第9話「ささやかな反逆と、笑顔のお仕置き」
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目覚めは、これ以上ないほど快適だった。
ふかふかの枕。適度な弾力のあるマットレス。
そして何より、鼻腔をくすぐる濃厚な蜜蝋と石鹸の香り。
「……んぅ……」
私は幸福感に包まれて寝返りを打った。
頬に触れるシーツの冷たさが心地いい。
まるで、誰かの大きく頼りがいのある腕の中にいるような……。
(……腕?)
カチリ。 脳の奥でスイッチが入った。
私はバッと目を開けた。 視界に飛び込んできたのは、見慣れた真っ白な無菌室の天井ではない。
重厚な木の本棚と、壁一面に貼られた怪しげなメモ――『管理日誌』だ。
「ッ!?」
記憶が濁流のように押し寄せてきた。 昨日の夜。寂しさに耐えかねて、裸足でここに来たこと。
そして、あろうことか彼の膝の上で、子供みたいに泣きついて眠ってしまったこと。
「……嘘でしょ。私、本当にあいつの部屋で……」
顔から火が出そうだった。 一生の不覚。
魔女の威厳、ここに極まれり。
私は慌てて飛び起きようとした。
「おはようございます、エルカ様」
すぐ側から、涼やかな声が降ってきた。
ギギギ、と油の切れたブリキ人形のような動きで首を回す。 そこには、すでに完璧な執事服に身を包み、銀縁眼鏡を光らせたアルフォンスが立っていた。 手には湯気の立つティーカップを持っている。
「お目覚めはいかがですか? 昨晩は、私の胸元に涎を垂らして熟睡されていましたが」
「よ、よだれぇッ!?」
「ええ。おかげで私のシャツはクリーニング行きです。……まあ、貴女の体液なら、私にとっては勲章のようなものですが」
彼はサラリと変態的な発言を混ぜ込みながら、
優雅に紅茶を差し出した。
「モーニングティーです。目を覚ましてください。……今日は、朝食前に少し『運動』をしていただきましょうか」
「う、運動?」
「ええ。昨夜の貴女の甘えっぷりは可愛らしかったですが、少々依存度が進行しすぎています。自立心を養うためにも、今日は少し突き放しますよ」
彼はニッコリと笑った。
その笑顔の裏に、「まあ、どうせ私なしでは何もできないでしょうけどね」という絶対的な優越感が見え隠れしている。
カチン。 私の頭の中で、何かがキレた音がした。
(……バカにしないでよ!)
確かに昨日は弱っていた。
環境の変化と、お風呂攻めで疲弊していただけだ。
私は本来、一人で生きてきた孤高の魔女なのだ。あんな過保護な世話なんて、なくても平気なはずだ!
「……いらないわよ、紅茶なんて!」
私は彼の手を払い除け、ベッドから降りた。
「今日は自分でやるわ! 着替えも、掃除も、全部! あんたの助けなんて借りないんだから!」
「ほう?」
アルフォンスは眉を上げた。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、面白がるように細められる。
「それは頼もしい。……では、お手並み拝見といきましょうか。私はここで、貴女の『自立』とやらを高みの見物とさせていただきます」
「見てなさいよ! 吠え面かかせてやるわ!」
私は捨て台詞を吐いて、彼の部屋を飛び出した。 廊下を走る足音が、ペタペタと虚しく響く。
背後で、彼がクツクツと喉を鳴らして笑っている気配がした。
一時間後。
私は塔の研究室兼リビングで、腕組みをして仁王立ちしていた。
「見てろ、アルフォンス……!」
悔しさが原動力となり、私の脳細胞はかつてない速度で回転していた。
掃除? 洗濯? そんなもの、魔法を使えば一発だ。 今まで私がズボラだったのは、
やる気がなかったからで、能力がなかったわけじゃない。 本気を出せば、あんな執事の一人や二人、魔法科学の力で凌駕してやる。
「出てこい、私の最高傑作!」
私は部屋の隅に積み上げられていたガラクタ――アルフォンスが「資源ゴミ」に分類した魔法金属のパーツを寄せ集め、床に魔方陣を描いた。
Golem Core = ∫₀^∞ (Mana × Cleanliness) dt
複雑な術式をチョークで書き込み、魔力を流し込む。
カッ! と部屋が光に包まれた。
「起動せよ! 全自動・超高性能・お掃除ゴーレム『ピカピカ君1号』!」
光が収まると、そこには歪な形をした金属の塊が鎮座していた。 古びた鍋を頭部に、壊れた箒を腕に、そして足元にはタワシを装着した、自律型魔法生物。
見た目は悪いが、中には私の魔力がたっぷりと充填されている。
「ピカ……ピカ……」
ゴーレムが起動音を上げ、目が赤く光った。
「よし! 行けピカピカ君! この部屋の埃という埃を駆逐し、あの眼鏡執事の鼻を明かしてやるのよ!」
私は高らかに命令を下した。
ピカピカ君は「ラジャー」と言うかのように片手を上げ、猛然とダッシュした。 キュインンンン! 高速回転するタワシの足が、床を擦る。
「おおっ、速い! すごい!」
ピカピカ君は目にも留まらぬ速さで部屋中を駆け巡った。
……駆け巡った、のだが。
「……あれ?」
何かがおかしい。
ピカピカ君が通った後が、綺麗になるどころか、黒い筋がついている。 よく見ると、足のタワシに以前実験で失敗した「粘着性のスライム」が付着しており、それを部屋中に塗り広げているではないか。
「ちょ、ちょっと待って! ストップ!」
私は慌てて叫んだ。
だが、ピカピカ君は止まらない。
むしろ、私の声を「もっとやれ」と解釈したのか、回転数をさらに上げた。
ガシャーン!!
