第96話「アメジストの瞳の、映らぬ明日」
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ナラ・エンの霧の森にそびえる双塔。
その最上階にある主寝室に、朝の光が差し込んでいた。
けれど、私はまだベッドから出られずにいた。
「……んぅ……」
重い。まぶたも、体も、指一本動かすのが億劫なほどに。
昨夜の「教育」という名の愛の営みは、文字通り朝まで続いた。
嫉妬に狂ったアルフォンスは、私が他の男(ただ道を聞いただけの青年)を見たという事実を、彼の愛で上書き保存するまで決して許してはくれなかったのだ。
『貴女の全ては、私のものです』
『他の男の声など、忘れてください』
『私だけを見て……私だけを感じて……』
耳元で繰り返された甘い呪詛が、まだ脳裏に焼き付いている。
首筋、鎖骨、背中、太腿……。
鏡を見なくてもわかる。
私の全身には、彼が刻んだ無数の「所有の印」が咲き乱れているはずだ。
「おはようございます、私の愛しい奥様」
扉が開き、爽やかな朝の光と共にアルフォンスが入ってきた。
彼はすでに完璧な身支度を整え、手には湯気の立つハーブティーを持っている。
昨夜、あれほど獣のように私を貪っていた男と同一人物とは思えないほど、涼しい顔だ。
「……おはよう、鬼畜執事」
「おや、最高の褒め言葉ですね」
彼はベッドサイドにティーカップを置くと、私を抱き起こし、背中にクッションを当ててくれた。
「体調はいかがですか?少しやりすぎた自覚はありますが」
「少し?腰が砕けそうなんだけど」
「申し訳ありません。ですが、貴女が可愛すぎるのがいけないのです」
彼は悪びれもせず、私の頬にキスをした。
その目には、満たされた所有欲と、隠しきれない愛情が溢れている。
悔しいけれど、その眼差しを受けるだけで、昨夜の疲労が甘い痺れに変わっていくような気がした。
「さあ、朝の身支度をしましょう。今日は塔の中でゆっくり過ごしましょうか」
「うん……そうする」
私は彼にされるがまま、ベッドから抱き上げられ、洗面台の前の椅子に座らされた。
鏡の中の自分と目が合う。
乱れた黒髪。気だるげな表情。
そして、胸元に散らばる赤い痕。
それは、紛れもなく「愛され、管理されている女」の顔だった。
アルフォンスは私の髪を梳き始めた。
櫛が髪を通るたびに、心地よい刺激が頭皮に伝わる。
彼の指先が時折首筋に触れると、昨夜の熱が蘇って背筋が震えた。
「……エルカ」
「ん?」
「昨日の外出は……楽しかったですか?」
鏡越しに、彼が尋ねてきた。
その声には、少しの不安と、探るような響きが含まれていた。
「うん。楽しかったよ。一人で歩くのは、新鮮だった」
私は正直に答えた。
自分の足で歩き、自分の目で見たいものを見る自由。それは確かに刺激的で、ワクワクするものだった。
「……そうですか」
アルフォンスの手が一瞬止まった。
鏡に映る彼の表情が曇る。
「……やはり、貴女には外界が必要なのでしょうか。……私だけの狭い箱庭では、貴女の翼を縛ってしまうのでしょうか」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
塔を建てたあの日に交わした『夫婦の約束』。
『貴女の意志で外に出る』――。
彼はそれを尊重しようと努力している。
でも、本音では私を閉じ込めておきたいのだ。
誰にも見せず、誰にも触れさせず、自分だけの宝石箱にしまっておきたいのだ。
「ねえ、アルフォンス」
私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。
「昨日は楽しかった。……でもね」
私は鏡の中の自分の瞳――アメジスト色の瞳を見つめた。
そこには、私が映っているのではない。
私の背後に立ち、私を守るように包み込んでいる銀髪の男が映っている。
「……怖かったの」
「え?」
「一人で歩いている時……すごく寒かった。隣にあんたがいないだけで、世界が灰色に見えたの」
それは嘘偽りのない本心だった。
自由は魅力的だ。
でも、アルフォンスのいない自由なんて、ただの孤独でしかない。
道を聞かれた時も、もし彼が影から見ていてくれなかったら、私はもっと動揺していただろう。
彼が守ってくれているという絶対的な安心感があったからこそ、私は「冒険」ごっこができたのだ。
「私はもう、あんたなしじゃ歩けない体になっちゃったみたい」
私は自嘲気味に笑った。
天才魔女?自立した女性?
