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第90話「聖域の門、あるいは「夫婦」の約束」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの奥深く、霧の森に聳え立つ白亜の双塔。  

私たちの愛のマイホームが完成した翌朝。  

目覚めると、私は天蓋付きのキングサイズベッドの中に埋もれていた。


「……んぅ」


窓から差し込む朝日は、レースのカーテン越しに柔らかく拡散され、部屋全体を真珠色に染め上げている。空気は適温。湿度も完璧。  

枕の高さもシーツの肌触りも、全てが私を「二度寝」へと誘うように計算され尽くしている。


(……動きたくない)


私は布団の中で丸まった。

このまま一生、ここで微睡んでいたい。  

そう思った瞬間、寝室の扉が音もなく開いた。


「おはようございます、私の愛しい奥様」


アルフォンスが入ってきた。  

いつもの燕尾服姿だが、その手には銀のトレイではなく、一輪の白い花――この森に自生する『霧百合』が握られていた。


「……おはよう、あなた」


私が布団から顔を出すと、彼は嬉しそうに目を細め、ベッドサイドに近づいてきた。


「『あなた』……。何度聞いても素晴らしい響きです。その言葉だけで、私はあと百年は貴女に仕えることができます」


彼は花瓶に霧百合を生けながら、さらりと重いことを言った。  

そして、私の頬に朝の口づけを落とす。


「今日は記念すべき新生活の第一日目です。……朝食の前に、少しお話をしましょうか」


彼はベッドの縁に腰掛けた。

その表情は、いつもの完璧な執事の仮面ではなく、どこか穏やかで、思慮深い「夫」の顔をしていた。


「お話?」


「ええ。この塔の運用ルールについてです」


アルフォンスは私の手を取り、指輪の嵌った薬指を親指で優しく撫でた。


「この塔は、貴女を守るための絶対的な要塞です。結界は最強、設備は最高。……貴女が望むなら、一歩も外に出ることなく、一生をこの中で過ごすことも可能です」


それは、かつての私が夢見ていた「理想の引きこもり生活」そのものだ。  

ゴミ屋敷で腐っていた頃とは違う。  

清潔で、快適で、愛する人に世話を焼かれる、

極上の軟禁生活。


「……それも、悪くないかもね」


私が冗談めかして言うと、アルフォンスは苦笑した。


「ええ。私としても、貴女を誰の目にも触れさせず、私だけのコレクションとして飾り続けたい欲望はあります。……ですが」


彼は真剣な眼差しで私を見つめた。


「それでは、貴女の世界が狭まってしまう。私は貴女を『管理』したいのであって、『飼育』したいわけではありません」


彼は立ち上がり、窓のカーテンを開け放った。  

眼下に広がる霧の森。

その向こうには、ナラ・エンの古都の街並みが微かに見える。


「見てください、エルカ。世界はあんなにも広い。美しいもの、美味しいもの、面白いことが溢れています」


「……うん」


「貴女には、それらを知る権利がある。そして私には、貴女に世界を見せる義務がある」


彼は私の前に跪き、改めて手を取った。


「ですから、提案があります。……この塔の扉には、特殊な鍵をかけました」


「特殊な鍵?」


「はい。昨日設定した『夫婦の魔力認証』に加え、もう一つの条件を追加しました」


彼は指を鳴らした。空中にホログラムのような魔術式が浮かび上がる。


「『外出への意志』です。……貴女が心から『外に出たい』と思った時だけ、扉は開きます。逆に、貴女が恐怖や不安を感じている時は、どんなに私が開けようとしても、扉は絶対に開きません」


「……それって」


「つまり、貴女が主導権を握るということです。私が無理やり貴女を連れ出すことも、逆に私が貴女を閉じ込めることもできない。貴女自身の意志で、世界と関わるかどうかを決めてください」


アルフォンスの言葉に、私は息を呑んだ。  

彼は潔癖症で、独占欲の塊のような男だ。  

私を誰にも見せたくない、汚したくないと思っているはずなのに。  

それでも、私の「自由意志」を尊重しようとしてくれている。


「……あんた、変わったわね」


「貴女のおかげです。……貴女が私を『道具』ではなく『パートナー』として選んでくれたから……私も貴女を『所有物』としてではなく、『伴侶』として愛したいと思うようになりました」


