第103話「万葉の香、支配する薫り」
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ナラ・エンの古都には、「香道」という独特の文化が根付いているという。
樹齢数千年の香木を焚き、その立ち昇る煙に想いを乗せ、精神を統一する高尚な遊び。
しかし、私の夫にかかれば、その雅な文化も「狂気的な化学実験」へと変貌する。
「……アルフォンス。さっきから何をゴリゴリしてるの?」
診療所の裏手にある調剤室。
私が薬草の整理をしている背後で、アルフォンスは乳鉢に向かい、鬼気迫る表情で何かを粉砕していた。 部屋の中に、いつものレモンと蜜蝋の香りとは違う、もっと重く、幽玄で、どこか背筋がゾクリとするような甘い香りが漂っている。
「『伽羅』です」
アルフォンスは手を止めず、眼鏡の奥で目を細めた。
「ナラ・エンの深山幽谷でのみ採取される、最高級の香木。……この木片一つで、城が建つほどの価値があります」
「城が建つ!? そんなもの粉々にしてるの!?」
「ええ。貴女のためなら、城の一つや二つ、灰にするのと同義です」
彼はサラリと恐ろしいことを言い放ち、粉末状になった香木に、粘度のある透明な液体を一滴垂らした。 ジュワッ、と微かな音がして、香りが爆発的に広がる。
「……くっ、ぅ……」
鼻腔を直接殴られたような、濃厚な香り。
それは花のようでもあり、墨汁のようでもあり、そして古い寺院の闇のようでもあった。
吸い込んだ瞬間、頭の芯が痺れ、思考が泥の中に沈んでいくような感覚に襲われる。
「……なに、これ。頭が、ぼーっとする……」
「成功です」
アルフォンスは満足げに口角を上げた。
「これぞ、私が開発した対・外敵認識阻害香――名付けて『万葉の檻』です」
「……は?」
「この香りの成分には、海馬に作用する特殊な術式を編み込んであります。これを嗅ぐと、脳の処理能力が『特定の対象』以外をノイズとして認識し、記憶に残らなくなるのです」
彼は純白の手袋についた粉を払い、愛おしそうに私を見つめた。
「先日、鹿ごときに貴女が抱きついた件。……そして街で貴女が他の有象無象の男を視界に入れた件。それらを深く反省し、対策を講じました」
彼は完成したばかりの黒いお香を、香炉にくべた。ゆらりと、紫色の煙が立ち昇る。
「この香りを纏っていれば、貴女は私以外の男を認識できなくなります。声を聞いても『雑音』にしか聞こえず、顔を見ても『モザイク』のように霞んで見えるでしょう。……世界には私と貴女、二人しかいないと錯覚させる、完璧なセキュリティです」
「……それ、ただの洗脳じゃない」
私は呆れてため息をついた。
けれど、抗議しようとしても、紫の煙を吸い込むたびに「まあ、アルフォンスがいるからいいか……」という甘い怠惰が思考を塗りつぶしていく。
怖い。このお香、依存性が高すぎる。
「……ずるい」
私はふらつく足でカウンターに寄りかかり、
ポケットから「あるもの」を取り出した。
「あんたばっかり、そうやって私を管理して……。私だって、あんたのために作ったのに」
「……なんです、それは?」
アルフォンスの視線が、私の手元に釘付けになった。 私が差し出したのは、不格好に縫い合わされた小さな布袋。 中には、私がこの数日間、診療所の合間を縫って調合したドライハーブが詰まっている。 ナラ・エンの伝統的な魔除けのお守り、「匂い袋」だ。
「……あんた、いつも消毒液とか薬品の匂いさせてるから。……リラックスできる匂いならいいなって、作ったんだけど……」
言いながら、私は自信をなくして手を引っ込めようとした。 正直、失敗作なのだ。
調合の配分を間違えて、ラベンダーとミントと、
さらに魔除けのドクダミを入れすぎてしまった結果、なんというか……「スパイシーな泥」のような、強烈な刺激臭を放つ物体になってしまった。
「失敗したから、捨て――」
ガシッ!!
「捨てるなど!! 万死に値します!!」
アルフォンスが音速で私の手首を掴んだ。
その勢いで、匂い袋が私の手から離れ、彼の顔面に直撃する。
ボフッ。
布の隙間から、強烈なハーブの粉末が舞い散った。
「……ッ!!」
アルフォンスがのけ反った。
さすがの彼も、この刺激臭には顔をしかめるだろう。私は身構えた。「なんですかこの毒物は」と罵られる準備をして。
しかし。
「……すぅー…………っはぁ…………」
アルフォンスは、目を閉じて、その強烈な臭いを肺の奥底まで深呼吸したのだ。
そして、カッと目を見開き、恍惚の表情で叫んだ。
「……素晴らしいッ!!!」
「ええっ!?」
「鼻腔を突き抜け、脳髄を直接抱きしめるかのような、この鮮烈な刺激! 混沌としたハーブの狂宴! そして奥底に微かに香る、貴女の指先の汗と、一生懸命に布を縫ったという努力の匂い……ッ!」
彼は匂い袋を両手で包み込み、頬ずりをした。
「これぞ、真実の愛の香りです!! ああ、この匂いだけで、ご飯が三杯……いえ、一生生きていけます!!」
「……鼻、壊れてない?」
「いいえ、覚醒しました。……この香り、私の体臭と融合させ、永久に纏います」
彼は迷うことなく、その激臭の匂い袋を、燕尾服の胸ポケット――心臓の真上に入れた。 その瞬間。
ボワンッ!!
