第90話「聖域の門、あるいは「夫婦」の約束」
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ナラ・エンの奥深く、霧の森に聳え立つ白亜の双塔。
私たちの愛の巣が完成した翌朝。
目覚めると、私は天蓋付きのキングサイズベッドの中に埋もれていた。
「……んぅ」
窓から差し込む朝日は、レースのカーテン越しに柔らかく拡散され、部屋全体を真珠色に染め上げている。空気は適温。湿度も完璧。
枕の高さもシーツの肌触りも、全てが私を「二度寝」へと誘うように計算され尽くしている。
(……動きたくない)
私は布団の中で丸まった。
このまま一生、ここで微睡んでいたい。
そう思った瞬間、寝室の扉が音もなく開いた。
「おはようございます、私の愛しい奥様」
アルフォンスが入ってきた。
いつもの燕尾服姿だが、その手には銀のトレイではなく、一輪の白い花――この森に自生する『霧百合』が握られていた。
「……おはよう、あなた」
私が布団から顔を出すと、彼は嬉しそうに目を細め、ベッドサイドに近づいてきた。
「『あなた』……。何度聞いても素晴らしい響きです。その言葉だけで、私はあと百年は貴女に仕えることができます」
彼は花瓶に霧百合を生けながら、さらりと重いことを言った。
そして、私の頬に朝の口づけを落とす。
「今日は記念すべき新生活の第一日目です。……朝食の前に、少しお話をしましょうか」
彼はベッドの縁に腰掛けた。
その表情は、いつもの完璧な執事の仮面ではなく、どこか穏やかで、思慮深い「夫」の顔をしていた。
「お話?」
「ええ。この塔の運用ルールについてです」
アルフォンスは私の手を取り、指輪の嵌った薬指を親指で優しく撫でた。
「この塔は、貴女を守るための絶対的な要塞です。結界は最強、設備は最高。……貴女が望むなら、一歩も外に出ることなく、一生をこの中で過ごすことも可能です」
それは、かつての私が夢見ていた「理想の引きこもり生活」そのものだ。
ゴミ屋敷で腐っていた頃とは違う。
清潔で、快適で、愛する人に世話を焼かれる、
極上の軟禁生活。
「……それも、悪くないかもね」
私が冗談めかして言うと、アルフォンスは苦笑した。
「ええ。私としても、貴女を誰の目にも触れさせず、私だけのコレクションとして飾り続けたい欲望はあります。……ですが」
彼は真剣な眼差しで私を見つめた。
「それでは、貴女の世界が狭まってしまう。私は貴女を『管理』したいのであって、『飼育』したいわけではありません」
彼は立ち上がり、窓のカーテンを開け放った。
眼下に広がる霧の森。
その向こうには、ナラ・エンの古都の街並みが微かに見える。
「見てください、エルカ。世界はあんなにも広い。美しいもの、美味しいもの、面白いことが溢れています」
「……うん」
「貴女には、それらを知る権利がある。そして私には、貴女に世界を見せる義務がある」
彼は私の前に跪き、改めて手を取った。
「ですから、提案があります。……この塔の扉には、特殊な鍵をかけました」
「特殊な鍵?」
「はい。昨日設定した『夫婦の魔力認証』に加え、もう一つの条件を追加しました」
彼は指を鳴らした。空中にホログラムのような魔術式が浮かび上がる。
「『外出への意志』です。……貴女が心から『外に出たい』と思った時だけ、扉は開きます。逆に、貴女が恐怖や不安を感じている時は、どんなに私が開けようとしても、扉は絶対に開きません」
「……それって」
「つまり、貴女が主導権を握るということです。私が無理やり貴女を連れ出すことも、逆に私が貴女を閉じ込めることもできない。貴女自身の意志で、世界と関わるかどうかを決めてください」
アルフォンスの言葉に、私は息を呑んだ。
彼は潔癖症で、独占欲の塊のような男だ。
私を誰にも見せたくない、汚したくないと思っているはずなのに。
それでも、私の「自由意志」を尊重しようとしてくれている。
「……あんた、変わったわね」
「貴女のおかげです。……貴女が私を『道具』ではなく『パートナー』として選んでくれたから……私も貴女を『所有物』としてではなく、『伴侶』として愛したいと思うようになりました」
彼の瞳が、朝日に照らされてキラキラと輝いている。その瞳に映っているのは、ボサボサ頭の、パジャマ姿の私だけ。
「わかったわ。約束する」
私は彼の手を握り返した。
「私はここが好きよ。あんたに管理されるのも、甘やかされるのも大好き。……でも、たまには外の空気も吸ってあげる」
