表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/122

第103話「万葉の香、支配する薫り」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの古都には、「香道」という独特の文化が根付いているという。

樹齢数千年の香木を焚き、その立ち昇る煙に想いを乗せ、精神を統一する高尚な遊び。


しかし、私の夫にかかれば、その雅な文化も「狂気的な化学実験」へと変貌する。


「……アルフォンス。さっきから何をゴリゴリしてるの?」


診療所の裏手にある調剤室。

私が薬草の整理をしている背後で、アルフォンスは乳鉢に向かい、鬼気迫る表情で何かを粉砕していた。 部屋の中に、いつものレモンと蜜蝋の香りとは違う、もっと重く、幽玄で、どこか背筋がゾクリとするような甘い香りが漂っている。


「『伽羅きゃら』です」


アルフォンスは手を止めず、眼鏡の奥で目を細めた。


「ナラ・エンの深山幽谷でのみ採取される、最高級の香木。……この木片一つで、城が建つほどの価値があります」


「城が建つ!? そんなもの粉々にしてるの!?」


「ええ。貴女のためなら、城の一つや二つ、灰にするのと同義です」


彼はサラリと恐ろしいことを言い放ち、粉末状になった香木に、粘度のある透明な液体を一滴垂らした。 ジュワッ、と微かな音がして、香りが爆発的に広がる。


「……くっ、ぅ……」


鼻腔を直接殴られたような、濃厚な香り。

それは花のようでもあり、墨汁のようでもあり、そして古い寺院の闇のようでもあった。

吸い込んだ瞬間、頭の芯が痺れ、思考が泥の中に沈んでいくような感覚に襲われる。


「……なに、これ。頭が、ぼーっとする……」


「成功です」


アルフォンスは満足げに口角を上げた。


「これぞ、私が開発した対・外敵認識阻害香――名付けて『万葉の檻』です」


「……は?」


「この香りの成分には、海馬に作用する特殊な術式を編み込んであります。これを嗅ぐと、脳の処理能力が『特定の対象』以外をノイズとして認識し、記憶に残らなくなるのです」


彼は純白の手袋についた粉を払い、愛おしそうに私を見つめた。


「先日、鹿ごときに貴女が抱きついた件。……そして街で貴女が他の有象無象の男を視界に入れた件。それらを深く反省し、対策を講じました」


彼は完成したばかりの黒いお香を、香炉にくべた。ゆらりと、紫色の煙が立ち昇る。


「この香りを纏っていれば、貴女は私以外の男を認識できなくなります。声を聞いても『雑音』にしか聞こえず、顔を見ても『モザイク』のように霞んで見えるでしょう。……世界には私と貴女、二人しかいないと錯覚させる、完璧なセキュリティです」


「……それ、ただの洗脳じゃない」


私は呆れてため息をついた。

けれど、抗議しようとしても、紫の煙を吸い込むたびに「まあ、アルフォンスがいるからいいか……」という甘い怠惰が思考を塗りつぶしていく。

怖い。このお香、依存性が高すぎる。


「……ずるい」


私はふらつく足でカウンターに寄りかかり、

ポケットから「あるもの」を取り出した。


「あんたばっかり、そうやって私を管理して……。私だって、あんたのために作ったのに」


「……なんです、それは?」


アルフォンスの視線が、私の手元に釘付けになった。 私が差し出したのは、不格好に縫い合わされた小さな布袋。 中には、私がこの数日間、診療所の合間を縫って調合したドライハーブが詰まっている。 ナラ・エンの伝統的な魔除けのお守り、「匂い袋」だ。


「……あんた、いつも消毒液とか薬品の匂いさせてるから。……リラックスできる匂いならいいなって、作ったんだけど……」


言いながら、私は自信をなくして手を引っ込めようとした。 正直、失敗作なのだ。

調合の配分を間違えて、ラベンダーとミントと、

さらに魔除けのドクダミを入れすぎてしまった結果、なんというか……「スパイシーな泥」のような、強烈な刺激臭を放つ物体になってしまった。


「失敗したから、捨て――」


ガシッ!!


「捨てるなど!! 万死に値します!!」


アルフォンスが音速で私の手首を掴んだ。

その勢いで、匂い袋が私の手から離れ、彼の顔面に直撃する。


ボフッ。


布の隙間から、強烈なハーブの粉末が舞い散った。


「……ッ!!」


アルフォンスがのけ反った。

さすがの彼も、この刺激臭には顔をしかめるだろう。私は身構えた。「なんですかこの毒物は」と罵られる準備をして。


しかし。


「……すぅー…………っはぁ…………」


アルフォンスは、目を閉じて、その強烈な臭いを肺の奥底まで深呼吸したのだ。

そして、カッと目を見開き、恍惚の表情で叫んだ。


「……素晴らしいッ!!!」


「ええっ!?」


「鼻腔を突き抜け、脳髄を直接抱きしめるかのような、この鮮烈な刺激! 混沌としたハーブの狂宴! そして奥底に微かに香る、貴女の指先の汗と、一生懸命に布を縫ったという努力の匂い……ッ!」


彼は匂い袋を両手で包み込み、頬ずりをした。


「これぞ、真実の愛の香りです!! ああ、この匂いだけで、ご飯が三杯……いえ、一生生きていけます!!」


「……鼻、壊れてない?」


「いいえ、覚醒しました。……この香り、私の体臭と融合させ、永久に纏います」


彼は迷うことなく、その激臭の匂い袋を、燕尾服の胸ポケット――心臓の真上に入れた。 その瞬間。


ボワンッ!!


