第105話「断崖の錬金、背中の信頼」
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ナラ・エンの森に、重苦しい空気が立ち込めていた。
『クライン薬局・診療所』の待合室。
いつもは清潔なハーブと消毒液の香りが漂うこの場所に、今日は焦燥と恐怖の汗の匂いが混じっている。
「……お願いします、薬師様! どうかこの子を……!」
カウンターの向こうで、村の若い母親が泣き崩れていた。 彼女の腕の中に抱かれているのは、五歳くらいの少年だ。 しかし、その肌は生気のない灰色に変色し、所々が硬い岩のように石化し始めていた。
「『石化病』の亜種ね……」
私はカウンターの内側から身を乗り出し、少年の頬に触れた。 冷たい。
まるで石像のようだ。 脈も微弱で、呼吸をするたびに肺が軋むような音がする。
「……酷い状態ですね」
背後で、アルフォンスが静かに呟いた。
彼のアイスブルーの瞳は、少年の服についた泥汚れと、母親の涙で濡れた床に向けられている。
「未知の病原菌、および飛沫による汚染です。エルカ、直ちに離れてください。半径五メートル以内の接近は許可できません」
「待って、アルフォンス。この子、時間がないわ」
「ええ。放置すれば、あと数日で全身が石塊と化すでしょう」
アルフォンスは眉をひそめ、懐からハンカチを取り出すと、少年の額に浮いた脂汗をそっと拭ってやった。 潔癖症の彼が、汚れることも厭わずに。
「……子供は『未完成』な存在。このような理不尽な病で、その未来が閉ざされるのは美学に反します」
彼は母親に向き直り、紳士的に一礼した。
「ご安心を。私の妻は大陸一の魔女です。……必ず、息子さんを元の柔らかい肌に戻してみせますよ」
「あ、ありがとうございますぅ……っ!」
母親が安堵でさらに涙を流すのを見て、私は決意を固めた。
「アルフォンス。『月光草』が必要だわ」
「……やはり、そうなりますか」
アルフォンスは眼鏡を押し上げた。
月光草。満月の夜、断崖絶壁にのみ咲く幻の花。その花弁に含まれる浄化の雫だけが、この石化を溶かすことができる。
「場所は『剃刀の崖』。……コウモリのフンと湿った苔にまみれた、不潔極まりない場所ですね」
「ええ。でも、摘み取る瞬間に魔力を流し込んで保存しないといけない。私が行くしかないわ」
「……分かっています」
アルフォンスは私の頭をポンと撫でた。
「貴女が『助けたい』と言うのなら、私はその道を切り開くだけです。……泥沼だろうと断崖だろうと、貴女の靴は汚させません」
彼は恭しく片膝をつき、私の手を握った。
「参りましょう、マイ・ロード。お供いたします」
一時間後。
私たちは『剃刀の崖』の麓に立っていた。
見上げれば、垂直に切り立った灰色の岩肌が、
霧の中に消えるようにそびえ立っている。
湿った風が吹き下ろし、鳥の鳴き声さえ聞こえない静寂の世界。
「……で、アルフォンス。この格好は何?」
私は呆れ半分、羞恥半分で声を上げた。
今の私は、アルフォンスの背中に「おんぶ」されていた。 それだけならいい。
問題は、私と彼の体を固定している、純白のシルクの布だ。
「完璧な『梱包』です」
アルフォンスは涼しい顔で、私のお尻の下で布を結び直した。
「崖を登る際、万が一にも貴女が落下しないよう、そして貴女の体が岩肌に触れて汚れないよう、私と貴女をシルクで一体化させました。どうですか? 密着度は」
「……きつい。息が詰まりそう」
彼の広い背中に、私の胸もお腹もぴったりと押し付けられている。
布がきつく巻かれているせいで、身動き一つ取れない。
彼の体温と、背中の筋肉の動きが、服越しに生々しく伝わってくる。
「我慢してください。これが最も安全で、最も衛生的です」
彼はくいっと眼鏡を押し上げ、絶壁を見上げた。
「さあ、行きますよ。……舌を噛まないように」
タンッ!!