そんなの、とっくの昔に捨てた。
今の私は、アルフォンス・クラインという男に依存し、寄生し、彼に管理されることでしか生きられない、ただの幸せなダメ人間だ。
「……エルカ……」
アルフォンスが息を呑んだ。
アイスブルーの瞳が潤み、感動と歓喜に揺れている。
「……貴女という人は……。どうしていつも、私の欲しい言葉をくれるのですか」
彼は私を後ろから抱きしめ、首筋に顔を埋めた。
「私は汚い男です。……貴女の自由を尊重するふりをして、心の中では『失敗すればいい』『怖くなればいい』と願っていました。……外界の冷たさを知れば、貴女はまた私の腕の中に戻ってくると信じて」
「……性格悪いわね」
「ええ。貴女を愛しすぎて、性格が捻じ曲がってしまいました」
彼は私の耳元で、甘く囁いた。
「でも、安心しました。……貴女の瞳には、外界の景色なんて映らなくていい。私だけが映っていればいいのです」
彼の言葉が、すとんと胸に落ちた。
そうか。私の瞳は、もう明日なんて見ていない。
ただ、目の前にいるこの男だけを見ているのだ。
彼がいれば、塔の中が全世界になる。
彼がいなければ、世界中どこに行っても牢獄と同じだ。
「……うん。私には、あんただけで十分よ」
私は彼の手を握り返し、鏡の中の彼に微笑みかけた。
これでいい。これがいい。
共依存?結構じゃない。
私たちは二人で一つの生命体なのだから。
昼下がり。
私たちは塔のテラスに出て、遅めのランチをとっていた。眼下には霧の森が広がり、遠くにナラ・エンの街が見える。
「平和ね」
「ええ。邪魔者は排除しましたし、結界も盤石です」
アルフォンスが私の口にサンドイッチを運んでくる。私はそれをパクりと食べる。
昨日のような「毒味地獄」はない。
彼が作った料理は、世界で一番安全で美味しいからだ。
「そういえば、アルフォンス。……この塔、少し寂しくない?」
「寂しい? ……家具が足りませんか?それとも装飾品を?」
「ううん、そうじゃなくて……」
私は少し言い淀んだ。
この生活は満たされている。
でも、何かが足りない気がする。
それは、物質的なものではなく、もっと根本的な……。
「……生き物の気配、かな」
私が呟くと、アルフォンスはきょとんとした。
「生き物?森には動物がたくさんいますよ」
「そうだけど……。この塔の中に、私たち以外の生き物がいてもいいかなって」
例えば、ペットとか。 あるいは、使い魔とか。
二人だけの世界は濃密すぎて、たまに息が詰まることがある。
クッション代わりになるような、無害な第三者がいてもいいかもしれない。
「……ふむ」
アルフォンスは考え込んだ。
彼の脳内で、「不潔な獣を塔に入れるリスク」と「妻の要望」が天秤にかけられているのがわかる。
「……貴女が望むなら、検討しましょう。……ただし」
彼は眼鏡を光らせた。
「毛が抜けないこと。トイレの躾が完璧であること。鳴き声がうるさくないこと。そして何より……私よりも貴女に懐かないこと。これが絶対条件です」
「最後のが一番難しそうね」
私は苦笑した。
この嫉妬深い夫は、ペットにさえ嫉妬するに違いない。
「まあ、急がなくていいわ。……今はまだ、あんたと二人がいいし」
「はい。私もです」
アルフォンスは嬉しそうに微笑み、私の膝に頭を乗せた。
長身の彼が体を折り曲げて甘えてくる姿は、大型犬のようで可愛い。
「……エルカ」
「ん?」
「髪を、撫でてくれませんか?」
彼がねだるなんて珍しい。
私は彼の銀髪に指を通した。
サラサラで、ひんやりとしていて、気持ちいい。
「気持ちいい?」
「はい。貴女の手は魔法の手です。触れられるだけで、魂が浄化されるようです」
彼は目を閉じた。
私は彼の髪を梳きながら、窓の外の景色を眺めた。霧の森。静寂。
そして、膝の上の愛しい重み。
外界を知ったことで、私はより強くこの「塔」の安らぎを再確認した。
ここは逃げ場所ではない。
私が選び取った、最高の居場所なのだ。
「……アルフォンス」
「はい」
「……愛してるよ」
私が囁くと、彼は目を開けずに、私の手を取って口づけをした。
「……知っています。……私も、貴女を愛しています。……私の命が尽きるその瞬間まで」
アメジストの瞳には、もう外の世界は映らない。
映るのは、私を愛し、私を縛り、私を生かしてくれる銀色の執事だけ。
そして彼のアイスブルーの瞳にも、私だけが映っている。
鏡合わせの二人。
閉じた円環の中で、愛はどこまでも深く、重く、沈殿していく。
その夜。 私たちは入浴の時間を迎えた。
昨日の外出で浴びた「不浄な空気」を洗い流すための、禊のような儀式だ。
「……失礼します」
アルフォンスは私の服を脱がせ、浴室へと抱きかかえていった。
湯気が立ち込める白亜の浴室。
そこは、彼が設計した通り、神殿のように美しく、清潔な空間だった。
「……今日は、聖水を用意しました」
「聖水?」
「ええ。ナラ・エンの湧き水を、私の魔力で極限まで浄化したものです。貴女の肌を癒やし、外界の汚れを完全にリセットします」
彼は私を湯船に浸からせると、手袋を外した素手で、私の体を洗い始めた。
泡立てたスポンジではなく、彼の手そのもので。
「くすぐったい」
「我慢してください。指先でないと、微細な汚れを見落としますから」
彼の指が、私の肌を這う。昨夜の痕をなぞるように、優しく、慈しむように。
それは洗浄というよりも、所有権の確認作業だった。
「エルカ」
「なに?」
「貴女は誰のものですか?」
まただ。
彼は定期的にこれを聞いてくる。
わかっているくせに。
言わせたいだけなのだ。
「……あんたのものよ」
「名前で呼んでください」
「アルフォンス・クラインのものよ」
「正解です」
彼は満足げに微笑み、泡まみれの手で私の頬を包み込んだ。
そして、湯気の中で唇を重ねる。石鹸の香りと、
彼の匂い。
熱いお湯と、彼の体温。 私は目を閉じた。
アメジストの瞳の裏側には、もう彼以外の何も映っていなかった。
明日も、明後日も、その先も。
私はこの塔の中で、彼に磨かれ、彼に愛され、
彼に溶けていくのだ。
それは、堕落ではなく、幸福な昇天だった。
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