「ああっ! 花瓶が!」
ピカピカ君の箒アームが旋回し、サイドテーブルの花瓶を粉砕した。
水がこぼれ、床に広がったスライムと混ざり合い、ドロドロの惨状を作り出す。
「ピカァァァ!」
暴走したゴーレムは止まらない。
本棚に突っ込み、綺麗に整列されていた本を雪崩のように撒き散らす。 さらに、アルフォンスが磨き上げた窓ガラスに向かって、スライム付きのタワシを擦り付け始めた。 キュキュキュキュ……という不快な音が響き、透明だったガラスが瞬く間に曇っていく。
「やめてぇぇぇ! それはアルフォンスが三時間かけて磨いたのよぉぉ!」
私は杖を構えた。
魔法で強制停止させるしかない。
「『風よ、彼を縛れ『エア・バインド』!」
風の鎖がピカピカ君に巻き付く。
だが、ピカピカ君は私の魔力で動いているため、私の魔法に対して耐性を持っていた。
鎖を引きちぎり、今度は私の元へ突進してくる。
「嘘でしょ!?」
「ピカァァァ(お掃除シマス)!」
「私はゴミじゃないーッ!」
私は悲鳴を上げて逃げ回った。
ピカピカ君が追いかけてくる。
花瓶の破片を踏み、スライムで滑り、私は盛大に転倒した。
ドサッ!
「いったぁ……」
顔を上げると、目の前に回転するタワシが迫っていた。 終わった。 私の反逆は、自作の掃除ロボットに顔面を研磨されて終わるのだ。
私はギュッと目を閉じた。
その時だった。
「――何をしているのですか、エルカ様」
氷点下の声が響いた。
ザシュッ!!
鋭い風切り音と共に、目の前の気配が消えた。
恐る恐る目を開けると、そこには真っ二つに両断されたピカピカ君の残骸と――手に銀のトレイを持ったまま仁王立ちする、アルフォンスの姿があった。
「あ……アル、フォンス……」
彼はトレイの縁についた機械油をハンカチで拭いながら、ゆっくりと部屋を見渡した。
スライムまみれの床。 割れた花瓶。 散乱した本。 そして、泥とスライムで顔を汚してへたり込む、私。
数秒の沈黙。
塔の空気が凍りついたようだった。
彼の背後から、目に見えるほどのどす黒いオーラが立ち昇っている。 でも、彼の顔は笑っていた。 目が笑っていない、完璧な営業スマイルで。
「……素晴らしいですね」
アルフォンスが、コツ、コツ、と革靴の音を響かせて近づいてくる。
「私が丹精込めて磨き上げたリビングを、たった一時間でここまで『独創的』にアレンジするとは。……貴女の汚す才能には、感服いたしました」
「ち、違うの! 掃除しようと思って……」
「掃除? これがですか?」
彼は切断されたピカピカ君の頭部を爪先で転がした。
「ゴミを増やし、床を汚染し、騒音を撒き散らす。……これを掃除と呼ぶのは、世界広しといえど貴女だけでしょう」
彼は私の目の前でしゃがみ込んだ。
アイスブルーの瞳が、至近距離で私を射抜く。
怒っている。絶対に怒っている。
でも、その瞳の奥には、怒りとは違う、もっと粘着質な光が揺らめいていた。
(……可愛い)
え? 今、心の声が聞こえたような。
(泥だらけになって、半泣きで私を見上げる顔。……ああ、汚れている。汚い。けれど、どうしてこんなに唆るのか)
アルフォンスは、汚れた私の頬に、白い手袋をした指を這わせた。
「……汚らわしい」
口から出たのは罵倒だった。
でも、その指先は優しく、私の頬についたスライムを拭い取った。
「自分で掃除をすると言いましたね? その結果がこれですか?」
「う……ごめんなさい……」
「謝罪は不要です。……責任を取っていただくだけですから」
「せ、責任?」
アルフォンスは立ち上がると、懐から一枚の雑巾を取り出した。真っ白で、彼の紋章が入った特製の雑巾だ。
「お仕置きの時間です、エルカ様」
彼はニッコリと微笑んだ。
「この部屋の汚れ、貴女の手で拭き取っていただきます。……もちろん、私の『指導』付きでね」
「腰が高いですよ。もっと重心を落として」
「ひっ、ぅ……!」
地獄の時間が始まった。
私は四つん這いになり、床のスライムを拭き取らされていた。 ただの雑巾掛けなら、まだいい。
