第11話「百回振りのブラッシング」
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「……九十七、九十八、九十九……」
静寂に包まれた朝のドレッサー前で、低いバリトンボイスだけが響いていた。 数字を数えるその声は、まるで呪文の詠唱のように単調で、それでいて奇妙な熱を帯びている。
「……ひゃく」
カチリ。 銀時計の蓋を閉めるような、決定的な音がした気がした。
「……終わり、ですか?」
私は鏡越しに、背後の男――アルフォンスに問いかけた。 声が震えているのが自分でも分かる。
喉が渇き、身体の奥がじんわりと熱い。
ただ髪を梳かれていただけなのに、まるで長距離を全力疾走した後のような気怠さが全身を支配していた。
「いいえ。……あと百回です」
「はぁ!?」
私は思わず叫んで、椅子から立ち上がりそうになった。だが、肩に置かれた彼の手が、鋼鉄の重みで私を制した。
「座りなさい、エルカ様。まだ右側のキューティクルが整っていません」
「だ、だって! もう十分でしょ!? さっきから三十分も梳いてるのよ!」
「三十分? たったそれだけですか」
アルフォンスは心底呆れたように溜息をついた。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、侮蔑と憐憫を含んだ光で私を射抜く。
「貴女の髪は、長年の放置により深刻なダメージを負っています。表面の艶は戻りましたが、内側の繊維はまだ野生動物の巣のような状態だ」
「巣って……」
「百回のブラッシングは、貴女の野性を削ぎ落とし、淑女としての品格を刷り込むための最低限の儀式です」
彼はブラシを持ち直し、ニヤリと笑った。
「それとも、お嫌でしたか? 先ほどまで、猫のように喉を鳴らして気持ちよさそうにしていましたが」
「っ……!」
図星を突かれ、私は言葉に詰まった。
悔しいけれど、気持ちいいのだ。
彼のブラッシングは、ただの整髪ではない。
頭皮のツボを的確に捉え、絶妙な強弱をつけて撫で上げる、極上のヘッドスパなのだ。
「……嫌じゃないけど……時間がもったいないというか……」
「私に手入れされる時間を『もったいない』と? ……傷つきますね」
アルフォンスは芝居がかった仕草で胸を押さえたが、その目は笑っていなかった。 狩人が罠にかかった獲物を見る目だ。
「貴女の研究時間は確保しますよ。ですが、その前に。貴女という『素材』を完璧な状態に仕上げなければ、私の気が済みません」
彼は再びブラシを構えた。
最高級の猪毛で作られたそのブラシは、私の髪を一本たりとも逃さない捕食者の牙のようだ。
「さあ、後半戦です。……力を抜いて、私に委ねてください」
ことの発端は、今朝の起床直後だった。
夜会が迫っているため、アルフォンスのピリピリ具合は最高潮に達していた。
「エルカ様、今日はご自分で髪を梳いてみてください」
彼がそう言ってブラシを渡してきた時、私は「おっ、ついに私の自立を認めたか」と喜んだのだ。 だが、それは大きな罠だった。
私がブラシを手に取り、髪に触れた瞬間。
ガリッ。 小さな音がした。
「……ストップ」
アルフォンスの声が凍りついた。
彼は瞬時に私の手からブラシを奪い取ると、まるで凶器を取り上げた警察官のような顔で私を睨みつけた。
「今、貴女はブラシの角度を45度間違えました。さらに手首のスナップが雑です。それでは髪の表面を傷つけ、静電気を発生させるだけだ」
「ええー……そんな細かいこと……」
「細部にこそ神は宿るのです。……見ていられません。やはり、貴女に道具を持たせるのは、猿に聖剣を持たせるようなものだ」
結局、彼は「教育的指導」という名目で、私の背後に陣取ったのだ。 そして始まったのが、このエンドレス・ブラッシング地獄である。
「百一……百二……」
ブラシが通るたび、シャッ、シャッという衣擦れのような音が、静かな部屋に響く。
根元から毛先まで。
一度のストロークに、彼は五秒以上の時間をかける。
