第7話「胃袋への侵略」
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シルクの衣擦れの音と共に、私は食堂へと足を踏み入れた。その瞬間、強烈な「暴力」が私の嗅覚を襲撃した。
「……っ、なによ、これ……」
それは、あまりにも芳醇で、破壊的なまでの「美味しそうな匂い」だった。
焦がしバターの香ばしさ。じっくりと煮込まれた香味野菜の深み。そして、ハーブとスパイスが複雑に絡み合った、食欲をダイレクトに鷲掴みにする香り。
今までこの塔に漂っていたのは、カビたパンの乾いた臭いか、煮詰まった魔法薬の異臭だけだった。 だというのに、今の食堂はまるで王都の一ツ星レストランのような空気に満ちている。
「どうぞ、お席へ」
アルフォンスが恭しく椅子を引いた。
磨き上げられたマホガニーのテーブルには、一点の曇りもない銀食器が整然と並べられ、中央には一輪の白い薔薇が生けられている。
キャンドルの火が揺らめき、クリスタルグラスに注がれた水がダイヤモンドのように輝いていた。
「……ここ、私の家よね? 高級レストランに迷い込んだわけじゃないわよね?」
「貴女の家です。ただし、管理者が変わりましたが」
アルフォンスは私を椅子に座らせると、ナプキンを広げ、ふわりと私の膝にかけた。
その動作の優雅さは、王族に仕える筆頭執事そのものだ。 ほんの数時間前まで、私をゴミのように担いでいた男とは思えない。
「本日のディナーは、貴女の荒廃しきった消化器官を考慮し、消化に良く、かつ栄養価の高いメニューをご用意しました」
彼がパチンと指を鳴らす。
厨房の方から、銀色のワゴンが自律魔法で滑るように近づいてきた。
「前菜は、白身魚のムース、季節のハーブ添え。スープは、黄金野菜のポタージュです」
目の前に皿が置かれる。
純白の陶器の上に、芸術品のように盛り付けられた料理。 魚のムースは淡いピンク色をしており、その上には宝石のように輝くコンソメのジュレが乗っている。 スープからは、甘く濃厚な湯気が立ち昇り、私の鼻腔をくすぐり倒した。
「……ゴクリ」
喉が鳴った。
そういえば、まともな食事なんて何日食べていなかっただろう。ビスケットの欠片と、干からびたチーズ。それが私の主食だった。
「……召し上がらないのですか? 毒見は済ませてありますよ」
私の背後に立ったアルフォンスが、静かに促す。 私は震える手でスプーンを手に取った。
銀のスプーンが、スープの表面を割る。
とろりとした黄金色の液体をすくい上げ、口へと運ぶ。
「……んッ!!」
衝撃が走った。 舌に乗せた瞬間、野菜の甘みが爆発した。 砂糖の甘さではない。
大地の恵みが凝縮された、優しくて深い甘み。
それがクリーミーな舌触りと共に喉を通り抜け、空っぽだった胃袋へと染み渡っていく。
「……おい、しい……」
嘘みたいに美味しかった。
身体中の細胞が歓喜の声を上げているのが分かる。栄養だ。本物の栄養が来たぞ、と血液が騒いでいる。
「……ふむ。まずは合格点のようですね」
頭上から、満足げな声が降ってきた。
振り返ると、アルフォンスが懐中時計片手に私を見下ろしていた。
「ですが、ペースが早すぎます。エルカ様、咀嚼の回数が足りません」
「は? スープよこれ」
「固形物がなくとも、唾液と混ぜ合わせることで消化を助けるのです。一口につき、最低三十回。私がカウントします」
「さんじゅっ……!?」
「はい、次。ムースを口に入れて」
言われるがまま、私はムースを口に運んだ。
ふわりと溶ける食感。魚の臭みなど微塵もなく、ハーブの香りが鼻に抜ける。
幸せだ。泣きそうなくらい美味しい。
それなのに。
「イチ、ニ、サン……」
背後から、冷徹なカウントダウンが聞こえてくる。
「ニジュウハチ、ニジュウキュウ、サンジュウ。……はい、飲み込んでよし」
「……味わう暇もないんだけど!」
「味わう暇を与えているのですよ。貴女のようにガツガツと飲み込むのは、食事ではなく『餌やり』です」
アルフォンスは私の手からスプーンを取り上げると、今度はナイフとフォークを握らせた。
「次はメインディッシュです。……仔羊のロースト、香草パン粉焼き」
ワゴンからメインの皿が運ばれてくる。
絶妙な火加減でロゼ色に焼き上げられた肉。
香ばしいパン粉の香り。
肉汁で作られたソースが、艶やかに輝いている。
「これ……本当にここにあった食材で作ったの?」
「地下の貯蔵庫を確認したところ、化石になりかけたワインと、保存魔法で辛うじて生きていた香草がありましたからね。肉は私が持ち込みました」
「持ち込み!?」
「貴女の食生活があまりに貧相だと予測していたので」
彼はこともなげに言うと、私の手元をじっと凝視した。
「さあ、切ってください。……おや、ナイフの角度が違います。それでは肉の繊維を潰してしまう」
彼の手が伸びてきて、私の手の上からナイフを握った。
「ひゃっ……」
背後から覆いかぶさるような体勢。
