第101話「最初の患者と執事の検閲」
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ナラ・エンの森の入り口に『クライン薬局・診療所』をオープンさせてから、三日が経過した。
「……誰も来ないわね」
「当然です。ここは聖域。そう易々と足を踏み入れられる場所ではありません」
ピカピカに磨き上げられたカウンターの内側。
私専用に設えられたベルベットの椅子に深く腰掛けながら呟くと、背後に立つアルフォンスが涼しい顔で紅茶を注いでくれた。 カチャリ、と陶器が触れる上品な音。レモンと蜜蝋の、いつもの安らぐ香りが漂う。
誰も来ない理由は明白だった。
入り口に鎮座する、アルフォンスお手製の『超高密度・全自動全身消毒トンネル』。
バチバチと青白い放電を繰り返すその物々しいアーチを見れば、普通の人間は魔物の巣窟かと勘違いして逃げ出してしまうだろう。
「このままじゃ、ただ森の中に別の引きこもり部屋を作っただけじゃないの」
「それの何が不満なのですか? 私は貴女と二人きりで、こうして貴女の美しい髪を梳いているだけで、悠久の時を過ごせますが」
アルフォンスの白い手袋をはめた指先が、私の黒髪を優しく梳き下ろす。
サッ、サッという絹擦れの音。首筋に触れる彼の指の微かな熱が、私を甘い微睡みへと誘ってくる。 彼の言う通り、ここで彼に飼われているのは最高に心地いい。 でも、私は「誰かの役に立つ魔女」になりたかったのだ。
カランコロ〜ン。
不意に、入り口のアンティークベルが軽やかな音を立てた。「えっ!?」 私が弾かれたように顔を上げると、すりガラスの扉の向こうに、おずおずと中を覗き込む人影が見えた。
「……チッ」
アルフォンスが、私の頭上で舌打ちをした。
さっきまでの甘い空気が一変し、室内の温度が急激に下がる。
ギィィ、と扉が開き、一人の老人が足を踏み入れた。 腰の曲がった、村の農夫だろう。
着古したヨレヨレの麻服に、泥のついた長靴。
その手には、使い込まれた鍬が握られている。
その瞬間だった。 バチバチバチィッ!!
「ひゃあぁぁっ!?」
老人が入り口のトンネルをくぐった途端、青白い炎が彼の全身を舐め回した。
それはアルフォンスが設定した消毒魔法だ。
老人の服にこびりついていた土埃、見えない雑菌、そして長靴の泥が、一瞬にして『焼却浄化』される。
ほんのりと焦げ臭いオゾン臭が漂い、老人は目を白黒させて腰を抜かしそうになっていた。
「……いらっしゃいませ」
私が慌てて声をかけようとしたが、アルフォンスが私の前にスッと立ち塞がった。
「……不潔な」
アルフォンスの地獄の底から響くような声。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、老人を汚物でも見るかのように見下ろしている。
「私の設定した自動消毒をすり抜けるほど、強固な泥の塊を靴に付着させているとは。……エルカの呼吸する空間が汚染されます。直ちに外へ排除――」
彼が左手から蒼い魔力を弾けさせた。強制排除(物理)の構えだ。
「アルフォンス、ダメッ!!」
私は慌てて椅子から立ち上がり、アルフォンスの燕尾服の袖をギュッと引っ張った。
「最初の患者さんよ! 追い出しちゃ絶対ダメ!」
「ですがエルカ! あの泥を見てください! あのような無菌状態とは程遠い人間を、貴女から半径十メートル以内に近づけるなど、私の管理義務に対する重大な違反です!」
「お願い、アルフォンス……!」
私は彼の腕にすり寄り、アメジスト色の瞳をたっぷりと潤ませて、彼を見上げた。 伝家の宝刀、「上目遣い」だ。
「私、ここでお仕事したいの。初めての患者さんを診察したいの。……ダメ、かな?」
「…………ッッ!!」
アルフォンスの喉が、ヒュッと鳴った。 魔力の繋がりを通して、彼の脳内での絶叫が聞こえてくる。
(ああっ! 妻の労働意欲! 庇護欲を煽るこの上目遣い! しかし、あの老人の泥のシミ! 私の潔癖症が悲鳴を上げている! だが、ここで彼女の願いを無下にすれば、私は夫として……ッ!!)
ギリリリッ! と奥歯を噛み砕かんばかりの音が響いた後、彼の手から蒼い魔力がシュゥゥと霧散した。
「……はぁ。貴女には、本当に敵わない。……許可いたします。ただし」
アルフォンスは殺気立った目で老人を睨みつけた。
「徹底的に『追加の除菌』を行わせていただきます」
「ひぃっ!?」
アルフォンスが指を鳴らすと、老人の頭上から滝のような浄化の水(温水)が降り注ぎ、続けて熱風乾燥魔法が暴風のように吹き荒れた。 十秒後。
そこには、服のシワ一つなくプレスされ、髪の毛までフワフワにブローされ、完全に無菌状態となった疲労困憊の老人が立っていた。
「……これで、ようやく最低限の基準を満たしました。ルール第一項に従い、カウンターから二メートル離れた白線の位置にお立ちください」
アルフォンスの冷徹な指示に、老人は震えながら白線の後ろに立った。
「ええと……おじいさん、今日はどうされました?」
私がカウンター越しに優しく尋ねると、老人はホッとしたように口を開いた。
「森に薬師様が来たと聞いてな。最近、腰が痛くてたまらんのじゃ。それに、夜になると動悸がして、息が苦しくて……」
「なるほど、動悸ですね。ちょっと脈を診させて――」
私はカウンターから身を乗り出し、老人の手首に触れようと手を伸ばした。
ガシッ!!
