第93話「テラス席の給仕、あるいは毒味地獄」
◆ 更新スケジュール ◆
この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。
「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。
アルフォンスのお姫様抱っこによる強制連行の末、私たちは街で一番の高級レストランに到着した。石造りの優美なアーチと、木漏れ日が揺れるオープンテラス。
白いテーブルクロスが眩しい、洗練された空間だ。
「……やっと着いた」
「ええ。ここなら衛生管理も及第点です」
アルフォンスは私をテラス席の椅子に降ろすと、
即座に懐からマイ・ハンカチを取り出し、座面と背もたれをササッと拭いた。
まだ誰も座っていない綺麗な椅子なのに。
「ようこそ、いらっしゃいませ!」
若い男性のウェイターが、爽やかな笑顔でメニューを持って駆け寄ってきた。
「お二人様ですね。本日のランチは……」
ウェイターが私にメニューを手渡そうとした、
その瞬間。
バシッ。
アルフォンスの手が、ウェイターの手首を優しく、しかし確実に止めた。
「……お客様?」
「妻に直接触れないでいただきたい。……メニューなら私が受け取ります」
アルフォンスは氷点下の笑顔でメニューを奪い取ると、それをパラパラと開き、ものすごい速度でスキャンし始めた。
「……ふむ。前菜の野菜はナラ・エン産。ドレッシングは自家製。……メインの肉料理は……火加減が甘い可能性があるな」
「あ、あの……?」
ウェイターが困惑しているのを無視し、彼は私に向き直った。
「エルカ。ここのシェフは腕が良いようですが、盛り付けに彩りを重視しすぎて、食べにくい野菜を添える癖があるようです。……貴女の小さなお口には不向きですね」
「……何それ。透視でもしてるの?」
「過去の評判と厨房からの匂いで分析しました。……とりあえず、一番安全で、かつ貴女が好きな味付けのコースを注文しておきます」
彼はウェイターに流暢なナラ・エン語で、やたら細かい注文をつけ始めた。
「前菜のトマトは皮を湯剥きすること。スープの温度は65度。メインの肉は筋を完全に除去し、ソースは別添えで。……ああ、それと」
彼は眼鏡をキラリと光らせた。
「カトラリー(ナイフとフォーク)は下げてください。……使いませんので」
「は?……えっと、手づかみで召し上がるのですか?」
「いいえ。……『私』がいますから」
ウェイターは「?」という顔をしたが、アルフォンスの圧に押されてすごすごと引き下がっていった。
「……ねえ、アルフォンス。カトラリー下げてどうするのよ」
「私が給仕します。……不特定多数の人間が触れたフォークなど、貴女の唇に触れさせるわけにはいきません」
彼は懐から、マイ・シルバーセット(ナイフ、フォーク、スプーン)を取り出した。
どこに隠し持っていたのよ。
しかも、私の名前が彫ってある。
「さあ、ナプキンを」
彼は私の首元にナプキンをかけ、まるで赤ちゃんにするように丁寧に結んだ。
周囲の客たちが、チラチラとこちらを見ている。
美男美女(自分で言うのも何だけど)のカップルが、幼児プレイみたいなことをしていれば、そりゃあ見るだろう。
「恥ずかしいってば」
「堂々としていてください。……これは貴女への愛の証明なのですから」
やがて、料理が運ばれてきた。
色鮮やかな前菜の盛り合わせ。
旬の野菜と魚介のマリネが、宝石のように輝いている。
「わぁ……綺麗」
「見た目は合格ですね。……ですが、中身はどうでしょう」
アルフォンスはナイフとフォークを構えた。
そして、獲物を狙う猛禽類の目で、皿の上のプチトマトを凝視した。
「……残留農薬なし。鮮度良好。……ですが、種の周りの酸味が少し強いか」
彼はトマトを半分に切り、一つを自分の口に入れた。
「ん……。やはり酸味が強い。……これは貴女には刺激が強すぎます」
彼は残りの半分に、持参した小瓶から微量の蜂蜜を垂らした。
「これで中和されました。……さあ、あーん」
彼はフォークに刺したトマトを、私の口元に差し出した。
テラス席の真ん中で。満席の客たちの前で。
「……自分で食べる」
「ダメです。私が安全を確認し、私が味を調整したものを、私の手で食べていただきたいのです」
彼の瞳は真剣そのものだった。
拒否権はないらしい。
私は観念して、口を開けた。
「あーん」
「はい、どうぞ」
パクり。トマトの酸味と蜂蜜の甘みが絶妙に混ざり合い、口の中で弾ける。
「おいしい」
「でしょう?貴女の味覚は私が一番理解していますから」
彼は満足げに頷くと、次は白身魚のマリネに取り掛かった。
またしても、一口毒味をしてから、私に食べさせる。毒味。調整。あーん。その繰り返しだ。
周囲の視線が痛い。
「見て、あの旦那様……全部味見してるわよ」
「過保護ねぇ」
「でも、あんな風に尽くされたら幸せよね」
そんな声が聞こえてくる。
幸せ?ええ、幸せですよ。胃が痛くなるほどに。
「……ねえ、アルフォンス。あんたも自分の分、食べなさいよ」
「私は貴女が食べた後の残りをいただきます。……貴女が満たされることが、私にとって最高の栄養ですから」
彼は私が残したというか、彼が一口食べた残骸の料理を、愛おしそうに口に運んでいる。
間接キスどころの話ではない。
これはもう、口移しの一歩手前だ。
その時。
メインディッシュの肉料理が運ばれてきた。
厚切りのローストビーフ。
肉汁が溢れ、芳醇な香りが漂う。
「……これは手強いですね」
アルフォンスの目が険しくなった。
「火の通り加減は絶妙ですが……ソースに微量のガーリックが含まれています」
「え、ダメなの?」
「ダメではありませんが……貴女の吐息が汚れるのは許せません」
彼はナイフを手に取った。
「私が全てのソースを拭い去り、肉の旨味だけを残します」
シュババババッ!!
