第98話「逆転の献身、甘い熱のゆくえ」
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「……アルフォンス……?」
返事はない。
ただ、彼の冷たい銀髪だけが、私の手に力なく触れていた。月明かりに照らされた寝室。
ノワールを腕に抱いたまま眠りについていた私は、ベッドの縁に崩れ落ちた夫の姿に、一瞬だけ呼吸を忘れた。
「アルフォンスッ!?」
私はノワールをそっとベッドの隅に降ろし、慌てて飛び起きた。
彼の肩を揺さぶり、仰向けに抱え起こす。
「嘘、どうしたの!? ねぇ!」
いつもなら、完璧に撫で付けられているはずの銀髪が、汗で額に乱雑に張り付いている。
そして何より、彼の頬に触れた私の掌に、信じられないほどの熱が伝わってきた。
燃え盛る暖炉に直接触れたかのような熱さ。
彼特有の、あの少しひんやりとした理知的な体温はどこにもない。
「……はぁ、はぁ……える、か……」
彼のアイスブルーの瞳が、薄く開いた。
熱に浮かされて虚ろに潤み、焦点が合っていない。 ノワールへの嫉妬による精神的疲労、執拗なまでの除菌作業、徹夜での「超豪華猫用ベッド」の製作。そして何より、私のすべてを完璧に管理するという重圧。
いくら彼が規格外の魔力と体力を持っていようとも、この数日間の「重すぎる愛の暴走」は、確実に彼の肉体を限界まで追い詰めていたのだ。
「ごめんなさい……私が、ノワールのお世話ばっかりしてたから……っ」
「……近づいては、いけません……」
アルフォンスは震える手で、私を押し退けようとした。
「私の体内に、病魔という名の不潔な侵入者が……。貴女に、風邪がうつります。……今夜は、別の部屋で、おやすみください……」
「バカッ! 自分の体がこんなになるまで無理して……っ、今更別の部屋なんて行くわけないでしょ!」
私は彼の胸ぐらを掴み、そのまま火事場の馬鹿力で、彼をベッドの上へと引きずり上げた。
私たちが夫婦として、毎晩一緒に眠っている、この広くてふかふかのベッドへ。
「……エルカ、ダメです。貴女を、汚したくない……」
「うるさいっ。夫婦なんだから、私が看病するの!」
私は彼をベッドの中央に寝かせると、自分もその隣に潜り込み、分厚い羽毛布団を頭まで引き上げた。 そして、彼の大きな体に、ギュッと抱きついた。
「……ッ!? エルカ、何を……」
「看病よ。ほら、私の体温で温めてあげるから。大人しく寝てなさい」
私は彼の背中に腕を回し、熱を持った胸板に顔を押し当てた。
いつもは彼が私を抱きしめ、私を外界から隠すように守ってくれる。
でも今夜は、私が彼を抱きしめる番だ。
彼の体からは、いつもの清潔なレモンと蜜蝋の香りに混じって、甘く熱っぽい汗の匂いがした。
少し苦しくて、でも、彼が確かにここで生きている証の匂い。
「……うぅ……絶対、治してあげるからね……」
私は気合を入れて、彼の背中をトントンと優しく叩き始めた。
アルフォンスがいつも、私が眠るまでしてくれているように。
「私が看病するんだから……朝まで、ずっと……」
……。 …………。
「……すぅ……すぅ……」
数十分後。
意気込んでいた私のまぶたは、彼の熱い体温と、心地よい疲労感によって、あっさりと陥落していた。
――アルフォンス視点――
(……ああ、なんて……愛おしい……)
熱に浮かされた霞む視界の中で、アルフォンスは自分の胸に顔を埋めてスヤスヤと眠る妻の寝顔を見つめていた。「看病する」と息巻いていた彼女は、ほんの数十分背中を叩いただけで、先に深い眠りに落ちてしまった。
普段なら「生活能力が皆無すぎる」と呆れるところだが、今の彼にとって、その無防備な寝顔はどんな特効薬よりも効いた。
(私のために、必死になって……。風邪がうつる危険すら顧みず、この小さな体で、私を包み込もうとしてくれた……)
彼女の柔らかい黒髪が、自分の首筋をくすぐる。 彼女の少し低い体温が、熱く燃えるような自分の体に、冷たい清水のように染み渡っていく。
