第8話「無菌室の孤独」
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「――では、おやすみなさいませ、エルカ様」
パチン。
指を鳴らす音と共に、寝室の魔法灯が消えた。
同時に、重厚な扉が音もなく閉ざされる。
カチャリ。 鍵が掛かった音ではない。
けれど、その微かな金属音は、私と世界とを隔絶する結界の音のように響いた。
「……行っちゃった」
広い寝室に、私一人が取り残された。
月明かりだけが、高い窓から差し込んでいる。
私は、天蓋付きの巨大なベッドの中央で、シルクの布団を引き寄せた。
「……何よ、これ」
布団が、軽すぎる。
まるで雲を被っているようだ。
枕は吸い込まれるように柔らかく、シーツは氷のように滑らかで、肌に一切の抵抗を感じさせない。 最高級品だということは、貧乏性な私でも分かる。 アルフォンスが「貴女の睡眠の質を管理するのも私の務めです」と言って、夕食の間に搬入した寝具一式だ。
けれど。
「……落ち着かない」
私は寝返りを打った。
ガサリ、という音がしない。
以前なら、寝返りを打つたびに読みかけの魔導書が崩れたり、食べかけの菓子の袋が音を立てたりしたものだ。
背中に当たる硬い本の角や、足に絡まるローブの感触。 それら「生活のノイズ」が、私にとっては子守唄代わりだった。
なのに、今はどうだ。
「……静かすぎる」
耳が痛くなるほどの静寂。
聞こえるのは、自分の呼吸音と、シーツが衣擦れを起こす微かな音だけ。
部屋の空気は、精密機械の工場のよう澄み渡っている。 埃っぽさも、カビ臭さもない。
適温に保たれた室温は、暑くもなく寒くもなく、私の体温を完璧に保存している。
「無菌室……みたい」
ぽつりと呟いた自分の声が、家具のない広い空間に吸い込まれて消えた。
ここは私の部屋だ。 私の塔だ。
なのに、まるで知らない他人の家に泊まっているような、あるいは綺麗すぎる病院の個室に隔離されたような、居心地の悪さ。
「……あいつのせいよ」
アルフォンス・クライン。
あの銀髪の潔癖執事が、私の「聖域」を破壊し、この「楽園という名の檻」を作り上げたのだ。
『貴女はゴミの中で腐っていくべきではない』
『私が磨き上げるのです』
彼の言葉が、脳内でリフレインする。
夕食の時の、あの熱っぽい視線。
お風呂での、執拗なまでの指先の感触。
着替えの時の、首筋に塗られたクリームの冷たさ。
「……っ」
思い出しただけで、肌が粟立つ。
悔しいけれど、あの時間は……満たされていた。
彼が近くにいて、私に触れ、私を見て、私を管理していた時間は、こんな「空虚な孤独」を感じる暇なんてなかった。
「……寝よ。寝れば朝になるわ」
私はギュッと目を閉じた。
明日の朝になれば、また彼がやってくる。
『起きてください、不潔な寝坊助さん』とか憎まれ口を叩きながら、温かいオムレツを口に運んでくれるはずだ。
羊が一匹。羊が二匹。
アルフォンスが一匹、アルフォンスが二匹……。
「……寝れないッ!!」
三十分後。
私はバッと布団を跳ね除けて起き上がった。
目が冴えてしまって、どうしようもない。
身体は疲れているはずなのに、脳が興奮している。 胃袋は満たされているのに、何かが足りない。
飢餓感にも似た焦燥感が、胸の奥で渦巻いている。
「……本。本を読めば眠くなるはず」
私はベッドから降りた。
足裏に触れる床は、ワックスで磨き上げられてツルツルだ。 月明かりを頼りに、壁際の本棚へと向かう。 以前は床に山積みになっていた本たちが、今は背表紙の色順に整列して鎮座している。
「えっと……『古代ルーン文字の変遷』は……」
指で背表紙をなぞる。
埃ひとつない。指先が黒くならない。
それが、どうしようもなく寂しかった。
一冊の本を抜き出し、パラパラとめくる。
いつもなら、この難解な数式を見ているだけで落ち着くのに、今は文字が頭に入ってこない。
インクの匂いが薄いのだ。 この部屋に充満する、別の匂いにかき消されてしまっている。
「……匂い」
私は鼻をひくつかせた。
レモン。蜜蝋。高級な石鹸。
そして、微かなミントのような清涼感。
アルフォンスが持ち込んだ香りだ。
「……あいつの匂いばっかり」
部屋中が、彼に占領されている。
私がここに住んでいた十数年の歴史なんて、たった一日で塗り替えられてしまった。
悔しい。私のテリトリーだったはずなのに。
私は本を棚に戻し、部屋の中をウロウロと歩き回った。 落ち着かない。
何か、私が私である証拠を探さなきゃ。
