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第105話「断崖の錬金、背中の信頼」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの森に、重苦しい空気が立ち込めていた。

『クライン薬局・診療所』の待合室。

いつもは清潔なハーブと消毒液の香りが漂うこの場所に、今日は焦燥と恐怖の汗の匂いが混じっている。


「……お願いします、薬師様! どうかこの子を……!」


カウンターの向こうで、村の若い母親が泣き崩れていた。 彼女の腕の中に抱かれているのは、五歳くらいの少年だ。 しかし、その肌は生気のない灰色に変色し、所々が硬い岩のように石化し始めていた。


「『石化病コカトリス・シンドローム』の亜種ね……」


私はカウンターの内側から身を乗り出し、少年の頬に触れた。 冷たい。

まるで石像のようだ。 脈も微弱で、呼吸をするたびに肺が軋むような音がする。


「……酷い状態ですね」


背後で、アルフォンスが静かに呟いた。

彼のアイスブルーの瞳は、少年の服についた泥汚れと、母親の涙で濡れた床に向けられている。


「未知の病原菌、および飛沫による汚染です。エルカ、直ちに離れてください。半径五メートル以内の接近は許可できません」


「待って、アルフォンス。この子、時間がないわ」


「ええ。放置すれば、あと数日で全身が石塊と化すでしょう」


アルフォンスは眉をひそめ、懐からハンカチを取り出すと、少年の額に浮いた脂汗をそっと拭ってやった。 潔癖症の彼が、汚れることも厭わずに。


「……子供は『未完成』な存在。このような理不尽な病で、その未来が閉ざされるのは美学に反します」


彼は母親に向き直り、紳士的に一礼した。


「ご安心を。私の妻は大陸一の魔女です。……必ず、息子さんを元の柔らかい肌に戻してみせますよ」


「あ、ありがとうございますぅ……っ!」


母親が安堵でさらに涙を流すのを見て、私は決意を固めた。


「アルフォンス。『月光草ムーン・リリィ』が必要だわ」


「……やはり、そうなりますか」


アルフォンスは眼鏡を押し上げた。

月光草。満月の夜、断崖絶壁にのみ咲く幻の花。その花弁に含まれる浄化の雫だけが、この石化を溶かすことができる。


「場所は『剃刀の崖』。……コウモリのフンと湿った苔にまみれた、不潔極まりない場所ですね」


「ええ。でも、摘み取る瞬間に魔力を流し込んで保存しないといけない。私が行くしかないわ」


「……分かっています」


アルフォンスは私の頭をポンと撫でた。


「貴女が『助けたい』と言うのなら、私はその道を切り開くだけです。……泥沼だろうと断崖だろうと、貴女の靴は汚させません」


彼は恭しく片膝をつき、私の手を握った。


「参りましょう、マイ・ロード。お供いたします」


一時間後。

私たちは『剃刀の崖』の麓に立っていた。

見上げれば、垂直に切り立った灰色の岩肌が、

霧の中に消えるようにそびえ立っている。

湿った風が吹き下ろし、鳥の鳴き声さえ聞こえない静寂の世界。


「……で、アルフォンス。この格好は何?」


私は呆れ半分、羞恥半分で声を上げた。

今の私は、アルフォンスの背中に「おんぶ」されていた。 それだけならいい。

問題は、私と彼の体を固定している、純白のシルクの布だ。


「完璧な『梱包』です」


アルフォンスは涼しい顔で、私のお尻の下で布を結び直した。


「崖を登る際、万が一にも貴女が落下しないよう、そして貴女の体が岩肌に触れて汚れないよう、私と貴女をシルクで一体化させました。どうですか? 密着度は」


「……きつい。息が詰まりそう」


彼の広い背中に、私の胸もお腹もぴったりと押し付けられている。

布がきつく巻かれているせいで、身動き一つ取れない。

彼の体温と、背中の筋肉の動きが、服越しに生々しく伝わってくる。


「我慢してください。これが最も安全で、最も衛生的です」


彼はくいっと眼鏡を押し上げ、絶壁を見上げた。


「さあ、行きますよ。……舌を噛まないように」


タンッ!!


