第14話 筆頭聖女リュシエンヌ
翌朝、屋敷の空気はいつもよりわずかに固かった。
近衛騎士団の管轄区に漂う規律そのものは変わらない。
朝の見回り、訓練場から届く掛け声、使用人たちの無駄のない足音。
何もかも普段通りに回っているように見える。
けれどその均整の取れた空気の下に、目に見えない薄い緊張が一枚敷かれているのを、フィリアは感じ取っていた。
理由は昨夜のうちに、マリエッタから聞かされている。
筆頭聖女候補リュシエンヌ・アルベールが、近衛の屋敷へ正式な訪問を申し入れてきた。
それも、“善意の見舞い”という名目で。
フィリアはその話を聞いた瞬間、胸の奥へ細い針を差し込まれたような感覚を覚えた。
リュシエンヌ。
その名を思い浮かべるだけで、王都大聖堂の白い回廊と、磨かれた床へ映る金髪の影がよみがえる。
彼女はいつだって美しかった。
凛として、清らかで、正しい場所にいる人だった。
少なくとも周囲の目には、そう映っていた。
王都へ来たばかりの頃のフィリアにとっても、リュシエンヌはまさに“本物の聖女”に見えた。
歩き方も、祈り方も、人へ向ける微笑みも、すべてが整いすぎているほど整っていて、自分とはまるで違う世界の人のようだった。
――最初は、優しかったのだ。
その事実が余計にフィリアの胸をざわつかせる。
裏切られた、と言い切れるほど近くにいたわけではない。
深く信じていた、と言えるほど親しくもなかった。
それでも、王都で右も左もわからない自分へ最初にやわらかい声をかけてくれた人の一人が、あのリュシエンヌだった。
だからこそ、後から向けられるようになった静かな視線の冷たさを、フィリアは今でもうまく言葉にできない。
小食堂での朝食は、いつもよりさらに静かだった。
セレスティアは普段から食事中に多くを語る人ではない。
だが今日は、その無言に明確な考え事の色が混じっている。
マリエッタでさえ、いつものように軽く空気をほぐす冗談を挟まず、必要なやりとりだけをしていた。
フィリアは匙を持つ手元を見つめながら、どうにか口を開く。
「……本当に、来るんですね」
誰に向けた問いというより、確認に近かった。
セレスティアが短く答える。
「ええ」
「断れなかったんですか」
「断ることもできました」
その返答に、フィリアは少し驚いて顔を上げた。
てっきり、相手が筆頭聖女候補である以上、近衛といえど拒めないのだと思っていたからだ。
だがセレスティアは淡々と続ける。
「ただ、ここで完全に門前払いにすると、別の形で圧力が来る可能性が高い。ならば、こちらの管理下で会わせた方がまだましです」
理にかなっている。
けれど、その“まし”の中に含まれる危険も、フィリアにはわかった。
リュシエンヌが会いに来る。
それは単なる見舞いのはずがない。
マリエッタがパンを小さくちぎりながら言う。
「大聖堂側も焦っているのでしょうね。フィリア様が処刑されずに近衛の管理下へ入って、さらに王宮予備聴取官まで“単純な偽物では済まない”と見始めた」
フィリアは息を呑んだ。
自分ではまだ、そんなふうに状況を整理できていなかった。
けれどたしかに、昨日まで積み上がったものを考えれば、大聖堂にとって自分は“処理済みの問題”ではなくなっているのだ。
「だから、確認しに来るんですか」
「あるいは牽制でしょう」とマリエッタは答える。「フィリア様が何を知っているのか。副団長がどこまで掴んでいるのか。あるいは――」
そこで彼女は一度だけ言葉を切った。
「副団長の保護下にあるこの状況で、どれだけ相手の心を揺さぶれるか」
その最後の一言に、フィリアの指先が冷える。
揺さぶる。
それはきっと、リュシエンヌの得意なやり方なのだろう。
表立って怒鳴るわけではない。
露骨に敵意を見せるのでもない。
けれど相手の足元を静かに削り、いつの間にか自分の立っている場所をわからなくさせる。
フィリアはあの人の微笑みの裏に、そういう力があることを、もう知っていた。
「フィリア」
セレスティアに名を呼ばれ、顔を上げる。
「会いたくないなら、無理に同席させません」
その言葉は予想外だった。
「え……」
「別室からの聞き取りという形にもできます。あなたの意思を優先する」
フィリアはしばらく言葉を失った。
選ばせてもらえると思っていなかったからだ。
