第102話「神域の使者」
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ナラ・エンの森は、朝霧に包まれるとこの世のものとは思えないほど神秘的な顔を見せる。
『クライン薬局・診療所』の開院前。
私は一人、診療所の裏手にある小さな中庭へと足を踏み出していた。
空気はひんやりと冷たく、朝露に濡れた草木の匂いがする。かつてのゴミ屋敷にいた頃なら、外の空気なんてカビと埃の臭いしかしなかったのに、今の私の嗅覚は、アルフォンスに甘やかされたせいで驚くほど敏感になっていた。私の体からは、彼が毎晩塗り込んでくれる「魔力遮断ローション」に混じった花の蜜の香りが、ふわりと立ち昇っている。
「……気持ちいい朝ね」
私は大きく伸びをした。その時だ。
カサッ。
霧の向こうから、微かな足音が聞こえた。
目を凝らすと、乳白色のベールを割って、数頭の美しい動物が姿を現した。 淡い褐色の毛並みに、白い斑点。立派な枝角を持つ雄鹿と、その家族だろうか。ナラ・エンの古都において「神の使い」として尊ばれている、聖なる鹿たちだった。
「わぁ……」
思わず感嘆の声が漏れる。
鹿たちは私を警戒する様子もなく、むしろ私の体から微かに漏れ出る純粋な魔力の気配に惹きつけられるように、ゆっくりと近づいてきた。
一番大きな雄鹿が、私の目の前で立ち止まり、
その湿った黒い鼻先を私のドレスの裾にすりすりとおしつけてくる。
「ふふっ、くすぐったい。おはよう、森の神様たち」
私がしゃがみ込んで手を伸ばすと、鹿は気持ちよさそうに目を細め、私の掌に頭を預けてきた。
温かい。そして、短くも滑らかな毛並みの感触が、指先から伝わってくる。
「みゃあ!」
突然、私の足元から鋭い鳴き声が上がった。
いつの間にか私の影から抜け出していた黒猫のノワールが、背中の毛を逆立てて鹿を威嚇している。「私の定位置よ!」と言わんばかりに、小さな体で鹿と私の間に割って入ろうとするノワール。
「こらこら、ノワール。喧嘩しないで。みんな一緒に……きゃっ!」
雄鹿が甘えるように私の肩に顔を乗せ、首筋にフンフンと鼻を擦り付けてきた。その愛らしさに、私は思わず鹿の太い首に両腕を回し、思いきり抱きついた。
モフモフの毛並みと、森の自然な匂い。
大きな動物に抱きつくという初めての経験に、
私のアメジスト色の瞳はキラキラと輝いていた。
「……エルカ」
その声は、朝の冷気をさらに数十度も凍りつかせるような、絶対零度の響きを持っていた。
「……あ」
中庭に通じる勝手口に、完璧にアイロンがけされた白衣(下は燕尾服)を纏った私の夫が立っていた。 手には、淹れたての紅茶と温かいタオルを乗せた銀のトレイ。
しかし、そのアルフォンスの足は完全に床に縫い付けられ、アイスブルーの瞳は極限まで見開かれている。
カチャ……カタカタカタッ……!!
再びだ。 ノワールと初めて出会ったあの日と同じように、彼が持つ銀のトレイが激しく震え、ティーカップが狂ったように踊っている。
(な、ななな……何事ですかあれは……ッ!?)
アルフォンスの脳内で、理性の防壁がメキメキと音を立てて崩れ去っていくのが、魔力のパスを通して私に直接流れ込んでくる。
(私のエルカが!私が毎晩、丹念にクリームを塗り、愛の印を刻み込んでいるあの神聖なうなじに!あろうことか、四足歩行の毛玉が鼻を擦り付けている!?しかも彼女から抱きつきにいっているだと!?万死!いや、億死に値する!!)
「ア、アルフォンス!違うの、この子たち神の使いで……」
「離れなさい、エルカ」
アルフォンスの声は、異様なほど低く、そして静かだった。
彼がトレイを近くのテーブルに置く動作は優雅だったが、次の瞬間、彼の全身からチリチリと青白い魔力の炎が立ち昇り始めた。
「いくら神域の使者であろうと……私の妻の肌に触れる権利など、この世界のどの神にも与えてはいない」
バチバチバチッ!! アルフォンスの背後に、巨大な氷の槍が数本、空中に具現化する。
神の使い相手に、本気の殺意と除菌の意志を向けているのだ。
「ダメッ!いじめちゃダメって言ってるでしょ!」
私が鹿を庇うように前に出ると、雄鹿も負けじと立派な角をアルフォンスに向け、
ブルルッと鼻を鳴らした。さらに、私の足元ではノワールが「シャーッ!」とアルフォンスと鹿の両方に向かって威嚇を始めている。
執事 vs 神鹿 vs 黒猫。
私を巡る、完全に意味不明な三つ巴の戦いが勃発してしまった。
「……エルカ。貴女は騙されているのです」
アルフォンスはギラギラと光る目で鹿を睨みつけながら、私に一歩近づいた。
「あの獣の毛皮には、無数の寄生虫や森の雑菌が潜んでいます。貴女のその白磁のような肌が、ダニの温床になってもいいのですか!?」
「毎日あんたが強力な結界張ってくれてるから、虫なんて寄ってこないでしょ!」
私が反論すると、アルフォンスはギリッと奥歯を噛み締めた。
(クソッ……!物理的な除菌を理由に引き離そうとしたが、私の完璧な防御魔法が仇となったか……!だが、このままでは私は……ノワールという黒い毛玉に続き、この角の生えた毛玉にまで遅れを取るというのか……!?)