「……んぅ……」
頭皮が引っ張られる感覚。
それが痛みではなく、快感として脳に伝わる。
アルフォンスの左手が、私の頭を押さえ、右手でブラシを操る。 その左手の温かさが、じわりと浸透してくる。
(……変なの)
鏡越しに見る彼は、無表情だ。
事務的に、機械的に手を動かしているように見える。でも、私には分かる。背中から伝わってくる彼の気配が、異様に「濃い」のだ。
「百十……百十一……」
彼の視線は、私の髪の一本一本を舐めるように追っている。 時折、ブラシを止めて、指で髪を掬い上げる。 光に透かして、艶を確認する。
その仕草が、あまりにも執拗で、粘着質だ。
(……見てる。髪だけじゃない。私のうなじも、首筋も)
鏡の中で、アルフォンスと目が合った。
アイスブルーの瞳が、獲物を絡め取る蜘蛛の糸のように私を捕縛する。
「……エルカ様」
「な、なに……?」
「随分と、お顔が紅いですね。お熱ですか?」
「ち、違うわよ! 部屋が暑いだけ!」
「室温は適正の二四度ですが」
彼は口の端を吊り上げた。 わざとだ。
私が彼の接触に反応して、顔を赤くしているのを知っていて、楽しんでいるのだ。
「……百二十」
彼の手が、ふと止まった。
ブラシではなく、彼の手袋をしていない素手の指先が、私の耳の後ろに触れた。
「ひゃうッ!?」
「……おや。ここ、少し凝っていますね」
彼の指が、耳の裏の窪みをグリグリと押す。
そこは、自分でも気づかなかった急所だった。
電流のような刺激が走り、私は思わず背中を反らした。
「あ、だめ……そこ、弱い……」
「魔力の通り道が詰まっている証拠です。ほぐしてあげましょう」
「ほぐす」と言いながら、彼の指の動きは明らかに猥褻だった。 耳の輪郭をなぞり、裏側の柔らかい皮膚を愛撫するように擦る。 冷たい指先。
なのに、摩擦熱で火傷しそうに熱い。
「……ん、っ、あ……アルフォンス、やめ……」
「逃げないで。……ここを放置すると、偏頭痛の原因になりますよ」
彼はもっともらしい理由をつけて、私の弱点を攻め続ける。 鏡の中の私が、とろんとした目で喘いでいるのが見えた。 恥ずかしい。 執事に耳を触られているだけで、こんな顔をするなんて。
「……いい声だ」
アルフォンスが、耳元で囁いた。
吐息が直接鼓膜を揺らす。
「貴女のその、無防備で、私に委ねきった表情。……ゾクゾクします」
彼は私の耳に唇を寄せたまま、再びブラシを動かし始めた。
「百三十……百三十一……」
視覚と聴覚、そして触覚への同時攻撃。
私の思考回路は、完全にショート寸前だった。
もう、数を数えることすらできない。
ただ、彼のブラシのリズムに合わせて、波に揺られる小舟のように意識が漂うだけだ。
(……気持ちいい……)
悔しいけど、認めざるを得ない。
彼の指に触れられると、安心する。
彼のブラシに梳かれると、自分が大切にされていると実感できる。それは、ゴミの中で孤独に生きてきた私が、ずっと渇望していた「肯定」だったのかもしれない。
「……ふふ」
不意に、背後で微かな音がした。
金属音。 ハサミ?
「……え?」
薄目を開けて鏡を見ると、アルフォンスが一瞬、懐から小さな銀のハサミを取り出し、私の髪の毛先を数ミリだけ切り取ったのが見えた。
そして、切り取った髪を、手品のような早業で胸ポケットの小瓶に滑り込ませた。
「……今、なに……?」
「百五十。……折り返し地点ですね」
彼は何食わぬ顔でカウントを続けた。
幻覚? いや、確かに見た。
彼が私の髪を盗んだのを。
「アルフォンス、今、私の髪……」
「枝毛です」
彼は即答した。
目線一つ動かさず、呼吸をするように嘘をついた。
「一本だけ、美観を損ねる枝毛がありましたので、処理しました。貴女の髪に不純物が混ざることは、管理者の恥ですから」
「……捨てたの?」
「当然です。ゴミですから」
嘘だ。 絶対に捨ててない。 あの小瓶に入れた。
しかも、すごく嬉しそうな顔で。
(……こいつ、私の髪をコレクションしてる?)