「ふふっ。上から目線ですね。それでこそ私の妻だ」
「その代わり!外に出る時は、絶対に手を離さないでよ?私、一人じゃ何もできないんだから」
「愚問です。……手など離しません。影のように張り付き、空気のように包み込み、貴女の靴底が地面に触れることすら許しませんよ」
彼は私の手を引き寄せ、甲に口づけをした。
「……では、契約成立ですね」
契約という名の「夫婦の約束」を交わした後、
私たちは塔のテラスで遅めの朝食をとった。
メニューは、ナラ・エンの市場で仕入れたという新鮮な野菜と、厚切りのベーコン、そしてふわふわのパンケーキ。
「あーん」
「……んぐ」
当然のように、アルフォンスが私の口に運んでくる。
外に出る自由は得たけれど、塔の中での生活能力は相変わらずゼロのままだ。
むしろ、彼が張り切って世話を焼くので、マイナスになっているかもしれない。
「おいしい?」
「うん。あんたの料理は、世界一よ」
「ありがとうございます。……貴女のその笑顔が見られるなら、私は早起きして市場へ走った甲斐があります」
彼は満足げに自分のコーヒーを啜った。
「そういえば、市場で面白い噂を聞きましたよ」
「噂?」
「ええ。最近、この霧の森に『美しき魔女と銀髪の鬼が住み着いた』という噂が流れているそうです」
「……鬼って、あんたのこと?」
「失礼な。……まあ、あながち間違いではありませんが」
彼は苦笑いしながら、ナプキンで私の口元を拭った。
「街の人々は、私たちのことを恐れつつも、どこか神秘的な存在として歓迎しているようです。……中には、森の入口にお供え物を置いていく者もいるとか」
「へぇ……。神様扱い?」
「あるいは、祟り神か。……どちらにせよ、不用意に近づいてくる者がいないのは好都合です」
アルフォンスは食器を片付けながら、何気ない調子で言った。
「明日は、街へ降りてみませんか? ……必要な生活用品も買いたいですし、何より、貴女にこの国の美しい着物を着せてみたいのです」
「着物……?」
「はい。ナラ・エンの伝統的な衣装です。……貴女の黒髪と白い肌に、きっと映えるはずです」
彼の目が、怪しく光った。
これは「着せ替え人形」にしたいという欲求が漏れ出ている目だ。
でも、私も少し興味があった。
異国の服。新しい自分。
そして、それを着た私を見て、彼がどんな顔をするのか。
「いいわよ。行ってあげる」
私が答えると、アルフォンスはパッと顔を輝かせた。
「ありがとうございます!では、明日に備えて、今夜は入念な『磨き上げ』が必要ですね」
「え、また?」
「当然です。……街へ出るということは、不特定多数の視線に晒されるということ。私の妻として、一分の隙もない完璧な美しさに仕上げなければなりません」
彼は私の手を取り、強引に浴室の方へと引いていった。
「まずは全身の角質ケア、次にオイルマッサージ、そして髪のトリートメント……。フルコースで参ります」
「ちょ、ちょっと!まだお昼よ!?」
「時間はいくらあっても足りません。さあ、覚悟してください、私の愛しいお姫様」
その日の午後はずっと、私は浴室と寝室を行き来しながら、アルフォンスの手によって徹底的に磨き上げられた。 指の先から髪の一本一本まで。
彼の執念とも言えるケアを受けながら、私はぼんやりと考えていた。
自由意志で外に出るとは言ったけれど。
結局のところ、私はこの男の手のひらから一歩も出ていないのではないか、と。
「……肌艶よし。髪の潤いよし。……完璧です」
夕暮れ時。鏡の前に立たされた私は、自分でも驚くほど艶やかに輝いていた。
湯上がりで紅潮した肌。濡れたような黒髪。
そして、アメジスト色の瞳は、満たされた幸福感で潤んでいる。
「……綺麗ですよ、エルカ」
アルフォンスが背後から私を抱きしめ、鏡越しに視線を合わせた。
彼自身の顔も、満足感で蕩けている。
「貴女は世界で一番美しい。……明日、街の連中に見せびらかすのが楽しみでなりません」
「……性格悪いわね」
「夫の特権です」
彼は私の首筋にキスをした。
「ですが、見せるだけですよ? ……触れられるのは、私だけです」
その言葉には、冷たい独占欲と、熱い情愛が混ざり合っていた。
私は彼の手を握り返し、鏡の中の「私たち」に微笑みかけた。
聖域の門は開かれた。
明日は、夫婦として初めての街歩き。
過保護すぎる夫と、世間知らずの妻の、波乱含みのデートが始まる。
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