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第104話「灯籠の夜会」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの古都が、一年で最も幻想的な光に包まれる夜。 診療所の奥にある居住スペースで、

私は鏡の前に立たされ、甘く、そして苦しい「儀式」を受けていた。


「……んぐっ。……く、苦しい……」


「我慢してください、エルカ。美しさとは、多少の忍耐の上に成り立つものです」


背後で、アルフォンスが私の腰に帯を巻き付けている。

彼が今夜のために用意したのは、夜空のような深い藍色に、銀糸で大輪の月下美人が刺繍されたシックな浴衣だ。そして帯は、鮮やかな藤色の博多織。 キュッ。

アルフォンスが帯を締め上げるたび、私の内臓が持ち上がり、背筋が強制的に伸ばされる。


「……ちょっと、締めすぎじゃない? 呼吸が浅くなるんだけど」


「いいえ、これが黄金比です。貴女の華奢なウエストラインを強調しつつ、万が一にも着崩れて肌が露出しないための、完璧な『物理的拘束』です」


彼は私の背中に回り込み、帯の上に飾り紐を結びながら、耳元で低く囁いた。


「……素晴らしい。白磁のようなうなじに、計算された数本の後れ毛……。この無防備に見えて、実は私の管理下にある『隙』。……ああ、今すぐここに噛みつきたい」


彼の指先が、露出したうなじをすぅっとなぞる。 ゾクゾクと背筋に電流が走る。


「噛まないでよ。跡が残るでしょ」


「残したいのです。『このうなじの所有権は私にある』と、すれ違う全ての男に知らしめるために」


彼は名残惜しそうに指を離すと、「少々お待ちを」と言って奥の部屋へと消えた。

数分後。襖が開く音と共に、彼が戻ってきた。


「お待たせしました」


振り返った私は、言葉を失った。

そこには、いつもの燕尾服ではなく、涼しげな流氷色アイスグレーの着流しを、驚くほど粋に着こなしたアルフォンスが立っていた。

銀髪は少しラフにかき上げられ、少し開いた胸元からは白く逞しい鎖骨が覗いている。

帯の位置、裾の捌き方、そして手にした扇子に至るまで、まるでこの国の若き貴族のような、暴力的なまでの色気が漂っていた。


(な、なにこれ……)


ドクン、と心臓が跳ねた。

いつも見慣れているはずの夫なのに。

執事服という鎧を脱いだ彼は、悔しいけれど国宝級に格好良かった。

中身はただの変態執事なのに、外見だけはズルい。


「……エルカ? どうかしましたか? 見惚れていただけましたか?」


「……べ、別に! ……ちょっと似合ってるなーって思っただけ!」


「光栄です。貴女に褒めていただけるなら、この姿のまま一生過ごしても構いません」


「さあ、行きましょう」


彼が差し出した手。

その手袋すら外された素手の指先に、私はドキドキしながら自分の手を重ねた。


一歩外に出ると、そこは異界のような熱気に包まれていた。

街道沿いに無数の提灯が吊るされ、祭囃子の音と人々の笑い声が響いている。

屋台から漂う焦げた醤油の匂い、甘い綿菓子の匂い。


私たちが人混みの中へ足を踏み入れた瞬間、周囲の喧騒がフッと凪いだ。


「……おい、見ろよあれ……」

「なにあれ、絵画から抜け出してきたみたい……」

「あの銀髪の男、何者だ? すごい色気……」

「隣の女性も、めちゃくちゃ綺麗……」


モーゼの海割れのように、人波が左右に割れていく。

数百の視線が、私たち二人に突き刺さる。

羨望、嫉妬、そして憧れ。

アルフォンスの冷ややかな美貌と、彼が仕立て上げた私の浴衣姿は、この祭りのどの灯籠よりも目を引いてしまっていた。


「……なんか、すごい見られてるんだけど」


「堂々としていてください、エルカ。貴女は私の女王なのですから、下々の視線など気にする必要はありません」


アルフォンスは涼しい顔で、扇子を使ってさりげなく私をガードしながら歩く。

しかし、その内心は穏やかではなかった。


(チッ……。どいつもこいつも、私のエルカを舐めるように見やがって。眼球をくり抜いて洗浄してやりたい……)


