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第8話「無菌室の孤独」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

「――では、おやすみなさいませ、エルカ様」


パチン。

指を鳴らす音と共に、寝室の魔法灯が消えた。

同時に、重厚な扉が音もなく閉ざされる。

カチャリ。 鍵が掛かった音ではない。

けれど、その微かな金属音は、私と世界とを隔絶する結界の音のように響いた。


「……行っちゃった」


広い寝室に、私一人が取り残された。

月明かりだけが、高い窓から差し込んでいる。

私は、天蓋付きの巨大なベッドの中央で、シルクの布団を引き寄せた。


「……何よ、これ」


布団が、軽すぎる。

まるで雲を被っているようだ。

枕は吸い込まれるように柔らかく、シーツは氷のように滑らかで、肌に一切の抵抗を感じさせない。 最高級品だということは、貧乏性な私でも分かる。 アルフォンスが「貴女の睡眠の質を管理するのも私の務めです」と言って、夕食の間に搬入した寝具一式だ。


けれど。


「……落ち着かない」


私は寝返りを打った。

ガサリ、という音がしない。

以前なら、寝返りを打つたびに読みかけの魔導書が崩れたり、食べかけの菓子の袋が音を立てたりしたものだ。

背中に当たる硬い本の角や、足に絡まるローブの感触。 それら「生活のノイズ」が、私にとっては子守唄代わりだった。


なのに、今はどうだ。


「……静かすぎる」


耳が痛くなるほどの静寂。

聞こえるのは、自分の呼吸音と、シーツが衣擦れを起こす微かな音だけ。

部屋の空気は、精密機械の工場のよう澄み渡っている。 埃っぽさも、カビ臭さもない。

適温に保たれた室温は、暑くもなく寒くもなく、私の体温を完璧に保存している。


「無菌室……みたい」


ぽつりと呟いた自分の声が、家具のない広い空間に吸い込まれて消えた。

ここは私の部屋だ。 私の塔だ。

なのに、まるで知らない他人の家に泊まっているような、あるいは綺麗すぎる病院の個室に隔離されたような、居心地の悪さ。


「……あいつのせいよ」


アルフォンス・クライン。

あの銀髪の潔癖執事が、私の「聖域」を破壊し、この「楽園という名の檻」を作り上げたのだ。


『貴女はゴミの中で腐っていくべきではない』

『私が磨き上げるのです』


彼の言葉が、脳内でリフレインする。

夕食の時の、あの熱っぽい視線。

お風呂での、執拗なまでの指先の感触。

着替えの時の、首筋に塗られたクリームの冷たさ。


「……っ」


思い出しただけで、肌が粟立つ。

悔しいけれど、あの時間は……満たされていた。

彼が近くにいて、私に触れ、私を見て、私を管理していた時間は、こんな「空虚な孤独」を感じる暇なんてなかった。


「……寝よ。寝れば朝になるわ」


私はギュッと目を閉じた。

明日の朝になれば、また彼がやってくる。

『起きてください、不潔な寝坊助さん』とか憎まれ口を叩きながら、温かいオムレツを口に運んでくれるはずだ。


羊が一匹。羊が二匹。

アルフォンスが一匹、アルフォンスが二匹……。


「……寝れないッ!!」


三十分後。

私はバッと布団を跳ね除けて起き上がった。

目が冴えてしまって、どうしようもない。

身体は疲れているはずなのに、脳が興奮している。 胃袋は満たされているのに、何かが足りない。

飢餓感にも似た焦燥感が、胸の奥で渦巻いている。


「……本。本を読めば眠くなるはず」


私はベッドから降りた。

足裏に触れる床は、ワックスで磨き上げられてツルツルだ。 月明かりを頼りに、壁際の本棚へと向かう。 以前は床に山積みになっていた本たちが、今は背表紙の色順に整列して鎮座している。