彼の瞳が、朝日に照らされてキラキラと輝いている。その瞳に映っているのは、ボサボサ頭の、パジャマ姿の私だけ。


「わかったわ。約束する」


私は彼の手を握り返した。


「私はここが好きよ。あんたに管理されるのも、甘やかされるのも大好き。……でも、たまには外の空気も吸ってあげる」


「ふふっ。上から目線ですね。それでこそ私の妻だ」


「その代わり!外に出る時は、絶対に手を離さないでよ?私、一人じゃ何もできないんだから」


「愚問です。……手など離しません。影のように張り付き、空気のように包み込み、貴女の靴底が地面に触れることすら許しませんよ」


彼は私の手を引き寄せ、甲に口づけをした。


「……では、契約成立ですね」


契約という名の「夫婦の約束」を交わした後、

私たちは塔のテラスで遅めの朝食をとった。

メニューは、ナラ・エンの市場で仕入れたという新鮮な野菜と、厚切りのベーコン、そしてふわふわのパンケーキ。


「あーん」


「……んぐ」


当然のように、アルフォンスが私の口に運んでくる。  

外に出る自由は得たけれど、塔の中での生活能力は相変わらずゼロのままだ。  

むしろ、彼が張り切って世話を焼くので、マイナスになっているかもしれない。


「おいしい?」


「うん。あんたの料理は、世界一よ」


「ありがとうございます。……貴女のその笑顔が見られるなら、私は早起きして市場へ走った甲斐があります」


彼は満足げに自分のコーヒーを啜った。


「そういえば、市場で面白い噂を聞きましたよ」


「噂?」


「ええ。最近、この霧の森に『美しき魔女と銀髪の鬼が住み着いた』という噂が流れているそうです」


「……鬼って、あんたのこと?」


「失礼な。……まあ、あながち間違いではありませんが」


彼は苦笑いしながら、ナプキンで私の口元を拭った。


「街の人々は、私たちのことを恐れつつも、どこか神秘的な存在として歓迎しているようです。……中には、森の入口にお供え物を置いていく者もいるとか」


「へぇ……。神様扱い?」


「あるいは、祟り神か。……どちらにせよ、不用意に近づいてくる者がいないのは好都合です」


アルフォンスは食器を片付けながら、何気ない調子で言った。


「明日は、街へ降りてみませんか? ……必要な生活用品も買いたいですし、何より、貴女にこの国の美しい着物を着せてみたいのです」


「着物……?」


「はい。ナラ・エンの伝統的な衣装です。……貴女の黒髪と白い肌に、きっと映えるはずです」


彼の目が、怪しく光った。  

これは「着せ替え人形」にしたいという欲求が漏れ出ている目だ。  

でも、私も少し興味があった。

異国の服。新しい自分。  

そして、それを着た私を見て、彼がどんな顔をするのか。


「いいわよ。行ってあげる」


私が答えると、アルフォンスはパッと顔を輝かせた。


「ありがとうございます!では、明日に備えて、今夜は入念な『磨き上げ』が必要ですね」


「え、また?」


「当然です。……街へ出るということは、不特定多数の視線に晒されるということ。私の妻として、一分の隙もない完璧な美しさに仕上げなければなりません」


彼は私の手を取り、強引に浴室の方へと引いていった。


「まずは全身の角質ケア、次にオイルマッサージ、そして髪のトリートメント……。フルコースで参ります」


「ちょ、ちょっと!まだお昼よ!?」


「時間はいくらあっても足りません。さあ、覚悟してください、私の愛しいお姫様」


その日の午後はずっと、私は浴室と寝室を行き来しながら、アルフォンスの手によって徹底的に磨き上げられた。 指の先から髪の一本一本まで。  

彼の執念とも言えるケアを受けながら、私はぼんやりと考えていた。


自由意志で外に出るとは言ったけれど。  

結局のところ、私はこの男の手のひらから一歩も出ていないのではないか、と。


「……肌艶よし。髪の潤いよし。……完璧です」


夕暮れ時。鏡の前に立たされた私は、自分でも驚くほど艶やかに輝いていた。  

湯上がりで紅潮した肌。濡れたような黒髪。  

そして、アメジスト色の瞳は、満たされた幸福感で潤んでいる。


「……綺麗ですよ、エルカ」


アルフォンスが背後から私を抱きしめ、鏡越しに視線を合わせた。  

彼自身の顔も、満足感で蕩けている。


「貴女は世界で一番美しい。……明日、街の連中に見せびらかすのが楽しみでなりません」


「……性格悪いわね」


「夫の特権です」


彼は私の首筋にキスをした。


「ですが、見せるだけですよ? ……触れられるのは、私だけです」


その言葉には、冷たい独占欲と、熱い情愛が混ざり合っていた。  

私は彼の手を握り返し、鏡の中の「私たち」に微笑みかけた。


聖域の門は開かれた。

明日は、夫婦として初めての街歩き。  

過保護すぎる夫と、世間知らずの妻の、波乱含みのデートが始まる。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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