第13話 あなたの言葉
その夜、フィリアは久しぶりに、自分の胸の内へ静かに耳を澄ませていた。
客間の窓辺には、夜の気配が薄く寄りかかっている。
外では近衛騎士団の夜番の足音が、一定の間隔で石畳を打っていた。規則正しく、揺るがず、眠らない屋敷の呼吸のような音だ。
昼間の鑑定から、ずっと頭の中に残っている言葉がある。
あなたは偽りではない。
王都が何と呼ぼうと、大聖堂がどう記録しようと。少なくとも私は、今日その目で見た。
セレスティアの声で言われた、その言葉。
イザベラの理路整然とした結論も、もちろん嬉しかった。
偽物ではないと証明されたことも。
癒やしではないが、確かに力を持っていると示されたことも。
でも、それだけでは足りなかったのだと、今のフィリアにはわかる。
理屈だけでは、夜になるとまた不安が戻ってくる。
あれは本当だったのだろうか。
都合よく解釈されただけではないのか。
明日になればまた、別の人に否定されるのではないか。
そうやって疑いは何度でも戻ってくる。
だからこそ、最後にセレスティアが向けてくれた言葉は特別だった。
“結果”ではなく、“あなた”へ向けられた言葉だったから。
「……あなたの言葉」
ぽつりと呟くと、自分の胸が小さく痛むように熱くなった。
あの人はいつも、必要以上を語らない。
優しい言葉を重ねる人ではない。
むしろ、余計な慰めを避けるようにすら見える。
だからその人が、まっすぐこちらだけを見て「偽物ではない」と言ってくれた。
それが、こんなにも深く残るのだ。
フィリアは寝台の上で膝を抱えた。
今日の昼間、書斎でもらった布は、もうきちんと畳んで机の上へ置いてある。
涙を拭った薄い布。
あれさえ今のフィリアには、妙に大事なものに見えた。
部屋の隅には、今日買った衣服がきちんと収まっている。
薄青灰色のワンピース。
やわらかな下着類。
櫛や髪紐。
ただ生活するための品々。
昨日までの自分には、そういうものすら“仮置き”だった。
でも今夜は少しだけ違う。
仮ではあっても、ここにいる時間が、ただの保留だけではなくなり始めている気がする。
そのとき、胸元にしまっていた祈祷札が、ごくわずかに温かくなった。
「……あなたも、そう思う?」
問いかけても返事はない。
でも今日のフィリアには、その沈黙すら前ほど空っぽには思えなかった。
祈祷札は静かに熱を残し、すぐにまた元へ戻る。
まるで、そうだと頷いただけみたいに。
フィリアは小さく息をついた。
今日一日だけで、胸に受け取ったものが多すぎる。
偽物ではないこと。
力の性質。
王都の聖女制度との齟齬。
そして、セレスティアの言葉。
整理できていないのに、不思議と昨日までのような苦しさはない。
考えれば考えるほど沈んでいくのではなく、まだ怖いままでも、自分の中に置いておける感じがあった。
それが“足場”ということなのかもしれない。
不意に、扉が控えめに叩かれた。
「フィリア、起きていますか」
低い声。
セレスティアだった。
フィリアの心臓が、どくりと大きく鳴る。
「……はい」
「少しだけ、いいですか」
「どうぞ……!」
返事が少し弾んでしまったことに、自分で気づいて顔が熱くなる。
けれど扉が開く頃には、何とか平静を装えた――つもりだった。
セレスティアは夜用の軽い上衣姿だった。
黒一色の簡素な衣服なのに、その人が纏うと不思議と凛として見える。
長い髪は今夜もきっちりとはほどかれていないが、昼間よりは少しだけ結い目が緩く、完全な“公”ではない顔をしていた。
「お休み前でしたか」
「い、いえ……まだ、少し起きていました」
セレスティアは扉を閉め、部屋へ二、三歩入ったところで足を止める。
客間へ入るときの彼女は、いつも必要以上に奥へ踏み込まない。
その距離感が、今のフィリアにはありがたかった。
「マリエッタから、イザベラの伝言の件で少し気にしていたようだと聞きました」
「伝言の件……」
「あなたが夜にまた全部を疑い直すかもしれない、という話です」
フィリアは目を伏せた。
図星だったからだ。
「……少しだけ、考えていました」
「疑いましたか」
問いは静かだった。
責めるのではなく、確認するための声。
フィリアは正直に頷く。
「はい。……でも、前みたいに全部では、なくて」
「全部ではない」
「イザベラ様の言葉も、今日の鑑定も、ちゃんと本当だと思っています。でも、それでも少しだけ……夜になると、また怖くなりそうで」
そこまで言って、フィリアは顔を上げた。
「でも、セレスティアさまの言葉を思い出すと、ちゃんと戻ってこられる気がします」
言ったあとで、少し重すぎただろうかと不安になる。
こんなふうに、あなたの言葉に支えられています、とそのまま伝えるのは。
だがセレスティアは困った顔をしなかった。
代わりに、わずかに目を細める。
「戻ってこられるなら、それで十分です」
短い答え。
だが、そこに拒絶はない。
「……あの」
フィリアは勇気を出して続ける。
「昼間に言ってくださったこと、本当にうれしかったです」
「どの部分ですか」
そう返されて、フィリアは少しだけ困ってしまう。
どの部分も、なのだ。
「全部です」
「曖昧ですね」
「だって……全部なので」
思わずそう返すと、セレスティアの口元がほんのわずか動いた。
笑った、というほどではない。