合図もなく、世界が反転した。

アルフォンスが跳んだのだ。

彼は重力を無視したかのような動きで、垂直な岩壁を駆け上がった。

わずかな岩の出っ張りに指をかけ、足場を見つけ、人間離れした身体能力で高度を上げていく。


「きゃあっ!?」


風が唸りを上げて頬を叩く。

普通なら恐怖で叫ぶところだ。

けれど、私を背負う彼の背中は、揺るぎないほど安定していた。

どんなに激しく動いても、私には衝撃がほとんど伝わらない。彼が体幹と魔力で、すべての振動を吸収しているのだ。


「……すごい」


私は彼の首に腕を回し、しがみついた。

彼の背中からは、いつものレモンと蜜蝋の香りに混じって、わずかに汗の匂いがした。

私のために、そしてあの子を救うために、彼が本気で体を動かしている証。

その匂いが、なぜかとても頼もしくて、愛おしかった。


「……ッ、チッ!」


突然、アルフォンスが舌打ちをした。

頭上から、パラパラと小石が降ってくる。


「キシャアアアアッ!!」


霧の中から、翼長二メートルはある怪鳥――

『岩食いロック・イーター』の群れが現れたのだ。 彼らは縄張りを荒らす侵入者を排除しようと、鋭い爪を立てて急降下してくる。


「害虫どもめ……! 消毒してやりたいが、今は手が離せない!」


アルフォンスは片手で岩を掴み、体を支えている。

攻撃するには手を離さなければならないが、そうすれば登る速度が落ちる。


「アルフォンス! そのまま登って!」


私は彼の耳元で叫んだ。 そして、亜空間収納インベントリから、一本の杖を取り出した。


それは、アルフォンスが私のために手作りしてくれた、特注の短杖ワンドだ。

素材は、ナラ・エンの聖域に生える樹齢一千年の神木。 滑らかに磨き上げられた漆黒の木肌には、金色の文字でびっしりと古代ルーン文字が刻まれている。


『我が魂は永遠に貴女の礎となり、貴女の敵を滅ぼす剣となる』

『愛しきエルカへ。私の命、私の心臓、その全てを捧ぐ』


……などなど、直視するのも恥ずかしい「重すぎる愛の言葉」が魔術回路として刻印されているのだ。 でも、その威力は本物だ。


「背中は私が守る! あんたは前だけ見てて!」


「……ッ! 御意。では、命をお預けします!」


彼は再び、弾丸のように岩壁を駆け上がり始めた。 防御を捨てた、全速力のクライミング。

鷲たちが、無防備な彼の背中、つまり私めがけて殺到する。


私は杖を掲げた。 アメジスト色の瞳を細め、体内の魔力と、杖に込められた彼の愛の魔力を共鳴させる。


「――愛の暴風ストーム・オブ・アフェクション!!」


ドォォォォォン!!


私の杖から、ピンク色を帯びた暴風のドームが展開された。

襲いかかってきた鷲たちが、見えない壁に激突し、木の葉のように弾き飛ばされる。 さらに私は、杖先から電を放った。


「落ちなさい!」


バリバリバリッ! 雷撃が鷲の翼を焼き、黒焦げにして谷底へと叩き落とす。


「……素晴らしい」


風切り音の中で、アルフォンスの声が聞こえた。


「貴女の魔法……背中で感じていました。……私の作った杖で、貴女が私を守ってくれている。……ぞくぞくするほど、興奮します」


「変態なこと言ってないで、早く登りきりなさいよ!」


「イエス・マイ・ロード!!」


彼は歓喜の雄叫びを上げ、最後の一歩を蹴り出した。

私の風魔法が、彼を押し上げるブースターとなる。


ダンッ!!