ゴミ。そう、ゴミだ。
彼が捨て忘れたゴミが、一つくらい残っているはずだ。
「……ない」
ソファの下を覗き込んでも、埃一つない。
窓のサッシを指でなぞっても、真っ白な手袋をしたかのように綺麗なままだ。
「徹底しすぎでしょ、あの変態……」
私は力なくベッドに戻り、顔から枕にダイブした。 ふわり。
最高級の羽毛枕が、私の顔を優しく受け止める。
「……うぅ」
その瞬間。 強烈な香りが、鼻腔を直撃した。
「……っ、これ」
枕から漂う匂い。 それは、部屋の芳香剤とは少し違う。もっと濃密で、生々しくて、それでいて頭がクラクラするような甘い香り。
「アルフォンスの……匂い?」
彼がシーツを整えた時に残った残り香だろうか。 それとも、この寝具自体に、彼が何かしらの魔法的な「匂い付け」をしたのだろうか。
まるで彼に抱きしめられているかのような錯覚を覚えるほど、その香りは鮮烈だった。
『私が管理します。貴女のすべてを』
耳元で、あのバリトンボイスが聞こえた気がした。
「……やだ」
私は枕を押し退けようとした。
こんな匂いに包まれていたら、彼に支配されていることを認めるみたいで癪だ。 でも。
「……いい匂い」
身体は正直だった。
拒絶しようとする理性とは裏腹に、私は無意識に枕に顔を埋めていた。 深く、深く、息を吸い込む。 肺の中が彼の香りで満たされると、ざわついていた心が不思議と凪いでいく。
安心する。
あんなに冷たくて、口が悪くて、怖い男なのに。 彼の匂いに包まれていると、強力な結界の中にいるような、絶対的な安心感がある。
「……私、どうかしちゃったのかな」
私は枕を抱きしめ、丸まった。
カビの生えたパンよりも、埃まみれの毛布よりも。 今の私には、この清潔で冷たい「執事の匂い」が必要だった。
でも、匂いだけじゃ足りない。
枕は柔らかいけれど、温度がない。
夕食の時、背中越しに感じたあの硬い胸板。
お風呂の中で触れた、あの異常に熱い手のひら。 あれがないと、寒い。
無菌室の空調は完璧なはずなのに、心臓のあたりがスースーと冷える。
「……会いたい、かも」
口に出してしまってから、自分の言葉に驚いて顔を上げた。 会いたい? あの悪魔執事に?
掃除されたくないのに? 管理されたくないのに?
「違う。……文句を言いたいのよ。寝れないじゃないって」
そう、これは苦情だ。
主人の安眠を妨害した執事に対する、正当なクレームだ。私は自分に言い訳をして、ベッドから這い出した。 シルクのネグリジェが、足首にまとわりつく。
ドアノブに手をかける。
ひやりとした金属の感触。
ガチャリ、とドアを開けると、廊下は深夜の闇に沈んでいた。
「……暗い」
以前は廊下にも本が積まれていて、つまずかないように歩くのが冒険みたいで楽しかった。
でも今は、何もない。
ただ真っ直ぐに伸びる、磨き上げられた廊下。
月光が反射して、青白く光る床は、まるで深海の底のようだ。
私は裸足で廊下に出た。
ペタ、ペタ。 自分の足音だけが響く。
「アルフォンス……?」
小さな声で呼んでみる。 返事はない。当然だ。
執事室は塔の下の階にある。
私は手すりに捕まりながら、螺旋階段を降りていった。 一段降りるごとに、闇が濃くなる。 怖い。 お化けが出るから怖いのではない。
この塔に、私しかいないような錯覚に陥るのが怖いのだ。 もし、彼がいなくなっていたら?
「掃除は終わりました」と言って、魔法省に帰ってしまっていたら? 明日起きた時、またあのゴミと埃の生活に戻っていたら?
「……嫌だ」
想像しただけで、吐き気がした。
あんなに好きだったゴミ屋敷が、今は恐ろしくてたまらない。 一度「清潔な快楽」と「管理される安心」を知ってしまった私は、もう元の生活には戻れない身体にされている。
「アルフォンス……ッ」
私は階段を駆け下りた。
転びそうになる足を必死に動かす。
階下の廊下の突き当たり。
かつては物置だった部屋が、彼の居室に改装されているはずだ。
ハァ、ハァ……。
息を切らして、そのドアの前に辿り着く。
何の変哲もない木のドア。
けれど、そこからは明確に「気配」が漏れていた。
「……いる」
ドアの隙間から、微かに光が漏れている。
そして、あの匂い。 蜜蝋と石鹸、そして鋭い魔力の香り。 ここに彼がいる。 その事実だけで、早鐘を打っていた心臓が、スッと落ち着きを取り戻した。
私はドアの前に立ち尽くした。
ノックをしようとして、手が止まる。
(……なんて言うの?)
『寂しくて寝れないから一緒に寝て』?
