第91話「外界なしの朝、管理2.0の幕開け」
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ナラ・エンの霧の森に建てられた、私たち二人の愛の巣。
その最上階にある寝室に、朝の光が差し込んでいる。
「……ん」
私は目覚めると同時に、違和感を覚えた。
いつもなら隣にいるはずの、体温の高い銀髪の執事(兼・夫)がいない。
ベッドサイドには、彼の抜け殻のような微かな窪みと、蜜蝋の香りだけが残っている。
「……アルフォンス?」
私が呼びかけると、クローゼットの奥から「はい、愛しい妻よ」という甘い声と共に、完璧に身支度を整えたアルフォンスが現れた。
燕尾服の裾を翻し、手には銀の盆ではなく、何やら怪しげな魔導具と、数種類の小瓶を持っていた。
「おはようございます、エルカ。……素晴らしい朝ですね」
「おはよう。……何それ?」
私が彼の持っている道具を指差すと、彼は眼鏡を光らせ、ニヤリと笑った。
「本日の外出に向けた『装備』です。……貴女を外界の不浄から守るため、そして貴女の美しさを極限まで引き立てるため、抜かりなく準備いたしました」
彼はベッドサイドに道具を並べ始めた。
見たこともない色の液体が入った瓶。
複雑な術式が刻まれた、皮膚に貼るタイプの薄いシール。
そして、なぜか医療用の聴診器のようなものまである。
「……ねえ、アルフォンス。ただのデートよね?散歩して、ご飯食べるだけの」
「ただのデート?とんでもない!」
彼は私の言葉を遮り、大げさに両手を広げた。
「これは、新生『エルカ・クライン』のデビューステージです。……ナラ・エンの民草に、私の妻の美しさを知らしめる儀式。一分の隙も、一点の曇りも許されません」
彼の目は本気だった。
この男にとって、妻を美しく見せることは、世界平和よりも重要なミッションなのだ。
「さあ、まずはボディチェックから始めます。……服を脱いでください」
「えっ、自分で脱ぐの?」
「いえ、私が脱がせます。貴女の手を煩わせるわけにはいきませんから」
彼は私のパジャマのボタンに手を掛けた。
白い手袋の感触が、素肌に触れる。
慣れた手つきでボタンを外し、パジャマを脱がせていく。
朝の冷たい空気に晒された肌が、少し粟立つ。
「……ふむ。肌の調子は良好。昨夜の保湿パックが効いているようですね」
彼は聴診器のような魔導具を私の胸に当てた。
「心拍数、血圧、魔力循環……すべて正常値。ですが、ここが少し凝っていますね」
彼は私の肩甲骨のあたりを指先で押した。
「っ、いたっ……」
「やはり。……昨日の建築作業で魔力を使いすぎた影響でしょう。……ほぐしておきましょう」
彼は小瓶の蓋を開けた。
柑橘系の爽やかな香りと、少しスパイシーなハーブの香りが広がる。
特製のマッサージオイルだ。
「うつ伏せになってください」
言われるままにベッドに横たわると、背中に冷たいオイルが垂らされた。
直後、アルフォンスの温かい手が、背中全体を包み込むように滑り始めた。
「んっ……」
「力を抜いて。私の指に身を委ねてください」
彼の指は魔法のようだった。
凝り固まった筋肉を的確に捉え、絶妙な力加減で揉みほぐしていく。
オイルの滑りと、彼の体温。
背骨に沿って指が這うたびに、甘い痺れが腰の方まで走る。
「……アルフォンス、そこ……」
「ここですか?ええ、わかっていますよ」
彼は私の反応を楽しむように、一番気持ちいい場所を重点的に攻めてくる。
執事としての奉仕精神と、夫としての独占欲が入り混じった、濃厚なタッチ。
「……あ、んぅ……っ」
私は枕に顔を埋めて、漏れそうになる声を必死に抑えた。
ただのマッサージのはずなのに、なんでこんなに情熱的なのよ。
「我慢しなくていいですよ、エルカ。……この塔の中には、私と貴女しかいないのですから」
彼は耳元で囁きながら、首筋にキスをした。
チュッ、という濡れた音が響く。
「……ダメよ。これから出かけるんでしょ?変なスイッチ入れないで」
「おや、残念。では、仕上げに入りましょう」
彼は名残惜しそうに私の背中から手を離し、
タオルでオイルを拭き取った。
そして、最初に並べていたシールのようなもの――魔術刻印シールを手に取った。
「これは?」
「『守護の鎖』です」
彼は真顔で説明した。
「これを貴女の肌――具体的には鎖骨の下と、背中、そして太腿の内側に貼ります。……もし万が一、貴女に『害意』を持つ者が近づいた場合、あるいは貴女が『恐怖』を感じた場合、この刻印が即座に発動し、貴女を無敵の結界で包み込むと同時に、私の元へ強制転移させます」
「……強制転移って」
私は左足首を少し持ち上げて見せた。
そこには、彼が最初にくれたアメジストのアンクレットが輝いている。
「それなら、このアンクレットがあるじゃない。……確か、あんたから10メートル離れたら強制的に戻されるんでしょ?」
「ええ。ですが、それはあくまで『迷子防止』のリードです」
アルフォンスは眼鏡を光らせ、怖いほど真剣な顔で言った。
「外界には、空間切断や拘束魔法など、アンクレットの転移を阻害する術式も存在します。それに、万が一アンクレットそのものを破壊されたら……私は貴女を見失ってしまう」
「……破壊って」
「あり得ない話ではありません。……ですから、予備が必要です」
彼はシールを私の鎖骨の下に押し当てた。
ひんやりとした感触と共に、魔力が皮膚の下へと浸透していく。
