第10話「磨き上げられた魔女」
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アルフォンス・クラインがこの塔に来てから、一週間が経過した。
たった七日。 されど七日。
その時間は、世界を天地創造するのに等しい長さだったのかもしれない。
少なくとも、私――エルカ・シュヴァルツにとっては。
「おはようございます、エルカ様」
小鳥のさえずりと共に、カーテンが開かれる音で目が覚める。 眩しい朝日が、塵一つない磨き上げられた床に反射し、部屋全体を黄金色に染め上げていた。
「……んぅ……おはよう、アルフォンス」
私は寝ぼけ眼をこすりながら、ベッドの上で伸びをした。 以前なら、「あと五分」と布団に潜り込み、二度寝、三度寝を繰り返して昼過ぎに起きるのが常だった。
だが今は違う。 体内時計が、正確無比な執事によって強制的に矯正されてしまっている。
「今朝の顔色は良好ですね。肌の水分量も申し分ない。……昨夜のパックが効いたようです」
ベッドサイドに立ったアルフォンスが、満足げに私の顔を覗き込む。 朝一番に見るのが、この整いすぎた銀髪眼鏡の顔であることにも、すっかり慣れてしまった。
むしろ、彼の淹れたモーニングティーの香りがないと、脳が覚醒しない身体になっている。
「着替えを。今朝は、髪の『仕上げ』を行いますから」
彼はそう言って、純白のドレスを差し出した。
それは、彼が夜なべして仕立て直した、私の新しい戦闘服ならぬ、日常服だった。
ドレッサーの前。
かつては実験道具や食べかけの菓子で埋まり、
鏡面が見えなくなっていたその場所は、今や女優の楽屋のように整然としていた。
香水瓶、ブラシ、アクセサリーケースが、ミリ単位の間隔で並べられている。
私は椅子に座り、鏡の中の自分を見つめた。
「……これ、誰?」
思わず、そんな間抜けな言葉が漏れた。
そこに映っていたのは、私の知っている「ゴミ屋敷の魔女」ではなかった。
透き通るような肌。
一週間の徹底的な栄養管理と睡眠によって、目の下の隈は完全に消え去り、代わりに健康的な血色が頬に差している。 痩せこけていた身体つきも、適度な肉付きを取り戻し、ドレスのラインを美しく押し上げている。
そして何より――髪だ。
以前はカラスの巣のように絡まり、脂と埃で固まっていた黒髪が。 今は、流れるような黒曜石の滝となって背中を覆っていた。 照明の光を反射し、天使の輪が輝いている。
「……信じられない」
私は恐る恐る、自分の髪に触れた。 指が滑る。
何の抵抗もなく、スルリと毛先まで流れる。
シルクよりも柔らかく、水のように滑らかだ。
「信じてください。これが、本来の貴女の姿です」
背後から、アルフォンスが囁いた。
彼は鏡越しに私を見つめている。
そのアイスブルーの瞳は、これまでにないほど熱く、深く、そして暗く濁っていた。
(……ああ、美しい)
彼の心の声が、視線を通じて伝わってくるようだ。
(一週間前、ゴミ山の中から掘り出した泥だらけの原石が……私の手によって、ここまで完璧な宝石に昇華した)
アルフォンスは、銀製のブラシを手に取った。
動物の毛で作られた、最高級のブラシだ。
「仕上げです、エルカ様」
彼の手が、私の髪に触れる。 ブラシが通るたび、シャッ、シャッ、という小気味よい音が響く。
頭皮に適度な刺激が走り、背筋がゾクゾクする。
「……気持ちいい」
「ええ。今の貴女の髪は、世界中のどんな繊維よりも手触りが良い」
アルフォンスは、ブラッシングをするたびに、
私の髪を愛おしそうに指で掬い上げた。
手袋をした指ではなく、素手だ。
彼はこの「儀式」の時だけは、必ず手袋を外す。
「見てください、この艶を」
彼が掬い上げた黒髪が、彼の白い指に絡みつく。 黒と白のコントラスト。
その光景は、背徳的で、ひどく官能的だった。
「ゴミにまみれていた頃の貴女には、想像もできなかったでしょう? 自分がこれほどまでに美しくなれるなんて」
「……うん。想像してなかった」
私は正直に答えた。
自分は一生、薄暗い塔の中で、誰にも見られずに朽ちていくのだと思っていた。
美しさなんて、研究の邪魔になるだけだと。
でも。
「……悪くないわね」
鏡の中の自分を見て、自然と口角が上がる。
綺麗になることが、こんなに自信をくれるなんて知らなかった。 背筋が伸びる。視線が高くなる。 まるで、新しい自分に生まれ変わったみたいだ。
「……フッ」
アルフォンスが、短く笑った。
彼はブラシを置き、両手を私の肩に乗せた。
鏡越しに、視線が交差する。
「誤解しないでくださいね、エルカ様」
彼の声が、スッと低くなった。 温度が下がる。
甘い蜜蝋の香りに、冷たい鉄の匂いが混ざる。
「貴女が美しいのは、貴女自身の力ではありません」
彼の指が、私の首筋を這い上がり、耳元を撫でる。
「私が、磨いたからです」
ゾクリ。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような戦慄。
「私が食事を管理し、私が睡眠を調整し、私が肌を整え、私が髪を梳いた。……この美しさは、すべて私の『作品』としての輝きです」
彼は顔を近づけ、私の耳元に唇を寄せた。
