第104話「灯籠の夜会」
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ナラ・エンの古都が、一年で最も幻想的な光に包まれる夜。 診療所の奥にある居住スペースで、
私は鏡の前に立たされ、甘く、そして苦しい「儀式」を受けていた。
「……んぐっ。……く、苦しい……」
「我慢してください、エルカ。美しさとは、多少の忍耐の上に成り立つものです」
背後で、アルフォンスが私の腰に帯を巻き付けている。
彼が今夜のために用意したのは、夜空のような深い藍色に、銀糸で大輪の月下美人が刺繍されたシックな浴衣だ。そして帯は、鮮やかな藤色の博多織。 キュッ。
アルフォンスが帯を締め上げるたび、私の内臓が持ち上がり、背筋が強制的に伸ばされる。
「……ちょっと、締めすぎじゃない? 呼吸が浅くなるんだけど」
「いいえ、これが黄金比です。貴女の華奢なウエストラインを強調しつつ、万が一にも着崩れて肌が露出しないための、完璧な『物理的拘束』です」
彼は私の背中に回り込み、帯の上に飾り紐を結びながら、耳元で低く囁いた。
「……素晴らしい。白磁のようなうなじに、計算された数本の後れ毛……。この無防備に見えて、実は私の管理下にある『隙』。……ああ、今すぐここに噛みつきたい」
彼の指先が、露出したうなじをすぅっとなぞる。 ゾクゾクと背筋に電流が走る。
「噛まないでよ。跡が残るでしょ」
「残したいのです。『このうなじの所有権は私にある』と、すれ違う全ての男に知らしめるために」
彼は名残惜しそうに指を離すと、「少々お待ちを」と言って奥の部屋へと消えた。
数分後。襖が開く音と共に、彼が戻ってきた。
「お待たせしました」
振り返った私は、言葉を失った。
そこには、いつもの燕尾服ではなく、涼しげな流氷色の着流しを、驚くほど粋に着こなしたアルフォンスが立っていた。
銀髪は少しラフにかき上げられ、少し開いた胸元からは白く逞しい鎖骨が覗いている。
帯の位置、裾の捌き方、そして手にした扇子に至るまで、まるでこの国の若き貴族のような、暴力的なまでの色気が漂っていた。
(な、なにこれ……)
ドクン、と心臓が跳ねた。
いつも見慣れているはずの夫なのに。
執事服という鎧を脱いだ彼は、悔しいけれど国宝級に格好良かった。
中身はただの変態執事なのに、外見だけはズルい。
「……エルカ? どうかしましたか? 見惚れていただけましたか?」
「……べ、別に! ……ちょっと似合ってるなーって思っただけ!」
「光栄です。貴女に褒めていただけるなら、この姿のまま一生過ごしても構いません」
「さあ、行きましょう」
彼が差し出した手。
その手袋すら外された素手の指先に、私はドキドキしながら自分の手を重ねた。
一歩外に出ると、そこは異界のような熱気に包まれていた。
街道沿いに無数の提灯が吊るされ、祭囃子の音と人々の笑い声が響いている。
屋台から漂う焦げた醤油の匂い、甘い綿菓子の匂い。
私たちが人混みの中へ足を踏み入れた瞬間、周囲の喧騒がフッと凪いだ。
「……おい、見ろよあれ……」
「なにあれ、絵画から抜け出してきたみたい……」
「あの銀髪の男、何者だ? すごい色気……」
「隣の女性も、めちゃくちゃ綺麗……」
モーゼの海割れのように、人波が左右に割れていく。
数百の視線が、私たち二人に突き刺さる。
羨望、嫉妬、そして憧れ。
アルフォンスの冷ややかな美貌と、彼が仕立て上げた私の浴衣姿は、この祭りのどの灯籠よりも目を引いてしまっていた。
「……なんか、すごい見られてるんだけど」
「堂々としていてください、エルカ。貴女は私の女王なのですから、下々の視線など気にする必要はありません」
アルフォンスは涼しい顔で、扇子を使ってさりげなく私をガードしながら歩く。
しかし、その内心は穏やかではなかった。
(チッ……。どいつもこいつも、私のエルカを舐めるように見やがって。眼球をくり抜いて洗浄してやりたい……)
彼の心の声が、魔力のパスを通じて漏れ聞こえてくる。
