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第97話「黒猫の使者と嫉妬する執事」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの霧の森にそびえ立つ、私たち夫婦の白亜の双塔。

アルフォンスが設定した絶対不可侵の結界は、「敵意」や「汚れ」を完全に遮断する一方で、私が望む「平穏」――例えば森の動物たちや優しい風だけは通すように調整されていた。


その穏やかな昼下がり。

リビングのソファで微睡んでいた私の耳に、微かな鳴き声が届いた。


「にゃあ」


ガラス戸の隙間から、ひょっこりと黒い鼻先が覗いている。するりとリビングに入ってきたのは、

夜闇を切り取ったような艶やかな毛並みの、小さな黒猫だった。


「わぁ……可愛い。結界を抜けて遊びに来てくれたの?」


しゃがみ込んで手を差し出すと、黒猫は警戒することもなく近づき、私の指先に冷たい鼻をすりすりとおしつけてきた。森の土と、お日様の匂い。

かつてのゴミ屋敷の住人だった私には、少し懐かしい自然の匂いだ。


「ふふっ。魔女にはやっぱり黒猫が似合うわよね」


私はその小さな体を抱き上げた。軽い。

そして、信じられないほど温かい。


「お腹、空いてるよね? ちょっと待ってて、ミルク温めるから!」


意気揚々とキッチンへ向かった私だったが、

そこからが戦いの始まりだった。

生活能力が皆無に等しい私は、小鍋の場所すら分からない。

棚をひっくり返し、ようやく見つけた鍋にミルクを注ぎ、魔法で火を点けようとしたのだが……。


「えっと、火力調整は……ああっ、強すぎた! 吹きこぼれるぅぅ!」


「みゃあ!?」


シューッという音と共にコンロがミルクまみれになり、私は慌てて火を消した。

なんとか小皿に人肌より少し熱めのミルクを出すと、黒猫は文句も言わずにピチャピチャと舐めてくれた。


「よ、よし……次はお風呂よ! 綺麗にしてあげるからね!」


私は腕まくりをして、黒猫を洗面台へ連れて行った。

私専用の、花の蜜の香りがする高級シャンプーを手に取る。


「適量ってどれくらい? ええい、これくらいね!」


「みゃーっ!?」


ドバッ。 明らかに致死量のシャンプーを黒猫の背中に投下してしまった。

お湯をかけると、洗面台はあっという間にアワアワのパニック状態に陥った。


「ご、ごめん! 泡が目に入らないように……って、私の顔に泡がぁっ!」


水に濡れて細くなった体を宥めながら、格闘すること数十分。

なんとかお湯で洗い流し、今度はふかふかのタオルで包み込む。

しかし、力加減が分からない私は、ゴシゴシと雑に拭きすぎてしまった。


「あわわ、毛が爆発してる……! ブ、ブラッシングすれば直るから!」


ドレッサーの前に座り、ブラシを通す。

サッ、サッ。 ああでもない、こうでもないと必死に手を動かしていると、次第に黒毛は本来の艶を取り戻し、ふかふかの毛玉のように丸くなった。


「はぁ、はぁ……できたわ……」


「にゃーん」


疲れ果てて床に座り込んだ私に、花の蜜の香りを漂わせた黒猫がすり寄ってくる。

その愛くるしさに、苦労も吹き飛んだ。


「……エルカ。お茶の準備が……」


ガチャリと扉が開き、銀のトレイを手にした完璧な夫(兼・執事)が姿を現した。

そして、時は止まった。


「…………え?」


アルフォンスの足が、床に縫い付けられたようにピタリと止まる。

彼のアイスブルーの瞳が見開かれ、床にへたり込む私と、私の膝の上で丸くなる黒い毛玉、そしてミルクの跡や水滴で散らかった部屋へと釘付けになった。


カチャ……カタカタカタッ……!


アルフォンスの手にあるトレイが震え、ティーカップが不気味な音を立てる。


「エルカ……。その、得体の知れない毛玉と、この惨状は……なんですか」


彼の声は、地獄の底から響くような絶対零度だった。


「結界を抜けて遊びに来てくれたみたいなの。お世話、大変だったけど……お風呂に入れてブラッシングしてあげたのよ」


「不潔な獣です。貴女の美しい肌が汚れてしまう。今すぐ森へお帰り願いましょう」


彼が空いた左手で、バチバチと蒼い魔力を弾けさせる。強制排除の構えだ。


「ダメッ! 飼うの!」


私は立ち上がり、黒猫を庇うように……いや、アルフォンスの魔力を止めるために、彼の腰にギュッと勢いよく抱き着いた。


「ッ!?」


アルフォンスの体が、丸太のように硬直した。


「なりません。私たちの聖域に、そのような毛玉を……」


「お願い、アルフォンス……!」


私は彼の胸元にすり寄るように顔を押し当て、

そこから見上げるように彼を見つめた。

アメジスト色の瞳をたっぷりと潤ませ、精一杯の「上目遣い」と「体温」を武器にして。


「私、この子のお世話したいの。ずっと一人でお留守番してる時も、この子がいれば寂しくないし……ダメ、かな?」


「…………ッッ!!!」


アルフォンスの喉の奥から、ヒュッと、息が漏れるような悲鳴が聞こえた。

彼の左手でバチバチと鳴っていた蒼い魔力が、

シュゥゥゥ…と音を立てて無惨に霧散していく。


彼の脳内で、激しい葛藤が渦巻いているのが魔力の繋がりを通して伝わってくる。


(ダメだ。しかし、妻からの自発的なハグ! この密着した体温! そして私を見上げる、この庇護欲を煽る濡れた瞳! 心臓が、心臓が素手で握り潰されそうだ! しかも私は先日『彼女の意志を尊重する』と誓ったばかりではないか……ッ!)