問題は、私の背後にアルフォンスが密着していることだ。
「ほら、手が止まっています。右、左、右……リズムよく」
彼は私の背中に覆いかぶさるようにして、私の両手を上から掴んでいる。
「二人羽織」の状態だ。 彼の手の大きさと力が、私の小さな手を完全に支配している。
「あ、アルフォンス……近い……!」
「近くありません。指導するには最適な距離です」
彼の胸板が、私の背中に押し付けられる。
薄い部屋着越しに伝わる、彼の体温と筋肉の硬さ。 耳元にかかる吐息。 蜜蝋と石鹸の香りが、
スライムの臭いをかき消すように私を包み込む。
「貴女は力の入れ方がなっていない。こうやって、体重を乗せるのです」
グッ。 彼が私の手に力を込める。
同時に、彼の身体が私に押し付けられる。
重い。熱い。 まるで抱かれているような錯覚に、顔から火が出そうになる。
「んっ……あ、そんなに押したら……」
「甘えないでください。自分で汚したのですから、自分で綺麗にする。当然の報いです」
彼は冷徹な口調で言いながら、その手つきはいやらしいほど丁寧だった。 指を絡ませ、私の手を弄ぶように動かす。 時折、わざと私の耳に唇が触れるような距離で囁く。
「……見てください。貴女が汚した床が、私の手添えで綺麗になっていく」
「っ……」
「貴女一人では、汚れを広げることしかできない。……ですが、私が管理すれば、貴女は『掃除』ができる」
洗脳だ。 これは、掃除という名目の洗脳だ。
彼の言葉が、身体の接触を通じて脳に染み込んでいく。
『私がいなければ、貴女は何もできない』
『私がいれば、貴女は完璧になれる』
その事実は、悔しいけれど心地よかった。
彼の腕の中にいれば、私は何も考えなくていい。 ただ、彼の動きに合わせて身体を揺らしていれば、世界は勝手に綺麗になっていく。
「……んぅ……アルフォンス……」
「なんですか」
「……手が、疲れた……」
「まだ三分の一も終わっていませんよ。ですが」
彼はふと手を止めた。
そして、私の汗ばんだ首筋に、冷たい鼻先を押し当てた。
「……ひゃっ!」
「……いい匂いだ」
「え?」
「スライムと埃の臭いの中に……昨日私が塗り込んだ、蜜蝋の香りが残っている」
彼はクン、と鼻を鳴らした。
背後で、彼の気配が変わったのが分かった。
指導者の顔から、捕食者の顔へ。
「一生懸命動いて、汗をかいて、汚れて。今の貴女は、最高に汚らしくて、可愛いですよ」
ゾクリ。 背筋に電流が走った。
彼の言う「可愛い」は、普通の意味じゃない。
「壊したい」「汚したい」「閉じ込めたい」と同義語だ。
「……もう、掃除は十分でしょう」
アルフォンスは突然、私を抱き上げた。
雑巾が床に落ちる。
「え、でもまだ……」
「残りは魔法で片付けます。……それよりも、もっと優先すべき掃除場所ができました」
「……どこ?」
彼は眼鏡をクイッと上げ、私の目を覗き込んだ。
そのアイスブルーの瞳は、暗く濁り、熱い光を宿していた。
「貴女自身です。……こんなに汗とスライムにまみれて。今すぐ洗浄が必要です」
「また、お風呂……?」
「ええ。昨日は優しくしましたが……今日は『お仕置き』ですからね」
彼は意地悪く微笑んだ。
「泣いても止めませんよ? 貴女の身体の隅々まで、私の匂いで上書きし直して差し上げます」
私は彼の腕の中で、小さく身震いした。 怖い。
でも、それ以上に、期待してしまっている自分がいる。 彼の手で洗われ、彼の手で拭われ、彼の香りに包まれる。 その甘美な時間に、心が震えた。
「……お手柔らかに、お願いします」
私が蚊の鳴くような声で言うと、アルフォンスは満足げに頷いた。
「いいえ。……たっぷりと、厳しく愛でて差し上げます」
バスルームへの扉が開く。
私のささやかな反逆は、結局のところ、彼の支配をより強固なものにするだけの結果に終わったのだった。
読んでくださってありがとうございます。
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