その時だった。
人混みの波に押され、アルフォンスの手が一瞬だけ離れてしまった。
「あ……」
「よう、お嬢さん。一人?」
私の手首を、誰かがガシッと掴んだ。
見上げると、酒臭い息を吐く、派手な着物を着た若い男がニヤニヤと笑っていた。
「連れとはぐれたの? 俺が案内してやるよ。あっちで面白い見世物があるんだ」
「い、いいえ、結構です……!」
「つれないなぁ。そんな綺麗な顔して、一人じゃ危ないぜ?」
男の手が、私の肩に伸びてくる。 怖い。
生理的な嫌悪感で鳥肌が立つ。
私は助けを求めて叫ぼうとした。
「――その汚い手を、私の妻から離せ」
声よりも先に、空気が凍りついた。
男の背後に、巨大な影――いや、鬼神のような殺気を纏ったアルフォンスが立っていた。
彼のアイスブルーの瞳は、絶対零度の冷たさで男を見下ろしている。
「あ? なんだお前……」
「聞こえなかったのですか? 『不潔だ』と言ったのです」
バチバチバチッ!! アルフォンスの全身から、
蒼い魔力が噴き出した。
彼は男の手首を掴み上げることもなく、ただ指先を向けただけで、男の体を弾き飛ばした。
「うわぁぁっ!?」
男は尻餅をつき、怯えたように後ずさる。
アルフォンスは、懐から取り出した消毒液のスプレーを、男がいた空間にシュッシュッと撒き散らした。
「菌が舞う。貴様が吐いた二酸化炭素すら、私の妻には毒だ」
「ひ、ひぃぃッ! 化け物ぉぉッ!」
男は悲鳴を上げて逃げ出した。
周囲の人々も、あまりの剣幕に恐れをなして遠巻きになる。
「……エルカ、大丈夫ですか!?」
アルフォンスは即座に私に向き直り、男に触れられた私の手首を、自分のハンカチで必死に拭い始めた。
「申し訳ありません! 私が目を離したばかりに、あのような害虫に触れられるなど! 直ちに切断……いや、洗浄と浄化の儀式を……!」
「だ、大丈夫だから! アルフォンス、落ち着いて!」
「落ち着けません! 貴女の美しい肌に、他人の脂がついたのですよ!? 万死に値する、いや私が万死に値する!!」
彼は半泣きになりながら、私の手首に何度もキスをして「上書き」を始めた。
その姿は、さっきの冷徹な鬼神とは程遠い、
ただの過保護な大型犬だ。
周囲の女性客たちが、「なにあれ、愛が重い……でも素敵……」と頬を染めて囁き合っている。
「……もう、大げさなんだから」
私は苦笑しながら、彼の銀髪を撫でた。
「ありがとう。助けてくれて」
私が微笑むと、彼はハッとして、耳まで赤くした。
「……当然です。貴女を守るのが、私の存在理由ですから」
気を取り直し、私たちは再び歩き出した。
今度は絶対に離れないよう、アルフォンスは私の肩を抱き寄せ、自分の体温で包み込むようにして。
「あ、綿あめ!」
気まずい空気を変えようと、私は屋台を指差した。
「アルフォンス、あれ食べたい!」
「……砂糖の塊ですね。栄養価ゼロ。……ですが」
彼は私を見つめ、ふわりと優しく微笑んだ。
「今夜は特別です。貴女の唇を甘くするためなら、多少のカロリーは目をつぶりましょう」
彼は一番大きな綿あめを買ってくれた。
「はい、どうぞ」
「半分こしよ?」
私がちぎって差し出すと、彼は一瞬躊躇い、そして私の指ごとパクリと食べた。
「……んッ」
濡れた舌の感触が指先に走り、私は思わず声を漏らした。
「……あま」
「私の指まで食べないでよ!」
「ふむ。貴女の指のエキスが混ざることで、単なる砂糖菓子が極上のスイーツに昇華されました」
彼は真顔で食レポをしながら、私の指についた砂糖を、いやらしく丁寧に舐め取った。
「……変態」
「最高の褒め言葉です」
私たちは綿あめをシェアしながら、川辺へと向かった。
そこでは、灯籠流しが行われていた。 水面に揺れる無数の灯り。幻想的な光の帯。 かつて孤独だった私が、今はこうして、誰よりも私を愛してくれる(重すぎるけど)夫と並んで、この景色を見ている。
ヒュゥゥゥゥ………… 夜空を引き裂く音がした。
ドォォォォン!!