「このシールは、貴女の生体電流……つまり『命』そのものにリンクさせました。物理的に破壊することは不可能ですし、アンクレットが機能しない状況でも、最優先で貴女を私の腕の中へ『緊急脱出』させます」
「つまり、二重ロックってこと?」
「はい。貴女を失う可能性を、0.0001%でも残したくありませんから」
アンクレットという物理的な鎖に加え、肌に直接刻み込まれる魔法の鎖。
この男の過保護は、もはや防災訓練のレベルを超えていた。
「……過保護すぎない?」
「愛です」
彼は有無を言わせぬ笑顔で、私の太腿の内側にもシールを貼った。
指先が触れる場所が際どくて、私は思わず声を漏らした。
「んっ……」
「おや、感度が良いですね。ここなら誰にも見えませんし、私の魔力を一番近くで感じられるでしょう?」
恥ずかしい場所に、彼との繋がりが刻まれる。
でも、抵抗しても無駄だし、何より……この束縛感が、嫌いじゃなかったからだ。
どこにいても、彼が私を見守っている。
私が危機に陥れば、必ず彼が飛んできてくれる。
その安心感は、何物にも代えがたい。
「……完了です」
アルフォンスは満足げに頷き、私を起こした。
そして、用意されていた服――ナラ・エンの伝統的な着物をアレンジした、和洋折衷のドレス――を広げた。
「さあ、着替えましょう。今日は、この国の『お姫様』になっていただきます」
淡い藤色の生地に、金糸で繊細な刺繍が施された着物。帯は濃い紫で、全体を引き締めている。
足元は、歩きやすいようにブーツを合わせるスタイルだ。
「……可愛い」
「ええ。貴女のために特注しました。この色合いは、貴女のアメジストの瞳を最も美しく引き立てます」
彼は手際よく私に着物を着せ付けていく。
帯を締める時、彼の手が私の腰を抱くように回る。その一瞬の密着に、胸が高鳴る。
「……苦しくないですか?」
「うん、大丈夫」
「では、髪を」
彼は私を鏡の前に座らせ、櫛で髪を梳き始めた。
黒髪を丁寧にまとめ上げ、かんざし一本で留める。うなじが露わになり、少しスースーする。
「……美しい」
鏡越しに、アルフォンスがため息をついた。
その目は、完全に陶酔しきっている。
「私の妻は、世界一……いえ、宇宙一美しい」
「……大げさよ」
「事実です。……ああ、このまま閉じ込めておきたい」
彼は私のうなじに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「でも、見せびらかしたい。この矛盾に、私の心は引き裂かれそうです」
「面倒くさい男ね」
私は苦笑いしながら、鏡の中の彼の手を握った。
「大丈夫よ。誰に見られたって、私はあんたのものなんだから」
「……っ!」
アルフォンスが息を呑んだ。
そして、鏡越しに私を見つめる瞳が、ゆらりと揺れた。
あ、またスイッチが入ったかもしれない。
「……エルカ。……もう一度、言ってください」
「え?だから、私はあんたのもの……」
「愛しています!!」
彼は私を椅子ごと回転させ、正面から抱きしめた。着物が着崩れるのもお構いなしだ。
「貴女のその言葉だけで、私は魔王にだってなれる!……さあ、行きましょう!世界中の人間に、私たちの愛を見せつけに行くのです!」
彼は私を抱き上げ、そのまま窓を開け放った。え、玄関からじゃないの?
「転移するの?」
「いいえ。今日は『道中』も楽しんでいただきたいので」
彼はニヤリと笑い、バルコニーの手すりに足をかけた。
「空の散歩と洒落込みましょう」
ヒュンッ!
彼は私を抱いたまま、塔の最上階から飛び降りた。 落下する浮遊感。
驚く間もなく、彼の足元に風の魔力が渦巻き、
ふわりと着地……するのではなく、空中を蹴って滑空し始めた。
「きゃあぁぁっ!?」
「ご安心を。私から落ちることなど、万が一にもありえません」
彼は私の体をしっかりと支え、霧の森の上空を滑るように飛んでいく。
眼下には、緑の海原。
その向こうに、ナラ・エンの古都が朝日に輝いている。
「綺麗」
「ええ。ですが、貴女ほどではありません」
彼は空中散歩を楽しみながら、甘い言葉を囁き続けた。
風を切る音と、彼の心音。
そして、私の鼓動。
外界への扉は開かれた。でも、私は知っている。
どんなに遠くへ行っても、どれだけ多くの人に見られても。
私の世界は、この男の腕の中だけで完結しているのだと。
「……着きますよ、エルカ」
アルフォンスが速度を緩めた。
街外れの広場が見えてくる。
そこには、朝市で賑わう人々の姿があった。
「さあ、管理2.0の幕開けです。私の完璧なエスコートに、身も心も委ねてください」
彼は優雅に、音もなく広場の石畳に着地した。
周囲の人々が、空から降りてきた私たちを見て、
驚きに目を見開く。
そして、その驚きはすぐに、感嘆のため息へと変わった。
銀髪の美丈夫と、藤色の着物を纏った黒髪の美女。
あまりにも浮世離れした二人の登場に、広場は静まり返った。
「……行きましょうか、奥様」
アルフォンスは恭しく腕を差し出した。
私はその腕に手を添え、少し緊張しながらも、
誇らしげに顔を上げた。
「ええ。連れて行って、あなた」
私たちは歩き出した。
注がれる視線は多いけれど、怖くはない。
だって、私の隣には、世界最強で、世界一重い、
私の夫がいるのだから。
読んでくださってありがとうございます。
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