彼の心の声が、魔力のパスを通じて漏れ聞こえてくる。


その時だった。

人混みの波に押され、アルフォンスの手が一瞬だけ離れてしまった。


「あ……」


「よう、お嬢さん。一人?」


私の手首を、誰かがガシッと掴んだ。

見上げると、酒臭い息を吐く、派手な着物を着た若い男がニヤニヤと笑っていた。


「連れとはぐれたの? 俺が案内してやるよ。あっちで面白い見世物があるんだ」


「い、いいえ、結構です……!」


「つれないなぁ。そんな綺麗な顔して、一人じゃ危ないぜ?」


男の手が、私の肩に伸びてくる。 怖い。

生理的な嫌悪感で鳥肌が立つ。

私は助けを求めて叫ぼうとした。


「――その汚い手を、私の妻から離せ」


声よりも先に、空気が凍りついた。

男の背後に、巨大な影――いや、鬼神のような殺気を纏ったアルフォンスが立っていた。

彼のアイスブルーの瞳は、絶対零度の冷たさで男を見下ろしている。


「あ? なんだお前……」


「聞こえなかったのですか? 『不潔だ』と言ったのです」


バチバチバチッ!! アルフォンスの全身から、

蒼い魔力が噴き出した。

彼は男の手首を掴み上げることもなく、ただ指先を向けただけで、男の体を弾き飛ばした。


「うわぁぁっ!?」


男は尻餅をつき、怯えたように後ずさる。

アルフォンスは、懐から取り出した消毒液のスプレーを、男がいた空間にシュッシュッと撒き散らした。


「菌が舞う。貴様が吐いた二酸化炭素すら、私の妻には毒だ」


「ひ、ひぃぃッ! 化け物ぉぉッ!」


男は悲鳴を上げて逃げ出した。

周囲の人々も、あまりの剣幕に恐れをなして遠巻きになる。


「……エルカ、大丈夫ですか!?」


アルフォンスは即座に私に向き直り、男に触れられた私の手首を、自分のハンカチで必死に拭い始めた。


「申し訳ありません! 私が目を離したばかりに、あのような害虫に触れられるなど! 直ちに切断……いや、洗浄と浄化の儀式を……!」


「だ、大丈夫だから! アルフォンス、落ち着いて!」


「落ち着けません! 貴女の美しい肌に、他人の脂がついたのですよ!? 万死に値する、いや私が万死に値する!!」


彼は半泣きになりながら、私の手首に何度もキスをして「上書き」を始めた。

その姿は、さっきの冷徹な鬼神とは程遠い、

ただの過保護な大型犬だ。

周囲の女性客たちが、「なにあれ、愛が重い……でも素敵……」と頬を染めて囁き合っている。


「……もう、大げさなんだから」


私は苦笑しながら、彼の銀髪を撫でた。


「ありがとう。助けてくれて」


私が微笑むと、彼はハッとして、耳まで赤くした。


「……当然です。貴女を守るのが、私の存在理由ですから」


気を取り直し、私たちは再び歩き出した。

今度は絶対に離れないよう、アルフォンスは私の肩を抱き寄せ、自分の体温で包み込むようにして。


「あ、綿あめ!」


気まずい空気を変えようと、私は屋台を指差した。


「アルフォンス、あれ食べたい!」


「……砂糖の塊ですね。栄養価ゼロ。……ですが」


彼は私を見つめ、ふわりと優しく微笑んだ。


「今夜は特別です。貴女の唇を甘くするためなら、多少のカロリーは目をつぶりましょう」


彼は一番大きな綿あめを買ってくれた。


「はい、どうぞ」


「半分こしよ?」


私がちぎって差し出すと、彼は一瞬躊躇い、そして私の指ごとパクリと食べた。


「……んッ」


濡れた舌の感触が指先に走り、私は思わず声を漏らした。


