考えなさい」
その言葉に、フィリアは瞬く。
「力そのものが悪いわけではない。厄介がられる可能性はあっても、それは力の価値とは別です」
「……別」
「ええ。王都が扱いづらいと思うことと、あなたが存在してはいけない理由にはならない」
強い言い方だった。
理屈としてだけではなく、許さないという気配がそこにある。
フィリアはそれを聞きながら、胸の中で何かが少しだけほどけるのを感じた。
王都にとって扱いづらい。
それはたぶん事実だ。
でも、それは自分が間違っていることと同じではない。
その線引きを、セレスティアは何度でも示してくれる。
マリエッタがやわらかく続ける。
「王都は、何かを正しい形へ整えようとする場所です。でも、その“正しい形”に入らないものを、最初から間違いだと決めてしまうこともあります」
「……はい」
「フィリア様は、たぶんその境目にいるんですよ」
境目。
その表現は、どこかしっくりきた。
聖女であって聖女ではない、ではなく。
王都が想定した聖女の枠と、そこから外れた本当の力の、その境目。
だからこそ扱いづらく、だからこそ簡単には捨てきれない。
「それに」とマリエッタは少しだけ微笑む。「正しさを口にする方が、いつも正しいとは限りませんから」
フィリアは思わず小さく息を漏らした。
それは、どこか胸のすくような言い方だった。
セレスティアはマリエッタのその言葉を否定しなかった。
代わりに視線を窓の外へ向け、少しだけ遠い声で言う。
「王都には、“そう見えること”が実質的な力になる場面が多い」
その言葉に、リュシエンヌの姿が鮮やかに思い出される。
完璧な微笑み。
よく通る、やわらかな声。
誰もが本物だと思ってしまう在り方。
「見た目、立場、振る舞い、記録。そういったものが積み重なると、それ自体が正しさのように扱われる」
「……じゃあ、リュシエンヌ様は」
フィリアが言いかけると、セレスティアがゆっくり振り返った。
「彼女は、王都の正しさに最も馴染んだ人間の一人でしょう」
否定も肯定も曖昧にしない、静かな断定だった。
「だからこそ厄介です。彼女自身がどこまで意識しているにせよ、存在そのものが制度の側に立っている」
存在そのものが、制度の側。
フィリアはその意味を考える。
リュシエンヌはただ強い力を持っているから筆頭聖女なのではなく、王都が“こうあってほしい”と望む聖女像そのものに見える。
だから彼女が語ることは、最初から正しさを帯びてしまう。
そして、その正しさの中に、自分のような者は入りきらない。
「……でも」
フィリアはそっと口を開く。
「それでも、あの人が全部、嘘をついているようには……思えませんでした」
その一言に、マリエッタが少しだけ目を見開く。
セレスティアはすぐには反応しなかった。
フィリアは自分の言葉を確かめるように続ける。
「優しいふりをしているだけ、とは違う気がして……。たぶん本当に、あの人の中では、ああするのが正しいんだと思うんです」
リュシエンヌの表情を思い出す。
微笑みは整いすぎていた。
でも最後に「変わったのね」と言ったときだけ、ほんの少し本音に近い気配があった。
「だからこそ、怖いのかもしれません」
自分でも不思議なくらい、するりとその言葉が出た。
「悪意だけなら、もっとわかりやすい気がします。でも、正しいと思って切り捨てる人は、たぶん……止まりにくいから」
書斎が静かになる。
やがて、セレスティアが小さく頷いた。
「その通りです」
フィリアは顔を上げた。
「善意であることと、安全であることは別です」
セレスティアの声は低く、落ち着いていた。
「むしろ、自分は正しいと信じている人間ほど、他人を深く傷つけても立ち止まらないことがある」
その言葉に、フィリアは胸の奥で何かがはっきりと形になるのを感じた。
リュシエンヌは怪物ではない。
嘘だけでできた人でもない。
だからこそ怖い。
王都の正しさを、本気で正しいものとして扱える人だから。
「……わたし、少しだけわかった気がします」
ぽつりとそう言うと、マリエッタがやわらかく笑った。
「それなら今日の対面は無駄ではありませんでしたね」
「ええ」とセレスティアも続ける。「敵の輪郭が見えただけでも十分です」
敵。
その言葉はまだ重い。
だが少なくとも、以前のような“ただ遠くて完璧で怖い存在”ではなくなってきているのも事実だった。
フィリアは茶を一口飲んだ。
もうぬるくなりかけていたが、その温度がかえって喉へ優しい。
「セレスティアさま」
「何です」
「王都の正しさって……変えられるんでしょうか」
自分でも大きすぎる問いだと思った。
けれど、聞かずにいられなかった。
セレスティアは少しだけ視線を伏せる。
「すぐには無理でしょう」
率直な返答だった。
「王都は人が多く、利害も多い。制度も信仰も、長く積み上がっている。ひとつの事実を示しただけでは動かない」
フィリアの肩が少し落ちる。
やはりそうかと思う。
自分一人の力で何かが変わるなんて、都合が良すぎる。
だが次の言葉は、静かにその先を照らした。
「ですが、揺らすことはできます」
フィリアは息を止めた。
「隠れていたものを露わにし、見えなかった歪みを示せば、少なくとも今まで通りではいられなくなる」
それは、今日知った自分の力と重なる言葉だった。
蓋を剥がす。
見えないものを見えるようにする。
それは人一人を救うためだけではなく、もっと大きな場所へも届くかもしれない。
「あなたの力も、その一つになり得る」
セレスティアはまっすぐにそう言った。
フィリアは胸がどくりと鳴るのを感じる。
期待されているのだろうか。
いや、たぶんそれだけではない。
事実として、可能性を示されているのだ。
でも、その可能性が怖いと同時に、少しだけうれしい自分もいた。
「……わたし、まだ何もできる気はしません」
正直に言うと、セレスティアは短く頷いた。
「今はそれでいい」
「いいんですか」
「ええ。今のあなたに必要なのは、王都を変えることではない」
その声は落ち着いていて、無理に鼓舞しない。
「まず、自分が偽りではなかったと信じ切ることです」
その一言に、胸の奥が静かにあたたかくなった。
自分が偽りではなかったと信じ切る。
簡単ではない。
でも、それが今の自分の第一歩なのだろう。
書斎の窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
王都の正しさは、まだそこにある。
大聖堂も、王宮も、リュシエンヌも、何一つ消えていない。
けれどフィリアは今日、ひとつだけはっきり知った。
王都の正しさが、自分の全部を決めるわけではない。




