第99話「蜜月の檻」
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ナラ・エンの森の奥深く、結界に守られた白亜の双塔。
その最上階にある主寝室は、アルフォンスが宣言した『絶対安静・極甘看病コース』の実行により、文字通り甘美な「檻」と化していた。
「……アルフォンス、もう起きてもいい?」
「断じてなりません、エルカ。貴女は現在、国家の一大事レベルの『重傷』を負っているのですから」
時刻は昼下がり。
私は最高級のシルクシーツと、魔鳥の羽毛で作られたふかふかの布団の間に挟まれ、身動き一つ取れない状態に置かれていた。
私の左手の人差し指には、先日パン粥を作った際につけた、ミリ単位の小さな擦り傷がある。
たったそれだけの理由で、私はこの三日間、ベッドから一歩も降りることを許されていないのだ。
「……重傷って、血すらもう出てないわよ」
「目に見えない微細な雑菌が侵入している可能性があります。さあ、口を開けてください。本日のランチ、特製スフレオムレツのトリュフソース添えです」
完璧にアイロンがけされた燕尾服を纏い、純白の手袋をはめた私の夫は、銀の匙でふんわりとしたオムレツをすくい、ふーふーと息を吹きかけて適温にしてから、私の口元へと運んできた。
レモンと蜜蝋の、清潔で落ち着く香りが彼の体から漂ってくる。
「あーん」
私は抗うことを諦め、大人しく口を開けた。
舌の上でとろける卵の甘みと、トリュフの芳醇な香り。悔しいけれど、絶品だ。
私がモグモグと咀嚼するのを、アルフォンスはアイスブルーの瞳を蕩けさせながら、まるで世界で一番尊い奇跡でも見守るかのように見つめている。
「美味しいですか、エルカ」
「……美味しい。でも、自分で食べられるわ」
「いけません。カトラリーの重みで、貴女の美しい指の傷がパクリと開いてしまうかもしれない。食事も、着替えも、洗顔も……すべてこの私が、貴女の細胞一つ一つを労わるようにこなしてご覧に入れます」
彼は私の口元を柔らかいナプキンで拭い、そのまま私の黒髪に指を通した。
サッ、と絹擦れの音が鳴る。
手入れが行き届き、今や艶やかな夜の海のように輝く私の髪を、彼は愛おしそうに撫でた。
「ああ……ずっとこのままでいたい。貴女をこの柔らかいベッドに縫い付けて、一生私だけが貴女の世話をし続けたい……」
彼の低い声が、耳元で甘く粘りつく。
物理的な鎖はない。
けれど、彼の重すぎる愛と、完璧すぎる世話焼きが、私から「自分で何かをしよう」という気力を根こそぎ奪っていく。
この心地よい依存の沼に、首までどっぷりと浸かっている感覚。嫌いじゃない。むしろ、ずっとこうして腐っていけたらどんなに幸せだろうかとも思う。
「みゃあ」
ふと、ベッドの足元から間の抜けた鳴き声がした。 黒猫のノワールだ。
ノワールは、アルフォンスがチリ一つなく磨き上げた床の上で、退屈そうにごろりと寝転がり、あくびをしていた。 結界に守られたこの塔には、追いかけるネズミも、舞い散る落ち葉もない。
安全で清潔すぎる空間は、猫にとっては少し退屈なのだろう。
(……退屈、か)
私は窓の外を見た。
分厚いガラスの向こうには、私たちを守る白い霧が立ち込めている。 そのさらに向こうには、先日訪れたナラ・エンの活気ある街並みがあるはずだ。 アルフォンスと二人きりの世界は満たされている。でも、私たちはただ隠れ住んでいるだけの「無職」の夫婦だ。
「さて、エルカ。本日の『患部消毒および包帯交換』の時間です」
アルフォンスがワゴンを引いてきた。
その上には、滅菌処理された精製水、最高級の治癒軟膏、そして真新しい純白の包帯が、まるで手術の執刀を待つかのように仰々しく並べられている。
「大げさだなぁ……もう絆創膏すら要らないと思うんだけど」
「素人判断は危険です。さあ、左手を見せてください」
彼はベッドの縁に腰掛け、私の左手をそっと両手で包み込んだ。 そして、白い手袋の指先で、私が貼っていた不格好な絆創膏を、痛みを与えないよう慎重に、ゆっくりと剥がしていく。
「……チッ。少し粘着質が肌に残って……」
彼の言葉が、途切れた。
「アルフォンス?」
絆創膏が完全に剥がされた私の人差し指を見て、アルフォンスは石像のように硬直した。
彼のアイスブルーの瞳が、限界まで見開かれている。
そこには、傷跡など微塵も残っていなかった。
かさぶたすらなく、元通りの白く滑らかな肌がそこにあるだけだ。 私の魔女としての自己治癒力と、三日間の絶対安静が、ただの擦り傷を跡形もなく消し去ってしまったのだ。
「……あ、治ってる。ほらね、言ったでしょ?」
私が指を曲げ伸ばしして見せると、アルフォンスの口から、ヒュッと息が漏れた。
カチャ……ガシャンッ!!