「えっと……『古代ルーン文字の変遷』は……」


指で背表紙をなぞる。

埃ひとつない。指先が黒くならない。

それが、どうしようもなく寂しかった。


一冊の本を抜き出し、パラパラとめくる。

いつもなら、この難解な数式を見ているだけで落ち着くのに、今は文字が頭に入ってこない。

インクの匂いが薄いのだ。 この部屋に充満する、別の匂いにかき消されてしまっている。


「……匂い」


私は鼻をひくつかせた。

レモン。蜜蝋。高級な石鹸。

そして、微かなミントのような清涼感。

アルフォンスが持ち込んだ香りだ。


「……あいつの匂いばっかり」


部屋中が、彼に占領されている。

私がここに住んでいた十数年の歴史なんて、たった一日で塗り替えられてしまった。

悔しい。私のテリトリーだったはずなのに。


私は本を棚に戻し、部屋の中をウロウロと歩き回った。 落ち着かない。

何か、私が私である証拠を探さなきゃ。

ゴミ。そう、ゴミだ。

彼が捨て忘れたゴミが、一つくらい残っているはずだ。


「……ない」


ソファの下を覗き込んでも、埃一つない。

窓のサッシを指でなぞっても、真っ白な手袋をしたかのように綺麗なままだ。


「徹底しすぎでしょ、あの変態……」


私は力なくベッドに戻り、顔から枕にダイブした。 ふわり。

最高級の羽毛枕が、私の顔を優しく受け止める。


「……うぅ」


その瞬間。 強烈な香りが、鼻腔を直撃した。


「……っ、これ」


枕から漂う匂い。 それは、部屋の芳香剤とは少し違う。もっと濃密で、生々しくて、それでいて頭がクラクラするような甘い香り。


「アルフォンスの……匂い?」


彼がシーツを整えた時に残った残り香だろうか。 それとも、この寝具自体に、彼が何かしらの魔法的な「匂い付け」をしたのだろうか。

まるで彼に抱きしめられているかのような錯覚を覚えるほど、その香りは鮮烈だった。


『私が管理します。貴女のすべてを』


耳元で、あのバリトンボイスが聞こえた気がした。


「……やだ」


私は枕を押し退けようとした。

こんな匂いに包まれていたら、彼に支配されていることを認めるみたいで癪だ。 でも。


「……いい匂い」


身体は正直だった。

拒絶しようとする理性とは裏腹に、私は無意識に枕に顔を埋めていた。 深く、深く、息を吸い込む。 肺の中が彼の香りで満たされると、ざわついていた心が不思議と凪いでいく。


安心する。

あんなに冷たくて、口が悪くて、怖い男なのに。 彼の匂いに包まれていると、強力な結界の中にいるような、絶対的な安心感がある。


「……私、どうかしちゃったのかな」


私は枕を抱きしめ、丸まった。

カビの生えたパンよりも、埃まみれの毛布よりも。 今の私には、この清潔で冷たい「執事の匂い」が必要だった。


でも、匂いだけじゃ足りない。

枕は柔らかいけれど、温度がない。

夕食の時、背中越しに感じたあの硬い胸板。

お風呂の中で触れた、あの異常に熱い手のひら。 あれがないと、寒い。

無菌室の空調は完璧なはずなのに、心臓のあたりがスースーと冷える。


「……会いたい、かも」


口に出してしまってから、自分の言葉に驚いて顔を上げた。 会いたい? あの悪魔執事に?

掃除されたくないのに? 管理されたくないのに?


「違う。……文句を言いたいのよ。寝れないじゃないって」


そう、これは苦情だ。

主人の安眠を妨害した執事に対する、正当なクレームだ。私は自分に言い訳をして、ベッドから這い出した。 シルクのネグリジェが、足首にまとわりつく。


ドアノブに手をかける。

ひやりとした金属の感触。

ガチャリ、とドアを開けると、廊下は深夜の闇に沈んでいた。


「……暗い」


以前は廊下にも本が積まれていて、つまずかないように歩くのが冒険みたいで楽しかった。

でも今は、何もない。

ただ真っ直ぐに伸びる、磨き上げられた廊下。

月光が反射して、青白く光る床は、まるで深海の底のようだ。


私は裸足で廊下に出た。

ペタ、ペタ。 自分の足音だけが響く。


「アルフォンス……?」


小さな声で呼んでみる。 返事はない。当然だ。

執事室は塔の下の階にある。


私は手すりに捕まりながら、螺旋階段を降りていった。 一段降りるごとに、闇が濃くなる。 怖い。 お化けが出るから怖いのではない。

この塔に、私しかいないような錯覚に陥るのが怖いのだ。 もし、彼がいなくなっていたら?

「掃除は終わりました」と言って、魔法省に帰ってしまっていたら? 明日起きた時、またあのゴミと埃の生活に戻っていたら?


「……嫌だ」


想像しただけで、吐き気がした。

あんなに好きだったゴミ屋敷が、今は恐ろしくてたまらない。 一度「清潔な快楽」と「管理される安心」を知ってしまった私は、もう元の生活には戻れない身体にされている。


「アルフォンス……ッ」


私は階段を駆け下りた。

転びそうになる足を必死に動かす。

階下の廊下の突き当たり。

かつては物置だった部屋が、彼の居室に改装されているはずだ。


ハァ、ハァ……。

息を切らして、そのドアの前に辿り着く。

何の変哲もない木のドア。

けれど、そこからは明確に「気配」が漏れていた。


「……いる」


ドアの隙間から、微かに光が漏れている。

そして、あの匂い。 蜜蝋と石鹸、そして鋭い魔力の香り。 ここに彼がいる。 その事実だけで、早鐘を打っていた心臓が、スッと落ち着きを取り戻した。


私はドアの前に立ち尽くした。

ノックをしようとして、手が止まる。


(……なんて言うの?)


『寂しくて寝れないから一緒に寝て』?