彼のナイフ捌きは神業だった。
肉の表面についたソースを、肉の繊維を傷つけずに削ぎ落としていく。
まるで外科手術だ。
そして、一口サイズに切り分け、一切れを自分の口へ。
「……ん。肉質は柔らかい。ですが、少し脂っこいですね」
彼は眉をひそめた。
「このままでは貴女の胃に負担がかかります。……仕方ありません」
彼は肉を口に含んだまま、私の方へ顔を近づけた。 え? 何する気?
「……んぐ」
彼は肉を飲み込まず、口の中で咀嚼し、肉汁と脂をある程度吸い取ってから、フォークで肉を取り出した。
「……はい。余分な脂は私が処理しました。これで貴女には『一番美味しい赤身の部分』だけが残っています」
「……っ!?」
正気か。
いや、この男に正気を求めてはいけない。
彼はそれを「究極の愛」だと思ってやっているのだ。
私が食べるものを、自分の体というフィルターを通して浄化しようとしているのだ。
「……さすがにそれは……汚くない?」
「私の唾液には浄化作用があります。……それに、貴女と私の間に『汚い』などという概念は存在しません」
彼はキッパリと言い放った。
その目は、狂信者のように澄んでいる。
「さあ、食べてください。私の愛を」
差し出された肉。
それは、ただのローストビーフではない。
彼の唾液と愛でコーティングされた、禁断の果実だ。
私は震える手で彼の腕を掴み、そして……口を開けた。 パクり。
……悔しいけれど、美味しかった。
脂っこさが消え、肉の旨味だけが凝縮されている。そして何より、彼の味がした。
「……んっ……」
「どうですか?私の味は」
「……変態。……でも、おいしい」
私が涙目で答えると、彼は蕩けるような笑顔を見せた。
「良かったです。……これで貴女の体の一部に、また私が組み込まれましたね」
食後のデザートは、フルーツタルトだった。
色とりどりの果物が乗った、可愛らしいケーキ。さすがにこれなら、毒味も脂抜きも必要ないだろう。
そう思った私が甘かった。
「……イチゴの種が歯に挟まる可能性があります」
「キウイの繊維が消化に悪いかもしれません」
アルフォンスは、タルトの上のフルーツを一つ一つ分解し、種を取り、皮を剥き、果肉だけを選別し始めた。もはや解体ショーだ。
綺麗なタルトが、無残な「果肉の山」に変わっていく。
「……ねえ、もう普通に食べさせてよ」
私は呆れて抗議した。
すると、彼はピタリと手を止めた。
「……普通に、ですか?」
「そうよ。あんたの手でいいから、あーんして」
私が言うと、彼は少し考え込み、そしてニヤリと笑った。
「わかりました。では、一番『甘い』食べ方をしましょう」
彼はクリームたっぷりのイチゴを指でつまみ、
自分の口に加えた。
そして、顔を近づけてくる。
「……えっ?」
チュッ。
唇が重なった。
彼の口から、甘酸っぱいイチゴとクリームが、
私の口へと押し込まれる。
口移しだ。
テラス席のど真ん中で。公衆の面前で。
「んぅ……っ!?」
私は驚いて身を引こうとしたが、彼の腕が私の後頭部をガッチリとホールドして離さない。
彼の舌が入り込んでくる。
クリームを舐め取るように、私の口の中を蹂躙する。
甘い。イチゴの味なのか、彼の味なのか、もうわからない。頭がクラクラする。
周囲の客たちの悲鳴に近いざわめきが聞こえる気がするけれど、今の私にはどうすることもできない。
「……ぷはっ」
ようやく唇が離れた時、私は息も絶え絶えだった。
口の周りにはクリームがつき、目はトロンとしているに違いない。
「……ごちそうさまでした」
アルフォンスは舌なめずりをしながら、妖艶に微笑んだ。
「やはり、貴女の口の中で溶けたデザートが一番美味しいですね」
「……あんた……本当にもう……」
私は真っ赤な顔をナプキンで隠した。
もうお嫁に行けない。あ、もう行ってたか。
この男と結婚するというのは、こういう恥ずかしさと快感に一生晒され続けるということなのだ。
「さあ、口元を拭きましょう」
彼は新しいハンカチを取り出し、私の口についたクリームを優しく拭き取った。
その仕草は、どこまでも優しくて、過保護で。
「お腹いっぱいになりました?」
「うん。胸焼けするくらいにね」
「それは光栄です。……では、次は買い物をしましょうか」
彼は立ち上がり、私に手を差し出した。
その背後には、完全に固まったウェイターと、顔を赤らめて見守る客たちの姿があった。
私たちのテラス席デートは、街中に「あの夫婦はヤバい」という伝説を刻み込んで終了した。
でも、彼の手を握って店を出る私の足取りは、
不思議と軽かった。
毒味地獄も、口移し給仕も。
慣れてしまえば、最高に甘い蜜の味なのかもしれない。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。