ゾクリ、と背筋が凍った。
潔癖症で、私のことを「汚らわしい」と言い続けている男が。
私の身体の一部を、密かに収集している?
「あんた、やっぱり変態でしょ」
「失敬な。私は完璧主義者なだけです」
アルフォンスは、ブラシを私の前髪に移した。
額にかかる髪を、優しく掻き分ける。
その目が、ふと細められた。
(……ああ、愛おしい)
まただ。 心の声が漏れている。
(この黒髪。私の指に絡みつき、私の色に染まっていく、生きた絹糸。一本たりとも、誰にも渡さない。排水溝に流れた一本ですら、私が回収して管理したい)
「……ッ!」
私は恐怖と、それ以上の羞恥で身を震わせた。
この男の愛は、重いなんてものじゃない。
深海の水圧のように、逃げ場がなく、私の全てを押し潰しに来ている。
「百八十……百九十……」
カウントが終わりに近づくにつれ、彼のブラシの動きはゆっくりになっていった。
終わらせたくない。
いつまでも、こうして私に触れていたい。
そんな名残惜しさが伝わってくる。
「……百九十八……百九十九……」
最後の二回は、スローモーションのようだった。 頭頂部から毛先まで、長い長い時間をかけて、ブラシが滑り落ちる。まるで、私の魂まで梳き下ろすかのように。
「……二百」
ブラシが離れた。
その瞬間、フワリと髪が舞い、背中に落ち着いた。
「……終わりましたよ、エルカ様」
アルフォンスが、私の方へ鏡を向けた。
そこに映っていたのは。
「……これ、私?」
息を呑んだ。
そこには、夜空のオーロラのように輝く黒髪の女性がいた。一本の乱れもなく、水面のように光を反射している。 艶やかで、しっとりとしていて、触れれば指が滑り落ちそうなほどの質感。
「完璧です」
アルフォンスは満足げに頷いた。
彼は手袋をはめ直し、私の肩に手を置いた。
「貴女の野暮ったさは消え、洗練された魔女の風格が漂っています。これならば、どこの夜会に出しても恥ずかしくありません」
「……夜会なんて行きたくないけど」
「今回は仕方がありません」
彼は鏡越しに、私の目を見つめた。
そのアイスブルーの瞳が、暗く煌めく。
「この髪を維持できるのは、私の手入れがあってこそ。明日も、明後日も、その次も。私がこうして二百回、梳き続けなければなりません」
「……毎日二百回?」
「ええ。貴女が死んで、白骨になるその日まで」
プロポーズよりも重い、呪いの言葉。
でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
むしろ、彼が一生私の髪を梳いてくれるという事実に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「……手が疲れるんじゃない?」
「貴女に触れる苦労など、私にとっては最高の娯楽です」
アルフォンスは私の髪を一房手に取り、恭しくキスをした。
「さあ、朝食にしましょう。今日は髪が汚れないよう、私がスプーンでお口まで運びますからね」
「はぁ!? 自分で食べるってば!」
「ダメです。スープが跳ねたら、この芸術的な艶が台無しになります」
彼は私を椅子から抱き上げると、そのまま食堂へと向かった。 私は彼の腕の中で、サラサラと流れる自分の髪を見つめた。
この髪は、もう私だけのものではない。
彼の執着と、時間と、技術が織り込まれた、彼との共有財産なのだ。
「……重い男」
「最高の褒め言葉です」
アルフォンスは嬉しそうに微笑んだ。
その胸ポケットの中で、私の髪が入った小瓶が、カチャリと小さな音を立てた気がした。
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