それに、たぶん数日前の自分なら、きっとすぐに“会いたくありません”と答えただろう。
けれど今のフィリアは、少しだけ考え込んだ。
怖い。
それは間違いない。
リュシエンヌの目を見るのは、きっと苦しい。
昔の自分なら簡単に崩されたかもしれない。
でも。
「……会います」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
マリエッタが少しだけ眉を上げる。
セレスティアは表情こそ変えなかったが、目の奥にわずかな確認の色が浮かぶ。
「理由を聞いても?」
フィリアは呼吸を整えてから答えた。
「逃げたくない、というのもあります」
それは本音だった。
ただ怯えて避けるだけでは、この先もずっと同じ場所へ戻ってしまう気がした。
「でも、それだけじゃなくて……わたし、たぶん、リュシエンヌ様のことを、まだちゃんと見ていなかったと思うんです」
自分で言いながら、少し不思議な気持ちになる。
けれど嘘ではない。
「本物の聖女みたいに見えて、怖くて、遠くて……ずっと、そういうふうにしか見ていませんでした。でも今は、前とは違う目で見られるかもしれないので」
沈黙が落ちる。
やがてセレスティアが短く頷いた。
「わかりました」
それだけで十分だった。
止めもしない。
無理に褒めもしない。
ただ、その選択を受け取ってくれる。
「ただし」とセレスティアは続ける。「会う場所も時間もこちらで決めます。あなたが少しでも危ういと判断したら、会話は切ります」
「はい」
「ひとりでは対面させません。私とマリエッタが同席する」
その一つひとつが、フィリアの中の緊張を少しだけ整えていく。
朝食を終えたあと、応接間ではなく、より小さな接客用の談話室が整えられた。
大きな広間ではない。
視線が散らず、扉も窓も把握しやすい、セレスティアが“制御しやすい”と判断したのだろう。
部屋は落ち着いた色調でまとめられていた。
丸みを帯びたテーブル、人数分だけの椅子、壁際の飾り棚には最低限の花器だけ。
大聖堂の応接室のような過剰な神聖さも、王宮のような威圧感もない。
だが、だからこそ逃げ場もない。
フィリアは薄青灰色のワンピースに着替えていた。
昨日買ったものの一つだ。
目立たず、けれど顔色が沈みすぎない色だと、マリエッタが選んでくれた。
「よくお似合いです」と言われたとき、フィリアは少しだけ困ったように笑うしかなかった。
褒められることにまだ慣れていない。
「緊張していますか」とマリエッタが、肩口の皺を整えながら問う。
「……はい」
「当然です」
その返しに、フィリアは少しだけ息を吐く。
大丈夫ですよ、とは言われない。
その代わり、緊張して当然だと扱われる。
今のフィリアには、その方がありがたかった。
セレスティアはすでに部屋の位置を確認し終え、窓際に立っていた。
今日は近衛副団長としての黒の礼装に近い服装だ。いつもより一段きちんとして見える。相手が大聖堂の筆頭聖女候補だからだろう。
その姿を見るだけで、フィリアの背筋も自然と伸びた。
「フィリア」
名を呼ばれ、振り返る。
「先にひとつだけ言っておきます」
「はい」
「相手が何を言っても、すぐに答えなくていい。間を取っていい。わからないならわからない、答えたくなければそう言っていい」
フィリアは頷く。
その一つひとつが、前へ進むための足場みたいだった。
「それと」
セレスティアの灰青の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「あなたはもう、“偽物だと断じられたままの娘”ではありません」
胸がどくりと鳴る。
「忘れないこと」
「……はい」
短い返事しかできなかった。
でも、それで十分だった。
やがて、外で控えていた騎士が扉越しに告げる。
「筆頭聖女候補リュシエンヌ・アルベール様、到着されました」
部屋の空気が変わる。
マリエッタが静かに定位置へ下がる。
セレスティアは扉の正面には立たず、しかし完全な同席者として存在が際立つ位置を取る。
フィリアは椅子へ座り、膝の上で指先を重ねた。
扉が開く。
まず、柔らかな香が入ってきた。
大聖堂でよく焚かれていた乳香に似ているが、それよりも少し甘く、清楚というより整えられた華やかさを持つ香り。