アルフォンスは、震える腕をそっと彼女の背中に回した。
(……やはり、貴女なしでは生きられない。……この愛しすぎる魔女を、一生、私の腕の中に閉じ込めておきたい……)
病魔の苦しさよりも、重すぎる愛情が胸を締め付ける。
アルフォンスは彼女の髪に熱い吐息混じりのキスを落とし、静かに目を閉じた。
――エルカ視点――
翌朝。
「……はっ! 私、寝てた!?」
窓から差し込む朝日を浴びて、私は飛び起きた。
隣を見ると、アルフォンスはまだ苦しそうな息を吐いて眠っていた。
熱は昨夜ほどではないが、まだ高い。
「ご、ごめんアルフォンス! 看病するって言ったのに……っ」
私はベッドから飛び降りた。
「ノワール、アルフォンスを見ててね!」
「にゃーん」
足元で丸くなっていたノワールに寝室を任せ、
私は意気揚々と一階のキッチンへと向かった。
目指すは「パン粥」だ。
以前、私が魔法の使いすぎで寝込んでしまった時、アルフォンスが作ってくれた、あの胃に優しくて温かい料理。
パンをミルクで煮込んで、少しの砂糖とバターで味付けするだけ。私でも作れるはずだ。
「よし、まずはパンを切って……」
私は戸棚から固くなったバゲットを取り出し、
包丁を握った。……が、切れない。
生活能力皆無の魔女にとって、包丁は魔法の杖よりも扱いが難しい危険なアーティファクトだ。
「ええいっ! 硬い! なんでこんなに……ああっ!」
ズルッ、と刃が滑り、私の左手の人差し指をかすめた。
「痛っ……」
血が滲む。でも、こんなの、彼がいつも私にしてくれる苦労に比べたら、かすり傷にもならない。
私は傷口を水で洗い、絆創膏を雑に巻きつけると、なんとか不格好なパンの欠片を小鍋に放り込んだ。
次はミルクとバターだ。 ここからが一番の難関、「火加減」である。
先日ノワールにミルクを温めようとして吹きこぼした記憶が蘇る。
(アルフォンスは言ってた。『食材の細胞を壊さないためには、摂氏六十五度の最適な温度を保つことが重要です』って……)
私は小鍋を睨みつけ、極小の魔力を指先に集めた。 攻撃魔法で山を吹き飛ばすのは簡単でも、生活魔法で「焦がさないようにミルクを温める」のは至難の業だ。
私は息を詰め、全神経を集中させて小鍋の底に微弱な熱を送った。
「……六十度……六十三度……よし、今っ!」
少しだけ焦げ臭い匂いが漂った気がしたが、なんとか台所を爆発させることなく、トロトロのパン粥のようなものが完成した。
見た目はお世辞にも美しいとは言えない。
ドロドロの塊だ。でも、私の精一杯の愛情が詰まっている。
「待っててね、アルフォンス……!」
私はお盆にパン粥と冷たい水、そして温かいおしぼりを乗せ、抜き足差し足で寝室へと戻った。
ベッドの上のアルフォンスは、薄く目を開けていた。
私はお盆をサイドテーブルに置き、ベッドの縁に腰掛けた。
まずは、彼の顔を覆っている銀縁の眼鏡をそっと外す。
「……アルフォンス。起きられる?」
「……ん……える、か……?」
「ご飯、作ってきたの。少しでも胃に入れた方がいいわ」
眼鏡を外した彼の素顔は、普段の冷徹な仮面が剥がれ落ち、ひどく無防備で、残酷なほど美しかった。 アイスブルーの瞳が、熱に浮かされて潤み、私を捉える。
「……貴女が、作った、のですか……?」
「うん。見た目はちょっとアレだけど……毒は入ってないわよ」
私はスプーンでパン粥をすくい、ふーふーと息を吹きかけて冷ました。
そして、彼の口元へと運ぶ。
「はい、あーん」
私が言うと、彼は信じられないものを見るような目でスプーンを見つめ、やがてゆっくりと口を開けた。 パクり。 彼がパン粥を飲み込む。
私は緊張で心臓が破裂しそうだった。
美食家で完璧主義の彼にとって、こんなドロドロの失敗作、吐き出されても文句は言えない。
しかし。
「……美味しい」
「えっ?」
「……世界で、一番……甘くて、美味しいです」
彼の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