異変が起きた。 アルフォンスが焚いた『支配のお香』の紫色の煙と、私の『失敗作(匂い袋)』から漂うスパイシーな粒子が、空気中で化学反応を起こしたのだ。
「……っ!?」
紫色の煙が、一瞬にして鮮やかなピンク色に変色する。
そして、診療所全体が、言葉にできないほど「濃厚」な空気に包まれた。
「あ、るふぉんす……?」
視界が揺れる。 熱い。体が、芯から溶けるように熱い。 先ほどまでの「支配」の香りではない。
もっと本能的で、理性を消し飛ばすような、純粋な多幸感。
「……エルカ……」
アルフォンスが、私を見た。 彼のアイスブルーの瞳が、ピンク色の靄の中でとろりと濁っている。 いつも冷静な彼が、肩で息をして、ネクタイを緩めた。
「……ダメです。……計算外の……化学反応が……」
彼はふらりと私に歩み寄り、カウンターに手をついて私を囲い込んだ。 至近距離。 彼の胸ポケットから漂う私のハーブの匂いと、彼自身から立ち昇る香木の匂いが混ざり合い、脳を麻痺させる「毒」となって私たちを包み込む。
「……貴女の匂いが……強すぎる……」
アルフォンスの熱い吐息が、私の耳にかかる。
「頭が……おかしくなりそうだ。……貴女以外、何も考えられない。……貴女を、今すぐ、この場で……食べてしまいたい……」
「……たべ、て……?」
私もまた、正常な判断力を失っていた。
目の前の男が、どうしようもなく美味しそうに見える。 銀色の髪も、白い肌も、眼鏡の奥の瞳も。 すべてが私を誘惑する極上のスイーツのようだ。
「……いいよ」
私は無意識に、彼のネクタイを引っ張った。
「……私を、食べて。……その代わり、私もあんたを食べるから」
「……ッ、エルカ……ッ!」
理性のタガが外れる音がした。
アルフォンスは粗暴に私の腰を引き寄せ、カウンターの上に座らせた。 薬瓶や乳鉢がガシャンと音を立てて床に落ちるが、そんなことはもうどうでもいい。
彼が私の首筋に顔を埋め、深く、深く吸い付く。 所有の刻印を上書きするように。 私も彼の銀髪に指を絡ませ、その頭を抱きしめた。
「……んぅっ……」
診療所の中は、ピンク色の煙と、二人の熱気で充満していた。 外の世界のことなど、もう思い出せない。 患者が来たらどうする? 鍵はかけた?
そんな些細な懸念すら、甘い香りの彼方へ溶けていく。
カランコロ〜ン。
その時、無情にも入り口のドアベルが鳴った。
「た、頼もう……! 腹痛が酷くて……」
入ってきたのは、顔色の悪い中年男性だった。
彼は必死の形相でドアを開けたが――その瞬間、ピンク色の煙を吸い込み、動きを止めた。
「……あ、あれ?」
男性の顔から、苦痛の色が消えていく。
代わりに浮かんだのは、夢見るような、へらへらとした締まりのない笑顔だった。
「……おお……なんと……麗しい……」
男性は、カウンターの上で絡み合う私たちを見ても、驚くどころか、涙を流して拝み始めた。
「……神だ。……愛の神がおられる……。ああ、腹痛などどうでもいい……。この香りを嗅いでいるだけで……世界は平和だ……」
男性はその場に崩れ落ち、幸せそうに床で寝息を立て始めた。
「…………」
「…………」
私とアルフォンスは、動きを止めた。
少しだけ、理性が戻ってきた。
「……アルフォンス」
「……はい」
「……あのおじさん、どうする?」
「……記憶消去の術式と、物理的な換気が必要です」
アルフォンスは乱れた眼鏡を直し、咳払いをした。
その顔は真っ赤だったが、執事としての矜持をなんとか取り戻そうと必死だった。
「……ですが、エルカ」
彼は私の耳元で、最後に低く囁いた。
「この調合レシピは、記録しておきます。……今夜、寝室で『再実験』が必要ですからね」
私は顔を湯気が出るほど赤くして、コクンと頷くことしかできなかった。
ナラ・エンの香りは、やはり私たちには刺激が強すぎたようだ。
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