「……っ!?」
老人の手と私の手の間に、純白の手袋をはめた大きな手が、鋼鉄の壁のように割り込んだ。
アルフォンスだ。
「ルール第二項。薬師エルカへの直接の接触は一切禁止です」
「ちょっと、アルフォンス! 脈を測らないと、正確な調合ができないじゃない!」
私が抗議すると、アルフォンスは涼しい顔で答えた。
「問題ありません。私が『媒介』となります」
言うが早いか、アルフォンスは右手で老人の手首を極めて嫌そうに、親指と人差し指だけでつまみ上げた。そして、空いた左手で、私の右手を恋人繋ぎのようにギュッと絡め取ったのだ。
「えっ……?」
「さあ、エルカ。私の魔力と脈動を通して、この老人の脈拍を読み取ってください。……私の体は、貴女のためにのみ機能する完璧な伝導体です」
手袋越しに、彼の異常なほどの熱が私の手に流れ込んでくる。 ドクン、ドクン。
確かに、脈拍は伝わってくる。だが。
「……アルフォンス、あんたの心臓が早鐘打ってるせいで、おじいさんの脈が全然分かんないんだけど!」
「……っ! そ、それは……」
アルフォンスの耳の先が、カッと赤く染まった。
「貴女と、こうして公の場で手を繋いでいるのですから……平常心でいられるわけがないでしょう。私の心臓が、貴女への愛で爆発しそうに脈打つのは不可抗力です」
「バカなこと言ってないで落ち着きなさいよ!」
「……善処します。すぅ、はぁ……」
彼が深呼吸をして何とか自分を落ち着かせると、ようやく老人の弱々しい、不規則な脈が伝わってきた。
「……うん、不整脈の気があるわね。あとは血行不良からの腰痛。血の巡りを良くする『陽だまり草』と、心臓の負担を和らげる『静寂の苔』を調合しましょう」
私は彼の手を振りほどき、後ろの棚から手早く薬草を取り出した。
乳鉢で擦り潰し、魔力を込めて丸薬にしていく。
その間も、アルフォンスは「ああ……私の手が離れた……」と名残惜しそうに自分の左手を見つめていた。
「はい、お待たせ。これを食後に一粒ずつ飲んでね」
私は備え付けの滅菌トレイに薬を乗せ、スライドさせて老人に渡した。
「おお、ありがてえ、ありがてえ。森の賢者様のお薬なら、すぐに治りそうじゃ」
老人は深々と頭を下げた。
「金はねえんじゃが……せめてものお礼に、うちの畑で採れた一番の自慢を受け取ってくだされ」
老人は、背負っていた籠から「それ」を取り出し、カウンターのトレイに乗せた。
それは、立派に育った、太くて真っ白な大根だった。
ただし。 掘り立ての、土と泥がたっぷりついた、大根だった。
ピキッ。 アルフォンスの銀縁眼鏡に、亀裂が入るような音がした。
「…………泥、だと?」
絶対零度。いや、世界を氷河期に沈めるほどの殺気が、診療所内に膨れ上がった。
「私の、チリ一つない無菌のカウンターに。エルカの聖域に。……泥の塊を、置いた、だと?」
「あ、アルフォンス! ストップ! ありがたく頂くの!」
私は慌てて彼の腰に抱きつき、暴走を全力で食い止めた。 老人はその異様な空気に震え上がり、「ほ、ほな、わしはこれで!」と脱兎のごとく逃げ出していった。
バタン、と扉が閉まる。
「……エルカ。離れてください」
「なにする気よ」
「細胞レベルでの浄化です。あの汚物を、分子の果てまで焼き尽くさねばなりません」
アルフォンスは私の拘束をすり抜けると、空中に泥つきの大根をふわりと浮かせた。
そして、指先から極小の、しかし超高圧の『レーザー水流』と『殺菌の青き炎』を同時に放ち、ミクロン単位で大根の洗浄を開始したのだ。
ギュイィィィィン!! 凄まじい音と共に、泥が吹き飛び、大根の表面が一皮、また一皮と削られていく。
「ちょっと、アルフォンス! 大根が細くなってる! それじゃ食べる部分がなくなっちゃう!」
「黙っていてください! 土壌菌は恐ろしいのです。これが万が一にも貴女の美しい胃袋に入る可能性がある以上、私の目で確認できる不純物はすべて削り落とさねばなりません!」
数分後。 カウンターの上の滅菌トレイに乗せられていたのは、もとの三分の一ほどの細さにまで削られ、宝石のようにピカピカに磨き上げられた、純白の大根の芯だった。
「……ふぅ。これで、ようやく貴女の口に入る許可を出せます」
アルフォンスは額の汗を拭う仕草をして、満足げに頷いた。
「これじゃ、お味噌汁の具にもならないわよ……」
私は呆れてため息をついた。 けれど、カウンター越しに誇らしげに胸を張る彼の姿を見ていると、どうしようもなく愛おしさが込み上げてくる。
誰かのために薬を作る喜びと、それを絶対に安全な檻の中から眺めさせてくれる、この重すぎる愛情。
「……まあ、いいか。今夜は、これで大根のポタージュでも作って」
「御意。貴女の舌を蕩けさせる、最高のポタージュをお約束します」
清潔すぎる診療所の、初めての患者。
それは、私たちがこの古都ナラ・エンで、二人だけの狂った日常を紡いでいくための、ささやかで騒がしい第一歩だった。
読んでくださってありがとうございます。
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