でも、確かに少しだけ柔らいだ。
それが嬉しくて、フィリアは胸の奥がくすぐったくなる。
「でも、いちばんは……」
そこまで言って、少し迷う。
口にしていいのか。
でも今なら、言える気がした。
「“少なくとも私は、今日その目で見た”って言ってくださったところです」
セレスティアの表情が静かに止まる。
「イザベラ様が鑑定してくださったのも、もちろん嬉しかったです。けど、あの言葉は……なんというか」
うまく言葉を探す。
あまりに大事すぎて、雑に言いたくない。
「わたしが、ひとりで勝手に“そう思いたい”だけじゃないって、ちゃんと現実につないでくれる感じがして」
フィリアは自分の指先を見つめた。
「理屈だけじゃなくて、あなたが見てくれたって思えたので」
静かな沈黙が落ちる。
セレスティアは返事を急がなかった。
彼女はいつもそうだ。
言葉を軽く扱わない。
だからこそ、待つ沈黙も怖くない。
やがて、低い声がゆっくり落ちてきた。
「……それなら、言った意味はありました」
たったそれだけ。
なのにフィリアの胸はいっぱいになる。
「セレスティアさまは、言葉を無駄にしませんよね」
気づけばそう言っていた。
「無駄にしない?」
「はい。優しい言葉をたくさんくださる方ではないですけど……でも、言ってくださるときは、ちゃんと必要な場所に置いてくださるので」
それは以前、自分が言った“優しさの置き場所”と同じことだった。
言いながら、自分でも少しだけ恥ずかしくなる。
でも、これも本当のことだった。
セレスティアは少しだけ視線を逸らした。
「あなたは時々、妙なところを見ていますね」
「よく言われます」
「誰に」
「……いま、セレスティアさまに」
答えると、今度はほんの少しだけ、はっきりと彼女の口元が緩んだ。
フィリアはその変化を見逃さなかった。
見逃せるはずがない。
こんなふうに、この人の表情がわずかにやわらぐだけで、胸があたたかくなる。
それがどういうことなのか、まだ言葉にするには早い気がした。
でも、大切な変化であることだけははっきりしている。
「フィリア」
不意に名を呼ばれる。
「はい」
「今日は、かなり多くのことを知りました」
「……はい」
「明日になって、また別の不安が出てくるかもしれない。自分の力が怖くなる可能性もある」
フィリアは小さく頷く。
それもたしかにあり得ることだった。
嬉しいだけでは終わらない。
この力が何を見せるのか、自分でもまだわからないのだから。
「そのときは、また言いなさい」
セレスティアの声は低く静かだった。
「ひとりで整理できないなら、そう言えばいい」
フィリアは息を呑む。
ひとりで整理できないなら、そう言えばいい。
なんでもないような一文だ。
でもそれは、“整理できないままでもここにいていい”と言われたのに近かった。
「……いいんですか」
「何が」
「そんなふうに……何度も」
「必要なら、何度でも」
即答だった。
フィリアはその言葉を、胸の奥へ大切にしまうように受け取る。
必要なら、何度でも。
セレスティアの言葉は多くない。
でも少ないぶん、一つひとつが強い。
何度も思い返してしまうくらいに。
だからきっと、自分にとって“あなたの言葉”は、これからも簡単には消えないのだろう。
「……ありがとうございます」
いつもの礼を言うと、セレスティアは少しだけ困ったような顔をした。
「今日はその言葉を何度聞いたかわかりません」
「でも、本当にそう思っているので」
「それはわかっています」
返事は淡々としている。
けれど最後の一言だけ、ほんの少し柔らかかった。
部屋の中へ、夜の静けさが満ちる。
セレスティアは扉の近くへ少しだけ下がった。
もう戻るのだろう。
それがわかるだけで、フィリアはほんの少し寂しくなる。
けれどその感情に名前をつけるのは、まだ早い。
「……今夜は眠れそうですか」
扉へ向かいながら、セレスティアが尋ねる。
フィリアは自分の胸へ手を当てた。
不安が全部消えたわけではない。
けれど昨日までのような、底なしの暗さはない。
「はい」
今度は迷わず答えられた。
「たぶん、じゃなくて?」
その言い方に、フィリアは目を瞬かせてから、ふっと笑う。
「……はい。ちゃんと眠れそうです」
「そうですか」
セレスティアも、ごくわずかに目を細めた。
扉へ手をかけたところで、フィリアは衝動的に呼び止めていた。
「セレスティアさま」
「何です」
「……おやすみなさい」
昨日までより、ずっと自然に言えた。
明日があることを疑わずに。
セレスティアは短く頷く。
「ええ。おやすみなさい、フィリア」
扉が静かに閉まる。
そのあともしばらく、フィリアはその場から動けなかった。
胸の奥に、あたたかい余韻が残っている。
言葉は、多ければいいわけじゃない。
やさしければ、それだけで届くわけでもない。
でも、あの人の言葉は、必要な場所へまっすぐ届く。
だから、忘れない。
フィリアはゆっくりと寝台へ戻った。
夜具へ入ると、温石のぬくもりが足元にある。
胸元の祈祷札も、今夜は不安を煽るような熱を持たない。
ただ、静かにそこにある。
目を閉じる前、フィリアは胸の中でそっと思う。
明日また不安が来てもいい。
また揺らいでもいい。
そのたびに、戻ってくればいいのだ。
あの人の言葉のところへ。
そう思えた夜は、王都へ来てから初めてだった。