合図もなく、世界が反転した。
アルフォンスが跳んだのだ。
彼は重力を無視したかのような動きで、垂直な岩壁を駆け上がった。
わずかな岩の出っ張りに指をかけ、足場を見つけ、人間離れした身体能力で高度を上げていく。
「きゃあっ!?」
風が唸りを上げて頬を叩く。
普通なら恐怖で叫ぶところだ。
けれど、私を背負う彼の背中は、揺るぎないほど安定していた。
どんなに激しく動いても、私には衝撃がほとんど伝わらない。彼が体幹と魔力で、すべての振動を吸収しているのだ。
「……すごい」
私は彼の首に腕を回し、しがみついた。
彼の背中からは、いつものレモンと蜜蝋の香りに混じって、わずかに汗の匂いがした。
私のために、そしてあの子を救うために、彼が本気で体を動かしている証。
その匂いが、なぜかとても頼もしくて、愛おしかった。
「……ッ、チッ!」
突然、アルフォンスが舌打ちをした。
頭上から、パラパラと小石が降ってくる。
「キシャアアアアッ!!」
霧の中から、翼長二メートルはある怪鳥――
『岩食い鷲』の群れが現れたのだ。 彼らは縄張りを荒らす侵入者を排除しようと、鋭い爪を立てて急降下してくる。
「害虫どもめ……! 消毒してやりたいが、今は手が離せない!」
アルフォンスは片手で岩を掴み、体を支えている。
攻撃するには手を離さなければならないが、そうすれば登る速度が落ちる。
「アルフォンス! そのまま登って!」
私は彼の耳元で叫んだ。 そして、亜空間収納から、一本の杖を取り出した。
それは、アルフォンスが私のために手作りしてくれた、特注の短杖だ。
素材は、ナラ・エンの聖域に生える樹齢一千年の神木。 滑らかに磨き上げられた漆黒の木肌には、金色の文字でびっしりと古代ルーン文字が刻まれている。
『我が魂は永遠に貴女の礎となり、貴女の敵を滅ぼす剣となる』
『愛しきエルカへ。私の命、私の心臓、その全てを捧ぐ』
……などなど、直視するのも恥ずかしい「重すぎる愛の言葉」が魔術回路として刻印されているのだ。 でも、その威力は本物だ。
「背中は私が守る! あんたは前だけ見てて!」
「……ッ! 御意。では、命をお預けします!」
彼は再び、弾丸のように岩壁を駆け上がり始めた。 防御を捨てた、全速力のクライミング。
鷲たちが、無防備な彼の背中、つまり私めがけて殺到する。
私は杖を掲げた。 アメジスト色の瞳を細め、体内の魔力と、杖に込められた彼の愛の魔力を共鳴させる。
「――愛の暴風!!」
ドォォォォォン!!
私の杖から、ピンク色を帯びた暴風のドームが展開された。
襲いかかってきた鷲たちが、見えない壁に激突し、木の葉のように弾き飛ばされる。 さらに私は、杖先から電を放った。
「落ちなさい!」
バリバリバリッ! 雷撃が鷲の翼を焼き、黒焦げにして谷底へと叩き落とす。
「……素晴らしい」
風切り音の中で、アルフォンスの声が聞こえた。
「貴女の魔法……背中で感じていました。……私の作った杖で、貴女が私を守ってくれている。……ぞくぞくするほど、興奮します」
「変態なこと言ってないで、早く登りきりなさいよ!」
「イエス・マイ・ロード!!」
彼は歓喜の雄叫びを上げ、最後の一歩を蹴り出した。
私の風魔法が、彼を押し上げるブースターとなる。
ダンッ!!
