第100話「清潔すぎる診療所」
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ナラ・エンの霧の森を抜け、古都の街並みへと続く街道の入り口。
そこに、昨日までは存在しなかった一軒の瀟洒な山小屋風の建物が建っていた。
杉の香りが漂う真新しいログハウス。
屋根にはナラ・エン特有の美しい緑色の瓦が葺かれ、入り口には『クライン薬局・診療所』というアンティーク調の看板が上品に揺れている。
「……信じられない。たった一晩で、本当に建てちゃったのね」
私は、診療所のピカピカに磨き上げられたカウンターの内側――私専用に設えられた、座り心地の良すぎるベルベットの椅子の上で、呆然と呟いた。
無職となった私たちの「居場所」を作ろうと提案したのが昨日の昼。
そして今朝、目を覚ますと、アルフォンスは私を抱きかかえたまま森の入り口まで飛び、この完璧な診療所をお披露目したのだ。
「当然です。エルカの思いつき……いえ、素晴らしいご提案を、一日たりとも待たせるわけにはいきませんから」
カウンターの外側で、純白の白衣(ただし、その下はいつもの完璧な燕尾服だ)を纏ったアルフォンスが、優雅にお辞儀をした。
銀縁眼鏡の奥で、アイスブルーの瞳が誇らしげに輝いている。 建物の中には、薬局特有の消毒液や苦い薬草の臭いはない。彼から漂うレモンと蜜蝋の清潔な香りと、私の体から香る花の蜜のような甘い香りが、絶妙に混ざり合って空間を満たしていた。
「それにしても……」
私は入り口のドアの方を指差した。
「あのドアの前に設置されてる、青白く光る物々しいアーチは何なの? なんだか、バチバチと放電してるように見えるんだけど」
「ああ、あれですか」
アルフォンスは白手袋をはめた指で眼鏡を押し上げ、涼しい顔で答えた。
「私の魔力で構築した『超高密度・全自動全身消毒トンネル』です」
「……は?」
「診療所という性質上、病原菌や害虫、あるいは土埃や泥といった『汚物』を纏った人間が訪れるのは避けられません。しかし、それらがエルカの呼吸する空気に混ざるなど、万死に値します。ですから、あのアーチをくぐった者は、ミクロン単位の雑菌から服のシミ、果ては悪意や敵意に至るまで、私の蒼い炎で一瞬にして『焼却浄化』される仕組みになっています」
「それ、患者さんが入ってくる前に灰にならない!?」
「ご安心を。人体には影響のないよう、緻密な出力調整を行っています。……まあ、少しばかり毛先が焦げたり、熱さで気絶したりするかもしれませんが、不潔なまま貴女に近づくよりはマシでしょう」
全く安心できない。これでは診療所ではなく、処刑場だ。 私が頭を抱えていると、足元で黒猫のノワールが「みゃあ」と鳴きながら、私のドレスの裾にすり寄ってきた。
「まあいいわ……。とにかく、今日からここが私たちの新しい職場よ。アルフォンス、採取してきてくれた薬草を出して」
「御意」
彼がカウンターの上に、美しく編まれた籠を置いた。
中には、朝露に濡れた瑞々しいハーブや、ナラ・エンの森でしか採れない希少な魔力草が、種類ごとに完璧に分類されて束ねられている。
泥一つ、枯れ葉一枚混じっていない、芸術品のような薬草たちだ。
私は乳鉢と乳棒を引き寄せ、調剤の準備を始めた。 かつてゴミ屋敷に引きこもっていた頃は、
カビの生えたパンを齧りながら、床に散らばった材料を適当に鍋に放り込んでいた。
けれど今は違う。
アルフォンスが毎日丁寧にブラッシングしてくれる黒髪は、埃一つなく夜の海のように艶やかに輝いている。彼が仕立てた白衣風のドレスは、私の体に完璧にフィットし、少し動くだけで絹擦れの心地よい音を立てた。
「まずは、基本の万能解熱剤からね」
私は青い葉を持つ『氷結草』を乳鉢に入れ、極小の魔力を指先に込めてすり潰し始めた。
サリ、サリ、サリ……。
静かな診療所に、リズミカルな音が響く。
魔女としての私の直感と知識が、植物の細胞を壊さず、最も効率よく魔力を抽出する角度と力加減を導き出していく。
「……美しい」
ふと、正面から熱を帯びた吐息のような声が聞こえた。 顔を上げると、アルフォンスがカウンターに両手をつき、食い入るように私を見つめていた。
アイスブルーの瞳が、蕩けるような熱を帯びて揺らいでいる。
「……何よ。調合の邪魔しないで」
「いえ……。真剣な眼差しで薬を調合する貴女の姿が、あまりにも神々しくて。そのアメジストの瞳の輝きを、私だけのものとして瓶に詰めて保存しておきたい衝動に駆られています」
(あああっ! ダメだ、理性が焼き切れそうだ……!)