彼の脳内に、「序列三位への転落」という絶望的な未来予想図が浮かび上がっている。 私が鹿の首を撫でるたび、彼の顔色からみるみる血の気が引いていく。
「……アルフォンス?」
様子がおかしい夫に、私が戸惑いの声をかけた、その時だった。
アルフォンスはふいっと魔法の槍を掻き消すと、ズカズカと私の前まで歩み寄ってきた。
そして、鹿と私の間に強引に割り込むと、冷たい土の上であるにも関わらず、ドンッと両膝をついたのだ。
「えっ……ちょっと、アルフォンス!膝が汚れちゃう!」
「そんなこと、今の私にとってはどうでもいい事象です」
彼は純白の手袋をはめた手で私の腰を引き寄せ、自分の顔を、私の胸元――先ほどまで鹿の頭があった位置――にぐりぐりと押し付けてきた。
「……あ、ちょ……っ」
「触ってください、エルカ」
彼は私を見上げ、銀縁眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を、ひどく熱っぽく、そして情けなく潤ませていた。
「私の銀髪の方が、あの鹿の毛並みよりも遥かに柔らかく、キューティクルが整っています。毎日貴女のために、最高級の香油で手入れをしているのですから」
「わ、分かってるけど……!」
「それに、私は言葉が通じます。貴女が望むものを、口に出す前にすべて用意できます。トイレの場所も弁えていますし、何より……」
アルフォンスは自分の手袋を歯で噛んで引き抜き、露出した素手で私の両頬をそっと包み込んだ。
彼の体温が、私の肌に直接流れ込んでくる。
森の冷気を一瞬で忘れさせる、火傷しそうなほどの熱。
「……何より、私からは泥の匂いなどしません。レモンと蜜蝋、そして貴女が好む清潔な石鹸の匂いしかしません。……ですから、どうか」
彼の声が、微かに震えていた。
冗談でもなんでもない。彼は本気で、この鹿たちに私が奪われるのではないかと恐怖しているのだ。
あまりにも重く、異常なほどの愛情。
「……私だけを、見てください。私だけを撫でて、私だけに依存してください。貴女の隣は……私の特等席です」
切実な懇願。
私は、彼に見つめられたまま、ゆっくりと鹿から手を離した。そして、彼のサラサラの銀髪に指を差し込み、優しく、優しく梳くように撫でた。
「……バカね。あんたが一番に決まってるじゃない」
私がクスクスと笑いながら言うと、アルフォンスの喉から「ひゅっ」と息を呑む音が聞こえた。
彼のアメジストの瞳が、一瞬だけ信じられないものを見るように見開かれ――やがて、蕩けるような極上の笑みへと変わる。
「……ああ……エルカ。私の、愛しい魔女……」
彼は私の腰を抱きしめる手に力を込め、そのまま私の腹部に顔を埋めた。
足元でノワールが「にゃあ」と呆れたように鳴き、鹿たちも「見せつけられても困る」とばかりに、身を翻して朝霧の中へと帰っていった。
「ほら、鹿さんたち帰っちゃったよ。アルフォンスの殺気がすごすぎるから」
「……結構。これでまた、この世界は貴女と私だけのものになりました」
彼は立ち上がると、私を軽々とお姫様抱っこした。
「きゃっ!もう、下ろしてよ。診療所、開ける時間でしょ?」
「その前に、緊急の消毒作業が必要です」
アルフォンスは私の首筋――鹿が触れた場所――に、自分の鼻先を押し当てた。 そして、チロリと舌を出し、その場所を舐め上げたのだ。
「ひゃうッ!?」
「……獣の臭いを消し、私の魔力で上書きします。……診療所を開けるのは、貴女が細胞の隅々まで『私のもの』であることを、私が納得するまでお預けです」
彼の声は、朝の光の中でも隠しきれないほど、重く、ねっとりとした欲望を孕んでいた。
私は顔を真っ赤にしながら、抗うこともできずに、彼の清潔で完璧な腕の中という名の「檻」へと、再び連れ戻されていったのだった。
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