私たちは、雲を突き抜け、崖の頂上へと躍り出た。 そこには、満月のような丸い岩場の中央に、青白く光る一輪の花『月光草』が咲いていた。
「……着いた……」
アルフォンスはハンカチの上に私を降ろし、愛おしそうに私を見つめた。
「完璧な仕事です、エルカ」
「あんたのおかげよ。……ありがとう、アルフォンス」
私たちは頷き合い、月光草を採取した。
診療所に戻った私たちは、直ちに月光草を調合し、特効薬を作り上げた。
石化しかけていた少年に薬を飲ませると、数分後、灰色の肌に血色が戻り、石化が嘘のように解けていった。
「……ん……お母さん……?」
「ああ、良かった……! 起きたのね……!」
母親は少年を抱きしめ、号泣した。
そして、床に額をこすりつけるようにして私を見上げた。
「ありがとうございます……! ありがとうございます、賢者様……! 本当に、本当に……!」
その親子の姿を見て、私の胸の奥が熱くなった。 かつて孤独だった私が、誰かの命を救い、誰かの幸せを守ることができた。 張り詰めていた緊張が解け、視界が滲む。
「……うっ、ぐすっ……」
私の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
よかった。本当によかった。
「……エルカ」
ふわりと、優しい布が私の顔を覆った。
アルフォンスが、私を抱きしめ、ハンカチで涙を拭ってくれているのだ。
「……泣かないでください。貴女の涙は、宝石よりも尊いのですから」
「だって……うぅ……」
「ええ、分かっています。……貴女は立派な魔女です。私の自慢の妻です」
彼は私を子供のようにあやし、その背中を優しく撫で続けた。
その夜。
私たちは仕事を終え、森の奥にそびえる愛の巣――白亜の双塔に戻っていた。
最上階のリビングにあるふかふかのソファで、並んで座っている。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい」
私は少し照れくさくなって、モジモジと指先を弄った。
「あのお母さん……私のこと、『賢者様』だって」
「…………」
「なんか、恥ずかしいよね。私なんて、ただのズボラな魔女なのに」
私がはにかむと、アルフォンスは真剣な顔で私を見つめ返した。
「間違っていませんよ」
「え?」
彼はそっと私の頬に手を添えた。
「断崖を恐れず、他人のために涙を流せる貴女は……紛れもなく、人々を救う尊い賢者です」
彼は顔を近づけ、私の頬にチュッ、と優しく口づけを落とした。
「貴女は私の愛しい魔女であり、賢者であり、……そして何より、私の自慢の妻です」
「……っ」
甘すぎる言葉と、頬に残るキスの感触に、私は顔を真っ赤にして俯いた。
こんな風に全肯定されたら、何も言えなくなってしまう。
「……ありがとう、アルフォンス」
幸せな空気が流れる。
このまま、甘い夜を過ごすのだと思っていた。
しかし。
「……ですが」
アルフォンスの目が、不意に妖しく光った。
空気が変わる。
「崖での貴女は無防備すぎました。風魔法を使う際、背中が反って、無防備な脇腹が露わになっていました。……もし鷲の爪があと数センチ深ければ、貴女の肌に傷がついていたかもしれない」
「え、そんな細かいこと……」
「細かくありません! 貴女の体は、私の管理下にある世界遺産なのですから!」
彼はタオルを置き、私の手を力強く握りしめた。
「……というわけで、これから『事後点検』を行います」
「点検?」
「ええ。お風呂で、全身の隅々まで。怪我がないか、虫刺されがないか、そして……筋肉痛にならないよう、私が念入りにマッサージさせていただきます」
「……ちょっと、アルフォンス? 目が怖いんだけど」
「拒否権はありません。……あんなに素晴らしい杖捌きを見せられたのです。私のご褒美も、いただかなくては」
彼は私を軽々と抱き上げ、浴室へと向かった。
抵抗する気力もない私は、彼の腕の中で小さくため息をついた。
まあ、いいか。 今日もまた、彼の重すぎる愛に溺れるのも、悪くないかもしれない。
読んでくださってありがとうございます。
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