私たちは、雲を突き抜け、崖の頂上へと躍り出た。 そこには、満月のような丸い岩場の中央に、青白く光る一輪の花『月光草』が咲いていた。


「……着いた……」


アルフォンスはハンカチの上に私を降ろし、愛おしそうに私を見つめた。


「完璧な仕事です、エルカ」


「あんたのおかげよ。……ありがとう、アルフォンス」


私たちは頷き合い、月光草を採取した。



診療所に戻った私たちは、直ちに月光草を調合し、特効薬を作り上げた。

石化しかけていた少年に薬を飲ませると、数分後、灰色の肌に血色が戻り、石化が嘘のように解けていった。


「……ん……お母さん……?」


「ああ、良かった……! 起きたのね……!」


母親は少年を抱きしめ、号泣した。

そして、床に額をこすりつけるようにして私を見上げた。


「ありがとうございます……! ありがとうございます、賢者様……! 本当に、本当に……!」


その親子の姿を見て、私の胸の奥が熱くなった。 かつて孤独だった私が、誰かの命を救い、誰かの幸せを守ることができた。 張り詰めていた緊張が解け、視界が滲む。


「……うっ、ぐすっ……」


私の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

よかった。本当によかった。


「……エルカ」


ふわりと、優しい布が私の顔を覆った。

アルフォンスが、私を抱きしめ、ハンカチで涙を拭ってくれているのだ。


「……泣かないでください。貴女の涙は、宝石よりも尊いのですから」


「だって……うぅ……」


「ええ、分かっています。……貴女は立派な魔女です。私の自慢の妻です」


彼は私を子供のようにあやし、その背中を優しく撫で続けた。


その夜。

私たちは仕事を終え、森の奥にそびえる愛のマイホーム――白亜の双塔に戻っていた。

最上階のリビングにあるふかふかのソファで、並んで座っている。


「……ねえ、アルフォンス」


「はい」


私は少し照れくさくなって、モジモジと指先を弄った。


「あのお母さん……私のこと、『賢者様』だって」


「…………」


「なんか、恥ずかしいよね。私なんて、ただのズボラな魔女なのに」


私がはにかむと、アルフォンスは真剣な顔で私を見つめ返した。


「間違っていませんよ」


「え?」


彼はそっと私の頬に手を添えた。


「断崖を恐れず、他人のために涙を流せる貴女は……紛れもなく、人々を救う尊い賢者です」


彼は顔を近づけ、私の頬にチュッ、と優しく口づけを落とした。


「貴女は私の愛しい魔女であり、賢者であり、……そして何より、私の自慢の妻です」


「……っ」


甘すぎる言葉と、頬に残るキスの感触に、私は顔を真っ赤にして俯いた。

こんな風に全肯定されたら、何も言えなくなってしまう。


「……ありがとう、アルフォンス」


幸せな空気が流れる。

このまま、甘い夜を過ごすのだと思っていた。


しかし。


「……ですが」


アルフォンスの目が、不意に妖しく光った。

空気が変わる。


「崖での貴女は無防備すぎました。風魔法を使う際、背中が反って、無防備な脇腹が露わになっていました。……もし鷲の爪があと数センチ深ければ、貴女の肌に傷がついていたかもしれない」


「え、そんな細かいこと……」


「細かくありません! 貴女の体は、私の管理下にある世界遺産なのですから!」


彼はタオルを置き、私の手を力強く握りしめた。


「……というわけで、これから『事後点検』を行います」


「点検?」


「ええ。お風呂で、全身の隅々まで。怪我がないか、虫刺されがないか、そして……筋肉痛にならないよう、私が念入りにマッサージさせていただきます」


「……ちょっと、アルフォンス? 目が怖いんだけど」


「拒否権はありません。……あんなに素晴らしい杖捌きを見せられたのです。私のご褒美も、いただかなくては」


彼は私を軽々と抱き上げ、浴室へと向かった。

抵抗する気力もない私は、彼の腕の中で小さくため息をついた。

まあ、いいか。 今日もまた、彼の重すぎる愛に溺れるのも、悪くないかもしれない。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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