「貴女一人では、この輝きを一日たりとも維持できない。……明日私が消えれば、貴女はまた元の薄汚れた魔女に逆戻りだ」
脅しではない。 冷徹な事実の提示だった。
この一週間、私は何一つ自分で行っていない。
服を選ぶのも、髪を洗うのも、爪を切るのも。
すべて彼に委ねてきた。
その代償として手に入れた美貌なのだ。
「……分かってるわよ」
私は鏡の中の彼を見つめ返した。
悔しいけれど、反論できなかった。
それに――今の私は、その事実を「嫌だ」と思えなくなっていた。
「あんたがいなきゃ、私はゴミ以下の存在よ。……満足?」
私の言葉に、アルフォンスの瞳孔が開くのが分かった。彼は震える手で、私の髪に口づけを落とした。
「……ええ。最高の答えです」
彼の独占欲が、オーラとなって溢れ出していた。 この男は、私を綺麗にすることで、私から「自立」を奪ったのだ。 美しくなればなるほど、私は彼の手を離せなくなる。 完璧になればなるほど、私は彼なしでは不完全な存在になる。
「約束してください、エルカ様」
アルフォンスは私の肩を強く抱きしめた。
「貴女をこれ以上汚していいのは、私だけです。……他の誰の指紋も、視線すらも、貴女につけさせはしません」
「……はいはい。分かったわよ、過保護な執事さん」
私は軽口で返したが、心臓の鼓動は早鐘を打っていた。 彼の重い愛が、心地いい。
この「檻」の中に閉じ込められていることが、
今の私にとっての唯一の正解なのだと、魂が理解してしまっている。
その時だった。
コン、コン、コン。
窓ガラスを叩く、乾いた音が響いた。
私とアルフォンスは同時に鏡から視線を外し、
窓の方を見た。 そこには、一羽の白いフクロウが止まっていた。 足には、魔法省の紋章が入った赤いリボンが結ばれている。
「……チッ」
アルフォンスが、あからさまに舌打ちをした。
完璧な執事の仮面が剥がれ、一瞬だけ「獣」の顔が覗く。
「不潔な害鳥が……。私の聖域に泥足で踏み入るとは」
彼は乱暴に窓を開け、フクロウから手紙をひったくった。フクロウは彼の殺気を感じ取ったのか、慌てて飛び去っていく。
「誰から?」
「……魔法省、および王宮儀典局からです」
アルフォンスの声は、氷点下まで凍りついていた。 彼は手紙の封をペーパーナイフで切り裂き、中身を一読する。 そして、その羊皮紙を握り潰した。
「……内容は?」
「『建国記念祝賀パーティー』への招待状……いえ、事実上の強制招集状です」
「パーティー……?」
私は首を傾げた。
魔法省が、わざわざこんな辺境の引きこもり魔女を、煌びやかな夜会に? 今まで十年間、一度だって呼ばれたことなんてなかったのに。
「どうやら、私が提出した『経費報告書』の数字があまりに異常だったため、貴女がどのような成果を上げているのか、公の場で確認したいようですね」
「……あんた、一体いくら使ったの?」
「貴女を磨くのに、国家予算の0.05%ほどを」
「使いすぎよ!!」
道理で、最高級シルクだの希少なハーブだのが湯水のように出てくるわけだ。
「金の問題ではありません」
アルフォンスは眼鏡を押し上げ、冷徹な光を放った。
「問題なのは、貴女を不特定多数の人間が集まる場所に引きずり出そうとしていることです。……貴女を見る。貴女に話しかける。あまつさえ、貴女の空間の空気を吸う」
彼の周囲の空気が、ピリピリと帯電し始めた。
嫉妬だ。
まだ行ってもいない夜会に対して、彼は猛烈な嫉妬と殺意を抱いている。
「許せませんね。……私のエルカ様を、不潔な俗物の目に晒すなど」
彼は私の方を向いた。 その目は、先ほどまでの甘い陶酔とは違う、戦士の目になっていた。
「エルカ様。これより、対夜会用特別シフトに移行します」
「と、特別シフト?」
「ええ。彼らに付け入る隙を与えてはなりません。貴女の美しさは私の管理の賜物であり、他の誰の手も届かない『高嶺の花』であることを、骨髄まで理解させてやるのです」
「……目立ちたくないんだけど」
「諦めてください。今の貴女が会場に入れば、全員の視線を奪うことは避けられません」
彼はニヤリと笑った。
それは、最高傑作を披露する芸術家の傲慢さと、絶対に手を出させないという看守の狂気が混ざった笑みだった。
「素晴らしいショーにしましょう。……貴女が世界で一番美しく、そして誰よりも『私のもの』であることを証明するために」
彼は私の手を取り、甲に恭しく口づけをした。
「準備が必要です。ドレス、ダンス、礼儀作法……。全て私が完璧に仕込みます。覚悟はよろしいですか?」
「……善処するわ」
私は顔を赤らめて目を逸らした。 無理かもしれない。 だって、彼の手が離れた瞬間、もう不安でいっぱいになっているのだから。
窓の外では、不穏な風が吹き始めていた。
私たちの「閉じられた幸福」を脅かす嵐――
華やかなる夜会が、すぐそこまで迫っている。
だが、今の私には恐れはなかった。
最強で最悪の執事が、私の隣にいるのだから。
「さあ、お茶の時間です、エルカ様。戦いの前に、糖分を補給しておきましょう」
磨き上げられた魔女と、それを管理する完璧な執事。二人の共犯関係は、新たな局面へと進もうとしていた。
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