えっ!? 泣くほどマズかったの!? と焦ったが、違った。
彼のアイスブルーの瞳は、私の左手――不格好に絆創膏が巻かれ、少し赤く火傷の跡が残る人差し指に釘付けになっていた。
「……私の、ために……。貴女の、その美しい指を、傷つけて……」
「あ、これ? ちょっと包丁が滑っただけで……」
「……ああ……」
アルフォンスは震える手で私の左手を取り、その傷跡に、熱い唇を押し当てた。
チュッ、と、切なく、深い音が響く。
「……あぁ、死んでもいい……」
熱に浮かされた彼の口から、信じられないほど重たい言葉がこぼれ落ちた。
「バカなこと言わないでよ! 私を置いて死ぬなんて絶対に許さないんだから!」
「……ええ……死ねません。貴女のこの深い愛情を、直接摂取してしまったのですから……私は、永遠に貴女に縛り付けられました……」
彼は泣きながら、それでも私が運ぶパン粥を一口、また一口と、まるで聖杯の水を飲むかのような恭しさで飲み込んでいった。
食後。 私は温かいおしぼりを手に取り、汗で濡れた彼の銀髪を優しく拭き始めた。
額から、熱を持った首筋へ。
彼の脈打つ血管を感じながら、丁寧に、丁寧に汗を拭い去っていく。
「……気持ちいい?」
「……はい。貴女の指先が触れるたび、魂が浄化されていくようです……」
「ふふっ。大げさね」
いつもは彼にやってもらっていることを、私が彼にしている。
その逆転した関係性が、なんだか少しだけ誇らしくて、私の胸をくすぐった。
――そして、さらに翌朝。
「おはようございます、私の愛しい妻よ!!!!」
バンッ! と寝室の窓が勢いよく開け放たれ、眩しい朝日とともに、尋常ではない声量のバリトンボイスが響き渡った。
「……ふぇ?」
私が寝ぼけ眼をこすりながら体を起こすと、そこには、完全復活を遂げたアルフォンスが仁王立ちしていた。 燕尾服は一点のシワもなく、銀髪は光を弾くほど艶やかで、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳は、太陽よりもギラギラと燃え盛っている。
「ア、アルフォンス? 熱は……」
「熱など、貴女の『愛のパン粥』を摂取した瞬間に消え去りました! 今の私は、魔王を素手で引き裂けるほどにエネルギーが満ち溢れています!! 妻の愛を直接摂取した私は、もはや無敵です!!!」
彼はベッドに飛び乗るなり、私の体を軽々と抱き上げた。
「きゃっ!?」
「ああ、エルカ! 私のために傷ついたその指、懸命に看病してくれたその眼差し! 全てが私の細胞を最高レベルまで活性化させました!」
彼は私の頬に、額に、首筋に、雨あられと狂ったようなキスを降らせてくる。
「ちょ、ちょっと待って! 復活早すぎない!? 私の看病の余韻とか……」
「余韻など不要! むしろ、ここからは私が『お返し』をする番です!」
アルフォンスは私を抱きしめたまま、恐ろしいほどに甘く、そして重い声で宣言した。
「貴女の献身に対する最大の感謝として……本日から一週間、貴女をこのベッドから一歩も降ろさない『絶対安静・極甘看病コース』を実行いたします!!」
「はあぁ!?」
「食事も、着替えも、下の世話も! 全て私がベッドの上で完璧にこなしてご覧に入れます! さあ、私への依存の海に沈む準備はよろしいですか!?」
彼の背後に、黒い執着のオーラがドス黒く渦巻いているのが見えた。
ノワールが「シャーッ」と威嚇して逃げていく。
「や、やだ! 私元気だし! トイレくらい自分で行けるし!!」
「なりません! 貴女の指の傷が完全に癒えるまで、貴女は私の腕の中から逃れられない運命なのです!!」
「重い!! 愛が重すぎる!! やっぱり看病なんてやらなきゃよかったぁぁぁっ!!」
私の絶叫は、完璧執事の狂気的な愛情の嵐の中に、むなしく吸い込まれていった。
読んでくださってありがとうございます。
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