そしてそのあとに、リュシエンヌ・アルベール本人が姿を見せた。
やはり美しかった。
淡い金の髪は今日も一糸乱れず結い上げられ、白を基調とした法衣はまるで光を抱くように清らかに見える。肌は透き通るほど白く、青い瞳は湖面のように静かだ。微笑めば、誰もが“聖女らしい”と納得してしまうだろう。
フィリアの胸が、ぎゅっと縮む。
変わっていない。
やっぱりこの人は、自分とは違う世界の人みたいに完璧だった。
だが、同時に以前とは違うものも見えた。
その微笑みは、整いすぎている。
感情ではなく、相手に向けるために用意された形のように。
以前は気づけなかったその“整い方”が、今のフィリアには妙に鮮やかだった。
「ごきげんよう、セレスティア副団長」
リュシエンヌはまずセレスティアへ向かって優雅に一礼した。
「本日は急な申し入れをお受けくださり、感謝いたします」
「用件次第です」
セレスティアの返しは簡潔だった。
礼は返すが、歓迎はしない。
その温度がはっきり伝わる。
リュシエンヌは眉ひとつ動かさず、次にフィリアへ視線を向けた。
「……久しぶりね、フィリア」
その声音は驚くほどやわらかかった。
フィリアの呼吸が一瞬だけ止まる。
久しぶり。
その言い方が、かえって残酷だった。
まるで何事もなかったかのように、王都大聖堂の回廊で声をかけるのと同じ調子で言われたからだ。
「リュシエンヌ様」
どうにか名を返す。
声が震えなかっただけでも、今のフィリアには大きな前進だった。
リュシエンヌは小さく頷き、勧められた椅子へ腰を下ろした。
背筋の伸び方一つとっても隙がない。
「今日は見舞いに来たの」
その第一声に、マリエッタがわずかに眉を動かしたのがわかった。
セレスティアは何も言わない。
ただ、その灰青の瞳だけが冷えていく。
リュシエンヌはやわらかく続ける。
「あなたが無事だと聞いて、安心したわ。あのような場に立たされて……さぞ辛かったでしょう」
優しい言葉。
いたわるような表情。
かつてのフィリアなら、それだけで涙ぐんでしまったかもしれない。
でも今は、その言葉の置き方に違和感を覚える。
あのような場に立たされて。
まるで、彼女自身はその場へ関わっていなかったかのような言い方だ。
フィリアは膝の上で指先を握り、それでもどうにか視線を逸らさずにいた。
「……ありがとうございます」
礼は言った。
だが、それ以上は続けない。
リュシエンヌの青い瞳が、一瞬だけ細くなる。
ほんのわずかに。
見逃してしまいそうな程度に。
「顔色も前より良く見えるわ。近衛の屋敷は、あなたに合っているのかもしれないわね」
その言葉の真意を、フィリアは測りかねる。
褒めているのか。
探っているのか。
あるいは、セレスティアの保護下で落ち着いている自分を見て、何かを計算しているのか。
代わりにセレスティアが口を開いた。
「要件を」
その一言で、談話室の空気がぴんと張る。
リュシエンヌはわずかに口元を和らげた。
「せっかちな方ですね、副団長」
「無駄話に付き合うつもりはありません」
「では率直に申し上げます」
リュシエンヌはフィリアへ向き直った。
「あなたについて、王都の中で妙な動きが出ているの。王宮も大聖堂も、処遇を決めかねている。だからこそ、私としてはあなたが不用意に傷つかない形で、今後を整えたいと思っているのよ」
整える。
その言葉は、やさしげでいて不気味だった。
「具体的には……」
フィリアが問うより先に、リュシエンヌが続ける。
「大聖堂側で保護を引き受けるという選択肢もあるわ。公の場へ出ず、静養しながら、正式な再鑑定を受ける形で」
その瞬間、フィリアの背中へ冷たいものが走った。
大聖堂で保護。
静養。
再鑑定。
言葉だけを見れば穏やかだ。
でも実質は、再び大聖堂の管理下へ戻れと言っているのに等しい。
フィリアが即答できずにいると、セレスティアの声が冷ややかに差し込んだ。
「それは提案ではなく、後退です」
リュシエンヌは微笑みを崩さない。
「そうでしょうか? 副団長。王都の噂は残酷です。近衛の庇護下にあるというだけで、フィリアは余計な敵意を集める。大聖堂なら少なくとも、表向きは“祈りの場”ですもの」
「表向きは」
セレスティアが低く返す。
その二文字だけで、談話室の温度が一段下がった。