「……あま」


「私の指まで食べないでよ!」


「ふむ。貴女の指のエキスが混ざることで、単なる砂糖菓子が極上のスイーツに昇華されました」


彼は真顔で食レポをしながら、私の指についた砂糖を、いやらしく丁寧に舐め取った。


「……変態」


「最高の褒め言葉です」


私たちは綿あめをシェアしながら、川辺へと向かった。

そこでは、灯籠流しが行われていた。 水面に揺れる無数の灯り。幻想的な光の帯。 かつて孤独だった私が、今はこうして、誰よりも私を愛してくれる(重すぎるけど)夫と並んで、この景色を見ている。


ヒュゥゥゥゥ………… 夜空を引き裂く音がした。


ドォォォォン!!


大輪の花火が、夜空に咲いた。 赤、青、緑、金。

光の粒子が降り注ぎ、川面を、そして私たちの顔を鮮やかに照らし出す。


「わぁっ……!」


私は空を見上げた。次々と咲く光の大輪に、心を奪われる。色とりどりの光が、私の瞳の中で弾け、消えていく。その美しさに、私は言葉を失い、ただただ見惚れていた。


ふと、横顔に熱い視線を感じた。

花火を見ずに、私だけを見つめる視線を。


そっと振り返ると、アルフォンスと目が合った。

彼の銀縁眼鏡に、夜空の花火が反射してチカチカと輝いている。

けれど、その奥にあるアイスブルーの瞳は、夜空のどの光よりも熱く、そして深く私を捉えていた。


彼は、花火なんて見ていなかった。

光に照らされた私の横顔、風に揺れる後れ毛、

微かに開いた唇。 その一つ一つを、まるで奇跡でも見るかのように、瞬きも忘れて見つめていたのだ。


「……アルフォンス? 花火、見ないの?」


私が問うと、彼は夢から覚めたように、ゆっくりと私の頬に手を伸ばした。 親指の腹が、私の下唇を優しくなぞる。


「……見ていますよ」


彼の声は、祭りの喧騒がかき消えるほど、甘く響いた。


「花火よりも……貴女の方が、ずっと美しい」


キザな台詞。でも、今の彼が言うと、それが揺るぎない真実のように聞こえてしまう。

彼の瞳には、私しか映っていない。 この世界に、私以外の色は存在しないと言わんばかりに。


「……我慢、できません」


パチン。 彼が指を鳴らした瞬間、世界から音が消えた。 周囲の人々の姿が霞み、私たち二人だけが切り取られたような静寂の空間――魔法で結界が展開されたのだ。


「……ここなら、誰にも見えません」


彼は私の腰を引き寄せ、逃げ場を塞ぐように抱きしめた。 浴衣越しに伝わる体温。激しく脈打つ心臓の音。 綿あめの甘い匂いと、彼から漂う清潔な石鹸と、雄の香りが混ざり合う。


「帯、解きたくなってしまいました」


「……だめよ、ここ外だし」


「分かっています。ですから……」


彼は私の唇を塞いだ。

リンゴ飴のような、綿あめのような、甘くてとろけるキス。でも、その奥にあるのは、焦げ付くような独占欲と情熱。 舌が絡み合い、息ができなくなるほど深く求められる。


ドォォォン! 結界の外で特大の柳花火が上がり、視界が金色に染まる。

その光の中で、私たちは時間を忘れて口づけを交わした。


人混みの中の、二人だけの密室。

それは、過保護で潔癖な執事が私にくれた、世界で一番甘くて、世界で一番恥ずかしい「お祭り」の思い出だった。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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