そんなこと言ったら、一生笑い者にされる。
「やはり貴女は一人では生きられない幼児ですね」と、あの冷たい目で蔑まれる。
(……でも)
戻りたくない。 あの広くて、白くて、何もない「無菌室」のベッドには、一人で戻りたくない。 あそこは綺麗すぎて、私一人の汚れが目立ってしまう。 彼がいないと、私はただの「異物」になってしまう。
私はドアに額を押し付けた。
木の板越しに、中にいる彼の体温を感じ取ろうとするように。
「……アルフォンス……」
蚊の鳴くような声で呟く。 その時だった。
「――そこに、おいでですね?」
ドアの向こうから、冷静沈着な声が響いた。
心臓が口から飛び出るかと思った。
「ひゃっ!?」
「足音のリズム、心拍の乱れ、そして微かなフローラル・ムスクの体臭……。エルカ様ですね」
ガチャリ。 ドアが開いた。
中から漏れ出る光に、私は目を細める。
そこに立っていたのは、完璧に整えられた執事服ではなく、襟元を寛げた白いシャツ姿のアルフォンスだった。
「……っ」
いつもと違う。
銀髪は少し乱れ、眼鏡も外している。
露わになった素顔のアイスブルーの瞳が、
暗がりの中で怪しく光っていた。
手には分厚い書物と、羽ペンを持っている。
「こんな夜更けに、裸足で徘徊とは。……私の管理教育が、まだ行き届いていないようですね」
彼は呆れたように溜息をついたが、その目は笑っていなかった。
獲物を見つけた獣のように、じっと私を見下ろしている。
「な、なによ……文句言いに来たのよ! あんたのせいで寝れないんだから!」
「私のせい?」
アルフォンスは眉を上げた。
そして、私の震える肩と、裸足の爪先を視線でなぞった。
「……ふむ。禁断症状ですか」
「は?」
「急激に環境が浄化されたことで、貴女の精神が『無秩序』を求めてパニックを起こしている。……いわゆる、好転反応の一種です」
彼はドアを大きく開け、私を手招きした。
「入りなさい。廊下は冷えます」
私は吸い込まれるように、彼の部屋へと足を踏み入れた。 そこは――。
「……なに、これ」
彼の部屋は、私の寝室以上に「異質」だった。
壁一面に貼られた、数枚の紙。
そこには、今日の私の行動記録がびっしりと記されていた。
『8:30 起床。寝癖の角度、右に一五度』
『12:00 昼食。ニンジンのグラッセを残そうとする。要指導』
『19:00 入浴。肌の弾力、前回比プラス0・2%』
そして、机の上には大量の魔法写真。
怒っている私、泣いている私、ご飯を食べている私……。 すべて、今日一日で彼が隠し撮りしたものだ。
「あんた……これ……」
「管理日誌です。貴女の成長と変化を記録することは、私の重要な職務ですから」
アルフォンスは悪びれる様子もなく、机の上の写真を愛おしそうに指でなぞった。
「……変態」
「熱心と言ってください」
彼は椅子に座り、自分の膝をポンと叩いた。
「それで? 眠れない悪い子は、どうして欲しいのですか?」
「……別に」
「素直じゃないですね。……私の匂いを探して、ここまで来たのでしょう?」
図星だった。
彼は私の考えていることなんて、お見通しなのだ。
「……寂しかったんでしょう? 綺麗になった部屋で、自分だけが汚れているような気がして」
「う……うるさい……」
「安心なさい。貴女は汚れてなどいません。私が磨いたのですから」
アルフォンスの手が伸び、私の手首を掴んだ。
そのまま強引に引き寄せられ、私は彼の膝の上に座らされた。
「ひゃっ!?」
「ここなら、寂しくないでしょう」
彼の腕が、私の腰に回る。
シャツ越しに伝わる体温。トクトクという心音。
そして、あの濃厚な蜜蝋の香り。
私の寝室の枕なんて比じゃない。
本物の「彼」の匂いが、私を包み込む。
「……あったかい」
「貴女が冷えすぎなのです。手足が氷のようだ」
彼は私の冷たい手を、自分の大きな手で包み込んだ。 熱い。 お風呂の時と同じ、あの溶けるような熱さが、指先から流れ込んでくる。
「……今日はここで眠りなさい。私が一晩中、貴女の体温を調整して差し上げます」
「……いいの?」
「貴女が望むなら。……それに、私も貴女が近くにいないと、管理欲が満たされなくて眠れそうにありませんでしたから」
アルフォンスは私の頭を、自分の胸に押し付けた。 私は彼のシャツをギュッと掴み、目を閉じた。 不思議だ。 あんなに眠れなかったのに、彼の腕の中にいるだけで、急激な睡魔が襲ってくる。
ここは無菌室じゃない。
彼の熱と、執着と、欲望が渦巻く、最も濃厚な場所。でも、今の私にとっては、こここそが世界で一番安全な「巣」だった。
「おやすみ、エルカ様。夢の中でも、私の許可なく汚れないでくださいね」
耳元で囁かれる独占欲に満ちた子守唄を聞きながら、私は深い、深い眠りへと落ちていった。
読んでくださってありがとうございます。
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