ギリリ、と奥歯を砕けんばかりに噛みしめる音が聞こえた後、彼は深く、深く溜息をついた。

私の抱擁の前に、最強の夫は完全に白旗を揚げたのだ。


「……はぁ。貴女には、絶対に敵わない。……許可、いたします」


「本当!? ありがとう、アルフォンス! 大好き! 名前は『ノワール』にする!」


私が歓喜の声を上げてさらに強く抱きしめると、彼は顔を真っ赤にして口元を覆った。


「にゃあ」


私が腕を離すと、ノワールはトトトッとアルフォンスの足元へ駆け寄り、完璧にプレスされた彼の上等なスラックスに、スリスリと頬を擦り付け始めた。


「チッ。私のズボンに毛が……」


アルフォンスは顔をしかめたが、ノワールの丸い金色の瞳で見上げられると、ふっと毒気を抜かれたように動きを止めた。 彼は白い手袋をはめた指先で、ノワールの顎の下をコチョコチョと撫でた。


「……みゃあ」


「……ふむ。まあ、悪くない毛並みです。私の妻が洗ったのだから当然ですが」


少しだけ頬を緩めるアルフォンス。

その「デレ」た表情のギャップがおかしくて、

私は思わずクスッと笑ってしまった。


しかし、アルフォンスの理性が保てたのはそこまでだった。


「エルカ。その獣が触れた手は直ちに消毒いたします。……さあ、アルコールと私の魔力で、念入りに……」


「ちょっと、大げさだってば!」


私がノワールを撫でるたびに、彼は異常なまでの対抗心を燃やし始めた。

ズカズカと私に歩み寄り、自分の銀髪を私の頬に擦り付けてくる。


「触ってみてください、エルカ。私の髪の方が、キューティクルの滑らかさも、香りの良さも、圧倒的に勝っています。毎日、貴女のために最高級のオイルで手入れをしているのですから!」


「分かった、分かったから頭を擦り付けてこないで!」


「それに、私の方が躾が行き届いていて、家事も夜の伽もこなせます! 絶対に私の方が役に立ちます!」


その日の夜。

私がノワールと一緒に寝室へ向かおうとすると、アルフォンスは目の下に微かな隈を作って立ちはだかった。


「……エルカ。まさか、その獣をベッドに入れるおつもりですか?」


「え? うん、まだ小さいし」


「断じて許しません!! 貴女の無防備な寝顔を、私以外の生き物に見せるなど……ッ!」


翌朝、私がリビングに降りていくと、そこには異様な光景が広がっていた。

リビングの隅に、最高級のシルクと魔鳥の羽毛で作られた、王族の天蓋付きベッドをミニチュアにしたような「超豪華な猫用ベッド」が鎮座していたのだ。


「……アルフォンス、これ……」


「徹夜で設計・製作いたしました。温度管理システム、自動清浄機能、絶対防音結界付きです。……これで、ノワールはあそこで寝ます。貴女のベッドには一歩も近づけさせません」


彼は胸を張って言ったが、その顔色は明らかに悪かった。

透き通るような白い肌は病的に青ざめ、目の下の隈は濃くなっている。

ノワールへの嫉妬による精神的疲労。

私がノワールを抱くたびに勃発する過剰な消毒とストーキング。

そして、私への視線を遮るための、徹夜の工作。

いくら彼が超人的な体力を持っていても、限界が近づいていた。


「……みゃあ」


そんな彼の苦労を知ってか知らずか、ノワールは超豪華ベッドを無視して、私の足元にすり寄ってきた。


「結局、私のところがいいみたいね」


「…………ッ!!!」


アルフォンスが、声にならない悲鳴を上げて頭を抱えた。


その日の夜。

私はノワールを腕の中に抱き込んだまま、ベッドで眠りについていた。

ふと、人の気配を感じて薄く目を開ける。

月明かりに照らされたベッドサイドに、アルフォンスが立っていた。 彼は、私がノワールを抱きしめている姿を、悲痛な瞳で見下ろしていた。


(ああ……私の愛しい妻よ。なぜ、私だけでは満たされないのですか……)


そんな声が聞こえた気がした。

彼はそっと手を伸ばし、私の頬にかかった髪を撫でようとした。 けれど、その手が触れる直前。


グラリ、と。


アルフォンスの大きな体が、まるで糸の切れた操り人形のように不自然に傾いた。


「……え?」


私の微かな呟きが空気に溶ける前に。

彼は音もなく膝から崩れ落ち、ベッドの縁に倒れ込んだ。


「……アルフォンス……?」


返事はない。

ただ、彼の冷たい銀髪だけが、私の手に力なく触れていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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