彼の涼しい顔とは裏腹に、魔力の繋がりを通して、彼の脳内の叫びが私の頭に直接響いてきた。
(私のエルカが! 私が手塩にかけて磨き上げた、世界で一番美しく尊いお人形が! 私以外の『有象無象の民草ども』のために、その高尚な魔力と知識を使っている! 嫉妬で狂いそうだ。今すぐあの薬草をすべて焼き払い、彼女をベッドに拘束して、私のためだけにその声と熱を絞り出させたい……! しかし、彼女自身が『やりたい』と望んだことだ。妻の自立を応援できない男など、執事失格、いや夫失格! 私は耐える。この血を吐くような嫉妬すら、彼女への愛のスパイスとして飲み込んでみせる……ッ!)
「……アルフォンス、顔、怖いよ。こめかみに青筋立ってるし」
「……気のせいです、エルカ。私は今、世界で一番幸せな夫ですから」
彼はギリリと奥歯を噛み締める音をさせながら、必死に柔和な笑みを貼り付けた。 そのギャップがおかしくて、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「ありがとう、アルフォンス。あんたが最高の材料を集めてくれたおかげで、すごくいい薬ができそうよ」
私が微笑みかけると、彼は雷に打たれたように硬直した。
「……ッ!!」
彼の頬が、耳の先まで一気に朱色に染まる。
白い手袋をはめた手で口元を覆い、そのままズルズルとその場に崩れ落ちた。
「ちょっと、どうしたの!?」
「……致死量です。貴女のその屈託のない笑顔と、労いの言葉……。私の心臓が、幸福という名の猛毒で限界を突破しました。ああ、もう、本当に、貴女を誰の目にも触れさせたくない……」
彼は床に膝をついたまま、カウンター越しに私の手を握りしめ、その甲に熱い唇を押し当てた。
手袋越しでも伝わってくる、彼の異常なほどの体温と、震える唇の感触。 彼の匂いが、一気に私を包み込む。
「大げさなんだから」
私は顔を赤くしながらも、彼の手を振り払わなかった。 誰かに必要とされるのは嬉しい。
でも、私が一番必要としているのは、そして私を一番必要としてくれているのは、間違いなく目の前で私に狂っているこの重たい夫だ。
「……コホン。さて、そうと決まれば、ルールの徹底が必要です」
アルフォンスは突然立ち上がり、咳払いを一つして、いつもの冷徹な執事の顔(ただし耳はまだ赤い)に戻った。 彼は壁に、金色の額縁に入った巨大な羊皮紙を飾った。
「診療所の入り口に掲げる『クライン薬局・利用規則』です」
「どれどれ……」
私は身を乗り出して、その規則を読んだ。
一、患者は、薬師エルカから半径二メートル以内の接近を厳禁とする。
二、薬師エルカへの直接の接触は、手渡しを含め一切禁止。金銭や薬の授受は、備え付けの滅菌トレイを使用すること。
三、薬師エルカへの直視は三秒以内とする。それ以上の凝視は、眼球を物理的に洗浄する刑に処す。
四、薬師エルカへの私語、馴れ馴れしい呼びかけ、および感謝の言葉は不要。すべて執事であるアルフォンスが検閲し、代行する。
五、以上のルールを破った者は、即刻『消毒(物理)』の対象となる。
「……ねえ。これ、誰も来なくなるんじゃない?」
「来なければ、それに越したことはありません。私たちの平和な日常が守られるだけです」
アルフォンスは堂々と胸を張った。
「私は貴女の望みを叶えるために、この診療所を建てました。ですが、貴女を他人の汚れや悪意に晒すつもりは毛頭ありません。貴女はただ、この安全なガラスの向こう側で、好きなように薬を調合していればいい。……あとはすべて、私が完璧に管理します」
彼は私の髪を優しく撫で、その指先を私の頬へと滑らせた。
「貴女は、私なしではもう生きられない。……そして私も、貴女なしでは呼吸すらできない。この絶対的な共依存関係という名の檻の中から、貴女を一歩も出すつもりはありませんから」
彼の言葉は、どこまでも甘く、そして重い鎖のように私を縛り付ける。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
かつてゴミの山に埋もれて孤独だった魔女は、今、彼という名の清潔で完璧な檻の中で、最高に満たされていたのだから。
「みゃあ」
ノワールが、呆れたように一つ鳴いて毛繕いを始めた。
「さあ、エルカ。開院の時間です。……最初の『不潔な患者』が来るまで、たっぷりと私を愛してください」
アルフォンスはそう囁くと、カウンター越しに私の唇に、深く、蕩けるようなキスを落とした。
薬草の香りが満ちる清潔すぎる診療所で、私たちの甘く重い新しい日常が、こうして幕を開けたのだった。
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