彼の手袋をした手が、私の手を包み込む。
シルクのドレス越しに、彼の胸板が背中に触れる。
「肘を上げすぎない。手首のスナップを利かせて……こうです」
スッ。 彼が力を入れた瞬間、ナイフは抵抗なく肉に吸い込まれ、美しい断面を見せて切り離された。
「……ほら、切れた」
耳元で囁かれる声。
食事の指導というより、まるで手取り足取りダンスを教えられているような距離感。
蜜蝋とロースト肉の香りが混ざり合い、私の頭をクラクラさせる。
「あーん、して差し上げましょうか?」
「じ、自分で食べる!」
私は慌てて肉をフォークで刺し、口に放り込んだ。 ……柔らかい。 噛む必要がないほど柔らかく、肉の旨味が口いっぱいに広がる。
こんなに美味しいものを食べたのは、いつぶりだろう。 記憶にある限り、こんな贅沢な味は知らない。
「……悔しいけど」
「はい?」
「……美味しいわよ。あんた、料理の腕だけは一流ね」
私がそっぽを向きながら言うと、アルフォンスはクスリと笑った。
「『だけ』は余計ですが、お褒めに預かり光栄です。……貴女のその貧相な身体を、抱き心地の良い極上の肉体に仕上げるのも、私の『管理』の一環ですから」
「……抱き心地とか言うな」
「事実です。今の貴女は骨っぽすぎて、抱き上げると私の腕が痛い」
彼は私のグラスに水を注ぎ足しながら、サラリと言ってのけた。
まるで、私を太らせて食べる魔女のような台詞だ。いや、私が魔女なんだけど。
食事が進むにつれ、私の警戒心は徐々に、しかし確実に解かされていった。
空腹という獣が満たされる快感。
そして、それを完璧なタイミングでサポートする執事の手腕。 水が欲しいと思えば注がれ、口元が汚れればナプキンで拭われる。
私はただ座って、口を開けていればいい。
その堕落的な心地よさが、恐怖よりも勝り始めていた。
「……ふぅ。ごちそうさま」
最後の一口を食べ終え、私は満足感に包まれて背もたれに寄りかかった。 胃袋が温かい。
身体の芯からポカポカとして、指先まで血が通っていくのが分かる。
「お気に召しましたか」
「まあね。……でも、ちょっと不思議」
「何がです?」
私は空になった皿を見つめながら言った。
「私、ナッツ類のアレルギーがあるの。ソースに使いそうなものだけど……入ってなかったわね」
「当然です」
アルフォンスは即答した。 彼はワゴンを片付けながら、眼鏡の奥で鋭く光った。
「貴女の身体情報は、事前にすべて調査済みです。クルミ、アーモンド、特定の果物に対する軽度のアレルギー反応。……それらを排除しつつ、コクを出すために別の調理法を用いています」
「……調査済みって、どこまで?」
「出生時の体重から、過去の病歴、苦手な野菜の種類、好みの紅茶の銘柄に至るまで。……貴女に関するデータで、私の頭に入っていないものはありません」
ゾクリ。 背筋が凍った。
美味しい食事で緩んだ神経が、一気に引き締まる。
「な、なによそれ……ストーカーじゃない」
「管理官と呼んでください。貴女の命を預かる以上、不測の事態で貴女を損なうわけにはいきませんから」
彼は私の前に、食後の紅茶を置いた。
立ち昇る湯気からは、私の大好きなアールグレイの香りがする。
「……毒が入ってても、気づかないわね」
「毒?」
アルフォンスは片眉を上げた。
そして、心外だと言わんばかりに、私の目の前で自分用のカップに同じ紅茶を注ぎ、優雅に一口飲んでみせた。
「貴女を殺すなら、もっと効率的な方法を選びますよ。……例えば、貴女が寝ている間に首を絞めるとか、入浴中に沈めるとか」
「怖いこと言わないでよ!」
「ですが、私はそんな野蛮なことはしません。私が望むのは、貴女の死ではありませんから」
彼はカップを置き、テーブル越しに身を乗り出した。 その顔が近づく。
整いすぎた美貌が、薄暗いキャンドルの光に照らされて、悪魔的な魅力を放つ。
「私が望むのは、貴女の『生』です。……それも、私がいなければ維持できない、私だけの『生』です」
「……っ」
彼の指先が、私の唇の端に触れた。
ソースの拭き残しがあったのだろうか。
彼はその指を自分の口元に運び、ペロリと舐め取った。
「……甘い」
「なっ……!」
顔が爆発しそうに熱くなる。
彼は何食わぬ顔で微笑み、言った。
「明日の朝食は、焼き立てのブリオッシュと、ふわふわのスクランブルエッグをご用意しましょう。……楽しみにしていてくださいね、エルカ様」
私は言葉が出なかった。
美味しい食事。完璧なケア。
そして、時折見せるこの異常な執着。
胃袋を掴まれた。
それは比喩ではなく、私の生存本能そのものを彼に握られたということだ。
明日も、彼のご飯が食べたい。
その感情が芽生えた時点で、私の敗北は決定的だったのかもしれない。 満たされたお腹をさすりながら、私は彼に見つめられる心地よい恐怖に、身震いした。
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