異変が起きた。 アルフォンスが焚いた『支配のお香』の紫色の煙と、私の『失敗作(匂い袋)』から漂うスパイシーな粒子が、空気中で化学反応を起こしたのだ。


「……っ!?」


紫色の煙が、一瞬にして鮮やかなピンク色に変色する。

そして、診療所全体が、言葉にできないほど「濃厚」な空気に包まれた。


「あ、るふぉんす……?」


視界が揺れる。 熱い。体が、芯から溶けるように熱い。 先ほどまでの「支配」の香りではない。

もっと本能的で、理性を消し飛ばすような、純粋な多幸感ユーフォリア


「……エルカ……」


アルフォンスが、私を見た。 彼のアイスブルーの瞳が、ピンク色の靄の中でとろりと濁っている。 いつも冷静な彼が、肩で息をして、ネクタイを緩めた。


「……ダメです。……計算外の……化学反応が……」


彼はふらりと私に歩み寄り、カウンターに手をついて私を囲い込んだ。 至近距離。 彼の胸ポケットから漂う私のハーブの匂いと、彼自身から立ち昇る香木の匂いが混ざり合い、脳を麻痺させる「毒」となって私たちを包み込む。


「……貴女の匂いが……強すぎる……」


アルフォンスの熱い吐息が、私の耳にかかる。


「頭が……おかしくなりそうだ。……貴女以外、何も考えられない。……貴女を、今すぐ、この場で……食べてしまいたい……」


「……たべ、て……?」


私もまた、正常な判断力を失っていた。

目の前の男が、どうしようもなく美味しそうに見える。 銀色の髪も、白い肌も、眼鏡の奥の瞳も。 すべてが私を誘惑する極上のスイーツのようだ。


「……いいよ」


私は無意識に、彼のネクタイを引っ張った。


「……私を、食べて。……その代わり、私もあんたを食べるから」


「……ッ、エルカ……ッ!」


理性のタガが外れる音がした。

アルフォンスは粗暴に私の腰を引き寄せ、カウンターの上に座らせた。 薬瓶や乳鉢がガシャンと音を立てて床に落ちるが、そんなことはもうどうでもいい。


彼が私の首筋に顔を埋め、深く、深く吸い付く。 所有の刻印を上書きするように。 私も彼の銀髪に指を絡ませ、その頭を抱きしめた。


「……んぅっ……」


診療所の中は、ピンク色の煙と、二人の熱気で充満していた。 外の世界のことなど、もう思い出せない。 患者が来たらどうする? 鍵はかけた?

そんな些細な懸念すら、甘い香りの彼方へ溶けていく。


カランコロ〜ン。


その時、無情にも入り口のドアベルが鳴った。


「た、頼もう……! 腹痛が酷くて……」


入ってきたのは、顔色の悪い中年男性だった。

彼は必死の形相でドアを開けたが――その瞬間、ピンク色の煙を吸い込み、動きを止めた。


「……あ、あれ?」


男性の顔から、苦痛の色が消えていく。

代わりに浮かんだのは、夢見るような、へらへらとした締まりのない笑顔だった。


「……おお……なんと……麗しい……」


男性は、カウンターの上で絡み合う私たちを見ても、驚くどころか、涙を流して拝み始めた。


「……神だ。……愛の神がおられる……。ああ、腹痛などどうでもいい……。この香りを嗅いでいるだけで……世界は平和だ……」


男性はその場に崩れ落ち、幸せそうに床で寝息を立て始めた。


「…………」

「…………」


私とアルフォンスは、動きを止めた。

少しだけ、理性が戻ってきた。


「……アルフォンス」


「……はい」


「……あのおじさん、どうする?」


「……記憶消去オブリビエイトの術式と、物理的な換気が必要です」


アルフォンスは乱れた眼鏡を直し、咳払いをした。

その顔は真っ赤だったが、執事としての矜持をなんとか取り戻そうと必死だった。


「……ですが、エルカ」


彼は私の耳元で、最後に低く囁いた。


「この調合レシピは、記録しておきます。……今夜、寝室で『再実験』が必要ですからね」


私は顔を湯気が出るほど赤くして、コクンと頷くことしかできなかった。

ナラ・エンの香りは、やはり私たちには刺激が強すぎたようだ。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