フィリアはその応酬を聞きながら、初めてはっきりと理解する。
リュシエンヌは、優しい顔で奪いに来ている。
フィリアの安全を心配しているように見せて、実際には大聖堂の手へ戻すための言葉を選んでいる。
しかも、こちらが断れば“近衛が不当に囲っている”ような印象すら作れる言い方だ。
怖い。
でも、以前のようには崩れなかった。
セレスティアの言葉が、今も胸の中にあるからだ。
あなたはもう、“偽物だと断じられたままの娘”ではありません。
フィリアはゆっくりと息を吸った。
「……リュシエンヌ様」
自分の声で、相手の名を呼ぶ。
それだけで、ほんの少しだけ足場が強くなる。
リュシエンヌの青い瞳が、静かにこちらを向く。
「何かしら、フィリア」
昔と同じ、やさしい声音。
でももう、ただそれだけで飲まれはしない。
「わたしは、大聖堂へ戻るつもりはありません」
言えた。
膝の上の指先は震えていたが、それでも言えた。
リュシエンヌの微笑みが、ごくわずかに止まる。
「……どうして?」
問い方も柔らかい。
だがその奥にあるものは、もうフィリアにもわかる。
「また、そこでちゃんと見ていただける保証がないからです」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。
こんなふうに言い返せるとは思っていなかった。
リュシエンヌは数秒の沈黙のあと、すぐに微笑みを戻した。
「手厳しいのね」
「……そうかもしれません」
「でも、誤解しているわ。大聖堂はあなたを排除したかったのではなく、混乱を避けたかっただけよ。あのときは、状況が悪すぎたの」
その言い方に、フィリアの胸の奥がひやりとした。
混乱を避けたかっただけ。
それはつまり、間違っていたとは言わないということだ。
必要だったと、そう言っているに等しい。
セレスティアが口を開く前に、フィリアはもう一度息を吸った。
「それでも、わたしは……あの場所では、わたし自身の言葉を持てませんでした」
談話室の空気が静まる。
「だから、戻りません」
その言い切りは、まだ細かった。
でも確かに、自分の意志だった。
リュシエンヌはフィリアをじっと見つめる。
その青い瞳の底で、何かが静かに計算されているのがわかる。
やがて彼女は、ごく小さくため息をついた。
「……変わったのね、フィリア」
その声音は、不思議と本音に近かった。
昔の“可憐で従順な、いくらでも揺らせる候補生”ではない。
その事実を、今この場で確かめているのだろう。
フィリアはその言葉に答えなかった。
代わりに、視線を逸らさずにいた。
その沈黙の中で、セレスティアが低く言う。
「用件が終わったなら、お引き取りを」
リュシエンヌはゆっくりと立ち上がった。
動作のひとつひとつは相変わらず美しい。
けれど、入室したときよりも微笑みの完成度が少しだけ下がっている。
人形のように完璧ではなくなっていた。
「今日はこれで失礼するわ」
フィリアへ向けて、リュシエンヌは最後に言った。
「でも覚えておいて。王都は、近衛の剣だけで守りきれるほど単純な場所ではないの」
それは忠告のようでもあり、脅しのようでもあった。
フィリアの背筋を冷たいものが走る。
だが次の瞬間、セレスティアの声がそれを断ち切る。
「それはこちらも承知しています」
リュシエンヌは何も返さず、ただ静かに一礼し、談話室を後にした。
扉が閉まる。
その途端、フィリアはようやく張りつめていた息を大きく吐き出した。
怖かった。
とても。
でも同時に、わかってしまったこともある。
筆頭聖女リュシエンヌ・アルベールは、完璧な聖女の顔を持ったまま、相手の居場所を奪うことができる人だ。
そして彼女は、今のフィリアを決して甘く見てはいない。
マリエッタが小さく呟く。
「……やっぱり、厄介ですね」
「ええ」
セレスティアは短く答え、それからフィリアを見た。
「よく持ちこたえました」
その一言で、フィリアの肩から力が抜ける。
「……怖かったです」
「当然です」
すぐに返るその言葉に、フィリアは少しだけ笑った。
泣きそうな笑いだったけれど、それでも確かに笑えた。
筆頭聖女リュシエンヌ。
完璧で、美しくて、遠くて、怖い人。
でももうフィリアは、ただ見上げるだけではなかった。