大輪の花火が、夜空に咲いた。 赤、青、緑、金。
光の粒子が降り注ぎ、川面を、そして私たちの顔を鮮やかに照らし出す。
「わぁっ……!」
私は空を見上げた。次々と咲く光の大輪に、心を奪われる。色とりどりの光が、私の瞳の中で弾け、消えていく。その美しさに、私は言葉を失い、ただただ見惚れていた。
ふと、横顔に熱い視線を感じた。
花火を見ずに、私だけを見つめる視線を。
そっと振り返ると、アルフォンスと目が合った。
彼の銀縁眼鏡に、夜空の花火が反射してチカチカと輝いている。
けれど、その奥にあるアイスブルーの瞳は、夜空のどの光よりも熱く、そして深く私を捉えていた。
彼は、花火なんて見ていなかった。
光に照らされた私の横顔、風に揺れる後れ毛、
微かに開いた唇。 その一つ一つを、まるで奇跡でも見るかのように、瞬きも忘れて見つめていたのだ。
「……アルフォンス? 花火、見ないの?」
私が問うと、彼は夢から覚めたように、ゆっくりと私の頬に手を伸ばした。 親指の腹が、私の下唇を優しくなぞる。
「……見ていますよ」
彼の声は、祭りの喧騒がかき消えるほど、甘く響いた。
「花火よりも……貴女の方が、ずっと美しい」
キザな台詞。でも、今の彼が言うと、それが揺るぎない真実のように聞こえてしまう。
彼の瞳には、私しか映っていない。 この世界に、私以外の色は存在しないと言わんばかりに。
「……我慢、できません」
パチン。 彼が指を鳴らした瞬間、世界から音が消えた。 周囲の人々の姿が霞み、私たち二人だけが切り取られたような静寂の空間――魔法で結界が展開されたのだ。
「……ここなら、誰にも見えません」
彼は私の腰を引き寄せ、逃げ場を塞ぐように抱きしめた。 浴衣越しに伝わる体温。激しく脈打つ心臓の音。 綿あめの甘い匂いと、彼から漂う清潔な石鹸と、雄の香りが混ざり合う。
「帯、解きたくなってしまいました」
「……だめよ、ここ外だし」
「分かっています。ですから……」
彼は私の唇を塞いだ。
リンゴ飴のような、綿あめのような、甘くてとろけるキス。でも、その奥にあるのは、焦げ付くような独占欲と情熱。 舌が絡み合い、息ができなくなるほど深く求められる。
ドォォォン! 結界の外で特大の柳花火が上がり、視界が金色に染まる。
その光の中で、私たちは時間を忘れて口づけを交わした。
人混みの中の、二人だけの密室。
それは、過保護で潔癖な執事が私にくれた、世界で一番甘くて、世界で一番恥ずかしい「お祭り」の思い出だった。
読んでくださってありがとうございます。
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