彼が手にしていた銀のトレイが、床に滑り落ちた。
「な、治って、いる……? 傷が……消えた……?」
「うん。もう痛くも痒くもないわ。これで看病はおしま……」
「いやだぁぁぁぁぁぁッ!!!」
アルフォンスが、この世の終わりを見たかのように頭を抱えて絶叫した。
「そんな! まだ三日しか経っていません! 貴女をベッドに縛り付け、食事を与え、全身をくまなく清拭し、私の庇護下でトロトロに甘やかす魅惑の七日間が……! 私の、私の生き甲斐がぁぁぁっ!!」
彼は床に膝をつき、まるで国を滅ぼされた亡国の王のような悲痛な表情で崩れ落ちた。
彼の脳内で、絶望の嵐が吹き荒れているのが手に取るように分かる。
(ダメだ、治ってしまった……! これではエルカをベッドに拘束する大義名分が失われてしまう! い、いっそ私がもう一度、ほんの少しだけ小さな傷を……いやダメだ! 彼女の美しい肌を自ら傷つけるなど、万死に値する!! ああ、私の神様……!)
葛藤の末に、彼は私の足元にすり寄り、シーツに顔を埋めてめそめそと泣き真似(いや、半分本気で泣いている)を始めた。
そのコミカルな大型犬のような姿を見て、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、あはははっ! もう、大げさなんだから」
私はベッドから足を下ろし(アルフォンスが「ああっ、床に足が!」と悲鳴を上げたが無視した)、彼を見下ろした。
「看病は終わり。私、もう元気だもん。……だから、働きましょう」
「……働く? 貴女がですか?」
アルフォンスが涙目で顔を上げる。
その眼鏡の奥の瞳には、明らかな拒絶の色が浮かんでいた。
「いけません。魔法省の給与がなくなったとはいえ、私の亜空間収納には、金塊や宝石など、私たちが三回生まれ変わっても使いきれないほどの資産が隠匿してあります。貴女に労働などという不浄な真似をさせるわけにはいきません」
「お金の問題じゃないの」
私はしゃがみ込み、彼の冷たい頬に、自分の温かい両手を添えた。
アメジスト色の瞳で、彼のアイスブルーの瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「私、このナラ・エンの街に、私たちの『居場所』を作りたいの」
「私たちの……居場所?」
「そう。二人でここで腐っていくのも甘くて好きだけど……私、魔女としての薬学の知識があるし、あんたは森で薬草を摘むのが得意でしょ? だから、この森の入り口で『診療所』を開きたいの」
「診療所……っ!? つまり、見ず知らずの、泥にまみれ、病原菌を撒き散らす不潔な有象無象の民草どもが、貴女に近づくということですか!?」
アルフォンスの顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
潔癖症であり、極度の独占欲を持つ彼にとって、
不特定多数の人間が私に接触する環境など、地獄以外の何物でもないだろう。
「絶対に反対です!! 貴女の美しい声が他人の鼓膜を揺らすことすら許せないのに、貴女の尊い手が、他人の汚れた体を診察するなど……ッ!! 想像しただけで吐き気が……!」
「お願い、アルフォンス」
私は彼の首に腕を回し、ギュッと抱きついた。
そして、彼に身を預けながら、耳元で甘く囁いた。
「私、あんたと一緒に何かをしたいの。ただ守られるだけのお人形じゃなくて、夫婦として、二人で生きていくための場所を作りたい。……ダメ、かな?」
「…………ッッ!!!」
アルフォンスの喉が、ヒュッと鳴った。
抱きついた胸の奥で、彼の心臓が爆発しそうなほどの早鐘を打っているのが分かる。
(あああっ! 妻からの、自発的なおねだり! この甘い花の蜜の香り! 『夫婦として一緒に』という殺し文句! ダメだ、理性が、私の構築した完璧な防壁が、まるで砂糖菓子のように崩れ去っていく……ッ!!)
ギリリリリッ! と、彼が奥歯を砕けんばかりに噛み締める音がした。
そして、深い、深い敗北の溜息を吐き出した。
「……はぁ。貴女には、本当に敵わない」
「じゃあ、いいの!?」
「……許可、いたします」
私が歓喜の声を上げてさらに強く抱きしめると、彼は私の腰に腕を回し、逃がさないようにきつく抱きしめ返してきた。
「ただし、条件があります。診療所の衛生管理、およびセキュリティの全権は私が掌握します。患者が貴女に近づける距離は半径二メートルまで。直接の接触は一切禁じます。……それらを守れるのであれば、貴女の『お遊び』に付き合って差し上げましょう」
「うんっ! ありがとう、アルフォンス!」
こうして、過剰なほどに潔癖で、異常なほどに愛が重い執事との、新しい「お仕事」の幕が開けようとしていた。 足元で、ノワールが「にゃあ」と期待に満ちた声を上げた。
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