そんなこと言ったら、一生笑い者にされる。

「やはり貴女は一人では生きられない幼児ですね」と、あの冷たい目で蔑まれる。


(……でも)


戻りたくない。 あの広くて、白くて、何もない「無菌室」のベッドには、一人で戻りたくない。 あそこは綺麗すぎて、私一人の汚れが目立ってしまう。 彼がいないと、私はただの「異物」になってしまう。


私はドアに額を押し付けた。

木の板越しに、中にいる彼の体温を感じ取ろうとするように。


「……アルフォンス……」


蚊の鳴くような声で呟く。 その時だった。


「――そこに、おいでですね?」


ドアの向こうから、冷静沈着な声が響いた。

心臓が口から飛び出るかと思った。


「ひゃっ!?」


「足音のリズム、心拍の乱れ、そして微かなフローラル・ムスクの体臭……。エルカ様ですね」


ガチャリ。 ドアが開いた。

中から漏れ出る光に、私は目を細める。

そこに立っていたのは、完璧に整えられた執事服ではなく、襟元を寛げた白いシャツ姿のアルフォンスだった。


「……っ」


いつもと違う。

銀髪は少し乱れ、眼鏡も外している。

露わになった素顔のアイスブルーの瞳が、

暗がりの中で怪しく光っていた。

手には分厚い書物と、羽ペンを持っている。


「こんな夜更けに、裸足で徘徊とは。……私の管理教育が、まだ行き届いていないようですね」


彼は呆れたように溜息をついたが、その目は笑っていなかった。

獲物を見つけた獣のように、じっと私を見下ろしている。


「な、なによ……文句言いに来たのよ! あんたのせいで寝れないんだから!」


「私のせい?」


アルフォンスは眉を上げた。

そして、私の震える肩と、裸足の爪先を視線でなぞった。


「……ふむ。禁断症状ですか」


「は?」


「急激に環境が浄化されたことで、貴女の精神が『無秩序』を求めてパニックを起こしている。……いわゆる、好転反応の一種です」


彼はドアを大きく開け、私を手招きした。


「入りなさい。廊下は冷えます」


私は吸い込まれるように、彼の部屋へと足を踏み入れた。 そこは――。


「……なに、これ」


彼の部屋は、私の寝室以上に「異質」だった。

壁一面に貼られた、数枚の紙。

そこには、今日の私の行動記録がびっしりと記されていた。


『8:30 起床。寝癖の角度、右に一五度』

『12:00 昼食。ニンジンのグラッセを残そうとする。要指導』

『19:00 入浴。肌の弾力、前回比プラス0・2%』


そして、机の上には大量の魔法写真。

怒っている私、泣いている私、ご飯を食べている私……。 すべて、今日一日で彼が隠し撮りしたものだ。


「あんた……これ……」


「管理日誌です。貴女の成長と変化を記録することは、私の重要な職務ですから」


アルフォンスは悪びれる様子もなく、机の上の写真を愛おしそうに指でなぞった。


「……変態」


「熱心と言ってください」


彼は椅子に座り、自分の膝をポンと叩いた。


「それで? 眠れない悪い子は、どうして欲しいのですか?」


「……別に」


「素直じゃないですね。……私の匂いを探して、ここまで来たのでしょう?」


図星だった。

彼は私の考えていることなんて、お見通しなのだ。


「……寂しかったんでしょう? 綺麗になった部屋で、自分だけが汚れているような気がして」


「う……うるさい……」


「安心なさい。貴女は汚れてなどいません。私が磨いたのですから」


アルフォンスの手が伸び、私の手首を掴んだ。

そのまま強引に引き寄せられ、私は彼の膝の上に座らされた。


「ひゃっ!?」


「ここなら、寂しくないでしょう」


彼の腕が、私の腰に回る。

シャツ越しに伝わる体温。トクトクという心音。

そして、あの濃厚な蜜蝋の香り。

私の寝室の枕なんて比じゃない。

本物の「彼」の匂いが、私を包み込む。


「……あったかい」


「貴女が冷えすぎなのです。手足が氷のようだ」


彼は私の冷たい手を、自分の大きな手で包み込んだ。 熱い。 お風呂の時と同じ、あの溶けるような熱さが、指先から流れ込んでくる。


「……今日はここで眠りなさい。私が一晩中、貴女の体温を調整して差し上げます」


「……いいの?」


「貴女が望むなら。……それに、私も貴女が近くにいないと、管理欲が満たされなくて眠れそうにありませんでしたから」


アルフォンスは私の頭を、自分の胸に押し付けた。 私は彼のシャツをギュッと掴み、目を閉じた。 不思議だ。 あんなに眠れなかったのに、彼の腕の中にいるだけで、急激な睡魔が襲ってくる。


ここは無菌室じゃない。

彼の熱と、執着と、欲望が渦巻く、最も濃厚な場所。でも、今の私にとっては、こここそが世界で一番安全な「巣」だった。


「おやすみ、エルカ様。夢の中でも、私の許可なく汚れないでくださいね」


耳元で囁かれる独占欲に満ちた子守唄を聞きながら、私は深い、深い眠りへと落ちていった。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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